傷つき、外の世界に連れ出されてなお"自由"になれない少女のために
少年は海を目指す
マチュが最初から"カバスの館"のような娼館にいたら…というifの世界線です。
その日、たどり着いた街では市場が開かれていた。
月に一度開催されるらしいそれに、住人の多くが押し寄せ、思い思いの時間を過ごす。
そんな喧噪を私は、住居兼移動手段であるトレーラーの片隅で三角座りしながら聞いていた。
私の"所有者"であるシュウジは、今はここにいない。一人で市場に行ってしまった。
正確には、誘われたのを私が断ったのだ。
買い物に同行する度に「マチュは何か欲しい物ある?」と聞いてくれるシュウジ。
私を"買ってくれた"シュウジの負担になりたくなくて「特に何も無いかな。」とお決まりの返事を返す私。
そしてシュウジは、ただ寂しそうな笑みを浮かべてしまうのだ。
それが嫌で、申し訳なくて、なによりも…寂しげな笑顔がいつか、諦感にそして嫌悪の表情に変わってしまうのが怖くて
私は、シュウジと買い物に行くのを辞退するようになってしまっていた。
…結局それで、シュウジが寂しげな顔を浮かべてしまうのに変わりはないというのに。
「ピピピピピッ。」
「うん?…大丈夫だよ、コンチ。別に体調が悪いとかじゃないから。」
膝に顔を埋める私を心配したのか、これまたシュウジ所有のペットロボット…コンチがすり寄って電子音を発してきた。
最も本当に心配してくれているかどうかはわからない。
シュウジはまるで言葉がわかるかのようにコンチと会話することがあるが、私にはさっぱりだ。
…これが"恋人さん"だったら、身振り手振りと顔色をうかがうことである程度の当たりはつけられるのだが。
「ねぇ、コンチ。もしも…もしもだよ?市場で綺麗な女の人とシュウジが出会っていたら…どうしよっか?」
「ピピッ!」
「シュウジはカッコいいからね、きっと声かけようってヒトも…綺麗なヒトだよ…私なんかよりずっと…。」
「ピ!ピピピピ!!」
シュウジが買い物に行くたびに繰り返される会話。
飽きもせずに同じ話題を切り出す私に、毎度律義にコンチは電子音を返してくれる。
心なしかいつもよりも甲高い発信音だ。短い手足も振ってくれている。
─励ましてくれているのかな?優しいね、きっとシュウジに似たんだ。ペットは飼い主に似るって言うから。─
湧き上がる不安を振り切るように、何か他のことを考えようとするも、脳裏に浮かぶのは
自分の所有者が、自分よりもずっと美麗な女性と隣り合って歩く姿だ。
そして頭の中の私は、日陰の中から二人をみているだけしかできない。
─イメージのなかのシュウジは、私を振り返ることなく歩き去っていった─
「…部屋の掃除でもしよっか。暇だし。」
「ピピピ!」
立ち上がり、自室としてあてがわれた部屋へ向かうべく歩き始めた私の後ろを、コンチがなにかランプを点灯させながら追ってくる。
私は買われた女、つまりはシュウジの"所有物"だ。
シュウジがいらないと判断すれば、すぐさま離れていかなければならない人間。
だから、いつその瞬間が来てもいいように、私物の整理はしておかなければいけない。
その少ない私物も…シュウジがくれたモノしかないのだけれど。
「ただいま、マチュ。」
「おかえ…どうしたの!?そんなに汗だくで!」
荷物を抱えて帰ってきたシュウジの全身は汗まみれだった。
もしやまた熱でも出してしまったのか。慌てる私にシュウジは…。
「走ってきたんだ…早くマチュの所に帰りたくて。」
「‥‥うん。」
返答があまりにも都合が良すぎて、消え去りそうな言葉で一言返すだけで精一杯だった。
かつて娼館にいた頃はもっと気の利いた返事が出来ていたというのに、肝心のシュウジにはこの様だ。
せめて水をコップに入れて、いまだ肩で息をしているシュウジに手渡す。
一気に飲み干されたそれを受け取り、すこし息が整えられたのを確認したのち、もう一杯。
「ありがとう、マチュ。」
二杯分の水分を摂取したシュウジが笑顔を向けてくれる。
悔しい、悔しいなぁ。
私には引き出せない笑顔を、たった数百ミリリットルの水がいとも容易く引き出して見せた。
ただの水にすら劣る所有物、それが私なのだ。
「少し休んでて、荷物しまうのは私がするから。」
少しでも役に立とうと、シュウジの返事を待たずに品物が入った袋を抱える。
勝手知ったるなんとやら、買ってきた品物をすいすいと規定の場所にしまってゆく。
袋の中身が底をつき始めた時…ソレが目に入った。
「………え?」
それは真っ赤な果実。
青果店ならばまず売りに出されているであろう果物…リンゴだった。
なんの変哲もないフルーツであるはずのソレに、私は身動きひとつ取れなくさせられた。
私がいた娼館ではリンゴはある隠喩に使われていた。
真っ赤に熟れたリンゴが示すのは、"女"としての役割が果たせる身体になったということ。
すなわち"商品"として並ぶ時が来たということだ。
朝食の傍に並ぶリンゴを見たときの絶望感は、一生忘れることはできないだろう。
「…マチュ。」
後ろから聞こえてきた声に、固まった身体をなんとか動かして振り返る。
目に映るのは、やはり心配げにコチラを見つめる所有者。
─しっかりしろ。お前は"買われ"たんだ。所有物らしく、所有者の機嫌をとるくらいしたらどうだ─
─シュウジにこんなかおさせちゃダメだよ!すてられてもいいの!?─
心の中で二人の私が叱責の言葉を浴びせかけてくる。
その通りだ。私はシュウジの所有物…コンチと同じ、ペットのような存在だ。
所有者に心配されるような振る舞いをしてはならない。
娼館でやっていたように、媚びた振る舞いをしなければならない。
それなのに、身体は思うように動いてくれない。
かつてのように、男を悦ばせる言葉を引き出してはくれない。
─はやく、はやく、愛想を尽かされる前に、捨てられる前に!!─
ついさっき覚悟しておきながら、いざ現実に直面したらパニック状態になる。
なんて無様なんだろう、なんて邪魔な存在なんだろう。
いくらシュウジが優しいとはいえ、いつまでもこんな女に構ってくれるはずが…
「マチュ。」
抱きしめられた。
かつての経験よりも低い体温が、全身に伝わり、こうばった身体を溶かすように暖めてくれた。
思わず脱力してしまった体が、重心をシュウジに預ける。
慌てて立ち直ろうとするも、ぐいっと引っ張られるように抱き寄せられ、結局彼に体重をかける姿勢で止まってしまう。
カシュッ
どうしよう、と途方に暮れる私の耳に、瑞々しいナニカをかじるような音が響く。
何事かと思っていると、わずかに身体を離され、顔の前にそのナニカをかざされた。
リンゴだ。ちょうど真ん中らへんに齧ったような跡がついていた。
「あ~ん。」
「…え?」
「あ~ん。」
聞こえてきた言葉に思わず困惑している私に、シュウジはズイっとリンゴを勧めてくる。
ちょうど口の前に持ってこられたのは、齧られた部分。
シュウジが、齧った部分。
それが意味することがわからぬほど初心なわけはなく、ためらう私の唇にとうとうリンゴが触れる。
もう逃げ場はない…覚悟を決めて、リンゴを齧る。
甘い。
甘い。
とろけるように、甘い。
娼館で出されたソレよりも安物であろうリンゴは、その時食べたモノよりも遙かに甘く感じられた。
私が齧った部分を塗りつぶすように、シュウジがリンゴを齧る。
そしてまた、シュウジが齧った部分が唇に押し付けられて、許しを得た私がリンゴを齧る。
そうやって交互に齧られたリンゴは、みるみる内に芯を残して消えてしまった。
いつかの絶望の赤色も…甘い甘い蜜の味で溶けて消えていった。
「おいしかった?」
そう聞いてくれるシュウジは未だに私を抱きしめてくれていて、瞳を覗き込むように見つめてきていた。
コチラからも、シュウジの瞳が見える。
瞳の中の私は…リンゴのように真っ赤な顔をしていた。
「うん…、おいしかったよ。ありがとう、シュウジ。」
いつか、いつかシュウジが私の前から去っていくその時は…
リンゴを買おう。
一生懸命働いて、リンゴを買って家に帰ろう。できる限りリンゴを眺めながら暮らしていこう。
そうすれば私は大丈夫。
あの赤色をみるだけで、今日のことを思い出すから。
私を抱きしめてくれたシュウジの体温を、シュウジと食べ合ったリンゴの甘さを、シュウジの瞳に映った…真っ赤に顔を染めた私を。
シュウジの人生に確かにアマテ・ユズリハはいたのだと、思い出せるから
だから
「本当にありがとう…シュウジ…!」
だから
「もう、大丈夫だよ…。」
だから、私がいらない女になったらすぐに捨ててください。
貴方の邪魔にだけは、死んでもなりたくないのです。