傷つき、外の世界に連れ出されてなお"自由"になれない少女のために
少年は海を目指す
マチュが最初から"カバスの館"のような娼館にいたら…というifの世界線です。
自室のベッドで横になる。日が沈んで暫くたった外は、月が姿を消す日であるのもあって暗黒の世界へと姿を変えていた。
窓から微かに聞こえてくるのは…浜に打ち寄せた海水が再び海へと帰っていく音。
今日私たちは…海に来た。
(君を海に連れていく…!)
かつて、自分の所有者である青年…シュウジが言ってくれた言葉を思い出す。
何故海なのか。
海にいけば、何かが変わるのか
それはわからなかった。わからないはずだった。
だけど、その言葉を聞いたとき私の中の何かが確かに、熱を持ち鼓動をあげた。
その…はずだった…。
「海って‥‥大したことなかったなぁ…。」
辿り着いた海は、なんの変哲もない場所だった。
肌にまとわりつく潮の風、耳に聞こえるさざ波、嗅覚をくすぐる特有の香りそして遙か遠くに広がる水平線。
確かにそれらは、私の人生で初めて感じるものでソレに感動を覚えたのは事実だ。
ただ…期待が大きかった。ただそれだけの話だ。
─海にたどり着けば…何かが変わる気がした。未だにシュウジに何一つ返せない、私という人間が…変わってくれる気がしたのだ─
なんの確証もない期待は、海が近づくほど心の中で膨れ上がった。
そして海をみてしばらくして、みるみるうちに萎んでいった…。
「これからどうしよう…。」
漠然とした不安を、最早見慣れた天井に吐き出す。
何かが変われば…シュウジとの関係にも変化が訪れる気がしていたのだ。
ただ与えられるだけの"所有物"から抜け出して、彼の隣を歩ける"人間"になれると。
思えば愚かな考えだ。
『海をみた』ただそれだけことで自分という存在が変わるならば、とっくの昔に変わっている。
そもそも海にたどり着いたことも、自分で成しえたことではない。
全て…シュウジがやってくれたことだというのに。
「馬鹿みたいだな…私。」
みたいではなく、本物の馬鹿だろう。
心の中に住み着くもう一人の私がせせら笑う。
ただ与えられているだけの存在のくせに、いったい何様のつもりなのだ…と。
「どうすればいいんだろう…。」
シュウジが、私に対してしようとしてくれていることには薄々気づいていた。
彼は知っているのだ。私の心がまだあの館に囚われているということを。
金銭だけでは解き放てなかった私の魂を、海に連れてくることで救い出そうとしてくれた。
それなのに。
海を見てもなお、私はなにも変わらなかった。
─シュウジの努力を無駄にしたのだ。ただただ彼に与えられるだけの私が─
「…ごめんなさい。」
謝罪の言葉がこぼれ出る。
「ごめんなさい。」
視界が涙で滲む。
「ごめんなさい‥‥!」
この感情だって、シュウジへの罪悪感だけではない。
この生活が失われるという不安、シュウジに捨てられるであろうという恐怖が入り混じったものだ。
─なんて愚かで、弱くて、馬鹿な女なんだ─
ベッドに横たわる私と、それを心の中から見下ろす私の言葉が一致する。
この期に及んで、まだ保身に走る自分に絶望する。
こんな奴が海を見たくらいで変わるはずがない。
いや…きっとシュウジですら、変えることはできないだろう。
もしも私がシュウジのためにできることがあるのなら、シュウジの元から消えることだ。
これ以上彼の時間を浪費しないためにも…。
「嫌だ…嫌だ…やだよぉ…。」
決壊した涙腺から、ボロボロと涙が溢れだす。
ようやくたどり着いたシュウジのための答えから目を背ける。
その姿は完全に駄々をこねる子供だ。
「シュウジ…シュウジ…シュウジ………!」
必死に所有者の名前を呟く。
決して部屋の外まで聞こえぬように、彼の耳には入らぬように…。
これ以上彼の迷惑になってはならないと、私のなけなしの理性が声を抑えてくれた。
「…ュ、マチュ、起きて。マチュ。」
「‥‥‥‥‥‥シュウジ?」
いつの間にか眠っていた私を、シュウジが起こす。
所有物として彼の"欲求"にいつでも答えられるように、そんな打算と願望が多分に混ざった使命感から、部屋には鍵をかけないようにしていた。
だがシュウジは私の部屋を訪れるとき、必ずノックは欠かさずに、私の返事がなければ決して部屋には入ってこなかった。
その彼が、寝ている私を起こしたということは…そういうことだろうか。
(……………!)
求められた喜びに高鳴った胸だが、次の瞬間には冷たく凍ってゆく。
こんな馬鹿な女を抱くと本気で思っているのか?彼のような聡い人間が。
そんなはずがあるものかと、心の中から呆れた声が聞こえてくる。
「あ、あ…あぁ…。」
抱くために来たのではないとすると、いよいよ裁きの時が来たということだ。
シュウジの財産を、努力を、時間を食いつぶしてた私に対する裁きの時が。
「シュウジ、あの…私!」
服の裾を掴む。
迫る裁きから逃れようと、なんとか捧げられるものを捧げようと。
しかし身体が動いたのはそこまでだった。
どうしても思えなかったのだ。こんな穢れた自分が、シュウジに触れられていいのだと、触れていいのだと。
「…マチュ、じっとしててね。」
「え…シュ、シュウジ!?」
どうにもできず固まった私を、シュウジは抱き上げた。
俗に言う"お姫様抱っこ"という抱き上げ方は、かつて娼館にいてもなお将来に対する希望を持っていた時に夢見たもの。
いつか『王子様が私をここから連れ出してくれる』という夢で。
いまになって「夢は叶えられていたのだ」と自覚して戸惑う私をよそに、シュウジはそのまま外に出た。
「マチュ、寒くない?」
「う、うん…。」
「待ってて…もうすぐだから。」
紫を含んだ青色の空と、黒に近い青の海に分かれる視界。
夜明け前の海岸で、私は未だにシュウジに抱かれていた。
時折吹き付ける潮風は肌寒いものだったが、触れ合う肌に過剰反応する体温には丁度いいといえた。
(いったいなにが始まるんだろう…。)
もはや何の感慨も浮かばない光景を前に、途方にくれる。
シュウジが何をしたいのかわからない。
それ以上に、彼のしてくれたことに心を動かすことができるかどうかわからない私自身に恐れをいだく。
もしもシュウジに抱き上げられていなければ、私は自分の足で立つこともできなかっただろう。
ぎゅうっ
恐れに震える私を、寒くて震えていると考えたのだろうか。
更に密着するようにシュウジが腕に力を籠める。
より広く、深く、自分の身体に伝搬してくる彼の体温に鼓動が高まる。
本当は、私のほうからもシュウジの身体に腕を回したい。私のほうからシュウジに抱き着きたい。
シュウジが体温をくれたように、私の体温をシュウジにあげたい。
しかし腕は固まったように動いてくれず、顔すらシュウジにも海にも向けられずに俯くだけになってしまった。
「マチュ。」
どれくらい時間がたっただろう。
せいぜい十数分といったところで、シュウジが呼び掛けてきた。
おそるおそる目線をあげれば
やさしくほほえむシュウジがそこにいた。
私が目と目を合わせて彼を見たのを確認すると、シュウジは海のほうを見つめた。
それにつられるように、私も海のほうに顔を向ける。
いつの間にかオレンジが混ざった青の空に照らされて、海もまたその青色を輝かせ始める。
そして海の向こうから…陽が上りはじめた。
朝日に照らされた海面が、キラキラとした光を放つ。その光を浴びて、冷たく凍ったはずの心が…音をたてて溶かされていく。
「きれい…とっても!シュウジ、みて!キラキラだ、よ…。」
感動が抑えきれずに、大声をあげながらシュウジのほうと見やれば
そこには"キラキラ"ではなく私を見つめる彼がいた。
彼の瞳に映る私は、"キラキラ"とした笑顔を浮かべていた。
ようやく理解した。シュウジが見せたかったもの…シュウジが、私にしてほしかったこと。
彼は、私に"キラキラ"を見せたかったのだ。
"キラキラ"をみて、喜ぶ私を見たかったのだ。
「…好き。」
零れ落ちるように…湧き上がる衝動を言葉にする。
「好き、好きだよ…シュウジ…だいすきだよぉ‥‥!」
溶かされた心は止まることを知らず、心の奥に沈めて気づかぬふりをしていた"好き"があとからあとから湧き上がる。
それに比例するように涙が溢れ、視界が滲んでもなお私は「好き」を言い続ける。
そんな私の涙をやさしく拭って…
「僕も大好きだよ…マチュ。」
優しくシュウジが微笑んでくれた。
「好き」を…私に返してくれた…!
「っ!シュウジ!!」
固まっていたはずの腕が彼の身体にまとわりつき‥‥唇を、重ねた。
─好き、好き、好き、好き、大好き!!─
─好きだよ、大丈夫、大好きだよ─
唇を通して、一心不乱に気持ちを伝える私に、シュウジが優しく応えてくれる。
今ならわかる。私はこのために生まれてきたのだ。
シュウジに…このたった一人のために生まれてきたのだ。
買われる前からずっとずっと…私はシュウジのものだったのだ!!
どうかもう離さないで、ずっとずっとそばにいて!
なんでもするから、あなたの望みを叶えてみせるから!
ただあなたとともに生きていたい…それ以外、何もいらない。
わたしのたったひとつの望み。