副艦長という肩書きは、誇りと責任を背負うもののはずだった。
しかし、前任艦長の下でのそれは、ただの「的」でしかなかった。
報告が一拍遅れれば、机を叩かれ「のろま」と罵られる。
作戦会議で意見を述べれば、「黙れ、女が口を出すな」と切り捨てられる。
航海中に部下を庇えば、「上官に逆らう気か」と夜まで甲板に立たされる。
雨に濡れ、身体が震えようと許されない。
頭痛で視界が霞んでも、作戦図の誤字を百回写経させられる。
極めつけは、艦の士気を保つための「宴会」。
杯を断れば「副艦長のくせに協調性がない」と怒鳴られ、無理やり飲まされた。
顔が赤くなれば、「酒に弱いくせに偉そうに」と笑われる。
――そして、酔い潰された夜。
意識が遠のき、抵抗の言葉すら出せなくなった自分から、最も大切なものを奪われた。
それは副艦長・美月ではなく、一人の女性としての誇りを、踏みにじられた瞬間だった。
翌朝、制服の襟を正すふりをしながら、涙を必死に拭った。
「口外すれば、お前の責任にする」と冷たく告げられ、誰にも言えなかった。
艦内で視線を感じるたび、あの夜の記憶が胸を締め付ける。
信頼していた仲間にさえ、真実を打ち明けられなかった。
だから美月は、「艦長」という存在を心の底から憎み、恐れた。
あの人のような艦長が、再び現れることを何よりも恐れた。
――だからこそ。
新しく着任した敬一に対しても、最初から壁を作った。
どんなに穏やかに振る舞おうと、「また同じに違いない」と思い込んで。
むしろ最初から強く当たり、牙を剥くことで、自分を守ろうとしたのだ。
だが、ある夜。
彼の口から、前任艦長の所業を知っていることを聞いたとき、美月の心は大きく揺れた。
「……なら、お分かりでしょう。私は艦長を信じません」
自分でも震えているのが分かった。
拒絶の言葉を並べることで、心の均衡を保とうとしていた。
けれど、敬一はただ静かに言った。
「だろうな。だが俺は違う。お前を責めたりはしない」
――その瞬間。
胸の奥に張り付いていた黒い氷が、ぱきんと音を立てて砕けた気がした。
涙が止まらなかった。
嗚咽が込み上げ、言葉も出せなかった。
ただただ、溢れるままに泣いた。
「……もう嫌なのです! 責められるのも、笑われるのも……私は、ただ……時雨を守りたかっただけなのに!」
次の瞬間、温かい腕に抱かれていた。
それはかつての艦長からは決して与えられなかったもの――安心。
泣きながら、ようやく気づいた。
この人は違う。
前の艦長とは違う。
あの日以来ずっと凍りついていた心が、初めて溶け出していくのを、美月は確かに感じていた。
泣き崩れた自分を、敬一は最後まで抱きとめてくれていた。
あの日以来、心を覆っていた氷は、確かに溶け始めていた。
涙がようやく止まったころには、身体はもう力が抜けていた。
彼の胸に額を預けると、不思議な安堵が込み上げ、気づけば眠りに落ちていた。
――夢を見た。
あの地獄のような夜とは違う、穏やかな夢。
暖かい海風が吹き、誰にも責められず、ただ隣に敬一がいるだけの夢。
目を覚ましたのは、翌朝。
まだ制服姿のまま眠っていた自分に気づき、頬が赤くなる。
慌てて体を起こそうとしたが、すでに敬一は静かに椅子で目を閉じていた。
まるで一晩中、見守ってくれていたかのように。
――胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
誰かに守られることが、こんなにも心強いものだったなんて。
忘れていた感情を思い出した瞬間だった。
それからの日々。
艦内で敬一と顔を合わせるたびに、心がざわつくようになった。
報告で名を呼ばれると、無意識に背筋が伸びる。
何気ない会話に笑みを見せられると、胸が熱くなる。
「……どうして、こんなに気になるのでしょう」
独りごちる声は、誰にも届かない。
わかっている。
これは副艦長としての感情ではない。
一人の女として――心が敬一を求め始めているのだ。
恐怖と憎悪で凍っていた心は、少しずつ、確かに変わり始めていた。
そして、美月は初めて「この人となら」と未来を思い描くようになった。