着任からしばらくの間、俺と美月の関係は最悪に近かった。
挨拶をすれば棘のある返事。命令を出せば冷ややかな視線。
副艦長としての責務を全うしているのは理解できるが、それ以上に「俺を試している」空気が漂っていた。
――まあ仕方ない。
前任艦長があれだけの暴君だったなら、新しい艦長なんて信用できないだろう。
「また同じ人間かもしれない」という疑念を抱くのも当然だ。
だが、あの夜。
彼女が泣きながら抱き着いてきた夜を境に、空気は一変した。
翌朝から、美月は俺を見る目を明らかに変えていた。
冷たい視線が柔らかくなり、言葉の端々に敬意だけでなく、微かな親しさが混じるようになった。
――え? なにこの急展開。
おい、ギャルゲーでもこんなルート分岐は早すぎるだろ。
俺はただ「ちゃんと味方だよ」と伝えただけなのに、なぜここまで距離が縮まっているんだ。
艦橋で指示を出せば、彼女はすぐに反応して補足を入れてくれる。
報告を聞けば、隣に立って地図を指差し説明してくれる。
時には「艦長、少し休まれては?」なんて気遣いまで。
――いや、待て待て待て。
これは副艦長としての職務か? それとも、女としての感情か?
混ざってる気がしてならない。いや、絶対混ざってる。
正直、困る。
俺には既に実という存在がいる。
彼女の真っ直ぐで健気な想いを、俺はぞんざいに扱うつもりはない。
なのに、ここに来て美月まで……。
「羨ましいだろう? 読者諸君」
思わず心の中で誰かに語りかけた。
だってそうだろう。美月と実、二人の美少女に泣きつかれ、信頼を寄せられるなんて。
ラブコメ主人公でもそうそうない待遇だ。
……いや、俺はそんな役を望んでない。普通でいいんだ、普通で。
とはいえ、艦内は普通で済まされない空気に包まれていた。
機関長の涼音は、時折「艦長、お茶でもいかがです?」とやたら距離を縮めてくる。
彼女の明るい笑顔と白衣の袖をまくった姿は、無駄に健康的で妙に意識してしまう。
そして水雷長の瑠璃は、夜勤明けに「艦長、ちゃんと休んでます?」と低い声で囁くように気遣ってくれる。
その声音がやけに艶っぽく、正直、理性によろしくない。
――なぜだ。
俺は戦うために艦長になったんだぞ?
なのに気づけば「女性クルーからの信頼」という名の矢が四方八方から飛んできている。
これは戦場より危険かもしれない。
そして、美月だ。
ある日の哨戒任務の帰投後、艦橋から降りる俺の隣で、彼女がふと口を開いた。
「艦長。……いえ、敬一さん。あなたが来てくださって、本当に救われました」
真剣な眼差しに、心臓が跳ね上がる。
その一言は、どんな戦功よりも重かった。
前任者の残した傷跡を抱え、それでもなお彼女は前を向こうとしている。
その力強さと脆さが同居する姿に、俺は言葉を失った。
――駄目だ。
好きになってはいけない。
でも、放っておけるわけもない。
艦長としての責務と、一人の男としての感情。
その狭間で揺れる俺の心は、嵐の海に投げ出された木の葉のように、行き先を見失っていた。
……さて、これからどうなるんだろうな。
俺の人生、間違いなく「ただの軍務」じゃ済まなくなってきた。
夜のブリッジ。
海は凪いでおり、波音すら遠い。計器のランプだけがぼんやりと光を放ち、乗員たちの寝息の代わりに規則的な針の動きが響いていた。
そんな静寂の中、航海長・朝霧沙耶は一人、計算用紙に数字を書き連ねていた。
肩にかかる程度の 白銀色の髪が、灯りを受けて冷たく光る。
整えているようで整っていない――寝癖のように少し跳ねた毛先は、彼女の無頓着さを雄弁に物語っていた。
――ここで「黒髪ロングでポニテ!」とかだったら、もう実と被っていたところだ。作者の手抜き感がバレるから、銀髪ショートで正解である。
彼女の 淡い青灰色の目は、まるで眠たげに半分閉じられている。
しかしその視線は不思議なほど鋭く、時折「心の奥まで見透かされている」と錯覚させる。
制服はきちんと着ているのに、ネクタイだけはゆるんでいるあたりが彼女らしい。
要するに、適度にきっちり、適度にだらしない。――人間としては最も手強いタイプである。
敬一が入ってきたことに気づくと、沙耶は視線だけをゆっくりと向けてきた。
その顔は感情の色が薄く、冷めているように見えるのに、不思議と圧がある。
「……艦長。困ってますよね?」
唐突すぎる言葉に、心臓が跳ねた。
いや、こんなにあっさり見抜かれると、人間不信にもなるというものだ。
「な、何がだ」
わざとらしく誤魔化すが、沙耶は相変わらず抑揚のない声で続ける。
「美月副長。急に艦長に懐いたでしょ。……それ、気にしてますよね」
図星。ぐうの音も出ない。
――何なのだ、この人。目を半分閉じてるくせに、心の奥は全部丸見えなのか。もし占い師でもやったら繁盛するに違いない。
沙耶は首をかしげるでもなく、ただ紙にペンを走らせながら呟いた。
「この艦……人間関係が重いんです。だから艦長まで抱え込むと、沈みますよ」
冷静に、けれど真っ直ぐに。
その声音は刃物のように鋭いのに、不思議と痛くはない。
むしろ「そうだ」と腑に落ちるから厄介だ。
「……顔に出てましたから」
そう言って沙耶は、再び淡々と航路計算に戻った。
まるで「私はもう用件を済ませた」とでも言うように。
――こういう女が一番ずるい。核心だけ突いて、後は日常に戻る。
すると相手の方が勝手に「もっと話したい」「相談したい」と思わされるのだから。
読者諸君、気づいただろうか。
これはもう立派な人心掌握術である。
しかも彼女は意識してやっていない。天然でやっている。……おそろしい。