二年後・佐世保軍港
桟橋に繋がれた時雨の甲板に、夏の光が差していた。
潮風は相変わらず鉄と油の匂いを混ぜ込み、軍港特有の重さを孕んでいる。
その日、敬一は新たに着任する「艦長補佐官」の迎えに出ていた。
正直言うと、補佐官なんて便利な役職がいつの間にか新設されていたこと自体、つい先日まで知らなかった。
――まあ軍組織とはそういうものだ。トップの気まぐれで新ポストが生まれ、現場はその処理に追われる。
要するに上層部はRPGのプレイヤーで、俺たちはNPCである。
そして現れた人影を見た瞬間、敬一は目を疑った。
「……実、なのか?」
白い制服に身を包んだ少女が、ゆっくりと敬一に歩み寄る。
以前より少し大人び、髪は艦内で邪魔にならないよう短く切られていたが、その瞳の光は変わらない。
敬一の名を呼ぶ代わりに、彼女は笑って両腕を広げた。
気づけば敬一も走り寄り、彼女を抱きしめていた。
――はい、ここ。重要ポイント。
二年ぶりに再会した男女が抱き合うという展開は、まるで安っぽい恋愛ドラマのワンシーンだが、残念ながら現実でもわりと普通にあるのだ。
問題は、この艦にすでに「好意を寄せている女性たち」がいるということ。
つまり、波乱の幕開けである。
案の定、甲板に集まっていた乗員たちが一斉に凍りついた。
美月、副長である。沙耶、航海長である。さらに数名の士官たち。
全員の視線が、「おい艦長、説明しろ」という圧力に変換されて突き刺さる。
艦内に静寂が落ちた。
……いや、静寂というより「拷問前の空気」と言った方が正しい。
やがて、美月が一歩前に出た。
「艦長。……事情の説明を、お願いできますか」
声は冷静だが、頬が微妙に引きつっている。
怒っているのか、泣きたいのか、自分でも分かっていない表情だ。
副長としての職務と、一人の女性としての感情がせめぎ合っているのだろう。
敬一は観念した。
このまま押し黙っていたら、後で艦内が修羅場と化すのは目に見えている。
――男には、覚悟を決めて口を開かなければならない瞬間がある。
逃げても無駄。説明しても地獄。どちらにせよ詰み。人生とは将棋である。
「……彼女は、俺の……かつての恋人だ」
その一言に、甲板がざわついた。
あえて「今も恋人」とは言わなかった。
だが「かつて」と言っても、そこに特別な意味があるのは誰でも分かる。
「隠していて、すまなかった」
敬一は深く頭を下げた。
艦長としてではなく、一人の男として。
その背中に、長年の海風が重くのしかかるようだった。
美月は黙り込んだまま、しばらく敬一を見つめていた。
やがて小さくため息をつき、呟く。
「……ずるいです、艦長」
沙耶は相変わらず無表情で、ただ「ふむ」と首を傾げただけ。
しかしその目はどこか楽しんでいるようにも見えた。
――ダウナー系女子、恐るべし。人の不幸すら観察対象にしているのだから。
実は、敬一の腕を離そうとしなかった。
その姿は「この人を譲る気はありません」と無言で宣言しているようだった。
さて、ここからが問題である。
恋人がいると知りながら、すでに敬一に心を寄せていた美月や、他の乗員たちはどうするのか。
三角関係? いや、四角関係? もしかして艦長ハーレム?
作者の腹黒さ次第で、この艦はラブコメ艦か地獄艦に早変わりする。
「……ずるいです、艦長」
そう呟いた美月は、敬一の目を真っすぐに見据えていた。
副長としての冷静な眼差しではない。女として、彼を欲する眼差しだった。
沈黙が数秒、いや、数十秒に感じられる時間が流れた。
甲板にいる全員が固唾を飲み、次の言葉を待つ。
敬一は深く息を吸い、決断を下した。
いや、正直に言おう。これは決断というより「逃げ道のない状況での開き直り」だった。
「美月……。お前の気持ちは分かっている。俺は、実を想っている。だが……お前のことも、放っておけない」
――はい、出ました。必殺の二股宣言。
通常のラブコメなら大炎上、軍隊なら即懲戒。だがここはフィクションである。都合の悪い現実は、作者の力でねじ曲がる。
要するに、この世界では艦長のモテ過ぎは罪にはならない。むしろ勲章扱いだ。
美月は驚いたように目を瞬かせた後、かすかに笑った。
「……それってつまり、私も彼女にしてくれる、ということですか?」
「……ああ」
敬一は頷いた。
美月の頬に、赤が差す。
その瞬間、彼女は副長ではなく、一人の女に戻った。
周囲の乗組員たちが、ざわざわと声をあげ始める。
「おい艦長、やるなぁ……!」
「よく責任を取った!」
「二人を泣かせずに済ませるなんて、さすがだ」
――そう、ここは常識が若干ズレている世界だ。
軍人であっても、恋愛事情は「男気」で評価される。
「お前、それは懲戒対象だろ」と突っ込む理性の声は、今この場には存在しない。
だが、全員が祝福していたわけではない。
実は敬一の腕の中で、小さく肩を震わせていた。
顔は笑っていた。だがその笑みは、どこか無理をしているように見える。
「……わたし、分かってます。美月さんも大事にしたいんですよね」
そう言いながらも、その声の奥には、僅かな不満が滲んでいた。
――まあ当然だ。二年間待ち続けて、ようやく再会した恋人が、自分だけを選んでくれると思っていたのに、目の前で新しい彼女が増えるのだから。
これを受け入れられる女の方が珍しい。
しかし、彼女は艦長の隣にいることを選んだ。
愛ゆえに、である。
沙耶航海長は相変わらず感情の読めない顔で、その様子を観察していた。
「ふむ……艦長、これでバランスが取れたのでは?」
彼女の口調は事務的だが、その目はほんの少しだけ愉快そうに細められている。
敬一は、二人の手をそれぞれ取った。
実の温もり、美月の温もり――。
重さは違えど、どちらも確かに存在していた。
「俺は……二人とも、大事にする」
――うん、ここで言い切るのは勇気というより無謀だ。
だが、物語の主人公は大抵無謀でできている。
そして、その無謀に人が惹かれるのだ。
実はまだ少し不満げに唇を噛んでいたが、それでも敬一の手を離さなかった。
美月はそんな実の横顔を見て、複雑な笑みを浮かべる。
「……私たち、これから忙しくなりますね」
「……ああ。航海よりもな」
――そうして時雨は、新たな航路へと進む。
敵艦隊でも嵐でもなく、艦長の恋愛模様という、もっとも厄介な海へ。