人生というのは、時に予想もしない嵐をぶつけてくるものだ。こちらがまだ傘を広げる暇もないうちに、土砂降りになって、気づけばずぶ濡れになっている。艦長という立場に就いた俺――敬一は、その事実をこの数年でいやというほど味わっていた。
佐世保の港に停泊する駆逐艦「時雨」。老朽化した船体は度重なる補修で延命され、最新鋭とは程遠い。主兵装は12.7センチ連装砲――時代遅れの代物だ。だが、乗り組む者たちは皆、この船に誇りを持っていた。俺自身もそうだった。
そして、彼女たち。副長の美月、補佐官の実、航海長の沙耶、機関長の志乃、水雷長の琴乃。彼女たちはただの部下ではなかった。仲間であり、時に心の支えであり……俺にとって、かけがえのない存在になりつつあった。
だが――人間というものは、かけがえのないものを持つほど、それを失う恐怖に晒される。
その日の任務は、最初はただの「監視」に過ぎなかった。対馬沖で不審船が目撃されたという報告。国籍不明、無線応答なし。海は穏やかで、空は夕陽に染まっていた。どうせまた密輸か、あるいは漂流船か――その程度に考えていた。
ところが、レーダーに映ったシルエットは、あまりにも大きかった。
――戦艦。
いや、まさか。そんなはずはない。この時代、日本近海で戦艦といえばせいぜい米海軍の退役艦が演習で顔を出すくらいだ。それなのに現れた影は、古風なシルエットをまといながらも、確かに「戦艦」としか言いようのない巨体を誇示していた。
「艦長……あれ、どう見ても――」
副長の美月が声を詰まらせる。普段は冷静な彼女でさえ、目を疑うのも無理はない。
そう、それは第二次世界大戦の亡霊のような艦影だった。
「……ドイツの、ビスマルク級……? いや、そんなはずが……」
水雷長の琴乃が唇を噛む。彼女は戦史オタクなところがあった。だからこそ、その形を一目で理解してしまったのだろう。
俺も認めざるを得なかった。冗談みたいな話だが、そこにいたのは、確かにドイツの戦艦だった。
――人生というのは、時に悪質な冗談を現実に変える。誰も笑えない、血の味がする冗談に。
「艦長、困ってますよね?」
ダウナー気質の航海長・沙耶が、感情の乏しい声で言った。いつもならその調子に救われることもあるのだが、このときばかりは余計に心臓を締め付けられる。
「……困ってるどころじゃないな」
俺は乾いた笑いで返したが、その実、頭の中はフル回転だった。
ドイツ戦艦がなぜここに? そもそも存在するはずがない。廃艦になったか、撃沈されたか――記録上はとっくに消えているはずだ。だが、現実に目の前にいる。こちらに艦首を向け、黙したまま近づいてくる。
「応答なしです!」
通信士の声が響いた。英語でも日本語でも、返答は一切ない。
「艦長、射程に入ります!」
琴乃が叫ぶ。
そして――砲口が、こちらを向いた。
次の瞬間、轟音が空を裂いた。
――戦艦の46センチ砲が、火を噴いた。
轟く衝撃波。視界を裂く閃光。耳をつんざく破砕音。
「回避っ!!」
俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。だが、内心は震えていた。冗談じゃない、こんな化け物と戦えるわけがない。
だが、回避しきれなかった。
次弾が時雨の艦体を直撃した。鉄板が裂け、甲板が炎に包まれる。
「きゃあああっ!!」
悲鳴が上がった。血が飛び散り、仲間たちが吹き飛ばされる。
――俺の目の前で、美月が崩れ落ちた。
「美月!」
駆け寄ろうとした瞬間、別の場所で実の声が聞こえた。
「艦長っ! うっ……!」
彼女もまた、鮮血を吐いて倒れていた。
志乃も、沙耶も、琴乃も……皆が重傷を負い、呻き声を上げていた。
――これは悪夢だ。誰か目を覚ませと言ってくれ。
だが、現実は残酷だ。夢ならまだいい。だがこれは現実で、血の匂いと硝煙が混じり、焼け焦げた鉄がきしむ音が耳を満たしている。
仲間が、死んでいく。
その事実を前に、艦長である俺は――何もできなかった。
人生というのは、失って初めて気づくものがある。
それは大抵、あまりにも遅すぎる。取り返しがつかないほどに。
不審船――否、あのドイツ戦艦による砲撃は、時雨を一瞬で戦場に変えた。
火の手は抑えられ、沈没こそ免れたものの、艦内は地獄だった。仲間たちは血まみれになり、呻き声が響き渡る。応急処置も焼け石に水。結局、港に戻ったときには多くが意識を失い、担架で運ばれることになった。
――そして今、俺は病院の廊下にいた。
白い壁。消毒液の匂い。規則正しく響く心電図の電子音。
どれも清潔で静かなはずなのに、今はただ冷たいだけに感じた。
ドアの前。看護師が一瞬、俺を見てから目を逸らす。
――嫌な予感。いや、そんなものはとっくに心臓の奥に巣食っていた。
「……艦長」
声をかけてきたのは航海長の沙耶だった。顔に包帯を巻き、右腕を吊っている。それでも立っていた。立たねばならないと、自分に言い聞かせているように。
「美月さんと……実さん、危ないそうです」
その言葉は、あまりに淡々としていた。だが逆にそれが、心をえぐった。
俺は病室に入った。
ベッドが二つ。
片方には、美月が横たわっていた。いつも凛として副長らしい態度を崩さなかった彼女が、今は酸素マスクをつけ、虚ろな目で天井を見ている。
もう片方には、実。無邪気で、場を和ませてくれた彼女が、青白い顔で苦しげに息をしている。
――どうしてこうなった?
どうして、彼女たちがこんな目に遭わなければならない?
俺の中で、何度も同じ問いがぐるぐる回った。だが答えは出ない。
現実はただ、残酷な事実だけを突きつけてくる。
「けい……いち……」
美月がかすかに俺を呼んだ。
俺はベッドに駆け寄る。
「俺だ、美月! 大丈夫だ、すぐによくなる!」
嘘だとわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。
「……うそ、つかないで……もう、わかってる……」
美月は弱々しく笑った。
その笑顔は、普段の鋭さとは違い、どこか少女のようで――胸が締め付けられた。
「艦を……お願いね。みんなを……」
それきり、言葉が途切れた。
――ピ――ッ。
電子音が鳴り響く。看護師が駆け寄り、処置を始めた。だが、すぐに首を振った。
美月は、もう帰ってこなかった。
……俺の隣で、実が震える声を上げた。
「けいち……さん……いやだよ……おいていかないで……」
「置いていかない! だから死ぬな、実!」
手を握る。冷たい。だが、まだ温もりが残っている。必死に祈った。
奇跡でもなんでもいい。命を繋ぎ止めてくれと。
「……みんなと、また……笑いたかった……のに……」
涙を流しながら、実は言った。
そして、呼吸が途絶えた。
――ピ――ッ。
無機質な音が、またひとりの命を奪った。
俺の手の中から、実の温もりが消えていった。
……この瞬間、俺は理解した。
人生というのは、時にあまりに理不尽だ。
努力も祈りも、仲間を守りたいという思いも――砲弾ひとつで踏み潰される。
俺は膝から崩れ落ちた。
頭の中が真っ白になり、涙が止まらなかった。
艦長であるはずの俺が、仲間を守れず……最も大切な二人を失った。
――孤独。
――喪失。
そして、胸の奥底に生まれるものがあった。
それは、復讐心だった。
俺からすべてを奪ったあのドイツ戦艦を、必ず葬る。
そうでなければ、美月と実に顔向けできない。
その誓いが、俺の中に刻み込まれた。
――人は失って初めて気づくものがある。
それは温もりであり、日常であり、そしてかけがえのない存在だ。
だが、気づいたときにはもう遅い。二度と戻らない。……なんて、俺も偉そうに言えた義理じゃないけどな。
艦内医務室の白い壁。薬の匂いが鼻をつくその空間は、俺にとって地獄だった。
ベッドの上、美月の顔からは血の気が失われていた。包帯が全身を覆い、もう呼吸の音さえ弱々しい。
その隣には実。彼女もまた意識を取り戻すことなく、ただ無機質な医療器具に繋がれていた。
そして……やがて二人とも、俺の手の中から消えた。
あの瞬間、心臓が握りつぶされたような感覚を覚えた。
いや、実際につぶされたのは心じゃなくて「生きる意味」ってやつだったのかもしれない。
「……美月……実……」
俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
涙なんて、出なかった。出せなかった。
ただ、虚ろな瞳で天井を見上げることしかできなかった。
――この世界に、俺を理解してくれる人間がまだいるのだろうか?
そう思った瞬間、胸の奥がぐらりと揺れた。
甲板に出ると、夜風が鋭く頬を切った。
波の音がやけに耳障りだ。
後ろから聞こえたのは、低く落ち着いた声。
「……艦長、困ってますよね?」
振り返ると、航海長・沙耶が立っていた。
藤色のボブカットの髪が、風に揺れて光を反射している。無表情に見える顔には、どこか憂いのようなものが漂っていた。
「……俺は……俺は何をしてるんだろうな……沙耶」
沙耶はすぐには答えず、ただじっと俺を見つめていた。
その瞳は冷たいようでいて、不思議と居心地が悪くなかった。
感情を表に出さない彼女だからこそ、余計に言葉が重く響く。
「……あなたはまだ、立っています。
立っているうちは、進むしかないんです」
短く、しかし芯の通った言葉だった。
その夜、機関科区画で俺を待っていたのは志乃だった。
煤で汚れた作業服姿のまま、レンチを片手に俺を見上げる。
栗色のショートヘアに煤がかかっているのに、気にした様子もない。
「艦長……泣いてましたね」
「……見てたのか」
「煙突の上まで声が響いてましたよ。……泣いていいと思います。でも……泣きながらでも、私たちを動かしてください」
志乃の言葉はまるで蒸気のように熱く、俺の胸に染み込んだ。
さらに翌日、魚雷装填区画。
水雷長・琴乃が黙々と作業していた。
黒い長髪をひとつに結い、鋭い目で魚雷の整備を続けるその姿は、いつも以上に冷たい印象を与えていた。
だが彼女は、作業の手を止めることなく言った。
「艦長。……あの人たちは、あなたに全部を託したんですよ」
「……琴乃」
「立ち止まるのは簡単です。沈むのも簡単。
でも、それじゃ二人に顔向けできないでしょう?」
その声は強く、鋼鉄のようだった。
彼女なりの不器用な優しさなのだと、俺は気づいた。
――俺は気づいた。
失ったものは大きい。もう戻らない。
けれど、まだ俺の周りには仲間がいる。支えてくれる者がいる。
ならば俺にできるのは、ただひとつ。
復讐だ。
「待ってろよ……必ず沈めてやる。
俺の仲間を奪った報い、骨の髄まで思い知らせてやる」
夜空を見上げ、俺は静かに誓った。
その瞳には、かつてないほどの激情が宿っていた。
――こうして俺は、憎悪と孤独に飲まれながらも前へ進む。
その先に待つのが破滅だと分かっていても……止まれないのだ。
「これを持っていけ」
薄暗い桟橋で、父の影が俺を待っていた。
その背後にそびえ立つのは、戦艦――金剛。
艦齢は古いが、未だにその威容は健在。灰色の鋼鉄の巨体は、夜空の下で獣のようにうずくまっていた。
「父さん、これは……」
「お前には……力が必要だろう。奪われたものを取り返すために」
その声は低く、どこか悲しげでもあった。
俺は無言で頷き、舷梯を踏みしめた。
――こうして俺は金剛を受け取り、決戦に向かう。
無謀だと分かっていた。だが、それでも行かねばならなかった。
美月と実の仇を討つために。
水平線の向こう、敵影が見えた瞬間、胸の奥が熱く焼けた。
「総員、戦闘配置!」
怒号のような命令が飛び交う。
14インチ連装砲が唸りを上げ、夜空を赤く照らす。
轟音とともに放たれた砲弾は、確かに敵を撃った。
だが――。
「……命中無し!? いや、装甲を抜けていない!」
観測員の悲鳴が響く。
次の瞬間、敵からの反撃。
閃光、衝撃、そして地獄のような爆風。
――金剛が、沈む。
「ぐっ……!」
甲板に叩きつけられた瞬間、視界が白く弾けた。
痛みも、怒りも、すべてが遠ざかっていく。
――気がつけば、俺は闇の中にいた。
そこに立っていたのは、美月と実。
だが、その顔は冷たい。
「……なんで沈めなかったの?」
「なんで……私たちを助けてくれなかったの?」
美月の声は氷のように鋭かった。
実の瞳は、深い絶望に沈んでいた。
「ち、違う……! 俺は……俺は全力で……!」
「全力? ふざけないで」
「あなた、あの時ほとんど無傷だったじゃない。
それで英雄を気取って……何が艦長よ」
言葉が鋭く胸を抉る。
そのたびに世界が歪み、俺の心は音を立てて崩れていく。
「やめろ……やめてくれ……!」
叫んでも、二人は冷たく俺を睨み続ける。
その視線に押し潰され、俺は膝をついた。
――ここで、俺の精神は壊れた。
「――うああああああッ!!!」
絶叫とともに、俺は飛び起きた。
額は汗に濡れ、心臓は爆発しそうなほどに脈打っている。
暗い艦内の一室。
隣では、美月と実が眠っていた。
――夢。すべて、悪夢だったのか。
「……夢、か……」
そう呟いた瞬間、こらえていたものが溢れた。
俺は顔を両手で覆い、声を殺して泣いた。
「……敬一?」
小さな声に顔を上げると、美月が目を覚ましていた。
続いて実も眠たげに顔を覗かせる。
「どうしたの……?」
「……夢を見たんだ……二人に責められて……俺は、何もできなくて……」
声が震えた。
涙がまた溢れて止まらない。
美月は静かに近づき、俺の肩を抱いた。
実も反対側からそっと寄り添ってくる。
「……大丈夫。私たちはここにいる」
「敬一は……一人じゃないよ」
その言葉に胸が熱くなり、堰を切ったように涙が溢れた。
「……うっ……ぐ……っ……!」
俺は子供のように二人の胸にすがり、声を上げて泣いた。
美月と実は何も言わず、ただ優しく抱きしめてくれた。
――そうだ、これは現実。
俺はまだここにいる。
二人も、隣にいる。
たとえ悪夢に心を壊されても、目を覚ませば仲間がいる。
だから俺は進める。泣きながらでも、震えながらでも。
生きることを、諦めない限り。