実を助けたあの日から、俺と実の関係ははっきり変わった。
手をつないだり、目を見て「好きだ」と言葉を交わしたり――もう恋人みたいなもんだ。
……はずなんだが。
次の日から、なぜか学校ではうまくいかない。
「……おはよう、敬一」
「……あ、ああ、おはよ」
たったそれだけの挨拶で、互いに顔を赤くして沈黙。
周りからはヒソヒソ声が飛んでくる。
「あれ、白狼と仲よすぎじゃね?」
「おいおい、まさか付き合ってんのか?」
……その言葉に反応して、実はサッと顔を伏せて逃げていってしまった。
(おいおい……昨日あんなに泣きながら『大好き』って言ってたのに、今度は目も合わせないのかよ!?)
――俺の胸に、変なもやもやが広がっていく。
放課後も一緒に帰ろうと思って待っていたのに、実は「今日は先に帰ります」と一言だけ言って走っていった。
背中を見送りながら、なんだか置き去りにされたようで情けない気持ちになる。
その夜。
布団の中で、昨日の彼女の涙声が蘇る。
『あの時、森田から助けてくれたこと……ずっと頭から離れなかったのです。イケないことだけど……好きだから仕方ないのです』
……あの言葉は嘘じゃない。絶対に。
――それでも、すれ違ってしまうのが恋ってやつなのか?
いや、もしかすると、実も俺と同じで照れてるだけなのかもしれない。
次の日。
授業の合間に、勇気を出して声をかけてみた。
「なあ、実……昨日は、なんで急に帰ったんだよ」
実は顔を真っ赤にして小声で答える。
「……あの、言葉にするのが恥ずかしくて……でも、本当に嫌で逃げたわけじゃないのです」
その瞬間、俺の胸のもやもやは一気に晴れた。
すれ違いはあったけど、ちゃんと“好き”は揺らいでいない。
……なんだ、俺と同じじゃないか。
(なるほど。これが恋人未満、恋人以上の“初々しいすれ違い”ってやつか)
――心臓が痛いほど跳ねるが、悪くない。いや、最高だ。
ある日の放課後。
俺と実が下駄箱で靴を履き替えていると、突然、背後から声がかかった。
「おや、君は……白狼 実ちゃん、だよね?」
振り向くと、そこに立っていたのは、見覚えのない二年の先輩だった。
背は高く、笑顔だけはやけに柔らかい。だが、その目の奥には妙な光がある。
「俺は寝鳥 枡(ねとり ます)。二年だ。いやあ、君のことは前から知ってたよ。まるで狼みたいに凛々しいのに、女の子らしい……とても素敵だ」
実は不意に褒められて戸惑ったように目を伏せる。
「……あ、ありがとうございます」
その時点で、俺の胸には小さな警鐘が鳴っていた。
(なんだ、こいつ……実のことを“狙ってる”目だ……)
寝鳥はさらに続ける。
「もしよかったら、勉強でも部活でも、何でも相談してほしい。後輩を助けるのは先輩の務めだからね」
優しい言葉。
だが俺には分かる。これは“ただの親切心”じゃない。
実の不安や隙を突いて入り込もうとする、いやらしい“狩人”の視線だ。
――(ああ、きっとこいつは“クズ”。女の涙を好物にして、獲物をじわじわ追い詰めるタイプだ。……よりにもよって、俺の実を狙うなんて、命知らずにも程がある)
実はまだ気づいていない。
彼女は「いい先輩なのかも」と錯覚し、軽く会釈してしまった。
……ここから先は、俺が守らなきゃならない。
あのクズの手に、絶対に実を渡すわけにはいかないんだ。
放課後の廊下。
そこには、実と並んで談笑する上級生の姿があった。寝鳥 枡。
「……あ、寝鳥先輩。今日もありがとうございました」
「ふふ、いいっていいって。君が困っているなら、僕はいくらでも力になるからね」
その声には、甘く耳に心地よい響きがある。しかし、その背後には計算された軽薄さが潜んでいることを、敬一は感じ取った。
実の頬はわずかに赤く染まり、笑みを浮かべる。だが敬一の胸の奥は、ぎゅっと締め付けられる。
――ああ、そういう顔をする男は、実にとって魅力的に見えるのだろう。いや、待て。俺の知る優しい先輩とは、あきらかに違う。女を弄ぶ男の顔だ。
これを読んでいる君、もし同じ場面に居合わせたら、俺と同じように胸がざわつくはずだ。いや、たぶん俺だけじゃない。人間は見た目の甘さに騙されやすい。俺もその一人だった。
「……寝鳥先輩」
低く、抑えた声で呼びかけると、寝鳥はゆったりと振り向いた。
「ん? ああ、君は一年の……敬一くん、だったかな?」
名前を覚えているかのように微笑むが、その笑みには薄い冷たさが混じる。
敬一の血の気が上がる。
「実にばかり近づくの、やめてもらえませんか」
廊下の空気が一瞬、張り詰める。実が驚いたように敬一を見る。
「えっ……敬一、何言って――」
「ほう……」寝鳥は口元に薄い笑みを浮かべ、体を少し寄せる。
「どうしてそんなことを? 僕はただ、困っている後輩を助けているだけだよ?」
「……違う。下心丸出しだから言ってるんです」
敬一は一歩踏み出し、寝鳥をにらみつける。
その瞬間、寝鳥の笑みがわずかに歪む。
「ずいぶん言ってくれるじゃないか……でも君、まだ子供だね」
その声は甘くも冷たく、居心地の悪い緊張を廊下に漂わせる。
「や、やめて! 寝鳥先輩は本当に優しいんだよ!」
実が必死に割って入り、敬一と寝鳥の間に立つ。
「この前だって、私が泣いてたら声をかけてくれたんだ……」
その必死な声に、敬一の胸は痛む。
(……どうして信じてくれないんだ。俺じゃなくて、こいつを……)
――そう、この世の中は単純ではない。人の心は時に、理屈も正義も吹き飛ばす。
俺の目の前で繰り広げられる、愛と欲望と嫉妬の小さな戦争は、まだ序章にすぎない。
静かな廊下の中で三人の視線が交錯する。
――そして、この小さなすれ違いは、確かに始まってしまった。