あれから数週間。
放課後の校舎は、いつもどこか静まり返っているのに、俺の心はざわついていた。
理由は明白だ。実と寝鳥が、以前にも増して二人きりで過ごす時間が多くなっていたからだ。
――あの甘い笑顔の裏に潜むものが、気づかぬうちに実の心を侵食している。
俺は何度も注意した。
「実に近づくな」
だが、実はいつも優しい笑みを浮かべるだけで、言葉を聞いてくれない。
――ああ、どうしてこんなに守りたいのに、理解してもらえないのか。
そしてある日、俺はクラスメイトから耳を疑う情報を耳にした。
「敬一、聞いたか? 空き教室で、あの二人、キスしてたらしいぜ」
その瞬間、理性は音を立てて崩れた。
胸の奥で怒りが沸騰し、視界が赤く染まる。
――夢か幻か? いや、現実だ。あの二人は、俺の目の前で……
無意識のうちに足が教室へ向かう。廊下を駆け抜ける感覚は、時間をも飛ばすように早かった。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
――この怒りは、誰も止められない。
空き教室の扉に手をかけ、音を立てずに覗き込む。
そこには確かに、寝鳥と実が、甘い雰囲気の中で唇を重ねている。
――目の前で繰り広げられる光景は、まるで世界の均衡を崩すかのような重さがあった。
俺は息を詰め、拳を握りしめる。
理性は後回しだ。ただ、怒りだけが先行する。
「……くそっ!」
――この瞬間、俺は完全に理性を失った。
無数の警告や注意、忠告は意味を持たない。
目の前の二人に、ただ一つ、俺の感情だけがぶつかる。
その後どうなるかは、教室の静寂が知っている。
俺の怒りは、誰にも止められない。
――だが、心の奥底では、一抹の恐怖も混じっている。
守ろうとしたはずの存在が、手の届かない場所に行こうとしている。
この不安と怒りが、今後どんな嵐を呼ぶのか、まだ俺には分からない。
空き教室の扉を勢いよく押し開けると、目に飛び込んできた光景に、胸の奥が締めつけられた。
そこには、ニヤニヤと余裕顔の寝鳥と、泣き崩れる実の姿があった。
「……実!」
声が裏返る。涙で顔をぐしゃぐしゃにした実を見て、怒りと焦りが混じった感情が、胸の中で爆発しそうになる。
――俺はただ、守りたい。守るためなら、何だってする。
理性? そんなものは今の俺には存在しない。
「寝鳥! 何してる!」
拳を握りしめ、寝鳥に詰め寄る。
寝鳥はふふ、と嘲るように笑う。
「……別に、キスしようとしただけだよ」
――その一言が、俺の逆鱗に触れる。
甘ったるい声、軽薄な態度、そして俺の実を弄ぶその存在。
もう、黙ってはいられない。
「キスしただけだと? ふざけんな!」
怒りは理性を飲み込み、全身の力がみなぎる。
拳は自然に動き、言葉ではなく行動で感情をぶつけるしかないことを、俺は理解していた。
――ああ、これが戦闘の感覚だ。
目の前の敵を、ただ殴るだけの純粋な衝動。
生きるか死ぬかではない。だが、守るべきものを前にして、人間は本能的に牙を剥く。
寝鳥の顔が歪む。笑みは消え、薄ら血の気のない表情になる。
「ぐ、うっ……な、なに……」
そして、そのまま俺の怒りが体を駆け抜け、寝鳥はフルボッコにされる。
殴打の一発一発に、俺の怒りと焦燥が混ざる。
――この行為が正しいとか、間違っているとか、そんな理屈は今の俺には不要だ。
床に転がる寝鳥の姿を確認すると、少しだけ息を整える。
そして、涙で顔を濡らした実に近づく。
「……もう、大丈夫だ」
手を差し伸べると、実はまだ震えながらも、その手を取る。
――この瞬間、俺の心は安堵と、しかし同時に警戒で満ちている。
世の中は甘くない。
数日後の教室。
窓から差し込む光は穏やかで、何事もないように見えるが、空気は妙に重かった。
「ねぇ、知ってる?」
誰かの小さな声が耳に入る。
――次の瞬間、教室中の視線が俺と実に向けられた。
どうやらクラスメイトの間で、俺たちが付き合っていることが既にバレてしまったらしい。
実は顔を真っ赤にし、俯いている。
しかし、少しだけ笑みを浮かべるその姿に、俺は胸を打たれる。
――ああ、守るべき存在だ。
これからも、どんな嵐が来ようとも、俺は君を守る。
しかし、驚くべきことはそれだけではなかった。
校長室から教官まで、なぜかこの件を知っているらしい。
顔を上げると、教師陣の視線が温かくも、少し冷静に俺たちを見ていた。
――こういう時、世界は意外と小さい。
秘密はすぐに広まり、そして時には想像もしないところまで届く。
一方、寝鳥の方はというと――。
クラスでの一件と、彼の親に知られたことが原因で、家で厳しい処置を受けたらしい。
「去勢された」などという噂が、教室の片隅でひそひそと囁かれる。
――正直、心のどこかでざまあみろ、と思ってしまった。
人を弄び、下心だけで近づいた者に対する当然の報いだろう。
実はまだ俺の隣で小さく震えている。
しかし、今回の一件で少しだけ心が軽くなった様子だ。
俺も、肩の力を少しだけ緩め、深く息を吐く。
――人の運命は時に残酷だ。だが、悪意には必ず報いがある。
守るべき存在を守り抜くためには、こうした些細な勝利も、心の支えになるのだ。
俺は実の手を握り、目を合わせる。
「大丈夫だ、これからも一緒だ」
小さく頷く実の姿に、胸の奥が温かくなる。
――世界は甘くない。だが、守るべきものがある限り、俺は立ち向かう。
そして、実はその中で最も大切な存在だ。
俺たちの間にも、常に試練はやってくる。
だが、守るべき存在を守れる力を、俺は信じたい。
教室の空気は重く、まるで時間が止まったかのようだった。
床に転がる寝鳥を見下ろしながら、俺は実に目を向ける。
実はまだ涙で濡れた頬を押さえ、怯えた表情を浮かべている。
だが、そこには決意の光も宿っていた。
「……敬一、私……やっと分かった」
震える声で、実は言った。
「あなたが、私に何をしてほしいのか……やっと理解できた」
――そうだ、実。君はただ守られるだけの存在ではない。
その言葉に胸の奥が熱くなる。だが同時に、心に小さな怒りも生まれる。
自分を大切にしてくれる人の言葉を、やっと理解した瞬間の清々しさと、
寝鳥のような下衆の存在に対する嫌悪が、入り混じる感覚。
「寝鳥……あなた、下心だけで接していたんだね」
実の声は冷たく、鋭い刃のようだ。
「キスしようとしたなんて……気持ち悪い」
――その一言で、空気は一変する。
寝鳥の目が見開かれ、笑みは消え、血の気が引いていく。
言葉だけで、ここまで人を押し潰す力があるのか、と俺は少し驚いた。
床に膝をついたまま、寝鳥は小さく震えている。
メンタルが完全にブレイクしたのだ。
――なるほど。人間は、力だけで支配されるわけではない。
正しい言葉、鋭い指摘、そして心からの拒絶――
これらが、人を打ちのめすこともある。
俺は実にそっと手を差し伸べる。
「もう大丈夫だ。君が悪いんじゃない」
実は小さく頷き、まだ震える手で俺の手を握った。
その瞬間、胸の奥に深い安堵と、守りたいという決意が渦巻く。
――世界は残酷だ。だが、守るべきものがある限り、俺は戦える。
そして実は、俺にとって守るべき最も大切な存在だ。