少女X家庭教師X依存 作:霧里
ことんっ……。
傾きかけたペットボトルに気づいたときには、もう遅かった。
乾いた音が転がりながら、ノートの端でピタリと止まる。
「……はぁ」
彩花の吐息は震えていた。安堵と自己嫌悪の入り混じった、ひどく頼りない溜息だ。こんなことすら上手く出来ない自分が嫌になる。
空のボトルに伸ばした指は、固まったまま動かない。もし、中身がまだ入っていたらと思うとゾッとした。水浸しになったノートを見たら、お母さんはきっと私を責めただろう。
嫌な想像が、乾きを強くする。
苦し紛れに飲み込んだ生唾が、悪戯に喉を締め付けた。
予備のボトルは既に無かった。水を飲もうと思えば、キッチンにまで取りに行くしかない。
嫌だな……。
何もめんどくさいって話じゃない。母と顔を合わせるのが苦痛だった。
今の時間なら、きっとまだ起きているだろう。トイレに立っただけでも「何をサボっているの」と言ってくるくらいだ。母が寝静まるまで、どれだけあるのだろう? それを考えるのも無駄だった。
タイミングを見計らったつもりで部屋を出ても、わざわざ向こうから顔を出してくる。そんな事に意識を割くくらいなら、何も考えないほうが良い。
ちょっと、水を取りに行くだけ。できれば母と顔を合わせませんように。
祈りながらも、彩花は部屋を出た。
***
階段を降りる足取りが重いのは、廊下が暗いせいだけじゃない。
気が重いんだ。一歩、足を踏み外したら、そのままどん底まで落ちていってしまいそう。だからといって、廊下の明かりを点ける気も起きない。
何かの拍子に母が気づいてしまったら。そう思えば、自然と足音を殺して歩くようにもなる。
自分の家なのに……。
こっそりと、歩く廊下は酷く乾き切っていた。
安らげるのは自室だけ。ううん、それも違う。
母の言うように、勉強をしていないといけない。帰宅の時間も、お風呂の時間も、食事の時間も、寝る時間ですら自由にならない。少しでも母の機嫌を損ねれば、長い叱責が待っている。彩花にとって、この家は牢獄と何も変わらなかった。
リビングへと続く扉から、明かりが漏れていた。
思わず、足が止まる。聞こえてくる声が、自分に向けられたものじゃなくても、心が冷たくなるには十分だった。
お父さん、帰ってるんだ……。
お仕事で疲れて、大変なのに。帰ってきたら母の小言を聞かされて。
同情する。きっとそれは、父親に向けるべき感情じゃない。分かっていても、彩花にとっての父親は、頼るべき大人ではなかった。
この隙に外に出れないだろうか? 母の小言の長さを考えれば、あるいはバレずに済むかもしれない。すぐそこの自販機まで1分とは掛からないはず。
でも、足が動かない。
万一にでも母にバレた時のことを考えると、それすら怖い。
部屋に戻ろう。苛立った母と顔を合わせるくらいなら、喉の乾きを我慢している方がずっと良い。
彩花が部屋へ戻ろうとした時だった。
リビングの扉が開き、疲れ切った父が顔を覗かせる。
一瞬、空気が固まった。父と目を合わせたきり、彩花は何を言っていいか分からない。ただ、ありきたりに「……おかえりなさい」と言葉にするのさえ、戸惑いが先に立つ。
「最近はどうだ?」
父の口癖は曖昧すぎて、聞かれた方も困ってしまう。
「まぁ、うん」としか言えなかった。父のことが嫌いなんじゃない。
ただ、どう接していいのかが分からない。常に要求してくる母と違って、父が何かを強要してきたことなんかなかった。それが余計に、彩花を混乱させていた。
ぎこちなくてもいい。ツギハギだらけの会話でよかった。
続けていればきっと、少しはそれらしくなっただろう。けれど、父娘の会話は続かない。いつもそうだ。
「ちょっとお父さんっ。彩花に変なこと言わないで。彩花、こっちに来なさい」
ヒステリックな母の声に、この家の誰もが逆らえなかった。
「えっと、お母さん呼んでるから……」
「ああ、うん。その……いや、そうだな」
諦めていた。私も、父もきっと。すれ違った父が、気遣わしげな視線をくれる。
けど、それだけだ。何も出来ない、してくれない。母の前に立って、庇ってくれるわけでもない。彩花と同じ、そこにあるのは同情だけ。
リビングに入った彩花を待っていたのは、母の叱責だった。
「勉強は」「この前の席次は」「あの子はどうだ」「お母さんに恥をかかせないで」彩花の胸に、母の言葉が突き刺さる。泣きたくなるのを必死に耐えた。
涙を流せば、余計に責められる。「なにを黙っているの?」「お母さんがイジメてるみたいじゃない」「貴女の為を思って言っているのよ」
ウソつき。
私のためだなんて、一つもないくせに。
昔はこんなじゃなかった。そのはずだ……。もう、記憶も掠れてしまっていた。
初めてテストで100点をとってみせた時、母は何て言ってくれたんだっけ? 決め手になったのは受験に失敗してから。私が近所の同級生たちと同じ学校に行く事が、母には耐えられなかったようだ。
勉強熱心。
聞こえは良いけれど、その実態は「しつけ」と称した「虐待」だった。
自分の思い通りにならない娘に八つ当たりをする母。気にしているのは、世間体だけ。そんな母を前に、彩花は何も言えず、言い返せない。
少しでも口を開けば「言い訳しない」「どうして口答えばっかりするの」と、手のひらを返された。何も言わないこと。母の気が済むまで嬲りものになることが、一番早く開放される方法だった。