少女X家庭教師X依存 作:霧里
学校から戻り、彩花が自室で勉強をしている時だった。
コンコンコンっ……
心臓が跳ねた。染み付いた習慣が、手のひらに汗を滲ませる。
扉を叩くその音は、母からの叱責の合図と結びついていた。胸の前で手を握り、飛び出しそうになる心臓を抑え込む。このまま黙ってやり過ごしたい。
けれど、それはダメだ。余計に母の神経を逆なでするだけ。
口の中が乾く。指先がヒリヒリして仕方がない。
緊張を和らげるため、せめて深呼吸をした彩花は、努めて平静を装った。
どんな言いがかりを つけられるんだろう? 私の話なんて信じやしないくせに。
胸に芽生えた僅かな反発を押し込んだ。私だって頑張っているのに、少しくらい褒めてくれたって。受験に失敗したあの日から、求めた愛情が彩花を包むことはなかった。
もう、お母さんなんて知らない。
そう言えれば、どれだけ楽か。だって、母の期待に応えられない私が悪い。
もう一度、お母さんに愛されるにはこれしかない。自責の念を強めた彩花は、自罰的に母からの叱責に耐え続ける。
「あのね、彩花ちゃん。お母さん、家庭教師をお願いすることにしたの」
いつもの母の言葉だった。彩花に問いかけているようで、その全部はもう決まってしまっている。ただ少しだけ、母の機嫌が良さそうなのが気にかかった。
ニヤニヤとして気味が悪い。今まで見たこともない母の表情に、彩花は不信感を強めた。
いきなり家庭教師だなんて。
どうせなら、塾に行きたかったな。少しでも家から離れている時間が欲しい。
勉強のためだと言えば、認めてくれるんじゃないか。けれど、母はそれを良しとしない。そもそも信用されていなかった。「悪い友達と遊ぶつもりか」「外でサボるつもりか」と、そう言って。なんなら、学校に行くことさえ嫌がっている節もある。
これからは監視付きなんだ。
言いつけを守って、ちゃん勉強してたのに。友達の一人も作らないで、学校が終わればすぐ家に帰る日々。それでも、成績は一向に上がらない。
彩花の胸に、諦めの感情が重くのしかかってくる。もう、何が悔しいのかも分からない。スカートの端を握りしめた指先に、母が気づくことはなかった。
「こんにちは、彩花ちゃん」
「えっと、あ、はい……よろしくお願いします」
知らない人の声だった。男の人の声だった。
母と入れ替わり、部屋に入ってきた彼は、柔和に微笑みかけてくる。
端正な顔立ち。全体的に清潔感のある輪郭。背は高く、まっすぐに伸びていた。
動作はゆっくり丁寧に、控えめながらもどこか目を引く。光の加減だろうか。
茶色の瞳の中に、差し込んだ金色が輝いて見えた。同じ男性なのに、いつもくたびれた様子の父とは大違いだ。
ああ、そうか……。
彩花は気づく。母が機嫌のいい理由。
クラスの女子達が、憧れの先輩を前に騒いでいるのと同じこと。あれは、女としての母の顔なんだ。彩花が覚えている限り、父の前ですら見せなかった表情。
警戒が先に立つ。
知らない人が、部屋に入ってきたことにじゃない。
友達もダメ。彼氏なんてもってのほか。そんな母が、家庭教師とはいえ娘に男の人を充てがうなんて。
「お母さんは、下で待っていてくれますか? 娘さんと二人で話したいので」
「あら、そう? それじゃあ彩花。先生の言う事を聞いて、良い子にするのよ?」
「ぁ、うん……」
嫌な予感がする。でも、それを口には出せなかった。
扉が閉まる。いつもならそれで気が抜けるのに、彩花の警戒は解けなかった。
むしろ、あんな母でも今はいてほしいと思う。見知らぬ男性と二人きり。
母が連れてきた家庭教師は、扉の前に立ったまま動かない。
警戒する彩花を前に、気後れしていると言うよりも、これ以上刺激しないようにとの配慮が見えた。
「僕は玲司。相澤 玲司。君は?」
「え、でも……もう知って……」
「君の口から、ちゃんと聞きたいんだ。教えてくれるかな?」
優しい問いかけだった。母の詰問とはまるで違う。
途切れた会話の間にさえ、息苦しさを感じない。その事に戸惑いながらも、彩花は恐る恐る口を開く。
「あ、えと……彩花、です。篠宮 彩花」
「彩花ちゃん。いい名前だね」
「そんなの……」
何処にでもある普通の名前だと思う。キラキラネームとかじゃないだけ良かったかなっては思うけど。ドキッとした。今まで褒められることなんて全然なかったから余計に。社交辞令。リップサービス。分かっていても、唇がむず痒くなって、表情が崩れてしまいそう。
「びっくりしたよね? 突然。家庭教師だなんて。僕もさ。てっきり、話はしてあるのだと思っていたから。彩花ちゃん、すっごく睨んでくるんだもの」
「え、私……睨んで、ました?」
「ふふっ、冗談だよ。ちょっと困った顔はしていたけれどね?」
唇に人差し指を当てて、悪戯っぽく玲司は微笑んだ。
からかわれた事に気付いた彩花は、赤くなる頬を隠せない。
少し低めの声に耳を撫でられ、くすぐったくなる。最初こそ戸惑いはしたけれど、玲司の自然な動作と佇まいは、親しみやすかった。少し話している内に、彩花の警戒も次第に緩んでいく。
「お近づきの印にさ? シュークリーム買ってきたんだ。コンビニじゃないよ? 美味しいケーキ屋さん。僕のお気に入りの店でね?」
差し出されたシュークリームを前に、彩花は固まってしまった。
玲司の顔と交互に見比べながらも、それをどうすれば良いのかわからない。
「苦手だったかな? 甘いもの。ごめんごめん。女の子だからって、安直すぎたね……」
「ちが、そうじゃなくって……」
「もしかして警戒してる? 物で釣るみたいでイヤだとか? あ……ダイエット? でも、そんな風には見えないけどな。彩花ちゃんは、そのままが良いと思うよ?」
冗談めかして笑う玲司を前に、答えが見つからない。
体を撫でる異性の視線を感じ取った彩花は、肩を竦めて縮こまった。
「……そんなこと」そう返すのが精一杯。名前を褒められ、そのままで良いとまで言われて。きっと、聞き流すの正解なんだろう。でも、初めて誰かに認められたような気がして、彩花は胸のドキドキを隠せない。
早く何か言わないと、この人を困らせてしまう。
浮かれた心は、いつもより軽かった。けれど、彩花が胸の内を開こうとした瞬間、鼓動は音色を変えていた。
「じゃあ、なんなのっ」「言いたいことがあるなら、ハッキリ言って」
耳にこびりついた母の声に、言葉を見失う。余計なことを言うくらいなら、何も言わないほうが良い。この人だって、次に何を言うかもわからないんだ。
これ以上、心を乱されたくなかった。手慰みの言葉で、浮かれてしまうのも悔しい。このまま黙っていれば、この人も呆れて何処かへ行くだろう。視線がおちる。俯いた彩花は、唇を引き結んで心を閉ざした。
「大丈夫だよ、彩花ちゃん。苦手なら苦手だって、ちゃんと言って良いんだ。その代わり、君の好きなものを教えてほしいかな?」
けれど、玲司は怒らない。それどころか、彩花の答えを待つように、柔らかい沈黙で包み込む。
言っても、良いのかな?
ゆっくりと緊張が解けていくみたいだった。
もしかしたら、警戒し続けるのに疲れただけだったのかも。それでも、肩から力が抜けると、言葉を選ぶ余裕が生まれてくる。玲司の顔色を伺いながら、少しずつ並べた言葉は、彩花の胸の内を軽くしていった。
「えっと……そうじゃなくて。食べても……いいの、かなって?」
「もちろん。君に食べてほしくて買ってきたんだから。なんなら、全部食べてしまっても構わないよ?」
「そんなっ、食いしん坊なんかじゃっ」
「お夕飯、入らなくなっちゃう?」
「子供扱いしないで下さい……っ」
「ふふっ。それじゃあ、一つ貰っても? 僕も好きなんだ、これ」
「あ、はい……」
不思議な時間だった。詰問でもない。命令でもない。人と会話したのなんて、いつぶりだろう。からかわれたのが恥ずかしくって、つい大きな声まで出してしまった。ただ「美味しい」と言うだけで、嬉しそうに微笑んでくれる。
なんで、こんなに話せてしまうのかな?
好きなケーキの話は広がって、気づけば自分の誕生日まで教えていた。
口が滑ったんだと思う。隠すことじゃない。聞かれればどのみち答えていた。
でもそれは、命令されたからなんかじゃなく、自分の口から出た言葉だった。
好きなこと、嫌いなこと。学校でのお話し。ああ、自分のことを話せるって、こんなに楽しいことなんだ。でも、そんなありきたりな会話に辛くなる。
話題をふられても、満足にこたえられない。好きも嫌いもない。
授業じゃなければ自習の時間。学校が終わればまっすぐに家に帰って、また勉強。
人の話題に乗れるほどの日常が、彩花には すっかり欠けてしまっていた。
誕生日に渡されるのは、ケーキの代わりに参考書だ。自分で言って泣けてくる。
母に叱責されながら、勉強するだけの日々。日付が変わる頃には意識が霞んで、半ば気絶するように眠る毎日だ。あまりにも機械的な生活に、夢を見ることすら忘れていた。
私なんかと話していて、楽しいんだろうか?
同じ話題なのに、玲司は自身の体験、ちょっとした失敗談なんかも笑い変えながら、感情豊かに話してくれる。そこには、彩花の知らない世界が広がっていた。
何も言えない自分が嫌になる。胸が苦しい。息は乱れて、声が遠のく。
玲司の話に、頷く事もままならなくなった。手の中で潰れたシュークリームが、指先を汚すのにも気づかない。
「彩花ちゃん?」
「えっあっ! ごめんなさいっ、わたし……お話し、ちゃんと聞いて無くて」
「大丈夫、怒ってないよ。落ち着いて……ね?」
「あ、はい……」
いつのまにか、扉の前に立っていた玲司が、目の前でしゃがみ込んでいた。
見上げてくる視線から逃げるように、彩花は顔をそらす。優しく肩を抱かれて、つい甘えたくなった自分を引き止めた。
「きっと、お母さんも焦ってるんだよ。それで意地悪みたいになってるだけさ」
「そんなこと……」
続く自分の言葉がわからない。「分かってる」と言いたいのか「無い」と否定したいのか。多分そのどちらもだ。
「彩花ちゃんがテストで良い点とって、受験にも受かって。そうしたらさ、僕と遊びに行こう。彩花ちゃんが行きたかった所、全部僕が案内してあげる」
「でも……そんなの、お母さんが」
「大丈夫。僕は口が上手いんだ?」
「それは、今も? 家庭教師のお仕事が……したいから?」
「どっちだとおもう?」
悪戯に微笑みかけてくる玲司。
「そんなの……」
ずるいと思う。
母の連れてきた家庭教師を断ったら、また何を言われるか分からない。
でも、彩花の胸にあったのは、それだけじゃなかった。僅かな期待に胸が膨らむ。
この人なら、もしかして……と、思ってしまった。
「えと、よろしくお願いします。相澤……先生」
「うん、よろしくね彩花ちゃん」
先生の大きな手は頼もしかった。
緊張で震えるだけだった彩花の指先を、玲司は優しく包み込む。
「指、汚れちゃってるね……」
「あ、うん……。ごめんなさい、せっかく持ってきてくれたのに」
「いいよ。じっとして、拭いてあげるから」
人に触れられたのなんて何年ぶりだろう。お母さんに叩かれて以来、それっきり。
母が人目を気にするようになってからは、叩くことさえされなくなった。
玲司の大きな手が、彩花の細い指にそっと触れる。
ハンカチの柔らかい布地が、クリームで汚れた指を丹念に拭き取っていく。
その動きは、壊れ物を扱うように繊細で、ゆっくりと彩花の輪郭をなぞるようだ。
なんだか、少し恥ずかしい。
子供扱いされている事以上に、異性の温もりが心を乱す。
ほんの少しだけ、玲司の指に力がこもった。くすぐったさから逃げるように引かれた彩花の手が、引き止められる。一瞬、絡みついた視線に、彩花は頬を熱くした。
「先生……?」
可愛らしい唇から、呟きが漏れる。震えた声には、気恥ずかしさと、知らない感情が入り混じっていた。期待と高揚。未知の疼きが、彩花を誘う。
「ほら、綺麗になったよ」
深く響く声は穏やかに、そっと心に明かりを灯すようだった。
自分を攻撃する母。頼りにならない父。そんな中に差し出された手の温もりを、彩花は拒めなかった。