少女X家庭教師X依存 作:霧里
先生が勉強を見てくれるようになって、彩花の成績は目に見えて上がっていった。
母の機嫌も良い日が増えて、無駄な叱責を受けることも減っていく。
放課後の帰り道。彩花は、小走りになりそうになる足を抑えていた。
それはまだ、小さな変化。以前は、門限ギリギリになってようやく家に帰っていたのに、その時間が少しずつ早くなっていく。違いなんて10分もあるかどうか。
どう急いでも、30分と変わりはしなかったけど。
早く先生に会いたい。それを恋とは言わないまでも、身だしなみを整える時間が欲しかった。
鏡に映る少女は、どこか自分でないように思う。
少し、浮かれているせいかな。気持ちを落ち着けるように、肩まで伸びた黒髪を指で梳かした。摘んだ前髪は するりと逃げて、彩花の細い睫毛に掛かる。
先生には、私がどう見えているんだろう?
あんまり、子供には思われたくない。けれど、鏡に映る瞳は幼さを残したまま。
頼りなさ気な表情が、その印象を強くする。それなのに、白いブラウスの作る彩花の影は、はっきりとその明暗を分けていた。
「綺麗だって……さ?」
その言葉を反芻しては頬を染める。わかってるよ……でも、ちょっとくらい。
もう子供じゃない。まだ大人にもなりきれない。鏡に映る少女の姿は、移ろう途中の危うい魅力を宿す。
心も体もバラバラ。一足早く大人になった体は、異性への興味を強くする。
先生のことが好き。もっと一緒にいたいと思う。母への依存が薄れていく一方で、玲司への執着が強くなるのにも気づいていなかった。
***
コンコンコンっ……
また、この音だ。自室の扉を叩く音。
繰り返された母の叱責を思い出して、彩花は勉強の手を止めてしまう。
胸が苦しい。飛び出しそうになる鼓動の音を落ち着けて、返事を返そうとした時だった。
「大丈夫。僕が出るよ」
隣で勉強を見ていた玲司は、彩花に優しく微笑みかけた。
震える彩花の手を包みこみ「心配しないで」落ち着かせるように、小さな肩を抱き寄せる。
たったそれだけ。
でも、たったそれだけの事を、今まで誰もしてくれなかった。
手を握って、肩を抱く。怯える彩花を初めて慰めてくれたのは、ついこの間、出会ったばかりの人。先生と一緒にいると、初めてのことばかりだ。
誕生日に食べられなかった分だとか言って、先生はいつもケーキを買ってきてくれた。勉強をする前に、二人でケーキを食べる時間が好き。早く食べたくって、急いで帰るようになったと思われても仕方がない。
なんでもない雑談。相変わらず話題に乏しい私。拙い会話でも、先生となら色が付くみたいだ。どんなにつまらない話から始まっても、いつしか二人で笑いあう。
扉が開き、母が顔を覗かせても、その視線は彩花に届かない。
扉の前に立った玲司は、その視線から さりげなく彩花を隠していた。
母が彩花を気にする様子はあっても、玲司が壁になっているせいか、叱責までは飛んでこない。小声で2・3何かを話したと思ったら、何も言わないまま戻っていってしまった。
「ごめんね、彩花ちゃん。少しお母さんと話してくるから、君は気にしないで、勉強していてね?」
先生が出ていった後、彩花は部屋に一人残される。
「はぁ……」と、口から出たのは盛大な溜息。椅子の背もたれに体を預けて、すっかりと固まってしまった体を弛緩させた。
先生が勉強を見てくれるようになってから、もう何度も母から庇ってもらっていた。未だにノックの音に怯えることはあっても、先生と一緒のときは怖くはない。
勉強しなきゃ……
せっかく先生が作ってくれた時間だもん。
気を取り直した彩花は、用意された問題集を解き始める。
こんなのまで手作りしてもらって。家庭教師ってそこまでするんだろうか?
学校の教科書や、有名な参考書なんかよりもよっぽど分かりやすい。
一見すれば、彩花が苦手な問題ばかりを集めた、意地悪な作りだ。
けれど、そこには苦手を克服するためのポイントが、随所に書き込まれている。
それは彩花の為だけの、この世でたった一つ問題集だった。
自分でも、のめり込んでいるのが分かる。
一つ問題を解いては次に進む。進めば進むほど理解が進む。久しぶりに勉強が楽しいと思えた。最後の問題を解いてしまうのが、少し惜しいと思うくらいだ。
一通り問題を解き終わった彩花は、ほっと息を吐いて時計を見た。
結構時間が経ったかと思えば、そうでもない。以前なら日もくれていただろうに、夕暮れまでにはもう少しの余裕もあった。
先生……遅いな。
とはいえ、ただ母と話をするだけにしては、時間が経ちすぎてはいた。
気にならないといえば嘘だ。いくら先生が優しくっても、それは表面上の話しだけかもしれない。分かってる。良い子でいようとしたのは、お母さんに言われたからじゃない。少しでも、先生に良く思われたかった。
嫌な想像を、少しでも遠ざけたい。
もし母と二人、先生が私の悪口で盛り上がったりしていたら……。
もう一度、問題集を最初から……。その内に先生も戻ってくるだろう。
そう思うのに、驚くほど勉強に身が入らない。思考が別の所に流れていく。
カチカチと、無駄にシャーペンの芯を出してみたり。意味もなく引いた線を消しゴムで削ってみたり。心ここにあらずだ。こんな状態じゃ、正解していた問題まで、間違いで上書きしてしまいそう。
少しだけ……
一度思えば、止まらなくなる。
少しだけ、部屋の扉を開けるだけ。もしかしたら、もうそこまで先生が来ているかもしれない。少しだけ、廊下の向こうを覗くだけ。もしかしたら、先生たちの会話が聞こえるかもしれない。少しだけ、近くまで行って。少しだけ、話を聞いて。私とは関係ないとわかれば、それで安心できるから。
人生初の盗み聞きは、結果だけで言えば上手くいった。
日頃、気配を殺して歩くのには慣れていた。そうじゃなくても、先生たちは気づかなかったと思う。リビングから漏れ聞こえる声に、彩花の足は止まっていた。
「はぁっ……♥ あぁ、玲司、さん。良いわ……そこ、もっと……」
甲高い女の嬌声。唸るような男の吐息。肉の絡み合う音がする。
そっと触れた壁から伝わる振動が、行為の熱を物語っていた。
そこにいるのは本当に母なのか。先生と二人で、何の話をしているの?
忘れていた。ううん、思い出したくなかった。先生と出会って、一番最初に抱いた違和感の正体。母が見知らぬ男性を家に呼ぶ理由。あの時、形にしなかった言葉は、たったの二文字で済んでしまう。
部屋が遠い。
目の前がグラリと歪んで、階段から足を踏み外してしまいそう。
本当なら「なにをやってるのっ」と、声を上げるべきだった。
社会的に許されることじゃない。私も、父も、あれだけ責め立てていた母が、それをするのはあまりに卑怯だ。
でも……言えない。
言ってしまえば、先生とはもう二度と会えない。
それを考えると、母の裏切りに目を瞑る位なんてことはなかった。
たった一人だけだ。今までの人生で唯一ちゃんと私を見て、守ってくれた人。
ついででいい。片手間でも構わない。1時間でも、10分だって。少しだけでいいの。先生が私に時間を割いてくれたなら、それでもう十分。
這々の体で、彩花は自分の机に齧り付く。
広げたままの問題集を、クシャリと握りつぶしてしまいそうになった。
けど、出来ない。たった数枚のコピー用紙でも、それが先生との思い出の全部。
それを自分から壊すなんて、出来るわけがない。問題集に掛かる右手を、左手で無理やり抑え込んだ。
母の嬌声を思い出すだけで、喉に込み上げてくるものがある。
口の中に広がる酸味と、ケーキの甘さ。苦みの残る液体を、無理矢理に飲み込んだ。大丈夫、大丈夫……。私は何も聞いていない。先生は、お母さんと話をしているだけ。何度も自分に言い聞かせた。先生が戻ってくる前に、いつもの私に戻らなきゃ。
いつもの……いつもの……私って、なんだっけ?
ただ母に怯えて、勉強するだけだった私のこと? それは、イヤだ。
もう、一人じゃ耐えられない。盗み聞きなんかしなければ良かった。
もし先生にバレたら。もしお母さんにバレたら。もしお父さんにバレたら。
コンコンコンっ……
部屋の扉を叩く音に、彩花の心臓は跳ねた。
もし、扉を開けた先にいるのが先生じゃなくて、お母さんだったら?
もし、覗いていたのがバレていたら?
そんな事はない、大丈夫。あんなに声を出していたんだ。私の足音なんか聞こえるはずがない。大丈夫だから。そこにいるのは先生で、お話しが終わって戻ってきてくれただけ。
努めて平静を装って返事を返す。扉が開くまでの僅かな時間が、酷く間延びしてみえた。申し訳無さそうにした先生の顔を見た途端、心底ほっとする。
「もう……遅いですよ、先生。問題、全部解いちゃったんだから」
ちゃんと出来てるだろうか? 声は震えてない? 不安は顔に出てはいない?
間違っても涙を流すわけにはいかなかった。先生がもどってくるまで退屈だったって、ちょっと甘えるぐらいで丁度いい。
「あはは。ごめんごめん。ずいぶん早くなったね、偉いよ彩花ちゃん」
「うん……」
褒められて、嬉しくなった。頭を撫でられて、くすぐったくも思う。
さっきまで母を抱いていた手なのに、彩花にはどうしても拒絶することができなかった。