※この作品はR-18です。

SOS はらわた喰いの悪魔(Sadistic-Offal-Succubus)   作:氷菓くん

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01/13 見初められた男

 機体はそのまま、パイロットは死んでもらう!

 ……という感じの台詞が、Vガンダムにあるらしい。よくは知らない。Vガンダムをちゃんと見たことがないから。

 ただ、インターネットにはアニメの切り抜き映像が転がりがちなもので、ガンダム系列の中でも特にショッキングな死に様の描写が多いVガンダムにおいては、キャラクターの死亡シーン集なる物がそれなりの再生数を誇っていた。

 そこで見たのが上記の台詞だ。物語上には何やら重要な橋のような物が存在していて、戦いの中でその柱が一つ崩壊し、味方のモビルスーツが柱の代わりとなって橋を支えることになる。しかしそうやって無防備になった味方を敵は容赦なく狙ってきて、上記の台詞を叫ぶ。

 ビームサーベルがコクピットだけを正確に貫き、機体は爆発することなく無力化される。パイロットがサーベルの熱に直接焼き殺される瞬間の景色は、コクピットの中を映す視点で描写されていた。

 ぼくは、そのまとめ動画のそのパートを何度も見返した。なぜなのかは分からない。特別気に入ったつもりもなかったけれど、しかし何度も、執拗に見返した。

 焼き殺されたパイロットは女性だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高齢者ドライバーが起こす交通事故のニュースを繰り返し見たことで、父方の祖父が運転を金輪際諦めた。免許返納を志させるところまではいかなかったけれど、それでも本人にハッキリと運転を諦めさせるまでに、父やその兄弟は相当な根気を費やしていた。

 祖父が運転を辞めることは至極妥当なことだったように思う。祖父には一度、自宅の場所を忘れて散歩から帰って来られなくなったことがあった。「帰って来られなくなった」という点を省けば、似たような感覚に陥ったこと自体は過去に二度も三度もあったらしい。おまけに祖父の振る舞いを傍から見ていれば、去年あたりから明らかに、あらゆる行動の前にロード時間ともいうべき不自然な間が挟まるようにもなっていた。……はっきり言ってぼくなんかは、そんな状態の相手の説得に時間をかけること自体に馬鹿馬鹿しさを感じてしまう。

 ぼくなら「今の状態で万が一事故を起こせば、息子や孫たちの全員が今後一生人殺しの子孫として扱われることになるけど、それでいいんだね」と脅せば一発だろう……と考えてしまうところだけれど、心の通った人間らしい説得というものはきっとそういうものではないのだろう。祖父に運転を辞めさせる件を通じてそれがなんとなく感じ取れるこそ、ぼくは改めて人間が嫌いだと思った。

 大抵の人間は、尊敬に値しない。父の根気は尊敬に値するが、その根気を引き起こさざるを得なかった理由が身内の痴呆と頑固では、「人間」という括りでそれを尊敬することはできない。

 ぼくは人間が嫌いだ。人間と関わっていると、いつもどこかで辟易させられる。逆にいえば、一度も辟易しないうちは、その相手の「人間らしさ」にまだ触れられていないということだと思っている。だから自分が人と関わる中で尊んでいる物は、人の人ならざる部分だけなのだとも。

 自分の心にも孤独の概念はある。人肌恋しくなることもあれば、誰かと話したくなることもある。ただそれを満たすために「人の心」は必要ない。不要というよりもむしろ邪魔なのだ。人の人ならざる部分だけと触れ合うことが出来れば、きっとこの世は楽園になるだろうに、少なくともぼくが生きているうちにそれが叶う日は来そうもない。

 ……しかしまぁともかくそういうわけで、我が家は毎週一度、祖父母を近所のスーパーマーケットへ車で送り届けることが日課になった。運転をやめろと進言しておいて、大量の荷物を持ち運ぶ力のない老人に日々の買い出しを丸投げするのではあまりにも薄情だということで、一週間分の食料の買い出しを我が家がサポートすることになったのである。

 せっかく毎週顔を合わせるということで、自動的に、昼食も毎週共にすることになった。こちらから料理を持ち込んでみたり、外食に出てみたり、いろいろ試してみたけれど、毎週となれば何にせよそのうち飽きがくる。そうしてある日、気分転換として一度も入ったことがない上にチェーン店ですらない飲食店に入ってみようという話になった。

 ぼくを含め、うちの家族は大体中華料理が好きだ。するとテレビ番組から時々聞こえてくる「町中華」という響きに憧れを持つようになる。ちょうどいつも行くスーパーの近くに、その町中華に属する物があるとなれば、まぁ一度くらい入ってみようという話になるのが自然な流れだった。

 店の名前は覚えていない。テイクアウト商品の存在をアピールする看板ばかりが目について、どこに店の名前があるのかを気にする発想すら湧かなかった。その看板に載っている料理は美味そうに見えたけど、それが店名への興味に繋がらなかったのはきっと、サビが耳に残ったところで曲名を気にするとは限らないことと同じ理屈だろう。

 店は二階建てで、一階はすべてカウンター席だった。その時点で察せられることだけどそもそも店内が広くはない。カウンター席はどうやら店主の身内が数人陣取ってお喋りしているようで、ぼくは案内されるがまま細い階段を先陣切って上り二階へ行く。二階には、階段を避けて九十度に曲がった形の部屋の中に均等に、座敷の席がテーブル三つ分設けられていて、直角の位置にあたる中央の席にはすでに先客がいた。この手の店にしては珍しい気もするけれど、二人とも若い女性だった。

 部屋の隅には業務用の掃除機と、なぜか腹筋ワンダーコアが転がっている。季節は夏というにはまだ早いけれど冷房の効きがイマイチで、どことなく、これから注文する料理の出来への不安感を誘った。

 冊子型のメニュー表をめくりながら、めぼしい物を探す。店の外にあった看板を見た時から鶏肉系の何かにしようかと思っていたけれど、載っている写真を見ているうちになんだかお腹が空いてきて、ラーメンくらいぺろりと食べきれそうな気もしてくる。

 しかし自分はモヤシが苦手だからな……。と、具材にモヤシが含まれていないかを、メニュー内に添えられた写真とにらめっこしてくれぐれも慎重に確かめていたところ、背後からとんとんと肩を叩かれた。

 ぼくは部屋の直角側を背にした位置に座っていた。

「お兄さん、このお店来るの初めて?」

「え?」

 先客の女性のうち一人が、いつの間にかすぐ背後に膝立ちで迫っていた。必然的に、家族全員が彼女に注目する。

 謎の女性は、臆せずその視線すべてに微笑みを返した。

「すみません。さっきエビチリを食べたんですけど、めちゃくちゃおいしかったですよって、どうしても伝えたくなっちゃって」

「はぁ、どうも」

 変な女だな……、と誰もが愛想笑いを浮かべながら、それはそうと「じゃあエビチリは確定で……」という流れになっていく。

 うちの家族は旅行が好きでちょくちょく観光地へ出かけるのだけど、するとこのように「きっと悪人ではないのだろうけど」みたいな人に巡り会うことも時々ある。そのせいか、誰もあまり動揺していなかった。あるいは若い女性という存在が、根本的に人を警戒させづらい性質を持っているのかもしれない。

「ラーメンで迷ってます?」

 同じページを開いたままフリーズしたぼくに、女性が言う。彼女の肩越しに見えた向こうの席では、もう一人の女性が今まさにラーメンを啜っていた。

「えぇ、まぁ」

「お兄さん、モツって食べれます?」

「えぇ? はい」

「食べれるっていうか好き?」

「まぁ」

「じゃあオススメがあるんです。これ」

 ページを一つめくった先で指さされた物は、世にも珍しい「モツ肉ラーメン」だった。

「モツとラーメンが好きな人におすすめ」

「なるほど」

 そのまんますぎる理由だ。ぼくなら「モツ肉入りのラーメンって珍しくないですか?」みたいな勧め方にする。……けれどまぁ確かにそのメニューは魅力的な選択肢だった。

 昔、弟がモツを喉に詰まらせて嘔吐して以来、我が家ではモツ料理がタブーになっている。ホルモンを一人で焼いて一人で食べることはあるけれど、モツ鍋のように全員で食べることが半ば前提になっているメニューは永遠に封印されてしまった。そういう意味で、モツ肉は貴重である。

 それで結局、ぼくは素直にモツ肉ラーメンを注文した。

 しばらくしてから運ばれてきたそれは写真の印象よりも大盛りで、これはラーメンではなく鍋なのではないかと思えてくるほど具材の種類も量も豊富で、味も良かった。ただ一方で、麺の質まで〆のラーメンじみていたことだけは残念な印象として残った。

 とはいえ総評としては概ね好印象。エビチリもおいしかった。中華屋に訪れた際のノルマが如く注文した炒飯や餃子も文句なしの味で、一時の不安は見事に拭い去られることになった。

 満腹になりすぎて、このあとの買い物が極めて億劫になりながら、階段を下りて店を出ようとする。が、その前にトイレに行くことにした。スーパーの方にもトイレはあるけれど、そちらはあまり綺麗とはいえないから。

 中華屋のトイレはカウンター席を抜けた一番奥にあった。小綺麗に保たれた個室内には油絵が飾られていて、よく見るとその絵のモデルはこの店の外観だった。店主が描いたのかその身内が描いたのか、何にせよ愛があって良いことだと感心する。

 手洗い場は個室のすぐ外にある。その蛇口をひねることばかり考えながらトイレから出ると、ゼロ距離に順番待ちの人が立っていた。

 近すぎて「おわっ!」と声を上げそうになったところをギリギリ抑えて、無言でびびりながら次を譲ると、「あっ」という声と共に肩をたたかれる。

「ちょ、お兄さんお兄さん」

「え?」

 よく見るとその人は、二階で話しかけてきた例の女性客だった。

「やっと一人になってくれた。はい、これ私の連絡先」

「……は?」

「私、サキュバス。好きでしょ? 連絡してね。家族の人待ってるから、早く行った方がいいよ」

「え」

 何がなんだか分からないうちに、サキュバスを名乗った女性は個室の中へ入り、カチャンと鍵をかけた。彼女から手渡された紙切れを見てみると、いくつかの種類のSNSのIDが書き込まれていた。まるで手当り次第という風に。

 ぼくがこの場を去らない限り、個室の鍵は二度と開かないような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サキュバスとは、人と同じ姿をした人ならざる生き物である。十数年前に魔界と人間界を繋ぐ扉が開いて、彼女たちはそこからやって来た。そうして起きた人外や未知の世界との接触は、しかし人間社会に思ったほど大きな影響はもたらさなかった。……もとい、環境保全的な理念によって、従来の人間社会へ大きな影響を与えすぎないように、我々人間はすでに「向こう側」からコントロールされている。

 サキュバスの特徴は、全員が女性であること。不死身であること。寿命はあっても老いが無いこと。スーパーマンのような無茶苦茶なパワーを持っていること。下腹部に淫紋があること。寿命が人間の約五倍あること。そして何より、他者の性欲を原料に精製する魔力をエネルギー源として生きていること。

 要するに彼女らにとって性行為は食事も同然であり、彼女らから見た人間は、うっかりするとすぐ死ぬし、うっかりしなくても早々に老いて死ぬし、非力で、魔力を扱えない分技術力でも魔界に劣るが、性欲だけは十分にある。……と、そんな矮小かつ必要不可欠な存在なのである。

 人間は食べるために動物を殺すけれど、死んだ人間は性欲を抱かない以上、サキュバスは食べるために人間を生かさなければならない。それも上質な性欲は健康な人間からしか摂れないというのだから、ただ生かしておけばいいというわけでもない。彼女らがいったいどんな気持ちで、この社会に紛れ込んで暮らしているのか。上手く想像することは出来ないけれど、それ以前にぼくは、それらの知識を得た上でそもそもサキュバスの実在自体を疑っていた。何せ彼女らはおとなしくしていれば人間と見分けがつかない。情報ばかりは耳に入って来るけれど、実在をこの目で確かめられなければ、それはほとんど都市伝説と同じだと思っていた。

 そして今、その都市伝説への連絡先が手元にある。試しにLINEのIDを検索してみるとちゃんとアカウントが出てきた上に、アイコンには中華屋で見た彼女と同じ顔の女性が映っていた。

 表示されたアカウント名は「菅野愛佳」。LINEを本名で運用する人物は、陽キャか社会人のどちらかであると相場が決まっている。

 ただ、サキュバスの本名は本来横文字であり、日本人名は正体を隠すための偽名であるはずだ。

『こんにちは』

 とりあえずメッセージを送ってみる。

 ここからはたしてどのような詐欺が始まるのか……と警戒してみたけれど、五分程度待っても既読がつかなかったことで、ぼくは早々に考えるのをやめた。あの店で起きたことは、後半の方は夢だったのだと思うことにした。

 しかし、そうしてYouTubeで暇つぶしの動画を見始めてから数分が経った頃になって、幕のように垂れ下がった通知が動画の上半分を憎いタイミングで隠した。家族から何かしらの連絡でも入ったのかと思ったけれど、見るとそこに表示されている名前は「菅野愛佳」。

『返事遅れてごめん! 連絡ありがとう!』

 やけに愛想と勢いのいい一行目が、空白まみれのトーク画面に書き込まれていた。

 そして二行目には、数分前のぼくよりもさらに考えることを放棄しているかのような文章が続いた。

『連絡くれたってことは、私とエッチしたいと思ってくれたってことでいいのかな?』

 ……ぼくはYouTubeをタスクキルした。

 お粗末な詐欺師も似たようなノリの文面を寄越すことを、ぼくは不本意ながら知っている。けれどその手の詐欺師と顔を合わせたことはない。会えることがあるとも思っていない。……が、典型的に怪しすぎる文面に反して、あの中華屋で直接連絡先を手渡されたというイレギュラー要素が、今の状況に特別な凄味を持たせている。

 一世一代のチャンスが来たとは思わない。しかし生身の相手とやり取りしているのだという自覚は持って、返事を打つ。

『正直に言えばそうです』

『嬉しい〜ありがとう! あの店の近所だよね、いつ会える?』

『平日の昼間ならいつでも。近所というか、車で行く距離ですけど』

『全然そっちまで行くよ。いつでもっていうなら、今からは無理?』

『いけますけど』

『最寄りどこ?』

『〜〜駅です』

『30分で着く。今から行くね』

『待ってます』

 ……と、異様にテンポ良くやり取りをしてみたものの、現実感はなかった。それを噛み締めるにはあまりにも話が早く進みすぎている。

 まず現在の日付と時刻は、月曜日の午前十時半頃。主婦や夜勤帰りやその他諸々を除けば、ほとんどの人は学校や職場にいる時間である。仮に菅野愛佳が主婦として生活しているサキュバスだったとしても、この時間に連絡を寄越してきた上に、今日だけではなく「平日の昼間すべてがフリー」だという男のことは「ハズレ」として認識するのが常識だろう。

 ぼくにはそれを取り繕う気がない。自分が無職であるという事実は、誰かとある程度の交流を持つなら隠しようがないことだから。サキュバスと一度きりのセックスにありつくまでの間なら隠し通すことも可能なのかもしれないけれど、そういう刹那的なセックスに、ぼくはあまり価値を感じられない。

 ぼくのことをハズレとして認識する相手は、ぼくにとってもハズレである。……強がりではなく心からそう思っている。ただし強がりではないからこそ、世間一般から見れば「ハズレの人間」はぼくの方だけで、相手は全くそうではないということも理解している。主観と客観の違いとはそういう物で、どちらか一方だけがあればいいというものではない。

 そういう思想が根にあるから、仮に菅野愛佳の返信がここで永久に途絶えたところで、ぼくはべつに構わないと思っていた。というか、そうなるのが常識だろうと思っていた。ダメで元々というやつだ。

『ついたよ』

 約三十分後、YouTubeの画面が再び通知に隠されたことで、ぼくは自分が無傷ではいられなくなったことを自覚した。

 期待して落とされた時にショックを受ける心は自分にもある。そういった精神的位置エネルギーが、無傷では済まないところにまで乗せられてしまった。嫌だなぁ……と思いながらも、返信をしないという選択肢はなくなる。

『バスロータリーと逆側の出口にある階段の傍に来たら写真を送ってください。迎えに行きます』

『わかった』

 五分もしないうちに、指定通りの場所から写真が送られてきた。内カメラによる自撮りだった。サキュバス相手に思っても仕方がないことなのかもしれないけど、容姿に自信のある人はいいなぁと思った。

『今から行きます。五分くらいで着きます』

 最寄り駅までは自転車で急げば五分かからない。ロクに乗らない引きこもり用の自転車のタイヤには空気がやや不足していたけれど、気にしないフリをしてペダルを漕いだ。

 高低差のある地形の階段の上、駅の出入口を見下ろす格好になるその位置に、見覚えのある女性が立っていた。初対面の時はどのタイミングでも気が動転していたから、画面を介さない生身の状態ではその時初めてちゃんと彼女の顔を見た気がした。

 生で改めて見る彼女の容姿は、高校時代に一度も話さなかった同級生に似ていた。

「やっほー。来たね」

「どうも。来ました」

 まるで親しい間柄であるかのように軽い挨拶だけを交わして、まるでこちらの家の場所を知っているかのように歩き出した彼女につられて、自転車を押して歩く。

 駅が近いだけあって、周囲にはサラリーマン風の男が汗を拭きながら歩く姿や、幼児用の座席を取り付けたママチャリでスーパーのある方向へと走っていく主婦の姿などがちらほら見えた。

 太陽は頭上に燦然と輝き、散歩をするにはいささか暑すぎる。……あるいは人の道に背くぼくのような者を焼き殺そうとしているのかもしれない。

「場所どこにする?」

「あー、家がすぐそこですよ」

「家族の人帰ってこない?」

「まぁ、ほぼ」

「ほぼかぁ。……ね、さっき調べたけど、向こうの大通りを行ったところにホテルあるよね」

「ありますね」

「お金出すから行こうよ」

「……歩くと結構かかりますよ」

「二人乗り嫌い?」

「下手くそで出来ないんです」

「私が漕ごうか」

「…………」

「よし分かった。家でいいよ」

 菅野愛佳は、人の心を察する速度も判断その物も異様に早かった。

 ぼくは自転車の二人乗りが苦手だ。実行するたびに、今にも車輪に足を挟むのではないかと生きた心地がしなくなるから。運転手としてはバランス感覚がないせいでもっとダメだ。あげくに通りすがりのお巡りに怒られるリスクまで沸くとなれば、気が進む要素が一つもない。

 反対に、万に一つも親が帰ってくることはない……とまでは言いきれない実家に人を上げることには、そこまでの苦手意識がなかった。特に合理的な理由はなく、単に精神の向き不向きの問題なのだと思う。

 誰もいない家にサキュバスを上げる。一応靴を持って上がってくれないかと言おうとした時には、すでに彼女は脱いだ靴の底同士をぶつけ合わせるようにして砂をはたいていた。サキュバスとは、このようなシチュエーションにも慣れているものなのかもしれない。

 リビングは一階に、自室は二階にある。ぼくは彼女を自室に通した。万が一家族が帰ってきた場合は、リアル版メタルギアソリッドを成功させることでのみ家族会議を回避することができる。

 さっきまでずっとリビングの方で生活していたから、自室の冷房は客を招き入れてから起動する。事前にそれくらい気を利かせておけというのは、とち狂ったテンポの経緯からすれば無茶ぶりという物だろうと、虚空に向かって内心で言い訳をする。

 よく見ると、不死身のサキュバスは、道中でそもそも汗一つかいていないようだった。

「……で、なにする?」

 一切の遠慮なくベッドに腰を下ろした彼女が言う。

 彼女の足元を見て、あぁそういえば、ゴミ箱の中のティッシュも片付け忘れたなと思い出した。

「……逆に、何ならさせてくれるんですか?」

「なんでも」

「なんでも?」

「うん」

「……同じこと言った女性を秒で前言撤回させたことがありますよ」

「知ってる」

「…………知ってる?」

「うん」

 立ち尽くすぼくの眼前で、我が物顔でベッドを占領するサキュバスは得意げに微笑んだ。

 ……今がどういう状況なのか、具体的なことは何も分からない。けれどただ一つだけ、今のやり取りを通して合点がいった。

 菅野愛佳というこのサキュバスはどこかがイカれている……と思ってはいたけれど、正確にはきっと、おかしいのは彼女自身ではなく、ぼくと彼女の間にある何かしらの前提の方が狂っているのだ。中華屋で偶然知り合っただけの相手がぼくの過去など知っているはずもないのに、彼女の態度が単なるブラフとは思えない。彼女は本当に、なぜか、ぼくのことを知っているのではないか?

 だとすれば、ぼくに接触してきた目的は何なのだろう? 連絡先を渡された時に言われた「やっと一人になってくれた」という台詞が脳内にリフレインする。……もしかしてぼくは今日ここで死ぬのだろうか? ぼくは、今だってこの場に一人だ。

「……本当に知ってるんですか?」

「知ってるよ。君が高校生の頃、元カノに何をしたのか」

「何をしましたっけ」

「爪詰(つまづめ)くんの性奴隷になりたいって言い出した当時の恋人に、疲れたって言われても無理やりフェラを続けさせたら、やっぱり奴隷じゃなくて恋人がいいって前言撤回されたんだよね? 君はそれにちょっとがっかりしてた」

「…………」

「で、今、私のことをめちゃくちゃ警戒してるでしょ。さっきまではそうでもなかったのに」

「……元カノの知り合いとかですか?」

「んー、違うよ?」

 LINEに登録していない本名を言い当て、万人に当てはまるはずもない過去を正確に言い当て、ついでに警戒心まで読み取った彼女は、しかしもうあまり得意げな顔はしていなかった。

 狭い部屋の中に、エアコンから供給される冷えた空気があっという間に行き渡る。ぼく自身が点けた、彼女をここに長居させるための冷気が緊張を包みこむ。

 菅野愛佳は、その緊張感をほどくように自嘲めいて笑った。

「私は人の心が読めるだけ。サキュバスが魔法を使えるって話、聞いたことない?」

「…………あぁ、心を。なるほど?」

 だからぼくの知っていることを……特に今この場で思い浮かべたことを、彼女も知っているていで話せたのか。

 その種明かしに、正直心底ホッとした。

 自分の人生は、過去から追ってきた女性に刺されるという結末が無いとは言いきれない物だと常々思っていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、屈折した人の性欲が好きなんだよね」

 ベッドに腰かけたままのサキュバスが、出方を窺うような上目遣いで語りだす。

「爪詰くん、ニートでしょ? しかも性欲過多なサディスト。他人のことを常に見下してる人嫌いで、でも能力的にもメンタル的にも一人じゃ生きていけないことを自覚してる。いい歳して自立できてないことの罪悪感は時々思い出す程度で、女の子について考えてることの方が多い」

「……心が読めたとして、一瞬でそこまで分かります?」

「分かるよ。私の魔法は特別だから。誰の心でも読めるわけじゃないかわりに、読める人のはとことん読める」

「はぁ……」

 サキュバスの使う魔法が異能力バトルの典型みたいな性質をしているのかは知らないけれど。少年漫画的な考え方をするなら、魔法には大きく分けて「広く浅く」と「狭く深く」の二種類があるのかもしれない。心を読むに至るまでの条件を厳しく絞れば絞るほど、いざその条件を満たした時に、素早く正確に多くのことを読み取れるだとか。

 仮にそうなのだとすれば、その「条件」とはなんだったのだろう? まさか対象がニートであることか? 屈折した性欲が好きだと豪語するサキュバスなら、そういう魔法を持っていてもおかしくはない。

 仮にそうだとすれば、人のことを悪く言えるほど、この人はいい趣味をしているのかな……。と、ジトっとした視線を送ってみるけれど、考えてみればその思考は視線を介するまでもなく相手に読み取られてしまう物だった。

 しかし目の前の彼女……菅野愛佳は、読み取ったはずのそれを気にもとめない。

「中華屋の階段を上る時、足腰の悪い祖父母の歩みの遅さにイライラしてたね。店員さんに注文を伝える時は、メニューを指さしながら伝えれば誤解なく速やかに伝わるのに、そうしない家族にもイライラしてた。モツ肉ラーメンが他のラーメンに比べて割高なことを最後まで気にしてたのは無職の負い目でしょ? イライラしてる時にはそういうのずっと忘れてるのに」

「…………」

「二階に上がってきた時、私と友達の姿を見て、ちょっと嬉しくなってたでしょ。若い女の子は視界に入るだけで嬉しいもんね。話しかけられた時は、危ない人だと思うより先に「声がかわいい」とか「いい匂いがする」とかって気持ちが先行してたね。でもそれと同時に、家族から「変な女への対応」を見られてることに緊張してた。それから」

「いやもういいです」

 なるほど、とにかく彼女の魔法が危険な物であることは分かった。そしてその魔法で読み取った物(つまりカスの本性)を踏まえた上で、それでぼくに連絡先を渡すことを選んだ彼女自身の性格もまた、かなりイカれている。

 ……と、悪口みたいな思考がよぎっても、読み取っているはずの相手はそれを気にするそぶりを見せない。この期に及んで「条件を外れて今のは読み取られなかったのでは」と考えるよりは、きっと菅野愛佳はそういう性格なのだと思った方が現実的だろう。

 彼女の魔法は確かにぼくの心・思考を読み取っている。その上そんな魔法がなくても、サキュバスとは元々近場にいる他人の性欲を察知する生き物だ。下心や欲求不満の気があればすぐにバレる。あの「ちょっと嬉しくなった時」からすでに、ぼくは彼女のお眼鏡にかなっていたのかもしれない。

 ……いやしかし、それにしてはおかしなことがある。

「あれ? でもそれだと、中華屋の時点でぼくの性癖までバレるはずは……」

「そうだね。爪詰くんは家族といる時にもエロサイトを閲覧するくらい常に大きな性欲を抱えてるみたいだけど、女の子を見た瞬間に具体的なプレイまでを考えるタイプではないっぽい」

「じゃあなんで」

「それはほら、君がさっき自分から元カノのことを考えたから」

「…………えっ。じゃあそれで初めてぼくの趣味を知ったんですか? 今さっき、ここで?」

「うん」

「連絡先を渡してくれた時じゃなくて?」

「そう」

「……そんなことあります? 心を読める人の行動として」

「言ったでしょ、屈折した性欲が好きって。私べつにSでもMでもどっちもいけるし」

「えぇ……」

 この男は屈折した性格のスケベ野郎だ! と判断した瞬間に連絡先を渡し、相手の性的趣向を推し量る間も要さずに呼び出され次第すぐ馳せ参じる。……いくらサキュバスでもそんなとち狂った人物がいるわけないと、数秒前までぼくは思っていたのに。

 こちらとしてもなんとなく、まぁ嫌われない程度に性癖を開示して、あるいは隠して、いい思いが出来ればいいかなと考えてはいた。相手の許容範囲がどのくらいかはぶっつけ本番で確かめればいいだろうとか、サキュバスなのだから狭量ではあるまいと期待はしていたけれど、そういった前のめりな精神をいざ「向けられる側」になってみれば、なるほど困惑せずにはいられない。ぼくは少し自身の行いを反省した。

 けれどそんな反省は、自身を省みるそぶりのないサキュバスを眼前にした状況では、どこか虚しく感じられる物でしかない。

「……で? 爪詰くんは、私にどんなことしたいの?」

「え」

「なにしてもいいよ?」

「なにしてもって……」

 ……あっ。

 と思った時には、もう遅い。

 彼女の言葉を聞いて、ぼくはいくつかの選択肢を脳内に思い浮かべてしまった。しかもそこには、過去の性行為にまつわる成功や失敗の体験談も含まれている。あの時やったあれは気持ちよかった、一方でこれを試みたのはいくらなんでもまずかった……だとか。そんな思考のすべてが、菅野愛佳に読み取られてしまう。

 跪いて、ズボンに付いているベルト代わりの紐に手をかけながら、彼女は意地の悪い笑みを浮かべた。

「そっかそっか♡ 爪詰くんは口でされるのが好きなんだね♡」

 魔法がなくても分かる。その言葉には言外に、「だからただ健気な好意を伝えたかっただけの元カノにあんな仕打ちをしたんだ……」という詰りが含まれていた。

 そしてすべてを理解している彼女は、物を一息に根元まで飲み込んで、嗚咽を上げながら背中を丸めて見せた。

 ぼくはイラマチオで苦しんでいる女性を見るのが好きだ。

 

 

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