SOS はらわた喰いの悪魔(Sadistic-Offal-Succubus) 作:氷菓くん
ぼくは自分に一つ嘘をついた。丼を置く位置で口論が起こったのは、報連相の不足によって「確率で起きたこと」ではない。ぼくは百回同じ状況になれば、百回とも父の席に丼を置く。仲良し家族にあって上座下座を意識したことはない(そもそも両親はその概念自体教えてくれなかった)けれど、しかしそれと似た理屈によって、「そういう順序」は、父こそが最優先にされるべきだとぼくが思っているからだ。
親子喧嘩から明けた月曜日。家で一人になったぼくは、ジェスクヤを呼び出すことに躊躇いを覚えた。今彼女に会えば、きっとほぼ確実に八つ当たりをしてしまう。サディズムを満たすために暴力を振るうことも大概だけれど、親子喧嘩に何の関係もない相手に向かってその八つ当たりをするのはもっとひどい。サディズムの発散は、少なくともその場その瞬間では楽しいと感じられることだけれど、八つ当たりにはきっとそれすらないから。
けれど結局、ぼくは彼女を呼ぶことにした。よくよく考えてみれば、仮に今日一日を自粛したとしても、それで何が変わる見込みもなかったからだ。明日のぼくだって今日と大差なく父のことを許さないだろうし、明後日のぼくもきっとそう。ではいつになれば昨日のことがぼくの中で風化するのか? 見当もつかない。今日の気分を理由にジェスクヤと会うことを避けるなら……それを徹底するなら、それはほとんど彼女との決別を意味することになってしまう。あるいはどこかで気が変わって、それまでの自粛の意味を無に帰してしまうか。
どうせ無に帰すなら、今日そうしてしまえばいい。ぼくは彼女を誘う時、「ちょっと嫌なことがあったから八つ当たりしたらごめん」とだけ伝えた。彼女からはぼくの期待通り、「好きなだけしていいよ」と返事があった。
玄関に入ってぼくの顔を見た彼女は、一瞬目を見開いた。きっと心を読む魔法で事の全容を知ったのだろう。そこには珍しく素の驚きが浮かんでいたように思う。なんだろう、爪詰くんってキレた時の喋り方そんな感じなんだ……とか、そういう感想だろうか。
「わっ」
自室へ向かおうと彼女に背を向けた瞬間、ぼくは後ろから抱きしめられた。そういえばいつも向かい合って「おいで」をされていたから新鮮だな……と、妙に冷静に思う。
玄関から階段までの動線はリビングを経由しない。冷房のないその場では本来、抱きつかれれば相手の体温をじっとりと不快な物に感じていたかもしれない。……けれど触れたジェスクヤの肌は、冷感ジェルのようにひんやりと冷たかった。それがサキュバス流の暑さ対策なのかもしれないし、もしかすると、ただぼくに抱きつくために気を遣ってくれた結果だったのかもしれない。
「……つらかったね」
「……べつに。父は昔からあんな感じですよ」
「だからつらいんでしょ」
「たぶんそこらの家庭よりマシですよ」
ぼくの父の知性は、真面目に会話をするには値しない物だ。けれど一方で、それがこのクソみたいな世の中では上澄みに当たることもぼくは知っている。
大抵の人には、成長のそぶりがないニートと「仲は良い家庭」なんて物をまず築けない。真面目な話の主張の質以前に、そもそも「対話をしよう」という姿勢を取ることすら至難だろう。けれど父はそれをあっさりとやってのける。その点については素直に感心するし、感謝している。ぼくが「ぼくの幸せは今だ」と豪語できるのは、父と母が親として上澄みであってくれるおかげだ。もし二人がそうでなかったら、ぼくの幸せはこの世のどこにもなくなってしまうところだった。
……でも、足りない。上澄みというだけではまだ足りない。人間の落ち度というものは、たった一つでも致命的になることがある。両親に対する「感謝や尊敬」と「軽蔑」はまったく矛盾しない。そこがまた、お互いにつらいところだった。
「
ジェスクヤの手がぼくの頬に伸ばされる。冷たい手なのに、不思議と死人を連想させることはない。
「他の家庭なんて関係ないでしょ? 爪詰くんはつらいんだから」
「…………」
「お部屋に行ったら、ちゃんとお話聞きたいな。もちろんエッチしてからでもいいけど」
「……どっちでもいいですよ」
「じゃあ、先につらい気持ち吐き出しちゃおっか」
抱擁が解かれて、彼女がぼくの手を握る。さっき頬に触れた冷感はもうそこになく、人肌の温かさが伝わってきて、手のひらに少し汗がにじむ感触があった。
人気のないバス停に座ったカップルみたいに、ぼくたちは手を繋いだままベッドに腰かける。ギシリと軋むマットレスの音が、ぼくは実はあまり好きではない。……以前それがジェスクヤにバレて、「お前みたいな女は床で十分」と、思いついてしまった台詞を言いながらセックスしたことを思い出す。
普通、相手に心を読まれていると分かっていたら。真面目な話をしようという時にそんなことを思い出していることがバレるとなれば、焦らずにはいられなくなるのだろう。でも、ジェスクヤ相手にはそうならなくていい。ぼくが内心に薄らとでも罪悪感を抱いた時、彼女の方を見ると、そこには必ず全てを見透かしたような微笑みがあるから。
彼女は、その微笑みを浮かべたままで言う。
「ね、今からでもお父さんのことぶん殴りに行こうか」
「えっ。嫌だ」
「なんでー」
「……馬鹿は殴っても治らないから?」
「あはっ。そうだね、角を立てる価値ないね」
きっと「行きたい」といえば本当に連れて行ってくれただろうサキュバスが、ぼくのすぐ隣でくすくす笑っている。彼女はぼくを導けると思い上がることもなければ、事の重要度を測り違えることもない。面白い冗談を聞いたみたいに笑いながら、目の奥に真剣さを残している。
「爪詰くん、自分より頭の悪い人本当に嫌いだもんね」
自分は嫌われていないという確信を持ちながらそう言える彼女のことが、ぼくは好きだ。彼女に対してなら、真剣に会話をする価値があると思える。
ジェスクヤの上手いところは、真剣な話を聞く時にも、癇に障らない範囲で冗談めかすことが上手いことだった。「自分より頭の悪い人が嫌い」というこじれた思想を指摘する時も、過去にはぼくから謝罪の言葉を引き出した時も。やっていることは繊細なのに、それを感じさせない良い意味での軽さを纏っている。
おかげでぼくはいつも、口を滑らせるようにして彼女に本心を語れる。
「頭の良し悪しって何なのか、よく分からないですけどね。ぼくテストで250点に届いたことないし」
「知ってる。勉強してないからでしょ〜本気出したら出来るくせに〜……ってコメントが、的外れなことも」 「さすが」
「不思議だよね。話してたら賢い感じするのに」
「そうなんですよね。逆に、まともに会話のなりたたない人間が社会の歯車として立派にやってたり」
「爪詰くんのこと傷つけた人間がのうのうと生きてたりね」
「…………まぁそりゃ、それは大したことじゃないですから」
「そうかな」
「人を傷つけないことの方が難しいですよ。元々人間はそういうもので、ぼくは特に厄介なタイプでしょうし」
「どうしてそう思うの? どんなこと言われて傷ついたの?」
「……ジェスクヤさんって本当に、そういうの言わせるの好きですよね」
「うん、好き。それが大事って、爪詰くんも分かってるでしょ?」
「……まぁ」
「言って、すっきりして、気持ちよくならないと。お腹の中に溜め込んだっていいことないよ」
「お腹……」
かつて父は、心は胸にあると言った。ぼくは、心は脳にあると言った。父はそれを「屁理屈だ」と鼻で笑った。人間に自由意志はあるのか、ぼくの不出来は本当にぼくの責任なのか……という口論をしている時のことだった。
父は自由意志を「あるに決まっている」と断言した。ない可能性について論じる人間がまともな者の中にいるわけがないという態度だった。そして「論文か何かにもしそういう話が本当にあったら、その時は謝ってやるよ」とキルミーベイベーみたいなことを言い残して、翌朝、先に朝食を食べていたぼくに寝起きのしょぼくれた声で「悪かったな」と言った。きちんと調べたことと謝罪してくれたことは立派とはいえ、根拠なき断言のあとではそれも霞む。あれは父がぼくに哲学を語る権利を失った瞬間だった。自由意志の有無を論じる時に胸を指す人間の程度などそんな物だと思った。
しかし、今度は腹。ジェスクヤは、鬱憤は腹に溜まるのだと言う。鬱憤……もとい、怒り、悲しみ、トラウマ、呵責。あらゆるネガティブな感情は、腹に溜まる物だと。
胸の件とは一転して、ぼくはその腹に溜まるという感覚が分かるような気がした。なんとなくそれらの感情は、脳で回す正規の思考とは別枠に存在しているような感覚があるのだ。
……胸に心があると感じることも同じだったのだろうか? 父にとって、それは思考と別枠にあると感じる物だったのだろうか。ぼくにはその感覚が分からない。「溜まる物」は腹にあっても、「感じる物」は脳にしかないから。
大体、そもそも、あの父親に。思考なんて上等な物は本当に備わっているのだろうか?
「……今朝、朝ご飯を食べた時。最初、コップが出てなかったんです。箸とか皿とかはあるのに」
「うん」
「それでぼくは、人数分のコップを出して、お茶を注いだんです。父は「サンキュ」って言ってました。……いつも通りの、すごく日常的な、どうでもいいようなやり取りだった」
「うん」
「……けどぼくは、どういう気持ちでそういう暮らしをしたらいいのか? 昨日の今日だと分からなくて」
「全然働いてないって言われちゃったもんね」
「そう、だから、なんか言われて切り替えたみたいじゃないですか。やってることはいつも通りなのに。なんか変な感じするでしょ。当てつけっぽいというか」
「うんうん。分かる、気まずいよね」
「なんでこんなことで気まずくならなきゃいけないんだって……! 父も同じことを感じて今頃後悔してるのか。それともそんな思考がよぎりもしないのか。どっちとも断言できないことがそもそも不快だし……」
「そうだね。そういうのを、信頼できないっていうのもつらいね」
「……まぁでもべつにつらくはないですよ。些細なことだから」
「ううん、そんなことない。……ね、他にもつらいことあった? 最近のことじゃなくても話していいよ?」
「最近じゃないこと……?」
「爪詰くんが今まで誰にも言えなかったこと、せっかくだから私に全部吐き出しちゃいな」
そう言われると、きっと自分の頭の中には勝手に溢れ出る。時系列を考慮せずに並んだ、あの手この手の恨みつらみ。トラウマ。生涯許せないこと。
いや、そもそもぼくは生まれてこの方、人を許したことなんて一度もない。思い出すまでの間忘れるか、あるいは不問にするだけだ。今はその話を出すのはやめておこうという処置を、膨大な規模で行うだけ。人はそれを許しと呼ぶのかもしれないけれど、ぼくはそれを許しとは思わない。「絶対に許さない」という気持ちは、不問にしている最中にもきっと深層心理に燃えていて、ぼくは時々その熱を思い出す。
誰にも言えなかったことなのかどうかは分からない。十代の頃にスクールカウンセラーの先生にでも話したことがあったかもしれない。けれどジェスクヤはきっと、そのあたりの正確さは重視しないだろう。むしろべつに、あらゆる人へ飽きるほど話してきたことであっても、何も言わずに聞いてくれるはずだ。
記憶は、小学校の図書室の前まで遡る。
「……小学生の頃、母がぼくに言ったんです。そんなことだと腫れ物扱いされちゃうよって。たぶん図書室の前だったと思うんですけど、よく覚えてなくて。オバマが大統領だったんです。なんかそれだけ覚えてて。たぶん別室登校みたいなノリで図書室に行って、何かトラブったんじゃないですかね」
「うん」
「それで、ぼくはその時思ったんです。え、じゃあそうなった方がいいじゃんって。腫れ物扱いが特別扱いで、みんながぼくのご機嫌取りをしてくれるなら、その方がいいじゃんって。なんでそれをダメみたいに言うんだろう、「人として」みたいな話は分かるけど、でもそれって、特別扱いされることよりそんなに重要?って」
「そっか。爪詰くんはその頃から、みんなと同じ風にしたい、普通になりたい……みたいな気持ちはなかったんだ?」
「全然なかった! それで、歳を重ねるにつれて段々分かっていった。あぁ「腫れ物扱いされたい」って相当クズな思想なんだなって。大抵の人はそんなこと思わないんだなって。特別扱いを夢見ることは誰しもあっても、心からそれを望んだりはしないっていうか、精神を患ってる人たちですら普通になりたいって人が多数派で。あぁ俺クズなんだなって。……オカンはあの時、ぼくにぼくがクズであることを突きつけてきたんだなって。腫れ物扱いされたがる子はいらないって」
「いらないなんて……。そこまでは言ってないんじゃないかな」
「分かってますよ、そんなの全然。ぼくが今と同じ話をしたら、母は「そんなことない。それならそれで受け入れる」みたいなこと言ってくれますよたぶん、優しいし。でもだから何なんです? それで過去の発言が消えるわけじゃない。あの人はあの時、「普通じゃない人」のことを軽蔑した。本人の目の前で! 不登校の小学生が普通じゃないことくらい、想像できないものですか……?」
「……さぁ、どうなんだろう。爪詰くんや私は想像できるだろうけど、それはきっと、お互いが普通じゃないからなんだろうし……」
うんうんそうだね、それはお母さんが悪いね。今からでもぶん殴りに行こう! ……ジェスクヤならそういうことだって言えたはずなのに、彼女は安易にそうしなかった。きっとぼくが会話に知性を重んじていることを……特に今日はいつにも増してそうであろうことを、察していたからだ。
彼女はまだぼくと薄ら手を繋いだまま、余った方の腕で体ごと向き直ってぼくのことを抱きしめる。ぽんぽんと背中を叩く、赤子にするみたいに。あるいは、膝を擦りむいて泣いている子どもにするみたいに。
腫れ物扱いと同様に。そこに知性があるなら、ぼくは子ども扱いのことも嫌いではなかった。
「でもつらかったんだね。いっぱい伝わってきたよ。爪詰くんは、ずっとずっとつらかったんだね」
「……どうなんでしょう。今こうしている間にもひぃこら苦しみながら働いてる同年代より、幸せに生きている気もしますけど」
「ううん、そんなことない。そんなことないし、比べる必要もないよ。爪詰くんはつらいの。心を読んだ私が言うんだから間違いない」
「……それは魔法が卑怯だなぁ」
だって本人の心だもの。そりゃあ本人を贔屓した声で叫びもする。つらいよって。
普通の人相手なら、今の話に対してつらかったねよしよしと慰めて、それでひと段落する。けれどジェスクヤは心を読める分、その向こう側を見逃そうとしない。
まだあるんでしょ? 全部吐き出していいよ。……そんな言葉を、相手の負担にならないギリギリのラインを狙って紡げるのは彼女だけだ。心を読む魔法がなければ、無理に話を引き出すところまで行ってしまうか、どれか一つくらいは絶対に取りこぼす。そういうジレンマと無縁なのがジェスクヤの魔法だった。
ぼくは目立つ範囲の「許せないこと」を全て話した。
小学校で飼育係に任命された自分が登校拒否の衝動と動物の世話との板挟みになった時、それでも行きたくない気持ちはどうすればいいのかと聞いたら、母が「どうも何も、その日は動物がひもじい思いをするだけでしょ」とニヒリズム気取りに言ったこと。ぼくの良心を人質に取ったその発言を、ぼくは生涯絶対に許さない。ぼくが休めば他の誰かが、大人でも、動物の世話をすればいいだけの話で、「他人に不当に負担をかけてしまうぼくの責任」と「それを受け付けないことを選ぶ他人の責任」は別物だ。動物がひもじい思いをする責任を全てぼくの物にしていいはずがない。あの物言いは絶対に許さない。ぼくはあれ以来決めたんだ、良心を人質に取る人間のことだけは絶対に許さない、屈しないと。
父が当時のぼくの「「人の気持ちも考えろ」と「俺の身にもなれ」に違いはあるのか?」という質問に対してまともに答えなかったことも許さない。あの人は同じように「協調性と多数決は何が違うの。少数派は常に多数派に合わせるしかないの?」に対してもまともに答えなかった。幸いにもぼくはそれに対する建設的な答えを大人になってから自力でみつけたけれど、だからこそ許せない。ぼくはその答えを父から聞きたかった。
高校の頃の彼女に、昼食の弁当を食べそびれたことを親に言いづらいからそっちの家で食べてもいいかと聞いた時、なぜ食べなかったのと聞かれて、本当は「なんだか食べる気分になれなかったから」が答えだったけどそれでは心配をかけるかと思い、「ゲームをしていたら昼休みが終わってた」と答えると、彼女はそれを信じて怒った。なんでそんな馬鹿なことをするのよと、ぼくの気も知らずに怒った。それが今でも許せない。こっちの気持ちに気づいてくれなかったことが許せないのではなく、「あとで困ることが分かりきっているのに、そういう馬鹿な選択をすることが平常運転の人物だ」と彼女に思われていたことが許せないのだ。だからぼくはそれ以来、人のために嘘をつくことをやめた。嘘は自分のためだけの物にすると決めた。
他にも、ぼくの射精障害に理解を示さなかった全ての異性。「君の人生の主人公は君なんだぞ」と当たり前にも程があることを舐め腐ってぼくに語った教師。娘を虐待していた元カノの父親。自分の父親の「お前病気か?」だの「育て方を間違った」だの、それが自分の落ち度だとは少しも思っていないそぶりから出てくる発言。ぼくのことを「何も考えてない」と評したあげく、別の人と全然関係ないことで揉めてフェードアウトしていった中学の友達。陰謀論やフェイクニュースを真に受ける巷のアホ共。哲学的思考のテの字もない全ての短絡的な人間。子どもを不幸にしたあらゆる親。……どれ一つとして許せない。この世のほとんどは、二度と許せないもので構成されている。
だけど、さすがにぼくも分かってる。どうして色々な人がぼくに舐め腐った言葉を向けてくるのか。それは、ぼくが「それを向けるに値する人間に見える」からだ。ぼくは「実際はそうじゃないのに」と勝手に怒るけれど、でも実際がどうか以前に、見えるものは見える。その「そう見える」という点がぼくの落ち度であるとは全く言えないのかといえば、そんなはずもない。かなりの割合がぼくの落ち度であるに決まっている。
腫れ物扱いされたいと感じたあの日からじわじわと、ぼくは自分が宇宙人であるような気がしている。この地球は「普通になりたい人」の星で、ぼくはそこに紛れ込んでしまった。みんなそれが分かっているから、宇宙人に向けた対応を取る。その対応とは「腫れ物扱い」などではなく「人を舐め腐ること」で、ぼくは知性を重んじているけれど、この星の原住民はそうではない。
歳をとるほど、何かにつけてよく思う。ぼくは生まれてくる星を間違えた。
「……大丈夫だよ。私がいるから、大丈夫。爪詰くんには私がいるからね。……本当につらかったね。思い出せる範囲のこと、ちゃんと全部話してくれてありがとう」
魔界という、まさしく別の世界から来た存在であるサキュバスに、そうやって抱きしめられて。しかしぼくは、もう泣けたりはしなかった。どうしてだろう、感動よりも遥かに早く、「やりきった」という思いが心を満たしていた。ネガティブな過去話をこんなに一気に吐き出し続けたのは初めてだった。
ジェスクヤがぼくの唇に軽くキスをして、そのままベッドに押し倒してくる。普通の女性の力ではないものでそうされたのか、自分の体が羽のように軽く感じた。
部屋の光源は窓から差し込む光だけで足りていて、見上げた彼女の頭上には、暗く眠ったままの照明が見える。
「……今日はもう、エッチする気分じゃなくなっちゃったかな?」
困った風な笑顔で問いかけられて、その時にはもう、心の中に答えが出てしまう。しかもそれは、単なるイエス・ノーの形をしているとは限らない。
ぼくの答えはイフで分岐していた。ある条件を満たさないなら、確かに今日はもう気分ではない。しかしその条件を満たすなら……という具合に。
ジェスクヤは、ぼくから押し倒された時とまったく同じ恍惚の笑みを浮かべて、今日はいつもと反対の、見下ろす側の視点を楽しんでいるように見えた。
「……あ、あのね、爪詰くん。その、私が前に、爪詰くんみたいな性格の男の子が好きって言った話、覚えてる……?」
慎ましげな口調に反して、彼女の息は荒い。
「覚えてる」
「あ、あの話っ、あの話はね? その、私はほら、サキュバスだから。男の子に対して感じる「好き」がどういう意味なのかって、ね……? 爪詰くん、分かってくれる……?」
「どういう意味なの?」
「…………絶対嫌な気持ちにさせるから。本当に、本当にごめんなさいなんだけど……」
「うん」
「……さっきの爪詰くんの話を聞いて、私、その、もっと好きになっちゃったっていうか。爪詰くんのこと可哀想、助けてあげたい、全部受け入れてあげたいって思ったのは本当なのに、いつも思ってるのに、大事にしなきゃって思ってるのに。……でも、その」
「ムラムラしちゃったの?」
「……っ!」
一瞬ギュッと引き結ばれた彼女の口元が、隠しきれずにじわじわと口角を上げていく。ぼくたちが似た者同士であることを彼女はとっくに魔法で察知していて、嫌われるかもしれないだなんてそんなこと、本当は思ってもいないくせに。だからこそ気兼ねなく、その態度が魅力的に映る。
ぼくも彼女が今抱えている感覚を知っている。インターネットで自分と波長の合う異性と知り合っていけばそのうち起こることだ。自分のことを信頼してくれた相手が、つらい性被害の過去を打ち明けてくれる時。ぼくは今の彼女と大体同じ心境になる。
社会不適合者の不適合たる所以に興奮するとは、彼女もなかなか、ぼくですら理解の及ばないド変態であると言える。
「ごめんね、爪詰くん、ごめんね……。……い、いいかな? ダメ……?」
今にも理性を失いそうにわなわなと口元をふるわせて、彼女がぼくに同意を求めてくる。答えはとっくに知っているくせに、言葉にすることを重視する。
ぼくが最初にパッと思い浮かべたイフ条件は、「そっちがしたいなら歓迎」だった。なにせ自分に優しい美女から性行為を求められることは、ネガティブな話をしたあとでもお構い無しに、男として気分がいい。ぼくは彼女から押し倒された時点でそれを期待していた。そしてそこから出てきた物は、期待以上だった。
「そっちがしたいようにしていいよ」
そうはっきりと許可を出すと、さっそく彼女は下の方を脱がせにかかった。「失礼します♡」なんて言って、しゃぶり慣れたそれを一気に喉まで咥えこんでくる。
彼女の視点からは、ぼくのことが「ムラムラしちゃいけない場面ですることを許してくれる人」に見えているのだろうか。……だとすればそれは普段のぼくが、彼女から受け取っている安心感その物だ。恩返しが出来たようで嬉しく思うと同時に、優越感のような物を感じる。呼吸を荒くしてありがたそうに奉仕をする彼女の姿は、ぼくのような男の様々な欲を満たしてくれるものだった。
けれど射精感が込み上げてくるよりも早く、彼女は口での奉仕を打ち切ってしまう。そして自分も服を脱ぎ、あらわになった割れ目に肉棒をあてがう。
隠しきれない背徳感と共にこちらを見下ろしてくる彼女には、これまでにない性の迫力があった。
「あっ♡ あっ♡ あはは、あはっ……♡ 爪詰くんっ、爪詰くんっ♡」
彼女はぼくの上で嬉しそうに腰を振りながら、何度もぼくの名前を呼ぶ。そして拒否する猶予を与えるかのようにゆっくりと口元まで迫っては、拒否するそぶりを見せなかったぼくにキスをする。初めは機嫌を伺うようにつつましく伸びてきた舌が、そのうち無遠慮に唾液を送り込んでくるようになる。
彼女とキスをすると、いつもお日様の匂いがする。抱きついた時もそうだけれど、キスの時はそれ以上だ。その匂いは、かつてまだ自分が宇宙人だと思いもしなかった頃、ひらがなの書き方も分からなかった頃の自分が体験していた世界を彷彿とさせる。……ぼくの幸せが今だというのは嘘で、本当の幸せはあの頃にあったような気もする。
ただその一方で、今には今しかない幸せもある。キスを終えた彼女の表情には、夜のネオンが似合いそうだった。
「……爪詰くん、あのね。一度でいいからやってみたかったことというか、言ってみたかったことがあるんだけど。言ってもいい……?」
お願い、いいよって言って、いいよって言って……と、彼女の顔に書いてあった。ぼくも普段こんな風に見られているのだろうか?
どうせ本当に嫌がられるようなことは、彼女のことだ、先に魔法で察して口にもするまい。ぼくはそうたかをくくって答える。
「いいよ」
その瞬間、覆い被さるように抱きついてきた彼女が、「ん〜!♡」と悶えながらぼくに頬ずりをし始めた。再びのキスもする。今度は顔中のあちこちに、有り余る好意をまき散らすみたいに。
そして彼女は、なるほどこれまでとは違ってどこか独りよがりな様子で、騎乗位を続けながらこちらを見下ろして言った。
「爪詰くんっ、お姉ちゃんがついてるからね♡ 何があってもお姉ちゃんが味方だから、いっぱい頼ってね♡ お姉ちゃん、エッチなことしかできないけど、そのかわりなんでもするから♡ なんでも♡ だから、ね? 大好きだよ♡」
いつもの恍惚とした表情の中に、もはや狂気が宿りつつあることを感じた。だけどそれはあくまでも、ぼくにとって好都合な狂気だった。
跨って腰を振るばかりの彼女に向けて、ぼくは催促の両手を伸ばす。心を読める彼女には、それだけでキスと抱擁をせがまれていることを理解する。あるいは、ぼくの次の台詞も透けてしまったのだろうけど。
それでもぼくはキスを終えた彼女の耳元で、彼女が喜びそうだからという口実のもと、どさくさに紛れたことを言う。
「アイカお姉ちゃん、だいすき」
「あっっっ♡♡」
気のせいでなければその時、彼女は絶頂していたように思う。
……我ながら、ひどい棒読みだった。ぼくがジェスクヤを好きなことは真実なのに、声音はそれに伴わなかった。けど、それでも聞かされた本人は喜んでくれる。彼女はきっと、自分以外の誰からも見捨てられたような男に手を差し伸べて、その男が自分に懐けば、それで大満足なのだろう。まったくありがたい話だった。
それにジェスクヤの「お姉ちゃん」という言葉選びは絶妙だった。その言葉を聞いた瞬間、ぼくは咄嗟に「ばぶみ」という言葉を思い出したけれど、それでハッとした。もし彼女の台詞が「ママがついてるからね」だったら、今日のぼくはそれに乗れなかっただろう。現実のママはぼくに、ぼくが宇宙人であることを突きつけた最初の人だから。……彼女のことだからきっとそのあたりを分かった上で言葉を選んでいる。
その後は、絶頂を経て落ち着くどころかさらにヒートアップした彼女に精液を搾り取られかけて、咄嗟にぼくが彼女の腰を押さえつけたところで、いつものように性欲を直接吸収されて終わった。最後の最後まで彼女は「あ〜♡ あぁ〜っ♡」と声をあげて、本当に満足そうだった。
……が、どうやら今回の賢者タイムは向こうにも来たらしい。いつも通り抱きしめてもらって、気持ちが落ち着くまで「大丈夫、大丈夫……」と背中をさすられたあと。数分ぶりに見たジェスクヤの目は、綺麗に明後日の方向へ泳いでいった。
「あ……。……なんかその、ごめんね? 今日私、変なこと言って」
「え、いや、あっ。べ、べつに……」
自分のことをお姉ちゃん呼びすることはサキュバスでも恥ずかしいことなのだろうか? 彼女にそういう反応をされると、こっちまで恥ずかしくなってくる。しかも彼女の方と違って、ぼくの恥の感覚には可愛げすらない。なんだアイカお姉ちゃん大好きって、普段散々彼女に加虐プレイを強いている男の言うことか……?
脳内にリフレインするジェスクヤとの性的映像のすべてが、「大好き」の説得力を、地の底に引きずり落とすまで奪っていく。あぁ……せめて何かもっと別の言い方を、「嬉しい」とか、そういうものに留めておけばよかったのに。そうすればこんなに恥と罪悪感が沸くこともなかったのに……。
と、ぼくがあっさりドツボにはまった頃。ちゅっ……と頬に一つのキスが飛んだ。
「大丈夫だよ。爪詰くんの性癖と大好きの気持ちが矛盾しないこと、私知ってるから」
ハッとして見た先で、彼女はいつものように微笑んでいた。サキュバスの賢者タイムは短いらしい。
それに彼女の言葉を借りるなら、ぼくだって彼女の性癖と優しさが矛盾しないことを知っている。知性に関しても同じく。彼女は、ぼくが他人に求めるすべてを持っている。
ジェスクヤが本当に、腹違いの姉か何かならよかったのに。「普通」の良さが分からないぼくは、そう思わずにはいられなかった。