SOS はらわた喰いの悪魔(Sadistic-Offal-Succubus) 作:氷菓くん
人の精神はやり直しに対して脆い。単に体調を崩して熱を出すことよりも、下がりかけた熱がぶり返すことの方がしんどい。しかもそれがジェスクヤに「熱下がってきた」と報告したあとのことなら尚更。
オナニーをすると熱が上がるのか……? 医学的な真偽は知ったことじゃないけれど、そういえば一度目のコロナの時にも同じようなことがあった。偶然の可能性はある……が、気持ち的にもう三度目の正直を確かめる気にはなれない。今度こそおとなしくしておこうと思った。……まぁおとなしくしてもしなくても、熱が下がっても下がらなくても、まだもう数日の間は外出できないことが確定しているのだけど。
ジェスクヤと会わないまま五日が過ぎた。自宅謹慎期間は発症した日をゼロ日目として数えた上での五日目まで続くらしい。日曜がゼロ日目だから、五日目は金曜日。外出解禁は土曜日となるわけだけど、当然土日は家族が家にいる。ジェスクヤと会えるのは週明けの月曜日。……つまり、ええと、父が診断を受けて会社を休んだ金曜から会っていないから、丸一週間以上……? 彼女と会えないということになるのか……?
……いつの頃からか、ぼくは現実逃避を始めるようになっていた。土日にだって、ラブホを使えばジェスクヤに会えると思った。はたしてどのような口実を使えば、ニートが病み上がりの時に限って、普段はまずしないはずの外出に駆り出していくことを家族から不信がられずに済むのか。ただひたすらにそれだけを考え続けた。必ず答えがあると自分に言い聞かせながら、絶対に実行するから大丈夫だ、もうすぐ会えるんだと信じ込むために。
けれど朝から夜まで考えたところで、起死回生の名案は思いつかなかった。ある種当然のことではある。そんな名案が考えただけで思いつくなら、どこかのタイミングですでに実行していてもおかしくなかったのだから。ぼくはジェスクヤと週五で会う生活に満足しているけれど、べつに六日目が必要ないと思っているわけではない。二週に一回くらいのペースで土日にも会えるようになる方法があるなら、熱にうなされるまでもなく教えてほしいくらいだ。
世の中には、出来ることと出来ないことがある。次の土日に彼女と会うことは後者なのだと、諦めかけている自分がいる。その諦めは数時間ごとに強くなる。一週間先が遥か遠くのことに思えて、待った分強くなるのかもしれない再会の喜びへの期待が、今は膨大な時の隔たりに霞んで見える。
再び熱が下降の兆しを見せても、頭痛がずっと収まらなかった。次に会えたら何をしようかと夢を膨らませても、それは気休めになるどころか、オナニーすら好きにできない体の欲求不満を加速させるだけだった。体のだるさがしつこく続くせいで、快方に進んでいるという実感がなく、心は尽く濃い霧の中にいるみたいだった。
初めの頃に感じた、漠然とした何の意味もない「許せない」という気持ちが、日に日に強まっていった。べつに、最初に感染した父を恨む気持ちはない。時間差で感染した自分を恨む気持ちもない。コロナその物を恨むような壮大な反骨精神もなければ、何年もニートを続けておいて今さら外出の不自由を嘆く気にもなれない。
……ただ、サキュバスが不死身なことだけが、どうしてもひっかかっていた。
もしジェスクヤが人間だったなら、ぼくは当然、彼女に無茶な会い方をしたいとは思ってすらいなかっただろう。彼女に病を感染させてしまっては元も子もないからだ。相手がまず健康でなければ……こちらからの心配が必要ないような相手でなければ、ぼくは安心して自分を受け入れてもらうことが出来ない。
けれど現実としては、ジェスクヤはサキュバスである。人間なら即死するような大怪我でも秒で治せるだろう彼女が、流行病程度に倒れる姿はとても想像できない。……つまり、ぼくと彼女が会うこと自体にリスクは一切存在しないということ。ただ社会の在り方が、それを許さないということ。
社会不適合者ながら、ぼくはべつに社会のことが隅まで嫌いというわけではない。むしろ、人間社会の恩恵におんぶに抱っこで生きている自覚がある。だから感染者は五日は謹慎してくれと言われれば、それに従おうという気概くらいはある。正直、どこの誰が仮にぼくのせいでコロナにかかろうと、それで苦しんだり後遺症が出たり最悪死んだりしても、知ったことではないけれど。だってそれはもう、弟が出勤という形ですでにやってしまったことかもしれないから、自分に見えないところで何がどうなっていようと本当に知ったことではないけれど。それでも、誰かのためではなく、社会という大きな概念のために遵法しようという心が、ぼくにもある。
……いや、「あった」と言った方が正しいか。ぼくの「許せない」という漠然とした敵意は、次第に具体的な行き先を定めてしまった。それはきっと八つ当たりだった。
誰も邪魔しなければ、ぼくはジェスクヤに会えるのに。溜まったものを吐き出して、抱きしめてもらって、爪詰くんはそれでいいんだよって、熱で苦しかったのによく頑張ったねって、間違いなく言ってもらえるのに。ぼくはそのためなら今からだって動き出せるくらいなのに。……社会はそうやってぼくのことを褒めてくれるのか? 両親はそうやってぼくのことを受け入れてくれるのか?
寂しさと性欲が敵意に変換されて、それが致命的に凝り固まる頃。熱はほとんど下がって、カレンダーは木曜日まで進んでいた。頭痛と体のだるさが一向になくならなくて、37度ジャストを告げる体温計から、怠け者だと馬鹿にされた気がした。
その日の夜、日付が変わる頃。ぼくは占いに人生の岐路を託すような自棄の思いで、ジェスクヤにLINEを送った。
『もう寝ましたか?』
返事は期待してなかった。
普段、この時間に返信が来ることはほとんどない。健康的な生活をしているのか、それとも旦那と二人きりの時間を過ごしているのか。どちらでもいいけれど、とにかく彼女とのやり取りは深夜帯にまでは及ばない。だからいつも通り返信がなければ、ぼくも大人しく寝ようと思っていた。
……けれど、どうしてだろう。こういう時に限ってイレギュラーは起こる。
既読が付いた。そして息を飲む間もなく、ログが一行分だけ画面外へ繰り上げられる。
その瞬間にぼくの自棄の思いは、期待へと丸々置き換わってしまった。
『起きてるよ』
『眠れないんです』
『体調つらい……?』
『熱はほぼ下がりました。頭痛いですけど』
『それは寝た方がいいやつ』
『でも寝つけないんです』
『お昼寝たくさんした?』
『しました』
『じゃあ寝れなくなっちゃうのも納得か』
連投で、彼女が続ける。
『眠くなるまで、お喋りする?』
……次の返信を打つ時、ぼくの指は震えた。心臓がキュッとなって、息が詰まる。頭の中で「怖いならやめておけよ」と声なき声がする。
でも、なまじ珍しい時間帯でのやり取りだったから。その特別感が、最終的には背中を押した。もしかしたら自分を心配して起きていてくれたんじゃないかと、自意識過剰なことも考える。
ぼくは元々、その一言を言いたくて自棄になったのだ。
『会いたいです』
……すぐに既読は付いた。画面の向こうの彼女が、迂闊にそれを付けたことを後悔しているのではないかと思った。
画面越しに、長い長い呆れと軽蔑のため息が、返信が来るまでの間ずっと流れていたような気がする。
『……体調は?』
『万全ではないけど大丈夫です』
『両親になんて言うの?』
『内緒で出ます』
『本気?』
『ダメですか』
ジェスクヤがダメというなら、ぼくは諦める。他の全てを取り払った「二人の間」に会わない理由がないから気がおかしくなりそうなだけで、社会でも親でもなく、ジェスクヤ自身が今は会いたくないというなら、ぼくはすんなり諦められる。
階下のリビングから、薄らとテレビドラマの音が聞こえてくる。両親がそれを見ているのか、見ようと思いつつ寝落ちしているのか。どちらにしろその空間は、階段や玄関とは僅かに断絶された、冷房を効かせるための扉一枚を隔てた先にある。
『いいよ。車あるから、駅まで迎えに行ってあげる』
ぼくはくれぐれも静かに、ゆっくりと獲物に這い寄るように、部屋を飛び出した。
忍び足で階段を下りる。そのまま玄関へ向かい、扉に後付けでぶら下げられたベルのような物を慎重に取り外す。扉の開閉を音で報せるそれが鳴らないように工作する様は、我ながら防犯カメラに細工をする盗人のそれを連想させた。
ベルを玄関床の隅に安置して、ゆっくりと薄く扉を開く。出来るだけ音をたてないように、マジックテープを無音で剥がそうとするような殺気立った低速で、ぼくはひび割れから這い出るツタのように家を抜け出す。
初めて家族に「行き先を告げるというポーズ」すら取らずに、夜の外出をした。かつて家出をした時ですらぼくは、友達と遊びに行くと嘘をついて家を出たのだ。
目立つ足音をたてることに抵抗があって、努めて冷静に駅へ向かって歩き出す。鍵は持って出なかった。どうせ親が就寝前に改めて戸締りをするなら、鍵だけではなくチェーンもかけることを知っているから。そうなればどの道終わりなのだから、ポケットの中でチャラチャラと音をたてる貴重品をわざわざ持ち出す意味はない。
一秒ごとに感じる緊張と、高揚と、罪の意識が濃い。時間の流れが歪んでいるかのように感じる。かといって、ストレスばかりがあるわけではなく、深夜の住宅街は何かを禁じられたような静けさに浸されていて、生ぬるい夜風が冷房の涼しさよりも心地よかった。
道中、犬の散歩をしている女性とすれ違った。その時になってハッとしたけれど、ぼくは上下ともパジャマのまま出てきてしまった。着替えなら自室のクローゼットにあったのに、思いつかなかった。リスクを犯してまで今さら戻れない。……まぁギリギリ不審な見た目ではない、と思う。
病人(あるいは病み上がり)がこんな時間に外に出ていると、怪訝な目を向けられるのではないか。最悪通報されるのではないか。……そう怯えるからこそ決してペースを崩さずに歩く。そして街灯の下でその女性とすれ違う時、ぼくは拍子抜けした。女性はおろか犬すらこちらに目もくれなかった。
駅に着くと、がらがらに空いたバスロータリーに一台の車が止まっていた。詳しくないから車種などは分からないけれど、青色の小さな車だった。
ポケットから出したスマホを確認すると、いつの間にか追加のメッセージが入っていた。
『バスロータリーのところにいる。コンビニの前、青い車』
……運転席を覗き込むと、確かにジェスクヤが居た。
すごく、すごく久しぶりに、彼女の顔を見た気がした。一ヶ月くらい会っていなかったんじゃないかと思う。自分がたったの五日を待てなかったことを分かっているのに。
助手席の扉を開くと、ぼくを肯定してくれる声質の「おっ」が聞こえた。
「こんばんは久しぶり。体調はどう?」
「頭が痛くて体がだるいです」
「ありゃ。じゃあエッチは無理か」
「えっ」
「えっ?」
シートベルトをかけながら、ぼくはジェスクヤと顔を見合わせた。そして彼女が可笑しそうに笑ったから、ぼくも笑った。
「なんだ、元気そうでよかった。……じゃあいよいよラブホにでも行く?」
カーナビを操作しながら彼女は言う。空気の読めない機械音声がそれに被せて、ETCカードが万全であることを大きな声で報告してきた。
「ラブホってコロナの謹慎期間中に行ったら揉めません?」
「バレないから大丈夫でしょ。爪詰くん見た目病人っぽくないし。遠いけど受付無人のところも知ってるよ」
「でも家抜け出したことがあとで親にバレたら、芋づる式に……」
「え〜。じゃあエッチ諦めて、ドライブでもする?」
「…………」
ぼくは正直、こうして今ジェスクヤに会えた時点で、大概満足してしまっていた。自分を突き動かした衝動の中には性欲が多分に含まれていたはずなのに、あっという間にそれがマストの枠から外れていた。
けれどその一方で、では今からでも家に帰る気になるのかと言われれば、答えは断固としてノー。ぼくはジェスクヤに会えた時点で満足すると同時に、「その時点」が永遠に……ぼくが満足するまで永遠に続くことを望んでしまった。
夜のドライブは魅力的な提案だった。かといって、最優先ではなくなった性欲がそれで消えたのかといえばそんなはずもなく、こちらの心を全て読んでいる相手に対してここで「うん」と答えることは、とても白々しい気がした。
ジェスクヤがカーナビの操作を終える。彼女はどこにも行き先を設定せず、そのまま手元のギアを操作した。
「私はドライブしたいんだけど、反対の人〜?」
否定的な言葉の響きに、ぼくは条件反射じみて首を横に振る。運転手はフッと笑って、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。……家を抜け出してきてよかったなぁと、確信めいて思った。
日付が変わった深夜の街でも、信号は存外そのまま機能していた。時々黄色の点滅を延々と続けている物もあるけれど、大抵がそうではない。赤信号にひっかかって、対向車線に一台きりの車となんだか気まずい待ち時間に入ったりするたびに、ぼくたちはLINEでも話せるようなどうでもいいことを話した。
「すっごいどうでもいい話なんだけどさ。爪詰くんってイラマのことちゃんとイラマって言うよね。イマラじゃなくて」
「はぁ」
「あれ間違える人よくいるじゃん? で、イマラ派の方は、デカマラとかのマラに引っ張られてるっていうのは分かるよ。でもイラマ派の人ってどうやって正しい方を覚えてるの? マラじゃないことに違和感とかない?」
「いや、逆にマラの方が違和感ありますよ。もしフェラチオに一文字「マ」を追加するとして、フェマラチオにはしなくないですか? フェラマチオの方が自然だと思うんですよね、フェラって略すんだから。そうしたらイラマだって、マはラの後に置くのが自然かなって」
「あー、なるほど。そう言われたら確かに。なんかあれだね、分数の足し算引き算みたい」
「えぇ?」
「分母揃えるじゃん。一回「マ」を入れるのがそれっぽいなって」
「あー。意外とそういうところに発想の元があるのかも? ……イマラ派って分数の足し算引き算も出来なさそう」
「え〜? イマラ派にバチギレなのさすがに面白いんだけど」
「いや、だって、ねぇ……?」
一度始まったくだらない話題は信号が青になっても続く。走りながら話して、ひと段落したら無言になって。次の赤信号にひっかかった時に、どちらからともなくまた別の話題を持ちかける。
ドライブコースは、よく知っている近所の道ばかりだった。入ったことのないラーメン屋、このあたりにやたら多い家電量販店。少し高めの回転寿司、ドンキ、ホームセンター。個人経営っぽいカラオケ、入ったことのあるラーメン屋、バイトに落ちたスーパー、保育園、古本市場。……それらほとんどが今日の営業を終了していて、オアシスのように確実に灯っているのはコンビニの明かりだけ。よく知っている通りの、普通の街。
ジェスクヤがあまり離れたところに行こうとせず、近場を大きく周回するように走っているのは、これが大人のデートではなく、駄々を捏ねた子どもをなだめるための物だからだと思う。何かあった時はできるだけすぐに帰れるように、保護者は遠くに行きたがらない。
でもぼくは、それで全然よかった。大人のデートがしたいなんてこれっぽっちも思わない。高望みをしないというわけではなくて、本当に、心の底からどうでもいい。ぼくはジェスクヤと対等になりたいなんて思わないい。ぼくにとっての彼女は、ずっと救世主であってくれた方がいい。……というかそもそも、人と対等になりたいと思ったこと自体が、ぼくにはない。
箱庭を行くようなドライブが楽しかった。向上心なくそう感じていることが、相手に伝わっても平気だと確信できることが嬉しかった。普段の暮らしのどのタイミングよりも今の居心地が良くて、時計と天体の動きが止まればいいのにと思った。
「……そういえばずっと気になってたんですけど、ジェスクヤさんの人間っぽい名前の方って、あれ苗字なんて読むんですか?」
「え? スガノだけど。
「あぁよかった。ずっと気になってたんです。カンノかもって」
「小学校の同級生に居たもんね、
「そこまで読んでるならもっと早く教えてくださいよ」
「いや聞かれなかったから。むしろなんで今日まで温めてたの」
「タイミングがなくて」
「まぁ私も、イラマの件はずっと気になってたからなぁ。気持ちは分かるかも」
「イラマと自分の苗字を同列に並べられた気分はどうですか」
「いやべつに、偽名だし」
「……旦那さんの苗字だったりは?」
「あ、しないしない。旧姓。主婦のLINEなんて友達かセフレとしかやり取りしないし、いちいち変えるのめんどいから」
「主婦にセフレってパワーワードですね」
「サキュバスだと普通だよ?」
「おかげさまで、恩恵に授かってます」
「あはは。まぁ爪詰くんは、セフレ兼友達って感じだけど」
「兼?」
「ただのセフレとドライブなんか行かないよってこと」
「……なるほど」
ちょっと嬉しくなってしまった気持ちが魔法で筒抜けなのは、さすがに複雑だった。
照れたからか、それとも夏だからか、少し暑い。額の汗を手で拭うと、「ごめんね暑いね」とジェスクヤが空調を強める。
そして彼女はそのまま流れるような手つきで、片手で運転を続けながらもう片方の手でぼくの額に触れた。
まだ汗をかいているような気がして……あるいは都合の悪い真実が浮き彫りになる気がして、ひゅっ……と息が詰まる。
「……あー。これは体温60度くらいありますね〜」
「し、死んでる……」
「あはは! 元気はあるんだね。…………どうする? そろそろ帰る?」
……ぼくには、首を横に振っていいのかが分からなかった。
収まっていくはずだった発熱をぶり返してしまう条件は、オナニーではなく夜ふかしだったのかもしれない。考えたくない選択を先送りにするためか、頭の中にぼんやりとそんな仮説が浮かぶ。
スマホを確認すると、今のところはまだ親からの連絡は入っていなかった。抜け出したことがバレていないということだ。しかし扉にチェーンがかかっているのかどうかは分からない。今帰ればまだ間に合うのかもしれないし、いつ帰るのかはすでに問題ではないのかもしれない。
ロクに車通りもない広い道路で、また信号が赤になった。
「爪詰くんが決めていいよ。万が一の時は私がシュババッて家まで送り届けるし」
「シュババッて……?」
「直線距離で、爪詰くんを抱えてダッシュ。車より速いよ」
「なんか、バキにそんな話ありましたね。なんかほら、あの、…………何メートルかまでは問題ない! みたいな」
「アバウト烈海王ウケる」
ぼくの心を読めるサキュバスは何事もなかったみたいに笑って、それきり、帰るかどうかを聞いてこなくなった。すでに彼女の中で無難な答えが出たのかもしれない……と一時は諦める気持ちになったけれど、自宅までへの道のりとは逆の方向にハンドルが切られた時、ぼくは小学生の頃に父が、夏休みの宿題を頑張っているご褒美に夜中のゲーセンに連れていってくれた時のことを思い出した。
思わず彼女の方に目を向けると、真っ直ぐ前だけを見て運転を続ける彼女が、独り言みたいに言う。
「帰りたくないんでしょ」
……ぼくは迷いながらも頷いた。
「爪詰くんにとって思ってることを口に出すのって、相当難しいことなんだなぁ。お姉さんちょっとショックです」
「だ、だって……」
「私に心配かけたくなかったんでしょ?」
「……それは」
だって、サキュバスから見た人間は弱すぎる生き物だから。隣で熱にうなされていたら、気が気じゃないかもしれないから。
でもそれを言うなら、ぼくは今日家を抜け出すべきじゃなかった。自分のしていることが中途半端なのは分かっている。だからそれはきっと、心配をかけたくなかったなんて殊勝な気持ちではなかったのだ。だってぼくはそもそも、他人のために嘘をつくことはやめると決めた身だから。「心配かけたくないから帰ることも視野に入る」は嘘だ。
ぼくが素直に帰りたくないと言えなかったのは、単にジェスクヤのことを信頼しきれなかったから。それが本人へ筒抜けになることを知っているのに、今まで散々彼女の全肯定に甘えてきたのに。それでも不安が頭の中を舞い、彼女を信じて我を通すことができなかった。
……そんな男は、やっぱり帰った方がいいのかもしれない。
「大丈夫。さっき触った時、37度前半って感じだった。大したことないよ」
「……そうでした?」
「うん。……ていうか爪詰くんって、汗かいてる時に触られると気が引けるんだね。べとべとのちんちんは平気で顔にこすりつけてくるくせに」
「それとこれとは別でしょ……!?」
お互いが汗をかいた状態で抱き合うこと等とも別である。なぜそう感じるのかは、自分でもよく分からないけれど。
とにかく今のおかしなやり取りで、帰る帰らないの話は完全にうやむやになった。今までは会えばすぐにエッチという流ればかりだったから気づかなかったけれど、たぶんぼくたちはお互いに、こういうやり取りも性に合う。
道中にさしかかったコンビニに立ち寄って、ジェスクヤがスポーツドリンクを買ってくれた。
「あ、ありがとうございます」
「なんか爪詰くんの敬語ってさ、たまに面白いよね」
「えっ!? ……まぁですますを付けることしか知らないエセ敬語ではありますけど」
「中学生みたいでかわいいね」
「中学生は可愛いかもしれないですけど、中学生みたいな大人はちょっとね……」
「え〜? ダメ?」
「ダメでしょう」
「私は好きだけどなぁ」
「…………」
「あ、照れてる」
「照れてはないです」
好意を向けられて嬉しいことと、欠点を茶化されている自覚を持つことは両立される。茶化されている自覚があることを「照れる」とは、たぶん、おそらく、言わない。
私にもちょうだい。と言われて、ドリンクのボトルを渡す。気持ち的にも衛生的にも、サキュバス相手に間接キスを気にする必要はないけれど、なんとなくボトルの口の行き先を目で追ってしまう。
すると不意に座席が軋んで、彼女の口元は目で追いきれないほど近く、迷いなく、ぼくの方へと向かってきた。
「えっ、なに……んっ!? んっ……!!」
フロントガラスから差し込むコンビニの白い明かりが、自分たちの姿の秘匿性の無さを目にも分かりやすく証明している。
突然キスされるだけでも驚くのに、彼女は口移しでぼくにそれを飲ませてきた。突然のことすぎて対応しきれず、口の端から上手く飲みきれなかった分が垂れてこぼれていく。ほんの少量が伝ってくるだけなのに、動揺が、そのやり取りを容易いこととは認めなかった。
「ふふっ。やっぱりかわいい」
呆然とするぼくを横目に、彼女は車を発進させる。深夜のワンオペをしていた店員が、どうかこちらを見ていなかったようにと、ぼくは祈った。
深夜のドライブはいよいよ同じコースをぐるぐると回り始める。大きな輪を描くように、別名を生活圏と呼ぶコースを行く。
「べつに見られてもいいじゃん。通報されるわけじゃあるまいし」
「分かんないじゃないですか」
「びびりだな〜」
ホルダーにかけてあったペットボトルに彼女が手を伸ばすと、思わず身構えてしまう。すると「運転中は無理だよ〜」と、心底嬉しそうに茶化される。ちょっとだけムカついた気もするけど、でも、BGMもない静かな車内に響く彼女の笑い声は、なんであれ魅力的に聴こえるものだった。
今日はエッチとは無縁の交流になると思っていたのに。頭の片隅に、そうかこの人は、出来心で突然キスをしても怒らないんだな、サキュバスだもんな……という思考がよぎる。どのみち、それこそ運転中に出来ることではないのだけれど。
スマホを確認する。親からの連絡はまだない。このままぼくが居ないことに気づかず、戸締りを改めることもせず、おとなしく寝てくれればいいのにと思う。
ぼくが家を抜け出してから、あと少しで一時間が経過しようとしていた。止まれと思った時の流れは、むしろ速すぎるほどに進んでいく。
「そういえば爪詰くんって、こっち来てから何年目だっけ」
「こっち?」
「前は関東の方に住んでたんでしょ」
「あぁ。えーと……。…………五年? ですかね」
今この地域に住んでいるのは引っ越して来たからだと、彼女に話した覚えはなかったけれど。きっとどこかしらのタイミングで心の中から読み取られたのだろう。
「五年かぁ。長いね」
「まぁまぁですね」
「元々帰省でこっち来てたことはあるんだっけ」
「あぁ、毎年。……それのせいでクリスマスを彼女と過ごしたことがないっていうのが、高校時代の心残りですね」
「あ〜。それはどんまいすぎる」
「まぁ、バイトもできない学生がクリスマスに仮に会えたとして、何してたのかって分かりませんけどね」
「でも、会えることが重要だったんでしょ、きっと」
「……どうなんですかね」
ジェスクヤに会いたい一心で家を飛び出してきた身では、その受け答えは強がりにしか聞こえなかったかもしれない。
道路の左右を彩る閉業時間中の廃墟のような店とは対照的に、遠くの方に目を向けるといくつかのマンションの光がイルミネーションのように目立っている。あの大きな建物の中に何人住んでいて、どれだけの量の人生が詰まっていて、何を思って生きているのか。どれくらいの人たちが幸せで、生まれてきてよかったと思えているのか……と考えると、若干気が狂いそうになる。父が言った通り、ぼくは自分のことを考えるだけで精一杯だから。
景色から目を逸らして、なんとなくガソリンのメーターを見る。また半分以上残っている。
「ここからちょっと行ったところの山って登ったことある?」
「ありますよ。家族で何回か」
「おぉ。あそこ景色いいよね。自然もだけど、街を見下ろせるのが」
「あ、分かる。ニトリがめっちゃ目立つんですよね」
「そうそう。そこ基準で、じゃああっちにあるのはあれか〜みたいな感じで見るんだよね」
地平線の彼方……というにはかなり近い位置に、話題に挙がった山の姿が夜の影となって見える。いや、影というよりも壁だろうか。縦よりも横に広大なそれは、隔てた先にある別の街の存在を気分的かつ無駄に神聖なものにしている。しかしぼくは昔出かけたことがあるから知っている。山の向こうにある街は、当然ながらここと何の変哲もない、ただの誰かの生活圏だった。
そんな風にすべてを知ったつもりでその山にまつわる記憶を振り返っていると、不意をつくように、ジェスクヤが言った。
「夜景は見たことある?」
「夜景?」
「夜に登ったら見えるじゃん」
「あー……。いや、ないですね」
「え〜、五年も居てもったいない。見に行く?」
「え?」
それではまるでデートみたいだけど、べつにそうであってはならない理由もなく。ただ夜が明けるまでダラダラと話しながら過ごすのは、もちろんそれも魅力的だけれど、でも、キリが悪い感じもする。
ぼくにロマンチシズムは分からないけれど、ジェスクヤのことだ、それは百も承知だろう。……それならそろそろ「夜ふかしの締め」を探しに行くという案には、素直に賛成だった。
「じゃあ、せっかくなんで。見てみたいです」
「よし、行こう行こう」
深夜のドライブは、ついに無難な生活圏ルートから外れて、そびえ立つ黒い影の壁へと向かった。
文明の光は、思っているよりもずっと広く、自分の暮らしをどこまでも照らしていた。
山を少しだけ登ったちょうどいい場所に駐車場があって、そこから丸太で組まれた手すり越しに、ぼくは自分の住む街の夜景を見下ろす。それはいつか帰省中の車内から見た、どこかの街の高速道路の上から見た風景と遜色ない絢爛さを誇る物だった。
ぼくにはその規模感が意外だった。都会といえば都会だけれど、田舎寄りの都会に自分は住んでいるのだと思っていたから。自転車で行ける距離の大型商業施設は一つしかないし、以前住んでいた場所に比べて住民にはやたらと高齢者が多いし、どこへ行っても全体的に建物が低くて畑や田んぼが多い。だから夜景といってもさほどの物ではないだろうと思っていた。
けれど実際は、むしろあれだけあった自然の類が、どこにあるのかを探す方が難しい。あちこちの店が終業してなお、煌めく人工の輝きは地平線の彼方まで、海のように広く、いっそ波打ちそうなほどどこまでも伸びていて、自分がどこへ行こうとも、未開の闇に放り出されるような心配はないことを目に眩しく証明している。
正直言って、初見でまずちょっと感動した。
「……なんか、思ってたよりすごかったです」
「ふふ。連れてきてよかった」
標高のためか、夜風から生ぬるさは消えていて、景色も相まって吹く風が清々しい。ぼくは高所恐怖症なのだけど、それでももし翼があれば、ちょっと飛んでみたいと思ったかもしれない。……叶わないとたかをくくっている空想だからこそ、軽率にそんなことも思えた。
家族と暮らしているだけでは一生訪れない光景だったことを思うと、なおのこと感慨深い。
「夜だとさ、ニトリ逆に目立たないよね」
「閉店してますもんね。なんかたぶん、あのあたりなんでしょうけど」
「たぶんそうだよね」
「…………」
「…………」
あぁ、本当に。感動したならそのままの勢いで、夜空に飛んでいけたらよかったのに。
初見のインパクトを過ぎると、だんだんと冷静になっていく自分がいる。いくら街を見下ろしたって、自分がどこか高次元の世界に行けるわけではなくて、数時間後には自分もその美しいミニチュアの一部になる。……そしてそれによって、その美しさは遠くから見た時にだけあるのだということを知る。
夜景とは、ぼくにとって大きなマンションだった。文明の光は人間の苦労の証。そこに宿る無数の人生は……感情は、明日は我が身の不幸と、自分のような人間には根本的に手の届かない幸福だけ。百万ドルの夜景は残業の光だなんて斜に構えた人が言うけれども、もっと斜に構えたぼくはその言葉が嫌いだ。なぜならそれは、定時で終わる労働になら耐えられて当然だという真人間の言いそうな台詞だから。
ひしめく光の海は、ぼくをどこまでも見捨てない。ぼくを闇の中に放り出したりしない。……だからつまり、この世の中というものは、「見捨てられなかった上」でこれなのだと思い知らされる。人間の光は、ぼくを見捨てないかわりに、救いもしない。ただ無闇に美しいだけで、ぼくを救ってくれはしない。
一緒に来たのがジェスクヤでよかった……と、心の底から思う。彼女以外の人が隣にいれば、この内心を悟られた瞬間に愛想を尽かされると、一触即発のプレッシャーに苛まれるところだった。
暗い駐車場に二人きり。仮にぼくがこの夜景を貶しても、きっと誰もそれを責めない。
「ねぇ爪詰くん、キスしていい?」
夜風に髪を揺らしながら、彼女が言う。
何も知らない人が聞けばロマンチックな台詞だったのかもしれないけど、ぼくは笑ってしまった。
「なんで今度は聞くんですか。コンビニの前ではいきなりだったのに」
「んー。意識してほしくて」
「意識?」
「そう。だって夜景を前に二人きりだよ? 意識してほしいじゃん」
「意識……」
ぼくの心の中を読んでおいて、どうして急にそんな、乙女みたいなことを言うのか。ぼくは混乱する。意識とは何のことだろう? この場にあるロマンチシズムのことなのか、それとも、彼女がぼくをここに連れてきた意味か。……意味があるとすれば、それはいったいなんだろう?
思考に結論が付く前に、彼女はぼくの唇を塞いだ。コンビニでのそれと違って、それはほんの短い、からかうように軽いキスだった。
にやりと笑った彼女はなめらかに、何かにつられるように夜景の方に目を向ける。ぼくは何も考えずにその視線の先を追う。
「今どんな気持ち?」
細かな宝石をちりばめたような夜を背景に、ぼくを見透かしたような声がすぐ傍から問いかける。
「夜景を見て、キスして。爪詰くんは今、どんな気持ち? 薔薇色の気分になれた?」
「薔薇色って……」
そこまでお膳立てされて、ようやく分かった。彼女がぼくに夜景を見せようとした理由。ぼくに意識してほしいこと。それが何なのか。
ジェスクヤがぼくにしてくれることは、考えてみれば元々その一つに特化しているのに。この期に及んで気づくのが遅れてしまった。
「……客観的に見れば、ぼくは今、幸せなんだろうけど」
ぼくと同じくらい、性格も性癖も屈折したサキュバスは、「言わせること」と「受け入れること」が大好きで、それによってぼくを救ってくれる。
ただ美しいだけで、救いにはならない景色に吐き捨てるかのように、ぼくは言う。
「でも、こんなに綺麗な夜景を見ても。自分を受け入れてくれる女の子とキスをしても。考えることは、ネガティブなことばっかりで」
「うん」
「それ自体に負い目を感じるし、こういう時素直に幸せになれる人間に生まれてたら、どんなによかっただろうって」
「うん」
「……でもぼくは、夜景は好きだよ、綺麗だし。ジェスクヤのことはもっと好き。ぼくの唯一の……、……唯一の理解者だから」
「えへ。嬉しい」
「ぼくも、嬉しいって言ってもらえて嬉しい。……けど世の中の大半の人には、それが分からないんだよ」
「爪詰くんが、夜景が好きなこと?」
「そう。夜景を見るとネガティブな気持ちになるって言うと、夜景が嫌いなんだって思われる。キスをしてもネガティブな気持ちが晴れないって言うと、大して好きじゃないんだ、嬉しくないんだと思われる。馬鹿ばっかりだよ、世の中、本当に馬鹿ばっかり。バランスとか機微とか、二つ以上のことが同時に分からない馬鹿だらけなせいで、ぼくは……」
夜景を見るとネガティブな気持ちになるのは、綺麗な景色が嫌いだからじゃない。きっとぼくは、人工物でも大自然でも、どんな種類の綺麗な景色を見ても同じように落ち込むのだろうけど、それは良い景色を眺めることが嫌いだからじゃない。
ただ、どんな景色を見たところで、ぼくは最終的にあの街の中へ、今見下ろしている景色の中へ帰らなければならないから。未開の闇の中で生きていける強さが、自分のような人間にあるはずもないから。
だから全ての景色が……いや、それ以外も。あらゆる「良い物」が刹那的な物にしかなれなくて、むなしさを伴う。
「……ぼくは、元々人間が嫌いで。人間その物じゃなくて、人間の人間らしい欠点だけが嫌いで。みんな見た目が美少女のロボットにでもなって、インフラを維持しながら愛想だけ振りまいてくれればいいのにって。そうじゃない現実の人間が……人の欠点が見えるたび嫌になるから。人と関わってると、そうやって嫌になることばっかりで、当たり前みたいにそればっかりで、人間って基本的にクソなんだなって、気が滅入るんです。……でも一人じゃ生きていけないことも分かってる」
「どうして一人じゃ生きていけないの?」
「……働くストレスが、全部を台無しにするのと。あとは普通に、人嫌いでも、寂しいものは寂しいから」
「……ふふ。でも、私のことは好きなんだ? 私だってロボットじゃないのにね」
どこか嬉しそうに、からかうような声音。
きっと彼女はいつもと同じように、ぼくの全てを受け入れる笑顔を浮かべて隣に居てくれているのだろうけど。ぼくはなぜか、眼下に広がる夜の街から目を離せなかった。……ジェスクヤも「綺麗な景色」の一つだということを認めたくなかった。
全てを受け入れてもらって、なんだか救われた気持ちになっていたけれど。その救いは軽傷の流行病一つでひょいと取り上げられてしまう物だった。彼女はあらゆるピンチに駆けつけてくれるわけではない。彼女はぼくにとっての「世界」ではない。ぼくはいつだって、彼女の良さをひとしきり享受したあとは、またクソみたいな世界の中に戻っていかなければならない。
それでもジェスクヤのことが好きだ。好きにならずにいられるはずがない。ぼくにはもう、彼女くらいしか縋れる物がない。それ以外の全ては、ぼくが縋るに値しないから。
その気持ちが恋愛でなくても、ぼくは、それを許してくれる彼女のことが好きなのだ。
「ね、爪詰くん」
ジェスクヤがぼくの手を握る。自身の体温のせいなのか、彼女の手の温もりが今はよく分からない。
「今の爪詰くんみたいな人が言うと、すっごく気持ちよくなれる言葉があるんだけど。教えてあげようか」
「へぇ……?」
思わせぶりな言葉につられて、ぼくはついに彼女の姿を視界に収める。期待していた通りの、ぼくの全てを見透かして楽しんでいるような、その余裕たっぷりな微笑みを目に焼きつける。
耳元でこっそり、彼女は魅惑的な言葉を教えてくれた。それは幼児でも覚えられるほど短くて単純な一言だった。
けれどぼくはそれを聞いた瞬間、心に深い衝撃を受ける。「そう言えばよかったんだ」と感心することすら出来ずに、ただ呆然と、「それって言ってもいいんだ」と、常識を塗り替えられたような気分になる。
でも、言われて初めて気がつくなんて馬鹿みたいだけど。きっとぼくはずっと昔から、それを言葉にしてみたかったんだと思う。
「ほら、爪詰くん。言ってごらん」
「……生きづらい」
「うん」
「……………………だれかたすけて」
街を一望できる、深夜の無人の駐車場にて。
ただ一人その言葉を聞き届けたジェスクヤが、ぼくのことを抱きしめた。