SOS はらわた喰いの悪魔(Sadistic-Offal-Succubus) 作:氷菓くん
機体はそのまま、パイロットは死んでもらう!
……ぼくがVガンダムのあのシーンを何度も見返したのはきっと、「可哀想な女」が好きだからだ。いつだったか、白々しくもジェスクヤのことを「かわいそう」と評した時、それを悟った。
人間嫌いの自分は、人間に「人間らしい部分以外」を求めている。性格にしろ性癖にしろ、こちらのことを全て受け入れてくれて、こちらから相手を心配する必要は一切なくて、セックスからくだらない雑談までなんでも付き合ってくれる。聖母と娼婦どころか、友達と玩具まで兼任してくれるような。そんな人ならざる存在の片鱗を、ほんの少しでもいいから、他人の中に見出したかった。人から肯定されたいと強く願いながら、人の心には興味がなかった。
都合の良さはそのまま人間らしい心には死んでもらう。……それがぼくの理想だった。けれどふと、それならジェスクヤの心にも死んでほしいのか? と考えて、ぼくは今さら、すごく単純なことに気がつく。
ジェスクヤに「人間らしい心」なんてない。なぜなら彼女は、そもそも人間ではないのだから。
彼女の心に死んでもらいたいとは、ぼくはこれっぽっちも思わなかった。
ぼくは、性癖に正直になった結果としてぼくのことを抱きしめてくれる彼女のことが好きなのだ。
「……どうすれば爪詰くんのことを助けられるのかな」
抱き合ったまま耳元で、珍しく弱音のような言葉が呟かれる。
「エッチして、話を聞いて、抱きしめて。……私にはこれしか出来ることがない」
「……養ってもらうとかは?」
「うーん……。私の今の生活って旦那の稼ぎで成り立ってるから、私が働きに出ると爪詰くんに会える時間が激減しちゃうんだよね」
「え、絶対やだ」
「あはは。だよねぇ」
気の抜けた会話に、お互いの身体から力が抜けていく。ひしと抱きしめ合うというよりも、寄りかかるような具合に。
けれど、そんな気の抜け方とは裏腹に。「それに……」と続けて、彼女はぼくの核心に触れていく。
「仮に私がなんとか爪詰くんのことを養えたとしても。爪詰くんはきっと、その生活の中のいろんなところで、またつらい気持ちになっちゃってる気がする」
「……確かに」
親の脛をかじる生活の中で自分の精神がこの有り様なのは、「親はいずれ確実に自分よりも先に死ぬ・この生活はいつまでもは続かない」という事実ばかりが原因ではない。今まで何度もジェスクヤに誘導されて、いろいろなことを言葉にしてみたからこそ手に取るように分かる。ぼくの精神の歪みは、何か一つの原因を解決するだけで正せる物ではない。
しかしそうだとすれば、何をどうすればぼくは助かったことになるのか? ぼくは何をどうしてほしいのか。自分でも分からない。生きづらさについて今まで誰にも「助けて」と言わずに生きてきたのは、その分からなさが理由なのかもしれない。
「どうにかして助けてあげたいって私も思って、ずっと考えてたけど、分からなくて。……ごめんね」
「……いや、だいぶ助かってますよ。ジェスクヤさんのおかげで」
「でも足りないんでしょ……?」
「…………足りないって言い方は、なんか違うじゃないですか」
「あはは。ほんと、変なところ優しいんだから」
背中に回された抱擁の手が解かれると、こちらも鏡写しのように彼女を解放する。自分の救世主はどこにも逃げないと確信しているから、密着していなくても寂しいとは感じない。無理に会いに来た身では説得力がないけれど、今この瞬間は確かにそう思った。
煌めく夜景を横目に、彼女の背後には、山の木々の暗闇ばかりが広がっている。
「じゃあ、今からエッチする?」
「えっ?」
「私にできるのは三つだけだから。お喋りとぎゅーはもうしたでしょ? じゃああとはエッチかなって」
「いや、でも場所が」
「そこに公衆トイレがある。この時間なら人も来ないだろうし」
「……はぁ?」
彼女が指さす先には駐車場の隅に設けられた、今のところ明らかに無人の公衆トイレがある。その内を照らす蛍光灯の明かりはくすんだように心許なくて……いや、そうでなくても良識が、その誘いに乗ることを躊躇わせる。
「……誰か来るかもしれないでしょ」
「来るとしたら車でしょ。音で分かるから大丈夫」
「いや、そういう問題じゃ……」
「いいの? なかなかこんな機会ないよ?」
野外プレイは趣味じゃないと知っているだろうに。ただ、それ以上にこちらの趣味を身をもって理解しているサキュバスが、挑発っぽく舌を伸ばして見せつけてきた。
夜闇の中には、それに目を奪われるようなぼくを咎める者がいない。
「汚いトイレに女の子を連れ込んで、当然の権利みたいに肉便器扱いするなんて。そうそう出来ることじゃないと思うけどなぁ」
「…………」
「爪詰くんがそういうの好きなの、知ってるんだからね」
彼女その言葉はたぶん本当に、思っているより強く真実なのだと思う。癖の傾向なんてレベルではなく、ぼくがそのシチュエーションに憧れるようになった具体的なきっかけまで把握されている気がする。
ヤらせてほしいと言われた女の子が男に手を引かれて、ラブホにでも連れていかれるのかと思ったら公園のトイレに連れてこられて絶句する。……そういうエロ漫画があった。実際は人にバレる可能性があって気が気じゃなさすぎるから、それはあくまでもフィクションの中にしかない憧れなのだと、読んだ当時から思っていた。
けれどぼくは今、むしろ自分の方が絶句しながら、何をしても先手が打てる気がしないサキュバス相手に手を引かれていた。そして、そうなってなお足を踏ん張り抵抗するような固い意思は、どうやら自分にはなかったらしい。
「せっかくだし女子トイレ入っちゃう?」
「いや、まずいでしょ」
「ふふ。そうだね、小便器の横でおちんちんしゃぶらせる方がいいもんね?」
「ちがっ、違うでしょ!?」
男子トイレ入口の頭上には、ステレオタイプに警告色の大きな蜘蛛が巣を張っていた。ぼくは虫全般が苦手だけれど、ああいう向こうからはまず近づいてこないタイプなら、距離がある限りさほど恐れずに済む。
入ってまず目につく範囲はもちろん、全ての個室の中も無人であることを確認したあと、ぼくは急いでジェスクヤをそれらのうちの一つに引き込む。なんとなく一番奥を選んだ。
速やかに、それでいてなんとなく極めて静かに、扉を閉めて鍵をかける。便器と壁の間のわずかな隙間に二人で立ち尽くす。家を抜け出した時の緊張感が舞い戻ってきたかのようだった。
たぶん変な真顔になっていただろうこちらに対して、ジェスクヤはそれを観察するような眼差しでずっとニヤニヤしている。
「あ……♡ 鍵閉められちゃった♡ 逃げられない♡」
「しーっ!」
人差し指を自分の口に当てながら必死に沈黙を要求すると、なんだかそれは我ながら間抜けな威嚇みたいだった。
ごめんなしゃい♡ と小声で返事があって、ひとまず良しとする。天井からの蛍光灯の光は大部分が閉めた扉に阻まれて、自分たちの足元はほとんど影ばかりになっている。
何を命じられるまでもなく、その影の中に、彼女は自ら両の膝をつく。パジャマの下衣に手をかける。
「おちんちんしゃぶってもいいですか……?」
「……ど、どうぞ?」
「えへへ、ありがとうございます♡ しゃぶらせてもらえるだけで、肉便器はどこでも幸せです♡」
「…………」
女性の尊厳を自ら損なわせるような、卑下も甚だしい台詞を聞くと、ほとんど無条件に興奮してしまう。……そんな現実を突きつけられれば、賢者タイムになるまでもなくさすがに己の性格の難を考えてしまう。ぼくはどうしてこんな有り様なのだろう……?
しかし性欲の発散を前にしては、哲学の力は著しく衰える。敏感な部分で一週間ぶりに思い出す彼女の舌と喉の感触は、感嘆の声が出そうになる快楽と同時に、どこか懐かしさを感じさせるものだった。毎日のように彼女に会って好き放題していた時のことが、おかしなことに、遠い昔の話のように思えるのだ。
もたれた背に伝わるタイル壁の冷たさが、彼女の口内の熱を対比して際立たせるようで、それも悪くなかった。
「……ご主人様? 気持ちいいですか?」
「うん。気持ちいい」
「えへへ。……私のこと、罵って遊んでもいいんですよ?」
「……トイレでフェラするの好き?」
「はい♡ 私みたいなビッチな性処理女には、こういう場所がお似合いですから♡」
「……いい子だね」
「えへへ〜♡」
いつの間にご主人様になったんだろう? と脳みそが冷静なつもりのツッコミを入れる間にも、下半身の方は、目の前の女が尊厳を玩具として差し出してくれることを無邪気に……あるいは邪気その物のように喜んでいた。
ぼくはポケットからスマホを取り出そうとして、ずり下げられたズボンに触れようと一度奉仕を中断させ、しゃがみ込む。すると一瞬目線の高さが合った彼女が、喉奥を擦られた苦しみで潤んだ瞳を熱っぽくこちらに向けてくる。
「あ、あの……」
「うん?」
「……き、キスとかって」
「……あー」
求められていることがなんとなく分かった気がして、ぼくはそれに応じる。
思っているより冷たい声が出た。
「汚いからやだ」
「あっ……♡ ご、ごめんなさいっ♡ フェラ便器の分際で♡ 思い上がってごめんなさいっ♡」
「喋ってる暇あったら舐めて?」
「はいっ♡」
「奥までね」
「はいっ♡」
いつもは呼び出すなり即尺させる上に平気でキスするじゃん……と、内心で笑われているような気がしたけれど、考えないことにする。この手のプレイは発言の妥当性を考え始めると楽しめなくなる。
無事に回収したスマホでカメラを立ち上げて、従順に奉仕する彼女の姿を久しぶりに撮影する。わざと便器を画角に入れて、見下ろされる相手のみじめさを強調する。カメラに向かって何か一言要求すると、彼女は本当に幸せそうな顔をして「おちんちんおいしいで〜す♡」と両手でピースをしてみせた。
……ちょうどその録画を終えて、スマホをスリープに戻した時だった。
ジッジジジジジジジッッッ!!!!!!
「ッッ!?!?」
鍵をかけた扉の向こうで、本能から怖気を引きずり出すような異音が掻き鳴らされる。その音には生々しい剥き出しの命が宿っていて、聴く者に強烈な生理的嫌悪感を催させる。
……まぁ端的に言うなら、セミだった。どこかから入り込んだセミがトイレの壁に激突して、断末魔のような鳴き声と共にのたうち回っている。
ジェスクヤがスッと立ち上がって、早口で言い聞かせるように言った。
「耳塞いでて。待ってて」
指示された通りに指を耳栓にすると、その間にも彼女はサキュバス特有の謎の身体能力で個室の扉をよじ登り、天井との隙間から外へ飛び出していった。
セミの声は指耳栓を貫通する。くぐもっていてもそれはなお恐怖に値するもので、ぼくは思わず目を閉じて、立ったまま体を縮こまらせる。
するとセミの声は、羽根が付いているにしたってあり得ないような速度で、瞬く間にどこかへと遠ざかっていった。そしてそのわずか数秒後、コンコンコンと個室がノックされる。
「は、はい」
「フェラ便器のジェスクヤでーす」
「……それで開けるのなんか嫌だな」
とはいえ開けないわけにもいかないから、ぼくはパンツとズボンを穿いてから扉を開いた。
少しの息も切れていないジェスクヤと目が合って、「種も仕掛けもありません」とでもいう風に、パッと両手を広げて見せられる。
「逃がしてきた」
「……え、あっ、ありがとう」
「ううん。ごめんね、怖かったね」
抱き寄せられて、頭を撫でられる。男子トイレの中で、いい歳した男がセミ一匹にびびり散らかしたあげく、さっきまでちんちんをしゃぶらせていた女性に甘やかされている。……当社比でもそれなりのカオスだった。
ひとしきり甘やかされたあと、硬さを失った物を服の上から手でなぞられ、
「興醒めしちゃったね……。車戻ろうか」
と、再び手を引かれてその場を後にする。なんだか不甲斐ないような気もしたけれど、それよりも遥かに重要なこととして、彼女のそういうドライな優しさのこともぼくはかなり好きだった。
車内に戻って、エンジンがかけられる。冷房が唸りだす。外は風が気持ちよかったのに、車の中はこの短時間でもう蒸し暑くなっていた。
ETCカードの挿入を報せる機械音声が、一度目の時よりさらに大音量に聞こえた気がする。ジェスクヤがシートベルトをしなかったから、ぼくも同じようにただ背もたれに体を預けた。フロントガラスから見える夜景は遠すぎて、車内の光の反射とあまり見分けがつかない。
今日一日に満足したような気持ちと、それでもまだ帰りたくない気持ち。両方ともがある気がした。
「……私、ちょっと不安なことがあってさ」
さっきまでのやり取りが嘘だったみたいに、シリアスに低い声だった。
「なんか今日、エッチしなくてもいい感じの雰囲気だったじゃん? いつもは会ってすぐ、とりあえずって感じでするのに」
「はぁ。まぁ」
「で、夜景見て、爪詰くんの気持ちを聞かせてもらって。……そのまま帰るのが怖かったんだよね」
彼女は、遠く遠くの夜景へ眩しそうに……あるいは恨めしそうに、目を細めながら話す。
「それでちょっと強引に誘ってみたら、セミなんかに邪魔されて。……爪詰くんはさ、エッチなんかしようとせずに帰った方がよかったって思う?」
「えっ」
ちんぽしゃぶらせておいて「そうかも」なんて答える男が居るか……? と、ぼくは困惑した。
冷房の風が強すぎて、眼球から潤いを取り上げていく。ぼくは風量を絞りながら、彼女が言わんとしていることは何なのかを考える。
エッチなんかしなくても、ぼくたちには友情があるんだ! ……と思えれば、一般的には美しかったのかもしれないけれど。ぼくはそんな大した男ではない。しかし幸運にも、そんなぼくはジェスクヤにとっての譲れない点を一つだけ知っている。
彼女はぼくのほとんど全てを受け入れてくれるけれど。ただし絶対に、「性欲を吸うのを我慢する」とは言わない。
「……こういうのって普通、男の方が思うことかと思ってました」
「こういうの?」
「……なんかこのままエッチ無しの友情の関係みたいになったら、すごく嫌だなぁ……って」
「…………爪詰くんがそっちの方がいいっていうなら、努力はするよ」
「いやいやいや」
ぼくは彼女の目を見る。本気で不安に思っているからなのか、そこにいつものような余裕と慈悲の笑みは面影すらなかった。……しかしそれでも、ジェスクヤの姿はただ佇んでいるだけで、ぼくにとって象徴的なものだ。
たしかにドライブ中は久しぶりの再会が嬉しくて、ある意味本調子ではなかったかもしれない。けれど今はもう……少しでも彼女の尊厳を性欲発散の玩具にして遊んでしまった今はもう、違う。
サキュバスには近場の他人の性欲を察知する能力がある。……だから彼女はぼくと目が合った少し後に、くしゃっと笑った。
「あっはは! え〜? 爪詰くん、私の顔見るだけでムラムラしちゃうんだ?」
「まぁ、セミに邪魔されなければ」
「え〜、そっかそっかぁ。……じゃあ今後も会うたびに、そういうことしたいって思ってくれるんだ」
「……性欲ってそういうものでしょ」
「あ、照れてる。かわいい〜」
「照れてはないです」
「あはは、そっかそっか」
不安を払拭したジェスクヤが、身を乗り出してまで頬をつついておちょくってくる。ぼくはそれにされるがままになっていた。照れと恥の区別は難しいけれど、どちらにしても彼女からからかわれることは嫌いじゃない。
けらけら笑いながらちょっかいをかけてくる彼女が、しかしなんだか今日は一段としつこい気もした。「照れるなよ〜」とくすぐってきたりもして、ぼくはさすがに逃げ惑う。
……機嫌良さそうに笑っていた彼女の顔が、コインを裏返すようなほんの一瞬のきっかけで、明るさとは真逆の印象へとクシャクシャに歪んでいく。
「…………そっかぁ。よかったぁ……」
彼女はいつの間にか泣いていた。
「えっ……」
「あ、ごめん。なんかホッとしたら……。ごめんね、びっくりさせちゃった」
涙を拭ってニッと笑った彼女は、すでにいつもの雰囲気に戻っていた。
サキュバスにとってエッチが出来なくなることは……そうなるかもしれないと恐れることは、そこまでつらい物だったのか……? ぼく自身も多大な性欲を持て余している……エッチ無しは考えられない同じ穴のムジナなのに、気持ちだけは一人前にジェスクヤのことを心配していた。本来なら何の心配もないことだったのに、噛み合わせが悪くて不安にさせて、それに気づきもしないで、悪かったな……と。
ぼくのような人間に、普段とは真逆の構図で心配されたことを魔法で察知して、それがよほど面白かったのか。ぼくがその涙に狼狽えてから間もなくして、彼女はまた楽しそうに笑い始めた。
どうせまともに他人を心配し切る気概なんてぼくにはない。それが露呈する前に笑ってくれるなら、その方がよかった。
「あははっ、あっはは! あ〜、もう。爪詰くんって本当に本当に、本っっ当に可愛いね」
「ど、どうも」
「男の子なのに可愛いって言われるの嫌じゃないところも可愛い」
「嫌じゃないっていうか……。まぁ間違ってもカッコよくはないし、ポジティブな感じだからいいかなって」
「うんうん。そうだよ、爪詰くんはそれでいいの。ずっと可愛いままでいてほしい。……ね、ぎゅーってしたい。いい……?」
「え、あ。うん」
ぼくが反射的に頷くと、「おいで」と両手が差し伸べられる。座席と座席の間の物置きを飛び越えるみたいにして、ぼくは彼女の胸の中に飛び込む。
お日様の匂いに顔をうずめて抱かれていると、すごく安心する。頭を撫でられるともっと心地いい。そしてこの瞬間もまた彼女の性癖の内なのだと思うと、全てを許されたような気分になる。
冷房の唸る音だけが、しばらく二人きりの空間に響いていた。
「……爪詰くんって、魔法の条件は気にならないの?」
「え?」
唐突すぎる切り出しに、言われたことの内容が一瞬本当に分からなかった。
「心を読む魔法には発動条件がある〜みたいな話を、最初の頃にしたでしょ? でも一向にその条件について聞かれないなって」
「……あー。ありましたね」
「爪詰くん的には、そのあたりはどうでもいい感じ?」
「いや、どうでもいいっていうか。一緒にいる時は明らかに常に発動してるから、もうそういう物だと思うしかないのかもと思って」
「え〜、諦めいいなぁ。普通の人は心読まれるの結構嫌がったりするのに、爪詰くんは全然動じないもんね」
「あー。まぁ、普通の人には程遠いですからね、悪い意味で」
「ふふっ、まぁそんなこと言わずに。……実際それが魔法の条件なんだからさ」
「え? それって?」
「相手が、他人に心を読まれても構わないって思ってること。それが私の魔法の条件なの」
「…………えっ、ぼくさすがに普段からは思ってないですよ」
むしろ、隠さなければと思うことの方が多い。家族といる時に感じる「許せない」の気持ちだとか。あるいは女性を見た時に沸く性欲だとか。
そう、ちょうどあの中華屋でジェスクヤに初めて遭遇した時、ぼくは思っていたはずだ。若い女性客が見られてちょっと嬉しくなってしまったことを、決して本人に悟られてはいけない。家族の一挙手一投足にイラついていることを、本人たちに悟られてはいけない。……間違いなくそう思って暮らしていたはず。
けれどジェスクヤは、「ううん違うよ」とそれを否定する。
「爪詰くんはね、普段からずーっと、誰かに自分のことを理解してほしい、認めてほしい、助けてほしいって思ってるの。だから私の魔法にその声がダダ漏れなんだよ。あの時ご飯食べてて、爪詰くんがお店に入ってきた瞬間に分かったもん。あ、逸材が来たって」
「逸材って……」
光栄ではある。複雑でもある。そして、もしそこで彼女の魔法のセンサーに引っかかっていなかったら……と想像すると、ゾッとする。あるいはぼくがあの時トイレに立たなければ、彼女はぼくに声をかけることを諦めていたのだろうか……?
考えたくないことだ……と。もう済んだことの不安は、さすがに自力で振り払う。ジェスクヤはずっと愛おしそうに、ぼくの頭を撫でてくれている。
「それでね、爪詰くん。もう一つ聞きたいんだけど」
「うん……?」
「サキュバスは嘘泣きが得意ってことは、もう知ってるよね?」
「え、うん」
魔力で体の機能に融通が効くから、嘘泣きくらい簡単にできると聞いた覚えがある。
「……さっき私が泣いたのを見た時、嘘泣きだって思った?」
「えっ」
……それは正直まったく思わなかったけれども。
しかし、それはそうではないか? いったい誰があの状況で嘘泣きを疑う? プレイ中でもあるまいし、そもそも嘘泣きをする意味がないのに。いくら薄情な自分でも、そんな意味のない疑い方をしたりはしない。
「……いや、あのタイミングで疑う人なんていませんよ」
「ふーん……? じゃあさ、爪詰くんはどうして。……どうして普段のにこにこしてる私を見て、本当は泣くのを我慢してるのかも……とは思わないのかな?」
「…………え?」
「体に融通が効くってことは、涙を無理やり引っ込めることも出来るってことだと思わない? 本当は泣きたいのに必死で耐えてるのかもって、ねぇ? そういうのを本気で考えたことは、一回もないよね?」
「……え、あ、えっ?」
まず真っ先に、ぼくは思った。
……あれ、なんか変じゃないか?
彼女の指摘は盲点だった。盲点かつ、理屈はごもっともだった。確かにサキュバスが嘘泣きを得意としている理由が体質なら、泣くことを我慢する力だって相当な物だと考えられる。……けれど、しかし、ぼくは、なぜそれを今まで考えなかった? 考えたくなかったからか? いや、違う、考えはした。それも何度も。けれどすぐにその考えをナンセンスだと切り捨てた。何度もそうした。「彼女には喜んでいるフリをする理由がない」と、「だから本当に喜んでいるのだ」と、彼女の尊厳を踏みにじるたびに思っていた。
それを「本気で考えたことがない」と言われれば、否定はできない。サキュバスの体質の逆説にすら気づけなかったのだから、突き詰めて考えたとはいえない。それに、「すべて平気であってほしい」という願望がなかったといえば嘘にもなる。……けれどそれらは全て、そもそも考える必要がなかったことだ。さっき嘘泣きを疑わなかったように、魔法の条件を気にしなかったように、あるいは明日太陽が燃え尽きる可能性をぼくが本気で考える必要などどこにもないように。必要がないから、考えなかったのだ。
……そう自分に言い聞かせても、心臓がギュッと締め付けられて苦しくなる。今までジェスクヤは何回も何回も、数え切れないくらい多くの場面で、あり得ないほど悪辣なシチュエーションで、ぼくのことを「大丈夫だよ。受け入れるよ」と笑顔で全肯定してくれた。……その全ての裏に、無理やり封じ込めた涙があったとしたら。本当は彼女も、他の人がつらいと感じることを順当につらいと感じていたのだとしたら。いや、彼女に限ってそんなことはない、あるはずがない……と思っていても、心が締めつけられる。苦しい。不安がゲロになって喉をせり上がってくるのではないかというほど、安らかではいられなくなる。
……しかしそこで思ったのだ。何かが変だ、おかしい。今までにもジェスクヤは、茶化すためにわざとぼくのコンプレックスを突いてきたことはあったけれど。でもそれは完全な盲点から来る物ではなかった。彼女は、ぼくに「新しい不安」を植え付けるようなことは絶対にしなかった。それは心を読める彼女による、間違いなく意図的なことだった。
…………じゃあ今のはなんだ?
ぼくは思わず頭上を見上げる。聖母が見下ろしているはずの頭上を……いつもの彼女の微笑みを、この目で確かめようとする。
すると実際、彼女はにっこりと笑って、ぼくのことをジッと見下ろしていた。好意と慈しみに満ちたいつもの笑顔だった。ぼくの好きな、見ると安心する、ジェスクヤの微笑みだった。
……だけど、あれ? なんでだろう。いつも通りであるはずなのに。
彼女は以前からこんな目をしていたんだっけ……? と、心の中がざわつく。
「はぁ、可愛い。可愛い可愛い、爪詰くん。私の爪詰くん」
見上げたぼくの額に、彼女が情熱的なキスをする。頬を両手で掴まれて、ジッと目の奥を覗き込まれる。
「ね、爪詰くん。「お前となんか体目当てじゃなきゃ会わねぇよ」……って言ってみて」
「……は?」
「私とエッチできなくなるの嫌なんでしょ? じゃあ、それってそういうことじゃん。だからほら、言ってみて。受け入れてあげるから」
「え……。あ、でも……」
「なに?」
「…………なんでそんなこと言わせようとするの?」
「……言いたくないの?」
眼前で愛おしそうにとろけていた目が、途端に悲しみを帯び始める。それでぼくはハッとして、今日の彼女としてはそれを言ってほしい気分なのかな……と、気持ちを切り替えた。
……友達兼セフレだと言ってもらえた時、友情も性愛も、ぼくは両方とも嬉しかったのに。両方だからこそ嬉しかったのに。
「……お、お前となんか、体目当てじゃなきゃ会わねぇよ」
「もっと強く言って」
「お前となんか、体目当てじゃなきゃ会わねぇよ……!」
「もっとひどい感じで言って」
「え……? ……ひどい感じって?」
「クソ女、とか言って」
「……お、お前となんか、体目当てじゃなきゃ会わねぇよ! クソ女!」
「……ふふっ、か〜わいい。ねぇ爪詰くん、今どんな気持ち?」
恍惚とした表情で、彼女はぼくのことを見下ろしてくる。……お日様の匂いがなぜか、急に毒々しい物に感じられた。
やっぱり何かが違う、何かがおかしい。ぼくの知っているジェスクヤは、今のような目をする人ではなかったはず。今のようなことをさせる人ではなかったはず。
どんな気持ち? と聞かれたから、心の片隅で鳴る警鐘がどんどん大きくなっていくことを感じながらでも、ぼくは答える。
「……い、嫌な気待ちがする」
「どんな風に?」
「なんか、……だって、言いたくなかったのに」
「ふふ、知ってる。爪詰くんは、私の心も欲しいって思ってくれてるんだもんね? 友達とセフレを……いや肉便器とか性奴隷かな? 友達とそれを、自分の都合で行ったり来たりしたかったんだもんね?」
「……な、えっ、なんで」
なんで、そこまで分かっているのに、あんなこと言わせたの……?
そう抗議の気持ちが沸いた時、脳裏に嘘泣きの話がよぎった。サキュバスは、泣いていないからといって、泣きたいと思っていないとは限らない。人間以上に。
…………ならこれは復讐なのか?
「復讐なんかじゃないよ。そんなことしない。私、爪詰くんのこと大好きだし、一つも恨んでないもん」
「じゃあなんで……! ……んっ!?」
掴まれた頬を引き寄せられて、ぼくは唇を塞がれた。遠慮なしに舌まで入ってきて、サキュバスの体液の匂いと、今までそこから得てきた興奮を条件反射で思い出してしまうような粘膜の感触が、乱暴に送り込まれてくる。
なんとなく期待されている気がして、ぼくも舌を絡め返した。すると彼女は満足したかのようにぼくの頭を撫でて、突然の深いキスを打ち切りにする。
「可愛い、可愛い。完璧に可愛いね、爪詰くん。こんな時でもキスを嫌がらないどころか、舌まで絡めてくれるんだね」
「なっ……。だってそれはそっちが」
「私がすることなら抵抗しないの?」
「……いや、それは、物にもよるだろうけど」
「人に見られるのが不安なのに、コンビニの前でも大して抵抗しなかった。野外でするのは趣味じゃないのに、公衆トイレでフェラさせてくれた。……ね〜え、本当に私に抵抗できるの?」
「そ、それは……。そりゃ出来る、出来ますよ。嫌なことは嫌なんだから」
「ふーん?」
敵意の欠片もない疑いの眼差しを向けながら、彼女がぼくの手を取る。そのうちの中指を、はむっと慣れた所作で口に咥える。
今まで散々彼女の喉をその指で嬲ってきた記憶がよみがえる。……この後に及んでぼくは自分が加害者のつもりでいたのかもしれない。
「強く噛んでいい? 肉がえぐれて、血が出るくらい」
「……え?」
「拒否しないと本当にするからね。……ご〜、よ〜ん、さ〜ん」
「あ、えっ、えっ……?」
「……いいの? 痛くするよ?」
ぼくは、首を小さく横に振ることが精一杯だった。
幸いにも彼女は、こちらをちゃんと見ていてくれた。拒否のジェスチャーを確認するや嬉しそうに目を細めて、唾液まみれになった指を手放す。
「わ〜、ちゃんと拒否できたね〜♡ 声出せないくらい怯えちゃって、女の子みたい♡ 可愛いねぇ、頑張ったねぇ♡」
おちょくるように褒めちぎって、ぼくの頭を胸に抱え込むように愛でる。……彼女は今までで一番ではないかというほど、見るも明らかに上機嫌だった。酒に酔っていると言われれば思わず信じてしまいそうだけれど、しかし今の彼女は、どう考えたって素面だろう。
ぼくは耐えられなくなって、彼女の抱擁から逃れる。安堵と満足感の象徴であったはずのそこから自ら逃げ出すなんて、初めてのことだった。自分がそれをしたことが、我ながらすぐには信じられなかった。
「あら、逃げられちゃった」
「……な、なに? 何なんですか……? ジェスクヤさん、なんかおかしいですよ」
「んー? そう見える?」
にやけ面のサキュバスが、挑発じみて舌を出す。愉悦に歪んだ目の奥に、ぼくの知らない彼女がいる。
「私はね、爪詰くんが私から離れられなくなるようにしたかったの。それで、そろそろかなって思って。試してみてるだけだよ」
「試す……? なにを……?」
「んー。このくらい勝手なことをしても、爪詰くんなら許してくれるだろうなー。……みたいな?」
えへへ、と彼女は笑う。屈託のないように見える、優しさや慈悲の象徴のようにも見える、ぼくが救世主だと思っていた人の笑顔。
それが今は、今までとあまりにも変わり映えがしなさすぎて、いっそ不気味に見えた。
「爪詰くん、爪詰くん。自分のことを賢いと思ってるみたいだけど、気にしなきゃいけないことを気にすることもできない、単純で弱っちくて騙されやすくて、とってもとっても可愛い爪詰くん。…………実は私は、君に話さなきゃいけないことがあるんだよね」
「…………はぁ? え、なに……なんですか」
「うん、実はね〜。私、君のことを全部受け入れるって言ったけど、あれはちょっとだけ嘘なんだ」
「…………嘘?」
「うん。だって私、いつまでも君と一緒にいられるとは限らないから」
「……………………は?」
車内に広がる二人きりで心地よかった夜更けの静寂が、急に危うくて恐ろしい物に思えてくる。死が喉元まで迫っているような、生活の中にあって不自然な静けさが……無音の間が、本能に冷たく訴えかけてくる。
ぼくは適応しようと思っていたのに。今後のジェスクヤが今みたいに、ぼくのことを愛玩動物みたいに扱おうというなら、それはそれでこちらとしても割り切ってやっていこうかなと、今さっきそう思ったのに。そういう割り切り方をしてさえ、まだぼくは、彼女に頼れば、頼っている間その瞬間は、幸せになれると思っていたのに。
なのになんで、そもそも一緒にいられなくなるなんて話になるんだ? 何かそれはだって、おかしい、話が違う。ジェスクヤは、そういうことはしないって、そういう約束だったはずなのに。
「……え、一緒にいられないってなんですか? どういうこと?」
「いや、決まった話じゃないんだけどね? 可能性の話として、この先、旦那が仕事で転勤になる可能性があるでしょ? ……そうなったら私はそれについて行くから、爪詰くんとはお別れになっちゃうんだよね」
「……な、なんで? なんで行っちゃうんですか」
「なんでって?」
「ぼくのことを受け入れてくれるって、全部! 言ったのに、なんで、「行かないで」っていうのは、ダメなんですか……!?」
「うん、ごめんね。爪詰くんが私を追いかけて引っ越してきて、これからも毎日エッチしようねとか、そういうのなら全然受け入れるけど。でも私が一人で残るっていうのは無いかな」
「なんで!?」
「なんでって。だってそりゃ、私だって旦那のこと大事だし」
「ぼくのことは……?」
「大事だよ? もちろん。……でもそうだなぁ、なんて言うかなぁ」
ホルダーにかかっていた飲みかけのペットボトルを手に取って、蓋をひねりながら、彼女は今思いついたみたいに言う。
「……あれだ。私は爪詰くんのことを全部受け入れるんだけど、私の旦那がそうとは限らないんだよ」
「…………はぁ?」
「いや、はぁ? じゃなくてね。……爪詰くんは今、人妻に手を出してるんだよ? 毎日エッチすることは直々に許可されてるけどさ。それと旦那を捨てるみたいなことは違うじゃん。優先順位っていうのかな。……そういうところ節度を持たないと、爪詰くんだってご両親を巻き込んで揉めたくはないでしょ」
「……な、はっ? えっ……。…………脅してるんですか?」
「どこがよ〜おバカ。逆、逆。将来一緒にいられなくなっても、私のこと脅したりしないでねって話をしてるの。お互いのために」
「……は? ……はぁ? おどっ、脅すって、なに? 違うじゃん。そういう話じゃないじゃん。あなたがぼくを受け入れてくれるっていうから、全部っていうから」
「だからごめんって」
「…………ごめんってなんだよ」
ぼくの目はその時すでに、凶器になる物を探していた。べつに欲しかったわけじゃない。あるのかないのかを、確認しておきたいだけだった。
飲みかけのドリンクをぐびぐび飲んだジェスクヤが、ボトルの口をこちらに差し向ける。
「飲む? 間接キス」
「…………」
ぼくは間接キスとかいう概念ではしゃぐ人のことが嫌いだ。衛生面を除けば気持ちの問題以外の要素が存在しなさすぎるのに、馬鹿な人がみんな、まるでその行為の過激さが物理的に自明であるように、ロクに分別もつけられていないようなはしゃぎ方をするから。
ジェスクヤは魔法でそれを知っているから、意地悪な笑みを浮かべていた。今回に関しては本当に、それはただの悪意だったように思う。
「間接キスなんてどうでもいいって思ってるのに、そうじゃない人たちに気を遣って生きるのしんどいね」
「…………」
「転勤の予定なんて今のところないって言われても不安だよね。二十年住んでた場所から、親の仕事の都合で離れてこっちに来たんだもんね? 何人かいた友達とは全員会えなくなっちゃったもんね。実感あるよね、いつか転勤するかもって話題は、怖くなっちゃうよね?」
「…………」
「ごめんね? でも私は、爪詰くんのその気持ちもちゃんと受け入れるから。一緒にいられる間は……もしかしたら一生? 君のことを全部肯定してあげるから。だから大丈夫だよ」
「……何が大丈夫?」
「ん?」
「そうだよね怖いよねっていくら言われても、言われるだけじゃ、怖さがなくなるわけじゃないのに。それで何が大丈夫なんです……?」
「……んー。でもさ爪詰くん」
受け取られなかったボトルは再びホルダーにかけられる。ジェスクヤが身を乗り出して、助手席にいるぼくにシートベルトを締め始める。
密着する体からは、こんな時でも相変わらずいい匂いがする。安心している場合ではないはずなのに。
「爪詰くんはもう、私から離れられないじゃん。大丈夫かどうかとは関係なく。……私にさよなら言える? もういらない、顔も見たくないって、言える?」
「……………………」
答えたくなかった。魔法で答えを覗かれることを恥だと思った。……だけどきっとそれでも、ぼくは彼女の魔法の条件から外れられないのだろう。
運転席に戻って落ち着いた彼女は、しかし一向に車を発進させる気配がない。大した意味もなくシートベルトを……この場に緩やかとはいえ人を拘束するそれを締められたのだと知って、ぼくは諦念を覚えた。自分は本当にされるがままで、自らの力で何かを選ぶことなんて滅多にできないのだと。彼女はぼくにそれを突きつけているのだと。
けれどその諦念は、ふつふつと煮えるような怒りとは矛盾しない。
「ねぇ爪詰くん、こっち向いて」
言われた通りに彼女の方を見ると、うっとりとした表情の悪魔と目が合う。
「爪詰くんは、私の性癖に安心してたよね。自分にとって都合がよくて相性もいいって」
「…………」
「でもね私、今の君の顔を見るのが一番興奮する。……自分じゃ何もできない大人が、自分勝手な理由で、大好きなはずの人に殺意を向けてるところが、一番好き」
「……殺意?」
「私のこと殺してやりたいって思わない? 全部受け入れるなんて軽率な嘘をついて、君の心をもてあそんだ女だよ?」
「…………そうだけど」
ぼくが救世主だと思っていた人は、ただの悪魔だった。ずっと心の中でぼくのことを嘲笑っていたのだ。簡単に依存して、満足に反抗もできなくなって。そんな男をちょっと突き放してみてその反応を眺める日を、この悪魔はずっと楽しみに生きてきたのだろう。
殺意があるかと言われたら、どうなのだろう? 殺してやりたいだとか、烈火のごとく怒り狂っているわけではない。でも確かにぼくは、父と口論になった時に似て、今、こう考えている。
……この人をこのまま無傷で生かしておいていいのだろうか?
SNSなんかではよく「世の中には「よく今まで誰にも刺されずに生きてこれたな」って感じの人がいる」と、この世の救えなさにコメントしている人がいる。人嫌いのぼくはしかし、その手の書き込みをくだらない物として考えている。実際に他人を刺しもしない人が「よく刺されずに」なんて言うことはちゃんちゃらおかしいからだ。自分がその人を刺さないように、他人もその人を刺さない。ただそれだけのことなのに、何を不思議がったり感心したりすることがあるのかと、発言者の知性を疑ってしまう。
だからこそぼくは、ジェスクヤに対して「こいつをこのまま生かしておいていいのか?」と思った時、まず凶器を探した。実行するかどうかを検討する前に、それが可能かどうかを検討する必要があると思ったから。
ジェスクヤを殺害することそれ自体は、どうしたって不可能である。彼女は不死身のサキュバスだ。バラバラにしても死なない。……けれどそれとこれとは話が別で、要するにぼくは、生物学的な意味ではなく哲学的な意味で「驕った彼女を殺すべき」なのかもしれなくて、そのためにはどうするべきなのかという話なのだ。
……でも本当は、それが的外れだと分かっている。ぼくは彼女の裏切りに「どうして」と怒りを感じているけれど、人を刺せる人の怒りというものは、きっと思考の形をしていない。頭で考えているぼくに出来ることはないのだと、煮えたぎるはらわたを頭で感じながら分かっている。
感情は腹に溜まると言ったジェスクヤはやはり的確だった。彼女が成り行きによっては平気でぼくを見捨てるのだという事実を頭の中で噛み締めるほどに、胃のあたりがグツグツする。ぼくは彼女を殺すべきなんじゃないか? 出来ないと分かっているけれど、でも、ぼくにこんな思いをさせた相手が、何のお咎めも無しだなんて。同意の上で犯す罪とは訳が違うんじゃないのか……?
騙し討ちがこの世で最も罪深い。なぜならこんな風になるから。ぼくはあの時決めてから、自分の身を守るため以外に嘘をついたことなんてないのに。ジェスクヤを騙したことなんて一度もないのに。彼女の嘘は、ぼくよりも遥かにクズの嘘だ。
「それが出来るんだよ、意外と」
彼女の肉声によって紡がれる言葉が、ぼくの心の声に直接返答する。にこにこ嬉しそうな顔で、ジッとこちらを観察しながら。
「DV男ってね、自分の怒りを伝えたくてわざと怖いことをするんだよ。どうすればこの怒りを伝えられるんだろうって、血管がはち切れそうな頭で必死に考えて、顔に熱湯をかけてきたり、背中を何度もフォークで刺してきたり……。だから爪詰くんもきっと出来る。いいよ、気持ちのままに動いて? 私は全部受け止めるから」
「…………」
「普段あんなにひどいプレイが出来るんだもん、いけるって。がんばれっ」
……たぶん、それでもぼくには出来ないと分かった上で、彼女はぼくをおちょくっている。それでもぼくが彼女のことを突き放せないと分かっていて、それを確かめることを楽しむために。
スーッ……と。それを受けて、怒りが冷めていくことを感じる。無論許したわけではない。ぼくは誰のことも許さない。……ただ、まるで見てきたかのようなDVの話に、頭が冷静になってしまった。
サキュバスらしくきっと経験豊富なジェスクヤ。その過去のセフレたちは、いったいどこへ行ったのだろう? ぼくの知らないところで未だに関係を継続しているのか、それとももう縁が切れてしまったのか。彼女はいったい何歳で、これまでに何人と関係を持ったのだろう? ……ぼく以外の人もみんな、ぼくと同じような経験をしたのだろうか? あの旦那も? だとすればジェスクヤから最優先扱いされる彼はいったい何者なのだろう……。
……一つだけ確かなのは、ジェスクヤがここから見える夜景の美しさを知っていたのは、きっと旦那と見に来たからなのだろうということ。
嫉妬の心はぼくには分からない。だけど、糠に釘のむなしさなら分かる。
ぼくがどんな風に怒りを発露しても……表現しても、ジェスクヤにとってそれはプレイでしかなくて、それどころか彼女の旦那にとっても、きっとそうなのだ。今までずっと気にしていなかったくらい、彼女が誰を一番に愛しているだとか、そんな話はぼくにとってどうでもいい物だと思っていたのに。ぼくに優しくしてくれるならそれでいいと思っていたのに。なぜなのか今は、自分一人だけが必死に怒り狂うことを想像した途端に、馬鹿らしくなってしまった。
何になのかは分からないけれど、「負けた」と感じた。恐怖からでもなく美学からでもなく、ただ漠然と、心が白旗を上げていた。
「よしよし、そっか、出来ないね。うん。でもいっぱい考えて頑張ったね。よしよしだよ」
意味もなくシートベルトを締めたまま、どこを見るでもなく目を泳がせて。されるがままになるぼくは、怒りの反動が来たかのような無気力で、考えることを半ば放棄していた。
彼女に頭を撫でられると、本能が安らぎを思い出してしまう。今新たに生じるものがなくても、すでにこれまでに得た好意が連想的に引き出される。ぼくが彼女に対してよほどのことでない限り抵抗する気が起きないのは、たぶん全てこの感覚の延長線上にあることなのだと思う。
そしてそれは、彼女の手がするすると体のラインをなぞるように下へ下へと降りてきても、依然変わらないことだった。
「嫌な気持ちにさせちゃったお詫びに、今日は性欲吸わないで、満足するまでずーっとフェラしてあげる」
お詫びというわりには強引に、彼女は下を脱がせようとする。こちらが腰を浮かせるまでもないすごい力で、抵抗しないぼくを人形みたいに扱う。
吸わないも何も、はたして今のぼくに性欲はあるのか? 自分でも分からなかった。それで、脱がされた姿を自分で見た時に初めて、己の無気力に応じて、そこにある物も小さく落ち込んだままだったから、あぁいくら性欲の旺盛すぎる自分でもこういう時ばかりは人間らしく「そういう気分じゃない」と言えるのか……と安心した。
……が、その矢先。お構い無しに咥えられてからたったの数秒で、現金なそいつは元気を取り戻してしまい、条件反射の根深さを思い知らされることになる。
性的快楽の感触は、たとえ興奮に結びつかなくても、どうしても心地いい物だった。
「ふふ、大きくなった」
満足そうな彼女がこれみよがしにこちらを見てくる。ぼくはその口元に無意識に視線を吸い寄せられて、ふと、彼女に指を噛まれそうになったことを思い出す。
ぼくが何を思い出しても、彼女は嬉しそうな顔をする。
「大丈夫だよ。さすがにここで噛むとね、二度と信用してもらえなくなっちゃうから。それは嫌だもん。……そういうのちゃんと分かってるし、今日だって私、間違えなかったでしょ?」
「……間違えるって?」
「爪詰くんの信頼を失うようなことはしなかった。でしょ?」
「…………はぁ」
裏切っておいて何を……と一瞬思いかけて、合点がいく。
必ずしも一緒にいてくれるわけではないと突きつけられた時、ぼくの中での彼女の信頼は崩れ落ちたものだと思っていた。けれど違った。
ぼくはまだ、転勤云々さえなければ、彼女はずっとぼくと一緒にいてくれるのだと信じ込んでいる。そこを疑うことが出来ない。疑うに足る理由もなければ、そもそも疑いたくないから。そういう意味でジェスクヤは確かにずっと上手くやっている。ずっと何も間違えていない。
ぼくがそのことを理解すると同時に、彼女はにっこり微笑んで、お詫びの奉仕とやらに戻っていく。今日の彼女はパフォーマンス的な過激さを含むいつもと違って、サキュバスがサキュバスなりに勝利の味を堪能するような、じっくりと味わうような舌遣いをしていた。
背もたれに全体重を預けて、そのまとわりつくような快感を受け入れながら、ぼくはぼんやりと先のことを考える。自分はこれからどうなっていくのか。彼女はこれからぼくをどうするつもりなのか。もう昨日までの幸せは失われてしまったのか? ……昨日までのぼくは幸せだったのか?
ジェスクヤは明日からもぼくに優しい気がする。これまでと変わらずに全てを受け入れてくれる気がする。けれどそれと同時に、ぼくは彼女のせいでトラウマを増やしていく気がする。よくない方向に感情をかき乱されて、それを嫌だと感じることすらできないような、そんなことが何度も起こる気がする。それはいったいどんな生活なのだろう……?
……あぁ、でも、一番悲しいのは。ぼくにそんな混沌をもたらすジェスクヤが、今のぼくが知る中で、ぼくの人生にとって、もっともマシな他人であるということだ。いや、マシなんてものじゃない。彼女はこれでも依然として、ぼくにとって一番良い人なのだ。他の全ての他人は、あの夜景の中にある物は、ぼくが知る限り今のところ全てがクソだから。
家を抜け出してからどれくらいの時間が経ったのだろう。夜は深まるところまで深まって、元々体力のないぼくの意識は、延々と送り込まれてくる気持ち良さの中で薄れていく。瞼が重くなっていくことは自覚できても、それを持ち上げることがどうしてもできなくなっていく。
やがて真っ暗に閉じた世界の中で……あるいは夢の中で。ぼくは遺言めいて縋るように思った。
もう二度と目が覚めなければいいのに。
「……くん。爪詰くん、着いたよ? おーい。起きてよ〜、もう外明るいって、ねぇ。おーいってば」
「ん……」
気がついた時には窓の外で空が白み始めていて、いつの間にか下山した車は知らない場所に……と一瞬思いかけたけれど全然そんなことはなく、普通に自宅近くのコンビニの駐車場に停まっていた。
寝起きで頭の回らないぼくにジェスクヤが飲み物を渡してくれる。ぼくはぼーっとしながらも渇いた喉を潤す。昨晩から開栓済みのそれはすっかりぬるくなっていた。
「大丈夫? 帰れそう? 車で家の前まで行ったらバレるかと思ったんだけど」
「……うん。大丈夫」
自分が下を穿いていることをきちんと確認してから、シートベルトを外して車から降りる。車体の青色を改めて見ると、夜中に見た印象よりももう少し鮮やかな色味をしていた。
「じゃあ、よかったらまた呼んで」
「はい。じゃあ、また」
「うん。気をつけてね」
何事もなかったかのように無難な挨拶を交わしながら、ぼくはバタンと確実に助手席のドアを閉めた。しばらく歩いても背後から発車の音が聞こえてこないから振り返ってみると、走り出す気配のないそれの運転席で彼女が何かのジェスチャーをしていた。目が悪くてよく分からなかったけれど、たぶん手を振っていたのだと思う。ぼくも振り返しておく。
彼女に対する負の感情は、夢の中にでも全て置いてきてしまったかのように。モヤがかかったような再起動後間もない頭の中には、刺々しい物が一つも残っていなかった。
家の前まで来たら、おそるおそる玄関のドアノブを引く。……すると幸い、鍵もチェーンもかかっていなかったそれがゆっくりと開いた。昨晩の両親は戸締りを改めなかったらしい。
両親の寝室は一階にある。ぼくは可能な限り音をたてないように慎重に、薄く開いたその扉から、風に流されて滑り込むプリント用紙のように隙間を縫って帰宅した。慎重に扉を閉めて、退けてあったベルをこれまた慎重に内側のドアノブに付け直してから、少しずつずらすようにして靴を脱ぎ、忍び足で階段を上る。
自室の冷房を切り忘れていて、部屋に戻るとご褒美のような涼しさがぼくを出迎えた。それで今日初めて、早朝でも夏は依然として暑いのだということを思い出した。
無事に帰宅できたことをジェスクヤに伝えようとしたのか、それとも無意識のルーティンだったのか。ベッドに腰かけたぼくは、忍び足の緊張を経てもまだモヤの晴れない思考力のまま、パジャマのポケットからスマホを取り出す。
するとそこに先回りするかのように、さっき手を振って別れた彼女からのLINEが入っていた。
『これ、記念にあげる』
その一言と共に、何か短い動画が添付されている。サムネの暗さと「記念」ということから察するに、昨晩に撮影された物だろうか。
なんとなく嫌な予感がして、ぼくは音量を最小限にまで下げてから、その動画を再生した。
音量に関しては杞憂だったけれど、画面内には半勃ちのペニスがはっきり映り込んでいた。停車した車の中を映したその映像で、下半身を丸出しにして助手席に座っている男は……まぁ当然ぼくだろう。自分のちんこを見てそれを確認する日が来るとは思わなかったけれど。
こちらが寝落ちしたあともフェラをし続けたことの証明だろうか? 律儀だなぁ……とのんきなことを思っていると、不意にカメラの方を見て得意げに微笑んだ彼女が、空いている片手に自身の唾液を垂らして見せた。
どろりと大量に手のひらへ落ちたそれには、白い痰のような物が濃く混じっている。
『寝てる時なら射精できるんだね☆』
……動画の下にもう一行、そんなメッセージが入っていた。
あぁ、それは試したことがないから、知らなかったなぁ。……と、ぼくは他人事のように思った。