SOS はらわた喰いの悪魔(Sadistic-Offal-Succubus) 作:氷菓くん
サキュバスは不死身だ。不死身の怪物が、窒息程度で取り乱すわけがない。
実際、菅野愛佳は一度も息継ぎを要求してこなかった。人並みに苦悶の声を上げながら体を震わせるものの、どれだけ乱暴に扱われたところで決して口を離そうとはしないし、ギブアップの意思表示をすることもない。ぼくはそれをいいことに、彼女に延々と喉奥イラマを強い続けた。そしてある時ふと壁掛けの時計を見上げると、記憶が正しければおそらく三十分以上の時が経過していた。
ぼくがそれを認識したのとほぼ同じタイミングで、それまでずっとされるがままになっていた彼女が、こちらの太ももを軽く叩いた。緊急のギブアップを訴えるにしては穏やかすぎるそのタップに、しかし何か明確な意思表示を感じて、ぼくは彼女を解放する。
「……ぷはっ。けほっ、こほっ。…………ごめん、ちょっといい?」
「はい?」
「爪詰くんさ、もしかして、イくの我慢してる?」
「……あー」
図星だった。
イラマチオには喉奥キープというものがある。それは陰茎を奥まで咥えこませたまま頭を押さえつけて、相手が窒息寸前になるまでそれを維持するという拷問みたいな行為なのだけど、そもそもイラマ自体が拷問まがいのプレイであり、また相手の苦しむ姿を眺めて楽しむことが半ば前提化しているプレイなこともあって、イラマが許されるなら喉奥キープも許されることが大半だとぼくは思っている。
ただぼくはそのキープを、ストロークを止めさせて射精感を落ち着けるための「休憩時間」として使っていた。
キープしている間、女性の方は地獄だと思う。息はできないし、嘔吐反射に襲われるのに逃げ場はないし……。けれどその一方で男の方は、気持ちいいのは気持ちいいけれど、動きがない分摩擦もほとんどなく、きっとそれを維持している限りは何時間あっても射精に至らない。もしも相手を心身ともに満足されることではなく、とにかく射精させることを目的にしているなら、喉奥キープは禁止にするべき行為だとさえ思う。
……けれど、大抵の女性は、あまりそういうことを深く考えていない。喉奥で時間を稼がれて根を上げた人の大半は「遅漏のくせにイラマするな、死ね」と思うだけで、自分が時間稼ぎをされていたのだということに気づきもしない。
だからそれを、交わって初日の相手にたかだか三十分程度で見抜かれてしまったことに、ぼくは正直動揺させられた。まったくの想定外だった。
いやしかし考えてみれば、相手はこちらの心を読む魔法を持ったサキュバスなのだ。ならむしろバレない方がおかしい。どちらかといえば冷静さを欠いていたのはバレた後のぼくではなく、バレる前のぼくだったのだろう。わけのわからない流れでいきなりセルフイラマを始められて全く頭が回らなくなっていたことを、今さらになって自覚する。
「なんで我慢するの? イくの嫌い?」
目の前に跪く彼女が上目遣いに問いかけてくる。
それを見下ろしているはずのぼくはしかし、向こうの方が遥かに優れた人格を有していて、自分は屈んで目線の高さを合わせてもらっている子どもになったような気分がしていた。
問われた時点で、すでに答えは筒抜けになっている。心を読まれるとはそういうことだからこそ、その魔法の使い手は積極的に質問をするのだろう。……ただどちらにせよ、ぼくの答える内容が何であれ、それが一旦生じたこの場の気まずさをどうにか出来るとは思えない。
「……好きか嫌いかで言うなら、まぁ、あんまり……」
「どうして? 気持ちいいのに?」
「……答える意味あります? 心を読むなら、もう全部筒抜けなんじゃ」
「うん。たしかに、答え自体はもう知ってる」
自身の顔のすぐそばでにわかに硬さを失いつつある棒を、彼女は励ますようにさする。その表情には年長者特有の慈愛のようなものが漂っていたように思う。
「でもね、思ってることを言葉にするのって、すごく大事なことだと私は思う。爪詰くんが何を思ってるのかは魔法で知れたから、今度はそれをどんな風に言葉にするのかを、ちゃんと聞いてみたいの」
「……なんで? 大事ってなに?」
「あ、もちろん嫌なら言わなくてもいいよ。私も無理強いはしたくないし。どっちにしてもイラマチオくらい何時間でもしてあげるから、気負わないでね」
言いながら、彼女は棒の先端に舌を這わせる。口淫への抵抗が一切ないことをそうやって見せつける。会話と性交の間に隔たる垣根が、彼女にとってはものすごく低いのだということを見せつける。
彼女はその調子で、ぼくのことをさらに誘惑してくる。
「けど、思ってることを口にして受け入れてもらえたら、すっごく気持ちよくて、安心できると思うなぁ。心を読む相手から「聞かせて」って言われたなら、絶対受け入れてもらえることが確定してるのになぁ」
「…………」
「いいんだよ? 他の女の子に言えなかったこと、ぜーんぶ私にぶちまけて。そのあと私のことをオナホにしても、性奴隷にしても、私は全部受け入れるよ?」
「……………………」
「爪詰くんの全部、私なら受け入れてあげられるのにな〜。我慢しなくていいのにな〜」
サキュバスの口から、男にひたすら都合のいい台詞が並べられる。返事を待つ間には舌も這わせて、多角的に理性を奪うかのように。
けれどもぼくは、似たような台詞をすでに、これまでの人生で何度も聞いてきた。そしてその手の台詞を口走ったうちの誰もが、有言実行には至らなかったことも見てきた。
菅野愛佳はきっと自分を過信している。彼女が不死身の怪物であっても、その過信だけは他の人間女性ときっと変わらない。
ぼくは彼女を試してやろうと、その無防備な頭に手を伸ばした。
「……え」
しかしその手は、いつの間にか彼女の細い指に、見た目と似つかわしくない力強さで掴み取られていた。さっきまで膝の上にあったその手が白刃取りをする様は、まさに目にも止まらない光景だった。
驚愕と共に見下ろした先で、彼女は艶めかしい笑みを浮かべている。それはまるで全てを見透かしたような微笑みで、実際、彼女はその表情にふさわしい人物なのだということが分かった。
ぼくは今、喉奥キープなんかよりももっとひどい方法でもって、同意を経ずに彼女を苦しめようとしたのだ。なぜならいくら心を読めるといっても、「読む→考える→行動する」というプロセスを踏む以上、必ず反応速度の限界が訪れると思ったから。……つまり彼女の「過信」は、今この瞬間にぼくが思いついた加害性が、無防備な彼女を襲う想定をしていないことにある。そう思ったから、それを本人へ分からせるために、我ながら冴えた発想速度と行動力でそれを行おうとした。
けれど彼女はそんなぼくの手を掴み、全てを見透かした顔をして笑ったのだ。ぼくが彼女に対して先手を取ることは、どうやら不可能なことらしいとそれで分かった。
ぼくの心を読み、それを踏まえた上で異様な速度で動ける彼女は、自身の能力を何も過信などしていなかったのである。
「……信用してくれた?」
掴まれた手があっけなく離される。まるで、拷問を受けること自体はやぶさかでもないのだという風に。
……それを受けたぼくの心が良い意味で折れる様も、きっと彼女には迅速に伝わったのだろう。
「座って話そうか」
スっと立ち上がり、ベッドに腰かけた彼女が、ぽんぽんとその隣に座ることを催促する。ぼくは脱いだものを穿くことも忘れて彼女の隣に座った。
ギシリと軋むマットレスの音が、茶々を入れるように鳴る。
「……それで? なんで射精したくないの?」
「……鬱になるから」
「鬱?」
「賢者タイム……ってあるじゃないですか。あれの、すごく重いバージョンみたいな」
「つらい気持ちになっちゃうの?」
「まぁ……」
「どんな風に?」
「…………今まで夢中になってたエッチの何が楽しいのかが一ミリも分からなくなって。自分が今まで女性に対してどれだけひどいことをしたのか、望んでたのかが、急に自覚できた感じになって。エッチ以外の他の楽しいこととかもなんか全部、そんなに言うほど楽しくない風に思えてくるっていうか、人生には大して楽しいことなんかなくて、この先ずっと何十年も、何の希望もないような気がして……」
「うんうん」
「でも所詮は賢者タイムだから、五分か十分かで元に戻るんです」
「なるほど、そっか。……元に戻ることが分かってても、安心できない?」
「そりゃ、だっておかしいでしょ。さっきどうでもよくなった性欲がまた優先順位の一番で、反省したはずのひどいプレイばっかりしたくなって、未来の希望なんかそんな壮大な話知らねぇ〜みたいな気分になって、じゃあ五分前までの自分はなんだったんだって」
「あぁ、うんうん。そっか、戻った時もつらいんだね」
「戻るのがつらいというか、そういうループがあるのも、それが分かってるのにどうしようもないのも嫌だし、それに、すぐに解けるって分かってても、一瞬でも「生きる希望がない」って感じるのが、本当に苦しいから……」
「だからエッチはしたいけど、射精はしたくないんだ?」
「…………そうです」
冷房の音が、やけにうるさく聞こえた。
ぼくがしたことは、すでに魔法で伝わってしまった心の内を、ただ言葉に直しただけ。普通の人が聞けばドン引きするような急な早口も、自分に対する甘さが隠しきれていない弱音も、初めからすべて相手に伝わっていることなのだから、口に出したところで何も特別なことは起きない。
けれど彼女が言った通り、確かにこれにはある種の快感が秘められているような気がした。思えばぼくは今まで、この手の話を誰かに口頭で行ったことはなかったから。
話したところで何も解決しないことのむなしさを改めて噛みしめながら、しかし密かに小さな満足感を得たぼくのことを、心が読める彼女は見逃さない。
「……爪詰くん、つらかったね。今までよく頑張ったね。話してくれてありがとう」
彼女はそう言って、ぼくのことを抱きしめた。恋人が好意を伝えたり確かめ合うためにするような物とはまた別の、胸に頭を抱え込むような、甘えることを許可するような抱きしめ方だった。
……それで正直、心の今まで感じたことのない箇所に、温もりを感じたような気がした。
ここでぼくが感涙でもすれば分かりやすかったのだろうけど。残念ながらぼくにそういうことは出来ない。ただそれでも、この人は今まで関わってきた他の女性とは何かが違う……ということは、よく分かった。
……しかしそんな彼女は、このままぼくを抱きしめて良しとするわけでもなく、気を取り直して性交に戻るというわけでもなく。すごく後ろめたそうな声をして、胸元に抱きかかえたぼくに向けて言う。
「……あのね、誤解せずに聞いてほしいんだけど」
「うん……?」
「もしかしたら私たち、相性悪いのかも」
「え……」
似たような台詞を、別れ話の中で幾度となく聞いてきた。そのどれもが納得のいく物ではなかったけれど、それでも今日の今ほどではなかった。
唐突に突き放された気分だった。
自分の芯から出た言葉を聞き、それを受け入れてくれた女性の胸に抱かれながら、その拒絶の台詞を聞いたぼくの心境たるや、筆舌に尽くし難いものがある。それは魔法を通して即座に彼女にも伝わり、
「違うって! だから誤解しないでって、別れ話じゃないから」
と、より熱烈な抱擁と早口とを引き出した。
別れ話でなければ何なのだと、傷心と焦燥がごちゃ混ぜになって憤怒すら沸きそうな心のぼくに対して、彼女は語りかける。
「爪詰くんは、サキュバスが性欲を吸って生きてることは知ってる?」
「……まぁ」
「じゃあ、サキュバスがエッチをするのは、より濃い性欲を抽出するためだってことは?」
「なんとなくは」
「うん。……でね、エッチをするのは、あくまでも相手の性欲を高めるためで。性欲っていうのは、射精の直前が一番高まる物なの」
「はぁ」
「だからそのタイミングで私たちは性欲を吸い取るんだけど……。それってつまり、べつに「射精させなければ性欲を吸い取れない」ってわけではないのね」
「あー。なんとなく分かります」
賢者を超えて鬱になる自分には痛いほど分かる。射精の瞬間が性欲のピーク、それは間違いない。だからサキュバスがそこを狙うという話も分かる。
しかしベストの瞬間を狙うことは、その瞬間からしか性欲を吸えないことを意味しているわけではないとは、言われてみるまで気づかなかった。なるほど、だから「ピークらしき物」を何度も感じたことで、彼女はぼくが射精を避けていることに気がついたのか。本来ならぼくがそのまま射精して、彼女は「らしき物」が実際にピークであったことを確信し、性欲を吸い取ってめでたしとなっていたはずなのだ。
つまりぼくの性格を知った彼女は、今後は射精を経ることなく、「ピークらしき物」を感じ取った時点で性欲の吸引に踏み切れるようになってしまった……ということになる。
「……でね。私もサキュバスだから、性欲は吸いたいんだよね、どうしても。そもそも屈折した性格の人が好きっていうのも、そういう人の性欲の味が好きだからだし」
「なるほど」
「でも……。爪詰くんから性欲を吸い取っちゃったら、たぶんその、射精なしでも賢者タイムっていうか、鬱になっちゃうと思うのね」
「たぶんそうですよね」
「……………………鬱は絶対やだ?」
「…………」
「絶対の絶対に、何があっても死んでも嫌?」
「……なんでですか?」
「……爪詰くんのこと全部受け入れてあげるかわりに、そこだけ我慢してくれないかな〜……なんて」
「……うーん」
正直、破格の取引だとは思った。
そもそも普通なら、賢者タイムで鬱になるなんて冗談みたいな話を受け入れてもらうことと、ハードな性行為を受け入れてもらうこと、この二つを成立させることはそれ自体が限りなく不可能に近い。今ここで彼女の誘いを逃せば、同じような待遇は二度と訪れないと思っていいはず。
なら、どうせ今後の人生も自分の性欲と鬱に振り回されることは確定しているのだから、彼女の言う「全部を受け入れる」が真実なのであれば、ぼくはこの機会を絶対に逃してはいけない。……そう思う一方で、たかだか知り合って一日、そもそも今日のやり取りでぼくの全てが彼女に伝わったわけではない……という事実が気がかりでもある。
今しがたのやり取りでも片鱗を実感したことだけれど、鬱状態に引きずり落とされることを譲歩し続けた先で、ごめんやっぱり無理別れてほしいだなんて言われた日には、ぼくは自分が正気でいられる自信がない。いや正確には、そうなってしまったらもう、正気でいるのが嫌になってしまうだろう。そんな状態に陥ることは当然御免だ。……しかしそれを拒否して単純な孤独を選んだ先に何かがあるとは思えないことも、また事実である。
たった一日のやり取りをもって、ぼくは菅野愛佳を信用してもいいのか? 信用するべきなのか? 考えるほどに、色々な方向への不安が拮抗していく。……ただその中で、ぼくは今日、まだ射精していない。性欲を吸い取られてもいない。鬱状態でないかわりに、ヤらせてくれる女を目の前にしたそんな状態の男が、はたして冷静な判断を下せるものなのか。それはそれで甚だ怪しい。
「……本当に全部受け入れてくれるんですか?」
「うん! 全部全部だよ」
「じゃあ、気分で裏切らないように個人情報とか教えてって言っても?」
「弱みを握りたいってこと?」
「ダメですか?」
「ううん全然いいよ。なんなら履歴書みたいにまとめて爪詰くんにあげるね。あとハメ撮りとかもいっぱいしていいよ」
「…………じゃあ信用します」
「ほんと!」
結局ぼくは欲に勝てなかった。受け入れてもらうことの欲もあるだろうけど、たぶん大半は性欲だった。
その日はそのあと、時間が許す限り本当にずっと彼女にイラマチオをさせた。そして最後に射精を経ることなく性欲を吸われて、綺麗に鬱状態に落ちたところをまた彼女に抱きしめられた。
「ごめんね。大丈夫だよ、そばにいるからね。元気になるまで一緒にいるし、元気になったらまたなんでもしてあげるから。ね……? 大丈夫、大丈夫……」
そんな風に彼女は、いい歳した男の頭を子どもみたいに撫でてくれた。それで鬱が収まるわけではなかったけれど、それでもそれは今までの鬱状態の中で、一番救いがあるものだったような気がする。
家に家族が帰ってくる時間が迫ってきて、彼女は「またいつでも呼んで」と手を振りながら笑顔で帰っていった。そしてその日の夜、彼女からLINEでデジタル版の履歴書が送られてきた。
ぼくはその時初めて、彼女が既婚者であることを知った。