※この作品はR-18です。

SOS はらわた喰いの悪魔(Sadistic-Offal-Succubus)   作:氷菓くん

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05/13 天敵

「ほら、頑張れ、頑張れ」

 風呂桶に満タンに溜まった黄色い液体を、裸になったジェスクヤが目をぎゅっと閉じて飲み干していく。しかし半分ほど飲み進めたところで突然背中を丸め、一時は飲みこめた物を風呂の床へといくらか吐き出してしまった。

 風呂場は暑いから、こちらも服を脱いだ状態でそれを見下ろす。また、ここには人が出入りできるような窓がない。今家族が帰ってきたらたぶん本当に詰む。……分かっているのに、高揚の方が勝った。

「あー、床に吐いちゃった。桶の中に吐けばよかったのに」

「……ご、ごめんなさい」

「罰として、明日も同じことするからね」

「……………………はい」

 両手で桶を持ったまま正座を崩さないジェスクヤは、声もなく涙を流していた。どうせ嘘泣きだ。あるいは嘔吐した際に勝手に出たものか。本当に心からつらくて泣いているなら、力ずくでぼくを止めればいい。

 十分か二十分か、それなりの時間をかけて、彼女は自分の尿を飲み干した。ぼくはその間興奮しつつも手持ち無沙汰だったから、「飲むのが遅い罰」として、彼女の乳首を抓りあげたり、太ももをカカトで踏みつけたり、六十度くらいの熱湯を彼女の背中にシャワーでかけたりした。最後のは人間相手では普通に火傷してしまうけど、サキュバスは不死身だから問題なく、皮膚の赤みはすぐに引いていった。

「……の、飲めまっ……、おえっ……ぇ。…………飲めました」

「じゃあ待ってる間にムラムラしたから、フェラして」

「え……」

「いつも通り喉までね。桶持ってやって、吐いたらまた飲んで」

「…………そ、それが出来たら、今日は終わりでいいですか?」

「いいよ」

「……わかりました」

 いつもより荒い呼吸のまま口が開いて、おそるおそる陰茎を包み込んでいく。きっとサキュバスが本気を出せばこの状況から嘔吐なしでセルフイラマをすることも可能なのだろうけど、こちらの心を読める彼女がそんなことをするはずもなく……。

「おえぇぇぇぇぇ!! お゛っるぉ……おぇろろ……」

 開始一分もしないうちに、彼女は吐いた。大体七割くらいの量が一気に桶の中に戻る。しかもそこには尿だけでなく、吐瀉物まで混じっていた。

「……はーっ、はぁっ、はあっ、はーっ……」

 一瞬のうちに振り出しに戻されたかのような光景を見下ろしたまま、ジェスクヤは動かなくなってしまう。相手が彼女でなければ、ぼくだってとっくに「もう頑張らなくていい。ありがとう」とプレイを打ち切っているところだ。

 今もそうしてほしい? と、ぼくは心の中で問いかける。すると彼女は、傍から見れば現実逃避でもするかのように、俯いたままぶんぶんと首を横に振った。偶然ではないだろう。

「すぐに咥え直さなかった罰」

 思いついたことを言うと、彼女はハッと顔を上げて必死でちんぽにしゃぶりついてくる。

 ぼくはその頭を両手で思いきり押さえ込んだ。

「ごぇえ゛ぇえ゛っ!! う゛ぉっ! ごぉ゛っ……!」

 残りの三割まですべて桶の中に吐き戻される。吐瀉物混じりのそれは、振り出しに戻るよりもずっとひどい有様になっている。その上、彼女は鼻からもゲロを垂れ流していた。

 ……ぼくはふとその時、そういえばこんなプレイをしておいて、少しも異臭が漂ってこないことに気づいた。今まで試したことがないから実感はないけれど、しかし汚物を用いたプレイは臭いがひどいという話を聞きかじったことくらいはある。なのにそれにしては、熱気のこもったこの浴室の中はまだ快適すぎる気がする。

 と、思ったのもつかの間。それを真剣に気にする間もなく、ジェスクヤが目にも止まらぬ早さで額を汚れた床に……ぼくの足元に擦り付ける。

「ごめんなさっ、ごめんなさい! ごめんなさい!! あのっ、無理ですっ、本当に、これだけは本当に無理です……!! 許してください、他のことならなんでもするから、お願いします、許してください。ごめんなさい、本当の本当に無理なんです、無理で…………ひっ」

 ぼくがその下げられた頭を踏みつけにすると、彼女は短い悲鳴を上げて硬直した。

「他のことならなんでもって、たとえば?」

 顔を上げることを許可せず、そう尋ねる。ぼくの頭の中にはそれと同時に、これまでの人生で溜まってしまった「たぶん叶わないだろうけどいつかはやってみたいプレイ」がいくつも乱舞したはず。

 けれどジェスクヤはしばしの沈黙の末に、こう答えた。

「…………や、野外でする、とか」

「……なるほど」

 彼女は心を読んで、すでに知っているのだ。それがぼくの地雷だということを。

 自宅に女を呼び込むことですら、今日にもバレるかもしれないというリスクがあるのに。何でも好き放題できるとなった時に、どうして好き好んで警察沙汰になるリスクを背負わせようとするのか。野外プレイは自分と相手が構わなくても、それ以外のすべての他人が容認しない、一番論外のプレイだ。

 ぼくは彼女のあごを足で持ち上げて顔を上げさせ、さっきまで額を擦り付けていた位置に、ゲロと尿の溜まった桶を置く。

「そこから動かずに、もう一回土下座して」

「…………え?」

「出来たら全部許してあげる」

「……ぜんぶ」

 彼女が唾を飲みこむ音が、こちらまで聞こえてきた。

 許すなんて嘘だ。彼女が汚物の中に顔を突っ込んだら、その頭をまた踏みつけにしてやる。そして汚辱と窒息を苦にした彼女が暴れて脱出したら、それを理由に罰だと言って、今度は風呂の残り湯でも飲ませてやる。

 ……どことなく、自分が冷静ではないことの自覚がないわけではなかった。

 過呼吸になっていくジェスクヤが、ある時意を決したかのように、桶の横に手をつく。そして彼女は徐々に、ゆっくりと確実に、地獄の中へと自ら顔を近づけていく。

 …………その瞬間だった。

 ふと、異臭のしない原因が分かった。「サキュバスの体液はいい匂いがする」。ぼくはそう聞かされたのだ。そして尿は……あるいはもしかすると吐瀉物も、体液といえば体液である。

 そう冷静に理解すると同時に、勃起していた物が嘘みたいにしなびていった。

 

 臭くなければこんなことをしていいとでも思ってるの?

 

 頭の中で、客観性の声が、聞こえるともなく聞こえる。

 途端に、なぜ自分がこんなことをしていたのか、動機が心で理解できなくなる。彼女に汚いことをさせて、苦しませて、それの何が嬉しかった? なんで興奮してた? ……分からなくなってしまった。

 どうして相手の嫌がることをしたがる? せめて自分の快楽を優先するならまだしも、どうして自分が気持ちよくなれるわけでもないのに、待っている間に手持ち無沙汰を感じるほどだったのに、なのになんでこんなひどいことを強制できるんだ……? そりゃ本気で嫌なら相手がストップをかけるとは思っていたけど、だからって、「嫌だ、無理、許して、ごめんなさい」とあんなに必死に、何度も何度も許しを乞われて、どうして少しも良心が痛まなかった……? 今の自分ならそんなことは絶対にしないのに、なんで、大体今までだって、彼女に対してここまで性格の悪いことはしなかったはずだ。それがどうしてこうなった? やるだけの理由があったか? どうしてもどうしても、このプレイがやりたくて仕方がなかったのか? ……きっかけは単なるその場の思いつきだったのに?

 …………今の自分の思考は性欲を吸われたことである物なのだと理解するまでに、長い長い数秒間を要した。

 そしてその数秒の間に、ジェスクヤはスッと真顔で顔を上げて、汚物まみれの風呂桶を両手で掴む。

 彼女はそのすべてを一気に飲み干した。

「えっ」

「…………ぷはっ。はい、実は全然平気でした〜! どう私の演技、興奮した?」

 呆気にとられるこちらをよそに、彼女はつらつらと語り出す。

「いや〜、ていうかサキュバスの体液って人間でもわりといけるくらい飲みやすいからね。桶に臭いが付いたりもしないから安心して? それにしても今日の爪詰くんすごかった〜、今までで一番の収穫だよ」

 桶の中をシャワーで洗い流し、床を流し、最後に自分もそれを浴びる。「おっ」と軽く驚いたような声を出した彼女が給湯器を操作する寸前に、六十度になったままの表示があったことをぼくは確かに見た。

「ほら、これで綺麗になった。ぎゅーしよ?」

 濡れた体のまま、彼女がこちらに向けて両手を広げる。おいで、と。いつものように。

 けれどぼくの足の重さは、いつもと違った。本当にここで彼女に甘えてうやむやにしていいのかな、いくら同意の上でのことでも、一言謝るくらいはした方がいいんじゃないか……。そんな思いが頭をめぐり、しかしそこで出すべき「ごめん」の一言が、ぼくにとっては鉛のように重くて、一向に喉を上がって来てくれない。

 コンマ数秒後、立ち尽くしたままのぼくが「まるで抱擁を拒否しているみたいで失礼じゃないか」と思い至った時。その時にはぼくはもう、一歩踏み出した彼女の方から抱き寄せられていた。

「よしよし、大丈夫。楽しかったよ? 全然平気なんだから気にしないの」

「…………」

「……それとも、思ってること吐き出しちゃった方がすっきり出来そう?」

 ぼくの心を読む相手が、背中をさすりながら耳元で呟く。

「いいよ、全部言っても。受け入れるよ? 爪詰くんのこと、ちゃんと全部、少しも余さずに」

「…………」

「……自力だと難しい? 手伝ってあげようか」

 言いながら、彼女はぼくの頬をぺろりと舐めた。まるで懐いた犬の好意の表現みたいに。

 それはきっと、すごく直感的な「敵意の否定」だったのだと思う。

「爪詰くん。……ごめんなさいって言える?」

「…………」

「ひどいことしすぎてごめんねって、言ってごらん?」

「…………ご、ごめん」

「うん! いい子だね。……でも次は、「ごめんなさい」って、ちゃんと全部、丁寧に言ってみよう?」

「ご、ごめんなさい」

「ひどいことしてごめんなさいは?」

「ひどいことしてごめんなさい」

「うん、よく出来ました。ちゃんとごめんなさい言えたね〜、えらいえらい。全部許してあげるからね、大丈夫だよ」

 頭を撫でられながら、いっそう強く抱きしめられる。

 ……こんな謝罪は茶番だ。こんな「ごめんなさい」には何の価値もない。

 分かっているのに、彼女が「謝らなきゃと思ってるのに上手くできない」というこちらの心に寄り添ってくれたことを思うと、涙が出そうだった。分かってもらえることが……その上で優しくしてもらえることが嬉しかった。

 そんな寄り添い方をしてもらえる時点で十分奇跡だったのに。彼女はその上でまた、耳元でこんなことを言う。

「爪詰くんがごめんなさいを言いづらい理由、私知ってるんだけどな〜。それも言葉にしてみたら、楽になれると思うんだけどな〜」

「う……」

「隠さなきゃいけないことなんてないんだよ? 言ったせいで嫌な気持ちになることも、私が絶対にさせないし。……それに人に話を聞いてもらえるのって、すっごく気持ちいいんだよ……? 爪詰くん、私と気持ちよくなっちゃおうよ」

「……っ」

 素直に謝罪ができない原因は、確かにある。彼女から「おいで」をされた際、それが確かに頭をよぎった。……けれどそれは本当に、相談するとかしないとかそういう事ではない、本当にただの個人的な問題なのだ。

 謝ったら怒られそうだからとか、自分の過ちを認めたくないとか、そういうのじゃない。もっとぼく個人の中で完結した、しかもふざけた聞こえ方をする原因が、あるにはある。

 ……もしもそれを話したら、ぼくは気持ちよくなれるのか? 楽になれるのか? ……本当に?

「ためしてみようよ」

 誘惑の言葉と共に、また頬を舐められる。抱き合った体からは相手の熱が伝わってくるのに、その温かさも柔らかさも、性欲にはまだ結びつかない。

 抱擁の感触が、いつでも必ず安心感にだけ繋がる人間に生まれられたらよかったのに。性欲なんてなくても生きていけるような人間に生まれられたらよかったのに。……そんな思考が頭をよぎった。

 ぼくには「生まれてきてごめんなさい」すら似合わない。

「……昔読んだエロ漫画で、仕事で主人公の性処理をさせられてる女の人がいて」

「うん」

「その人が、いつもごめんなさいって言う主人公に、吐き捨てるように言ってたから。……それは謝罪じゃなくて自己満足、溜まった性欲を吐き捨てるのと同じで、溜まった罪悪感を吐き捨ててるだけだって」

「うんうん。……それで、それを読んでどう思った?」

「ほ、本当にその通りだと思った。たしかに自分の罪悪感のために言ってるだけだって。だってたとえば、ひどいSMプレイをしたことは昔にもあったけど、その時女の子に「ごめんね」って言うぼくは、プレイ自体を金輪際やめておきたいとは思えなかった……」

「あ〜、そっかぁ。自分の欲を優先したくなっちゃうから、謝罪が自己満足に感じちゃったんだね」

「感じたっていうか実際そうなんですよ」

「……ふふ、そっかぁ。じゃあさっき私にごめんなさいした時、性欲発散するみたいに罪悪感も発散できて、気持ちよかった?」

「…………」

「なんでも正直に言っちゃっていいんだよ。全部、爪詰くんの正直な気持ちが何なのか、私は知ってるんだから」

「……………………ちょっとだけ、気持ちよかったです」

「ふふ。その「ちょっと」にも罪悪感持ってるでしょ」

「う……」

「ひどいなぁ、ちょっとだけなんだー? 私がんばって言葉を引き出したのになー?」

「ご、ごめんなさい。……あっ」

「はぁ〜♡ 可愛い。いいよ〜? 全部受け入れるって言ったでしょ。私は爪詰くんが喜んでくれるなら、それがほんのちょっとでも嬉しいよ。これからも性欲と一緒に、罪悪感もいっぱい私にぴゅっぴゅしようね」

「…………」

「あとそのエロ漫画、私も読んだことあるよ。ヒロインの人、主人公のことめちゃくちゃ軽蔑してたよね」

「…………」

「爪詰くんも性欲いっぱいで苦しいのに、その話読んじゃったのつらかったねぇ。かわいそうにね、よしよし」

「…………うぅ」

 いったいどこの世界に、自分の意思で目を通したエロ漫画の内容について「かわいそうに」なんて言ってもらえる男がいるのか。あるいはその男に落ち度がないならまだしも、真剣に謝罪することもできないようなサディストに対して優しくするような意義が、いったいこの宇宙のどこを探せば見つかるというのか。

 ……ぼくは、この世界の外側にある物に触れた気がした。

 暑さの中で汗と勘違いしたわけじゃなければ、たぶん少し泣いたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸いにも家族が突然帰ってくるようなことはなく、お互いにシャワーを浴びて服を着て、ちょっとだけイチャついたあと、ぼくとジェスクヤはいつもより早めに解散した。賢者タイムを抜け出せなかったわけではないけれど、抜け出してなお、今日はもう本格的に性欲を満たす気にはなれなかったから。

 夜になって、ジェスクヤの方からLINEでメッセージが入った。

『明日ってどうする?』

 ぼくはその文面を見た時、初めは意図が分からなかった。

 平日は可能な限り会う。すでにそれが二人の暗黙の了解になっていて、家族が出かけ次第ぼくがジェスクヤにそれを報告する流れが定番化していた。だからその夜も当然に、明日の昼間はその流れで彼女と合流するのだとばかり思っていた。

『どうするって?』

『あんまり気が乗らないとかなら、しばらく間を置いてもいいけど』

 えっ……。

 と、まさかこれは「会いたくない」の意味なのではないかと、絶望にも似た感情が心臓に噛みついた感覚がした。そしてそれに連なってフツフツと、昼間の感涙の反動を伴って、裏切りへの憎悪が沸き上がりかける。

 けれどさすがに数秒で冷静になった。なぜなら、まず今日のことが原因で彼女がぼくに愛想を尽かしたという説は、論理的に考えてあり得ない。これまでの情報を踏まえても相当無理筋だと思う。では何か他に事情が出来たのか? と考えたけれど、これもきっと違う。なぜなら、こちらの心を読めるジェスクヤは、遠隔の今はその魔法が使えなくても、これまでに散々ぼくの心を読んできたことで分かっているはずだから。

 何か事情があって会えなくなるにしても、それを伝えることに「その言い回し」を選択するのは、かなりワースト寄りのやり方だ。ぼくはそういうやり方をされると傷つく。どうせ会えなくなることが確定しているなら、その事情とやらを正直に話してくれた方がいい。ジェスクヤにはぼくのそういう性格が分かっているはず。だから逆説的に、彼女の言い回しから察せられることとしてきっと、「会えなくなる事情」なんて物はそもそも存在しない。

 ……ならばなぜ「気が乗らなければ」なんて話を急に出してきたのか? ぼくが答えるべきは何なのか。家族が見ているテレビ番組から流れてくる歌うま素人の歌唱をBGMに、こんな時だけよく回る脳細胞が答えをはじき出す。

『いや、普通に今もムラムラしてるんですけど』

『え、マジで? 今から会う?』

『いやそれはちょっと……』

『冗談だって。家族になんて言っていいか分かんないもんね』

『そうなんですよ』

 さすがジェスクヤは見透かしたことを言う。ぼくはニートながらべつに引きこもりではないけれど、ニートは収入がないゆえに基本的にコンビニにすら行かない。夜分に外出する妥当な理由が存在しないせいで、親の脛をかじる者なりの家庭内政治事情としては、いい歳して夜の散歩もできないことが実情となっている。

 けれどそれはそうと、ぼくは自分の明け透けな返信が功を奏したことに安心した。やはり彼女の送ってきた文面は、純粋にこちらを気にかけるものだったのだ。それが分かってから考えてみれば、今日は賢者タイムが明けても「そういう雰囲気」にならなかったことで、ジェスクヤのことを不安にさせてしまったのかもしれない。それでぼくを心配するメッセージを送ってくれたのかもしれない。にも関わらず危うく逆ギレするところだった……と、最悪のケースを避けられたことに胸を撫で下ろす。

 そして、そのように真っ先に出てきた安堵感の内容が「会えなくなるわけじゃなくてよかった」ではなかったことに気づいて、ぼくは自分が思っているよりもジェスクヤのことを信頼しているのかもしれないと思った。会えなくなるなんてことはきっとないだろう……と心のどこかで信じていた気がする。あるいはそれは、単なる現実逃避の一種だったのかもしれないけれど。

 こちらの発言に既読が付いたまま、しばらく返信は止まっていた。それなりに会話のキリもいいところだから、今日のやり取りはそれで終わりなのかと思ったのだけれど。それから数十分後に改めて、いつの間にか彼女から新しいメッセージが入っていた。

『爪詰くんって結構メンタル強いよね』

 ……これまたどういう意味だ? と、しばし考えさせられる。これまでの傾向を思えば、きっと悪意はないはず。ぼくたち二人の関係において悪意のない「メンタル強いね」が指し示すことといえば……。

『ど、どういう意味です?』

 全然分からなかったから普通に聞いた。最初に余分な「ど、」を付けることで、できるだけ怒っていない雰囲気で伝わるように。

 返事はすぐに来た。

『毎回私に性欲を吸われてるのに、もう嫌だ〜ってならないから』

『なってるからいつも赤ちゃんになってるじゃないですか』

『その繰り返し自体は受け入れてるのがすごいなって。あと今みたいな自虐を平気でするところとか』

『平気じゃないかも。心で泣いてるかも』

『会った時にそうだって分かったら、また抱きしめてあげる』

『わーい!』

『……で、真面目な話、本当に大丈夫?』

『なにがですか?』

『私はぶっちゃけ、爪詰くんの弱味につけこんでるから。矛盾してるかもだけど、心配なんだよね』

『弱味というより、需要と供給だと思いたいです』

『何と何の……?』

『ジェスクヤさんは、性欲(魔力)。ぼくは性欲発散と、あとは、全肯定?』

『爪詰くんはそれで足りてる?』

『そりゃ破格ですよ』

『でも人間の女の子とエッチすれば、性欲を吸われるなんてことは起きないんだよ? そうすれば好きなだけ賢者タイムを避けられるのに、私がサキュバスじゃなければって思わないの?』

 ……呼吸と同じくらい自然に動いていたタイピングの手が、そこで止まった。

 ぼくはジェスクヤと知り合った時点でとっくに童貞じゃなかった。経験人数が一人で、その一人との体験に性的な世界観のすべてを支配されている……ということもない。ある程度の「実際」を見てきた自負がある。

 その上で、ぼくは答える。

『サキュバスじゃない女の子は、今日みたいなことはさせてくれないか、したあと絶交されて終わりですよ』

『それはまだ、いい子に巡り会えてないだけかも』

『でもジェスクヤさんも、ぼくが性欲の吸引を断固拒否したら、今日みたいなことはしてくれなくなるんでしょ?』

『……………………否めない』

『でしょ。そういうものなんですよ、需要と供給って。サキュバスにできないエッチを人間にやらせるのは無理ですって』

 ぼくは人間の女の子に対して、自分の性癖の悪辣さに見合うものを供給できない。あるいはギリギリそれが実現できたとしても、今度は「性的な部分以外の面」が追い討ちじみて問題になる。

 射精しない男を見ると、人間女子はみんな似たようなことを言う。「気持ちよくさせられなくてごめん」「私に魅力がないから?」「オナニーのしすぎなんじゃないの」。……大体この三つ。ぼくはそれらのどれにもうんざりしている。そしてその「うんざりしている」を隠しきれないような性格が、セックスとはまた別のところで相手を傷つけたりする。あとは普通に、頑なに働かないこととかも。

 その点サキュバスは……というかジェスクヤはすごく良い。ぼくは今日彼女の存在を「世界の理の外にあるもの」だとすら思った。それに匹敵する人間なんているはずがないし、きっと他のサキュバスでもダメだろう。

 ぼくはジェスクヤのことを救世主だと思っている。

『それはそうかもだけど……。なんか、すごいね』

『そうですかね』

『うん。だって普通に考えたら爪詰くんにとって、サキュバスって天敵でしょ』

『天敵? 救世主じゃなくて?』

『だって他に強制的に鬱モードにさせてくるような相手がいる?』

『そういう言い方だと怖く聞こえますけど』

『でしょ』

『じゃあなんであの時声をかけてくれたんですか。サキュバス好きでしょって、図星で』

『あの時は爪詰のことよく知らなかったんだもん。ただの慢性性欲ギンギンニートだと思ってた』

『ひどい言い草すぎる』

『もうちょっと普段から「射精するの怖いよ〜賢者タイムになると鬱になっちゃうよ〜」って考えながら生活しといてよ』

『無茶苦茶すぎるでしょ。ていうか仮にそうなってたら、声かけてくれなかったんですか?』

『いや一応かけるけど』

『よかった』

『よかったなんだ』

 少し間が空いて、向こうが連投する。

『爪詰くんって、もしかして私のこと好き?』

 いつの間にか食い入るように見ていた画面から目を離し、ぼくは無言で唸る。答えにくい質問が来た時は大体そうなる。

 好きかと言われればもちろん好きだけれど、恋愛的な好きかと言われると怪しいし、しかも向こうは既婚者だ。この世に「好き」の定義は五万とあり、ジェスクヤの問いの意図は分からず、はたして今はなんと答えるべきなのか……。

 ……こんな時、本人が目の前にいれば、きっと微笑みと共にこう言ってくれるのに。「今思ったこと、言っていいよ」。

 ぼくは今こそその言葉が欲しくて、それを欲する気持ちその物をもって、本心をオブラートに包んだ答えとする。

『早く会いたいと思うくらいには好きです』

 送ってから、これではまるで純愛だと気づいて、付いた既読に心臓の音が早まっていく。言葉とはなぜこんなに厄介な取り回しをしているのか。悪い未来の想像が幾筋も脳裏を駆けて行く。既婚者と純愛……あるいはぼくと純愛。それはどちらも最悪の取り合わせだから。

 ……だから次に彼女から来た返信を見て、ぼくは本当に心底安堵した。

『うわっ、体目的だ!』

 明らかに上機嫌なその返信には、恋愛の雰囲気が皆無だった。そして意図したことではないのだろうけど、その冗談はほとんどぼくの本心を言い当てていた。

 ジェスクヤのことは正直かなり好きだ。ただし、あくまでもセフレとして。もしも「エッチ抜きで友達になりましょう」と言われたら、ぼくはきっと「サキュバスのくせに」と本気で不満に思ってしまう。

 だからこそ、ここで真っ先に「体目的」なんて返しを思いつく相手がぼくの天敵だなんて、そんなことはあるはずがないと心から思った。

 

 

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