警視庁捜査一課の取調室は、いつも独特の緊張と重苦しい沈黙に支配されている。
高遠
彼女の若さが、受けた傷の残酷さをより一層際立たせている。
「美咲さん、話してくれてありがとう。辛いことを思い出させてしまうのは本当に心苦しいけれど、あなたの力が犯人を捕まえるための唯一の希望なんです」
その声に促されるように美咲は震える声で、ぽつり、ぽつりとオーディションの日の出来事を語り始めた。
プロデューサーと名乗る男の巧みな言葉、期待に胸を膨らませて向かったスタジオ、そしてモニター越しに始まった悪夢の時間。
彼女の言葉の端々から、プライドを粉々に砕かれた屈辱と消えない恐怖が滲み出ていた。
「犯人は私のことを観察して、楽しんでいるようでした。まるで……実験でもしているみたいに……」
その言葉は犯人の異常な心理プロファイルを裏付ける重い証言だった。
「あなたの勇気は絶対に無駄にしない」
次に
彼女の瞳は美咲よりもさらに深く虚ろで、あの山奥の古民家で受けた筆舌に尽くしがたい仕打ちが、その魂に回復不能な傷となって刻まれていることを物語っていた。
「中谷さん、お辛い中、本当にありがとうございます。どんな些細なことでも構いません。犯人に繋がる何かを思い出せる限り話していただけませんか」
香織は唇を固く結び、しばらく宙を睨んでいたが、やがて堰を切ったように話し始めた。
山田と名乗る男の人当たりの良い態度、勧められたお茶、そして意識を失ってからの悪夢のような緊縛と凌辱。
かゆみという生理的な苦痛を利用して、自らの意思で屈辱的な行為を選択させるという、悪魔のような手口。
それは人間の尊厳を根底から破壊する、計算され尽くした演出だった。
「男の家には……レンタカーが駐車していました。車種は……確か、黒いセダンだったと思います」
その断片的な記憶が、膠着していた捜査の最初の突破口となった。
該当するエリアで黒のセダンを貸し出した業者は幸いにも一社に絞り込むことができた。
電子の記録は嘘をつかない。
契約者の情報が、すぐに捜査本部のモニターに映し出された。
同時に、犯行現場となった古民家の短期賃貸契約の記録も洗い出された。
そこにも、レンタカーの契約者と寸分違わぬ身分証明書が使われていた。
名義は「山田健一」。都内に現住所を持つ、四十代半ばの男。
モニターに映し出された顔写真は、どこにでもいそうな、ごくありふれた中年男性のものだった。
「間違いない。これが犯人の顔だ」
捜査本部に久しぶりの高揚感が満ちる。
誰もがそう確信し、捜査は一気に進展するかに見えた。
都心から少し離れた、古びたアパートの一室。
ドアを叩く音に、捜査員たちの間に緊張が走る。
やがて、中から聞こえたのは、か細く怯えたような声だった。
「……はい、どなたですか……」
ドアがゆっくりと開かれ、姿を現したのは、写真と同じ顔の男だった。
しかし、その表情には狡猾な犯罪者の面影などどこにもなく、ただただ怯えと困憊の色が浮かんでいるだけだった。
「警視庁の者です。山田健一さんですね。少々お話を伺ってもよろしいですか」
男を任意同行し、取調室の椅子に座らせる。
しかし、男の口から語られたのは捜査員たちの期待を根底から覆す、あまりにも情けない現実だった。
「俺は……俺は何も知りません! 本当なんです! ただ、金に困って……『運び』のバイトがあるって……」
山田と名乗るその男は数ヶ月前、パチンコで作った多額の借金の返済に窮し、インターネットの裏掲示板で見つけた「高額報酬」の謳い文句に飛びついてしまったのだという。
それは身分証明書と銀行口座の名義を貸すだけで、数十万円の報酬が手に入るという、典型的な名義貸しの闇バイトだった。
「貸した相手の顔も名前も知りません。本当に。やり取りは全部、『シグナル』とかいうアプリだけでした。もうそのアカウントも消されてて、連絡の取りようが……」
男は泣きじゃくりながらすべてを白状した。
犯人は金の力で他人のアイデンティティを買い、それを使い捨ての道具として犯行に及んでいたのだ。
秘匿性の高い通信アプリは通信ログを追跡することが極めて困難で、貸し出された名義が誰の手に渡ったのかを突き止める術は事実上、断たれてしまった。
最後の望みだった監視カメラの映像も、やはり決定的な証拠にはならなかった。
レンタカー会社や古民家周辺のカメラには確かに犯人らしき男の姿が記録されてはいたが、いずれも深々と被った帽子やマスクで顔を巧みに隠しており、個人を特定できるような鮮明な映像は一つもなかった。
「くそっ……! また振り出しか……!」
捜査本部に重苦しい空気が漂う。
手掛かりを掴んだと思った矢先に、その糸は幻のように消え去った。
犯人は常に捜査の一歩先を行き、嘲笑うかのようにその痕跡を消していく。
名もなき亡霊、影のような存在。
美咲さんの震える声、香織さんの虚ろな瞳。
彼女たちの無念の声が頭の中で何度もこだまする。
このままでは、また新たな犠牲者が生まれる。
この狡猾な狐を従来の捜査方法で捕まえることはできない。
その時、
被害者たちに共通している点。
それは、いずれも高額な報酬を餌に犯人との接点を持っていることだ。
出張マッサージ、芸能オーディション……。
犯人は金で釣れる獲物を慎重に選び、探している。
もし自分がその獲物になれば?
自ら危険な罠の中心に飛び込み、犯人を誘き出す。
それは、組織人として決して許されない、あまりにも無謀で独善的な考えだった。
上層部が許可するはずがない。
失敗すれば、刑事生命を絶たれるどころか命の保証すらない。
しかし
それは煮えたぎるような怒りと被害者への深い共感から生まれた、確固たる決意へと変わりつつあった。
これ以上、あの男の好きにはさせない。
この手で必ず引きずり出してやる。
その覚悟が彼女の瞳に静かな、しかし決して消えることのない激しい炎を灯していた。
その頃、影山晶は都心から少し離れた安宿の、安物のシーツが敷かれたベッドの上で、壁にかけられたテレビのニュースをぼんやりと眺めていた。
画面の中では、女子アナが神妙な顔で連続暴行事件の続報を伝えている。
警察が「山田健一」という男から事情を聴いている、というテロップが流れた。
彼の心には何の波風も立たない。
むしろ、世間が自分の行動に右往左往する様は彼にとって心地よいBGMのようなものだった。
「そろそろ潮時か」
彼は呟くと、ベッドから起き上がり、財布の中から一枚の運転免許証を取り出した。
先日まで彼に「山田健一」という仮初めの存在を与えてくれていたカードだ。
レンタカーの契約、古民家の賃貸。短期間に複数回使用した身分証明は、ほんの僅かだが、消し忘れた足跡としてリスクの芽を含む。
捜査の網がその芽に届く前に、自ら摘み取ってしまう。
彼の危機管理能力は、もはや恐怖心からくるものではなく、ただの事務処理に近い、冷徹な本能の域に達していた。
彼はその免許証を灰皿の上に置くと、ポケットから取り出したオイルライターで角に火をつけた。
プラスチックがじりじりと音を立てて溶け、写真の顔が歪み、やがて黒い塊へと変わっていく。
抜け殻となった「山田」の身分は煙と共に霧散した。
身軽になった影山は慣れた手つきでノートパソコンを開いた。
何重にもVPNを経由し、彼の IP アドレスを世界の迷宮へと隠蔽する。
たどり着いたのは法治国家の光が届かない、あらゆる非合法なモノとサービスが取引される電子の魔窟。
彼はその闇サイトのチャットウィンドウを開き、懇意にしている「ブローカー」に短いメッセージを送った。
『新しいセットを頼む。今度はもう少し若いやつで』
「セット」とは偽造された身分証明書と、それに対応する銀行口座を指す隠語だ。数分も経たないうちに軽やかな通知音と共に返信が来た。
『毎度ありがとうございます。特上のをご用意します。料金はいつもの仮想通貨ウォレットへお願いします』
金の力は、ここでは絶対だ。
数時間後には新しい名前と顔写真、そして金の受け皿となる口座情報が、暗号化されたデータとして彼の元に送られてくるだろう。
彼はまた、新しい誰かに生まれ変わるのだ。何度でも、自在に。
取引を終え、ウィンドウを閉じようとしたその時、ブローカーから新たなメッセージがポップアップした。
『旦那様。例のブツ、手配できました。いつでもお渡しできます』
「例のブツ」とは影山が以前から注文していた特別な「足」のことだった。
盗難車をベースに車体番号の打刻やエンジンナンバーを精巧に偽造し、ナンバープレートも正規のものと見分けがつかないように複製する。
一見しただけでは、いや、専門家が調べても盗難車とはすぐには判別できないようにカスタムされた、通称「ゴーストカー」。
これさえあれば、Nシステムや無数に設置された防犯カメラの追跡を気にすることなく、どこへでも自由に移動できる。
『上出来だ。近いうちに受け取りに行く』
影山は満足げに返信すると、キーボードを叩き、さらに新たな要求を書き込んだ。
金払いの良い彼は、この闇サイトではVIP待遇の「お得意様」だった。
彼の要求は大抵の場合、最優先で処理される。
『都心で一時的に使える部屋も欲しい。タワーマンションの上層階、外国人がオーナーで、正規の賃貸契約を通さない物件がいい。プライバシーが完全に守られるやつだ。もちろん報酬は弾む』
外国人オーナーが節税対策や別宅として所有している普段は使われていない部屋。
そういった物件を違法な形で又貸しするルートが存在する。
契約が表に出ないため、借主の身元は完全に秘匿される。
ブローカーは、『お任せください』と、即座に了承の意を伝えてきた。
新たな身分、新たな足、そして新たな巣。これでまた、しばらくは誰にも邪魔されずに「創作活動」に没頭できる。
彼はパソコンを閉じると、大きく伸びをした。
しかし、そのすべてには金がかかる。
ゴーストカー、タワマンの裏契約。数百万単位の金が動く。
「また金が要るな」
彼の資金源は、その異常なまでの強運にあった。
競馬、競輪、時には宝くじ。
彼は、まるで未来のレース結果が見えているかのように、次々と高額配当を的中させてきた。
それはもはや、ギャンブルではなく、ATMから現金を引き出す作業に近い感覚だった。
影山晶は薄汚れたジャケットを無造作に羽織ると、部屋のドアを開けた。
向かう先は駅前に古くからある場末のタバコ屋。
店の前にはスポーツ新聞と共に分厚い競馬新聞が何紙も並べられている。
彼の灰色の瞳には、次なる獲物への期待も、迫りくる捜査の影への恐怖もまるで映っていなかった。
ただ、数字と記号の羅列の中に眠る、巨額の富の在処だけが、くっきりと見えていた。