影の殻を脱ぎ捨て、新たな仮初の存在を手に入れた影山晶は、次なる「作品」の構想を練り始めていた。
今までの衝動的な犯行とは一線を画す、より計画的で、芸術性の高い屈辱。
彼の歪んだ嗜好は新たな地平線を求めていた。
今回のテーマは制御不能な生理現象。
それも、最も原始的で、人の尊厳を根底から揺るがすもの──無意識の便失禁。
そのアイデアが浮かんだ時、彼の脳内には完璧なプロットが鮮やかに描き出された。
これは単なる凌辱ではない。被害者自身の意思とは無関係に、その身体が内側から裏切るという究極の裏切りを演出するのだ。
そのための舞台装置と役者を求めて、影山はブローカーが用意したタワーマンションの一室で、ノートパソコンの画面を眺めていた。
大手企業が運営するセキュリティのしっかりしたマッチングサイト。
ここに集う女たちは、ある種の安心と社会的な成功を収めた男との出会いを求めている。
彼はブローカーから買い取った新たな身分──外資系金融機関に勤める高給取りの独身貴族──という完璧なペルソナを纏い、プロフィールの海を泳いでいた。
彼の目に留まったのは、一人の女性だった。
名前は「白石玲奈」。職業は、ヨガインストラクター。
プロフィール写真に映る彼女は、しなやかな肢体と自信に満ちた穏やかな笑みを浮かべていた。
自己紹介文には、心と身体の調和を大切にしていること、日々の鍛錬を欠かさないことが、洗練された言葉で綴られている。
これ以上ない、完璧な獲物だ。
自らの肉体を完璧にコントロールしていると信じている人間ほど、それが崩壊した時の絶望は深い。
影山は数日をかけて玲奈との距離を縮めた。
彼の言葉は、まるで熟練の詐欺師のように滑らかだった。
仕事への情熱、将来の夢、そして時折見せる、ハイスペックな男が故の孤独の影。
その全てが玲奈の心を的確に射抜いていく。
メッセージのやり取りはすぐに弾み、電話で話すようになり、そして、ごく自然な流れで彼はデートの誘いを口にした。
「もしよかったら、今度、僕の家で手料理を振る舞わせてもらえませんか。実は最近、料理を習い始めていて。玲奈さんに、ぜひ最初の試食者になってほしいんです」
その誘いに玲奈は一瞬、警戒の色を見せた。
初対面の男の家に行くのは、いくらサイト上で信頼を築いていたとしても躊躇するのが当然だ。
その僅かなためらいを影山は見逃さなかった。
「もちろん無理にとは言いません。ただ、僕の住んでいるところはセキュリティもしっかりしているし、きっと安心して過ごしてもらえると思うんです」
彼はそう言って、メッセージアプリにマンションの住所を送った。
それは都心の一等地に聳え立つ、誰もが知る超高級タワーマンションだった。
玲奈がスマートフォンの地図アプリでその住所を確認したであろう数秒の沈黙の後、彼女からの返信は弾むような声で満たされていた。
「わあ、すごい! こんな素敵な場所に住んでいるんですね! ぜひ、お邪魔させてください。お料理、楽しみにしています」
金の力、社会的地位という記号は、時に人の警戒心をいとも容易く解いてしまう。
玲奈は影山晶という男ではなく、彼が提示した「成功者のイメージ」に心を許したのだ。
約束の日、玲奈は少し緊張した面持ちで、マンションのエントランスに現れた。
影山は完璧な笑顔で彼女を迎え、幾重にも設けられたセキュリティゲートを抜け、高層階へと向かう専用エレベーターへと案内した。
玲奈が息を呑むほどの夜景が広がるリビングで、影山は「料理人の見習い」として腕を振るった。
「これは、バラムツっていう珍しい魚なんです。すごく脂が乗っていて、口の中でとろけるんですよ」
彼がメインディッシュとしてテーブルに置いたのは、白身魚のポワレだった。
完璧な火加減で焼き上げられた魚は食欲をそそる香りを放っている。
しかし、その美味そうな見た目の裏には彼の冷酷な計算が隠されていた。
バラムツやアブラソコムツといった魚には「ワックスエステル」という、人間の体内では消化できないロウ成分が大量に含まれている。
摂取すれば個人差はあれど、腹痛を伴わない油状の下痢を引き起こすのだ。
玲奈は影山の巧みな話術と、プロ顔負けの料理の腕にすっかり魅了され、出された料理を綺麗に平らげた。
その夜、二人はワインを酌み交わし、甘い雰囲気の中で体を重ねた。
影山にとって、それは目的を達成するためのプロセスの一つでしかなかったが、玲奈にとっては理想の男性との完璧な一夜だったに違いない。
翌朝、目覚めた玲奈のために、影山はまたしても腕によりをかけて朝食を用意した。
ランチには昨夜の魚をアレンジしたパスタを振る舞った。
玲奈の体内に消化不能なロウが着実に蓄積されていく。
そして、夕方。
デートプランの仕上げとして、二人はマンションの地下にある、居住者専用のパーソナルジムへと向かった。
「最近、運動不足で体がなまっちゃって。ぜひ、玲奈先生にご指導いただきたいんです」
完全個室のジムには最新のトレーニングマシンと、ヨガマットを敷くには十分なスペースがあった。
玲奈はレンタルウェアに、影山も動きやすいトレーニングウェアに着替える。
二人きりの空間。
静寂の中、玲奈の穏やかな声が響き、レッスンが始まった。
ワックスエステルによる下痢は、一般的な食中毒のような激しい腹痛を伴わない。
それが、この計画の最も巧妙な点だった。
玲奈の腹の中では消化されなかった大量の油分が、静かに出口を求めて蠢き始めていた。
しかし彼女自身は、その静かな時限爆弾が作動し始めていることに、まだ気づいていない。
「晶さん、すごく筋がいいですね。初めてとは思えません」
「いやいや、先生の教え方が上手だからですよ。もっと難しいポーズも見てみたいな」
影山のおだてに乗せられ、玲奈は少し得意になっていた。
このハイスペックな恋人の前で、自分の専門分野で実力を見せつけたい。
その純粋な承認欲求が彼女を影山の仕掛けた罠の最終段階へと導いていく。
彼女は流れるような動きで次々と難易度の高いポーズを披露し始めた。
体を大きく反らし、腹部を圧迫するポーズ。
逆さまになって、内臓に重力がかかるポーズ。
その一つ一つの動きが、直腸に溜まった油の塊を決壊点へと押しやっていた。
その瞬間は本当に突然訪れた。
玲奈は片足でバランスを取る高難度のポーズを決めていた。
その時、彼女の肛門括約筋が、ほんの僅かな、制御できるはずのガスを逃がそうとしたのだろう。
しかし、彼女の意思とは裏腹に、その隙間から噴き出したのはガスではなかった。
ブシュッ、と湿った嫌な音。
それは空気の抜ける音とは明らかに違う、液体が漏れ出す音だった。
玲奈の純白のヨガパンツの臀部に、オレンジ色の油染みが急速に広がっていく。
そして、フローリングの床には、ぽたぽたと油滴が落ち、異様な悪臭が二人きりの空間に立ち込めた。
「え……?」
玲奈は何が起こったのか理解できず、凍りついた。
自分の体から、信じられないものが排出されたという事実。
完璧だったはずの時間が、一瞬にして悪夢に変わる。
顔から血の気が引き、その瞳は絶望と羞恥に染まっていた。
「あ……あ……ご、ごめんなさ……」
言葉にならない声で謝罪しようとする彼女に対し、影山は完璧なまでの「誠実な男」を演じてみせた。
彼は驚いた表情を浮かべながらも、すぐに駆け寄り、彼女の肩を優しく抱いた。
「大丈夫!? 体調、悪かったの? ごめん、僕が無理させちゃったんだね。ここは僕が片付けておくから、玲奈さんは気にしないで。すぐにシャワーを浴びて、着替えてきて」
彼は動揺する彼女をシャワールームへと促すと、まるで初めて見るかのように、床の惨状を眺めた。
「もしかして……昨日の魚かな。珍しい魚だって聞いたけど、人によっては体に合わないことがあるのかも……。本当にごめん、僕のせいで、嫌な思いをさせてしまった」
彼は心から申し訳なさそうな表情で自らの非を認めた。
その完璧な演技に、パニックに陥っていた玲奈は罪悪感と共に、安堵感を覚えていた。
この優しい人は私を責めない。それどころか、自分のせいだとまで言ってくれている。
シャワーを終え、着替えて出てきた玲奈は、まだ顔を上げることができない。
影山は、そんな彼女に優しく微笑みかけた。
「今日のことは僕と玲奈さんだけの秘密。誰にも言わないから、もう気にしなくていいよ。それより、まだお腹の調子が悪いだろうから、今日はもう送っていくよ」
その言葉は玲奈にとって何よりの救いだった。
彼女は何度も
彼が仕組んだ罠だとは知らずに。その日のデートは、そこで終わった。
影山は彼女をタクシーに乗せ、優しい笑顔で手を振って見送った。
しかし、玲奈の悪夢は、まだ始まったばかりだった。
ワックスエステルの効果は数日間にわたって彼女を苦しめ続けた。
通勤中の満員電車で、クライアントとの大事な商談中に、友人とのランチの最中に。
予兆なく、自分の意思とは無関係に油状の便が漏れ出してしまう。
その度に彼女は社会的な死を味わうことになった。
かつての自信に満ちたヨガインストラクターの姿は見る影もなかった。
一方、影山はタワーマンションの一室で、今回の「作品」を冷静に分析していた。
彼は一連の出来事を、まるで研究者のように客観的なデータとして脳内で整理していた。
リスクは極めて少ない。
暴力も、薬物も、監禁も使っていない。全ては合法的な食材と相手の心理誘導だけで完遂した。警察が介入する余地はないだろう。
しかし、その反面、準備と実行に時間がかかりすぎる。
数日間をかけて一人の女を口説き、食事をさせ、タイミングを計る。
そのプロセスは、あまりにも冗長だった。
そして何より、彼が想像していたほどの興奮は得られなかった。
女が屈辱に顔を歪める瞬間。それは確かに、ある種の達成感をもたらした。
だが、それはあまりにも一瞬で、あっけなかった。
苦痛も絶叫もなく、ただ静かに尊厳が崩壊していく様は、彼が求める刺激的な美とは少し違っていた。
「手間がかかる割には、つまらなかったな」
影山は窓の外に広がる東京の夜景を眺めながら、小さく息を吐いた。
彼の心は、もう白石玲奈のことなど欠片も映してはいなかった。
次は何をしようか。もっと効率的で、もっと刺激的で、もっと直接的な方法で、女の絶望する顔を見る方法。
彼の飽くなき探求心は、すでに次なる犯行へと向かっていた。
今回の手法は数あるコレクションの一つとして記憶の棚に収め、二度と使うことはないだろう。
彼の内なる怪物は、もっと野蛮で、原始的な獲物を求めて、再び飢え始めていた。