※この作品はR-18です。

浣腸鬼と呼ばれた男   作:たちばなさとし

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10犯人像 結末は波の中に(完結)

 意識がゆっくりと浮上してくると、まず感じたのは自分の体が清潔なシーツに包まれているという事実だった。

 あれほど汚物にまみれていたはずの体は綺麗に拭われ、蕩けるような倦怠感だけが残っている。

 梓(あずさ)はゆっくりと目を開けた。

 簡素だが上質な家具が置かれたホテルの部屋。

 窓から差し込む光は、すでに夕暮れの色を帯びていた。

 ベッドの脇に置かれた椅子に、一人の男が腰掛けて、静かにこちらを見つめている。

 彼女の「先生」であり、彼女を完全に破壊し尽くした男。

 その目は、もはや獲物を品定めするような冷たさではなく、静かな好奇心の色を宿していた。

 彼がゆっくりと口を開いた。

 

「目が覚めたか。……君の、本当の名前を聞かせてくれ」

 

 その問いは支配者から被支配者への命令ではなく、対等な人間が未知の相手を知ろうとする時の響きを持っていた。

 梓(あずさ)はゆっくりと上体を起こした。

 シーツが滑り落ち、むき出しになった素肌が空気に触れる。

 胸にはまだ、パドルで打たれた跡が赤く残っていたが、不思議と痛みは感じなかった。

 彼女はまっすぐに影山の目を見つめ返すと、はっきりとした声で答えた。

 

「私は高遠梓(あずさ)。警視庁捜査一課の刑事よ」

 

 一瞬の沈黙。

 刑事。その言葉が持つ意味を影山は瞬時に理解しただろう。

 だが、彼の表情に驚きや動揺の色は浮かばなかった。

 ただ、なるほど、とでも言うように、わずかに眉を動かしただけだった。

 梓(あずさ)は続けた。

 

「あなたの名は……」

 

 彼女が言いかけたその時、影山はそれを遮るように自ら名乗りを上げた。

 

「影山晶だ」

 

 その名前は、今朝、彼女が極秘資料で見たものと寸分たがわなかった。

 やはり彼だったのだ。

 連続婦女暴行犯、通称「浣腸鬼」。

 彼女が追い続けてきた男が、今、目の前にいる。

 梓(あずさ)は刑事としての顔を取り戻し、言葉を続けた。

 

「あなたは婦女連続暴行犯の容疑者として捜査されています。心当たりは?」

 

 その問いに影山はまるで天気の話でもするかのように、しれっと答えた。

 

「心当たりもなにも、俺がその犯人だろう。それで? この俺をどうするつもりだ? 逮捕でもするか? その手錠で」

 

 彼の視線がベッドサイドに置かれた梓(あずさ)のハンドバッグへと向けられる。

 その中には彼女の警察手帳と共に、冷たい金属の手錠が収まっているはずだった。

 その瞬間、梓(あずさ)は自分が置かれている状況のあまりの滑稽さに、思わず笑みがこぼれそうになるのを必死でこらえた。

 素っ裸で、ついさっきまで意識を失うほど犯され尽くした女が、凶悪犯に対して真剣な尋問を行っている。

 これ以上の倒錯が、この世にあるだろうか。

 その愉快な感覚は彼女の心の奥底にあった最後の枷をあっさりと外してしまった。

 彼女は自分でも信じられないような、とんでもない回答を口にした。

 

「私は……あなたを連れて日本を出たい」

 

 そう言って、梓(あずさ)は影山の目を真っすぐに見つめた。

 その瞳には、もはや刑事としての使命感も、被害者への共感も、一片たりとも残っていなかった。

 あるのはただ、燃えるような熱を帯びた純粋な願望だけだった。

 

「……お前は、何を言ってるんだ?」

 

 初めて、影山の声に困惑の色が浮かんだ。

 自分の欲望のありったけをぶつけ、相手の尊厳を完全に破壊し尽くした。

 その後に、こんな事を言ってきた女は初めてだった。

 これまでの女たちは例外なく、恐怖と嫌悪に満ちた目で彼を拒絶したはずだ。

 影山は混乱した。

 彼の「芸術」が、初めて予期せぬ反応を引き起こした。

 そして、彼は気づいた。

 これまで常に自分が握っていたはずの主導権が、今、この裸の女の手に渡ってしまっていることに。

 

 梓(あずさ)は彼の動揺を見透かしたように言葉を続けた。

 その声は熱を帯び、まるで福音を説く伝道者のようだった。

 

「私はもう、普通の生活には戻れない。いえ、戻りたくはないの。あなたが与えてくれたこの世界を知ってしまったから。この痛みも、屈辱も、快楽も……私は求め続けてしまう。私の体は、もうあなたのものなの。だから、あなたが警察に捕まって、この世界が失われる前に……この国から逃げ出すの。私を連れて、どこか別の国へ」

 

 彼女の熱に浮かされたような説得は、しかし、確かな論理を持って影山の心に突き刺さっていた。

 彼はこれまで数えきれないほどの女を抱いてきた。

 彼女たちの絆を壊し、尊厳を汚し、その絶望する姿を観察してきた。

 だが、それで得られる満足はほんの一瞬だった。

 行為が終われば、必ず向けられる嫌悪の感情。憎悪の眼差し。

 それは彼の孤独を癒すどころか、より深い虚無へと突き落とすだけだった。

 だが、この女は違う。

 高遠梓(あずさ)は違う。

 俺を求めつづけてくる。

 何度苦痛を与えても、何度汚しても、むしろそれを歓喜して受け止める。

 彼女は、彼の「芸術」を理解する、唯一の鑑賞者だった。

 影山は自らの人生が今、重大な分岐路に立たされていることを感じていた。

 このまま独りの芸術家として、満たされることのない探求を続けるのか。

 それとも、目の前にいる唯一無二の理解者と共に、新たな世界へ旅立つのか。

 答えは、すでに出ていた。

 

「わかった。俺と一緒にこい」

 

 影山は静かに、しかし力強くそう答えた。

 その言葉を聞いた瞬間、梓(あずさ)の瞳に強い決意の色が灯った。

 それはまるで、長い旅の末に、ようやく探し求めていた聖地を見つけた巡礼者のような清々しいほどの輝きだった。

 二人の間に、もはや言葉は必要なかった。

 同じ狂気を宿す者同士の、魂の契約が結ばれた瞬間だった。

 

「出発は翌日の夜だ。それまでに荷物をまとめ、身辺整理を済ませておけ。刑事としての身分も、過去も、すべて捨ててこい」

 

 影山は事務的な口調でそう言うと、椅子から立ち上がった。

 梓(あずさ)は黙って頷(うなず)頷き、ベッドから降りると、散らばっていた自分の衣服を拾い集め始めた。

 その足取りに、もはや迷いはなかった。

 

 梓(あずさ)を帰らせた後、影山はすぐに動き出した。

 彼はホテルの部屋から、使い捨てのプリペイドスマートフォンを使って闇サイトにアクセスした。

 彼の強運はここでも健在だった。

 以前、競馬で儲けた大金はまだ手つかずに残っている。

 彼はその潤沢な資金を使い、「足のつかない海外逃亡」のプランを検索した。

 すぐに、一件の好都合な情報がヒットする。

 横浜港からフィリピンのマニラへ向かう貨物船。

 その船長を買収すれば、正規の出国手続きを経ずに密航者として乗船させることができるという。

 彼は暗号化されたメッセージでコンタクトを取り、高額な報酬と引き換えに、二名分の密航の手配を迅速に済ませた。

 すべてが驚くほど順調に進んでいった。

 

 翌日の夜。

 影山は盗難車を走らせ、梓(あずさ)と約束した場所へと向かった。

 人気のない公園の駐車場で待っていると、彼女は時間通りに現れた。

 大きなスーツケースを一つだけ引いている。

 彼女は車の助手席に乗り込むと、何も言わずに影山を見つめた。

 その顔は昨日までの刑事の顔ではなく、ただ一人の女の顔をしていた。

 

「俺の側にいる間は、これを着けていろ」

 

 影山は助手席のダッシュボードから小さなベルベットの箱を二つ取り出した。

 一つ目の箱を開けると、中には銀色の金属プラグが収まっていた。

 そのアナルプラグには、まるで血の滴のように燃える、大粒のピジョンブラッドルビーが埋め込まれている。

 二つ目の箱には、黒い革の首輪。その中央にもプラグと同じ見事なルビーがあしらわれていた。

 ルビーは梓(あずさ)の誕生石だった。

 彼がいつ、どうやってそれを知ったのか、梓(あずさ)は問わなかった。

 ただ、その事実が、彼女をこの上なく幸福な気持ちにさせた。

 

「嬉しい……」

 

 梓(あずさ)は恍惚とした表情で呟くと、影山が見守る中で、自らスカートの中に手を入れた。

 そして、何の躊躇もなく、その冷たいルビーのプラグを己の内に受け入れた。

 次に首輪を手に取り、カチリと音を立てて自らの首に装着する。

 それは、所有の証。

 そして、永遠の服従を誓う首輪。

 彼女は嬉しそうに微笑むと、影山に身を寄せた。

 車は静かに夜の闇へと滑り出し、横浜の港を目指した。

 

 港の一角、薄暗い照明が照らし出すコンテナヤードの陰で、貨物船は巨大な鉄の獣のように静かに停泊していた。

 影山と梓(あずさ)は、船長の手引きで人目を避けながら錆びついたタラップを登る。

 潮の香りと機械油の匂いが混じり合った重い空気が二人を包み込んだ。

 彼らは船倉の一角に用意された、粗末な船室に身を落ち着けた。

 やがて、重いエンジン音が腹に響き、船体がゆっくりと岸壁を離れていくのを感じる。

 小さな丸窓から、遠ざかっていく日本の夜景が見えた。

 無数の光が、まるで過去の人生そのもののように次第に小さくなっていく。

 梓(あずさ)は自分の内にあるルビーの重みと、首にかけられた革の感触を確かめながら、その光景を静かに見つめていた。

 彼女の隣で影山は何も言わずに、ただ闇の広がる海の先を見据えていた。

 

 それから、数日後のことだった。

 日本のニュース番組が、淡々とした口調で、ある海難事故の可能性を報じた。

 

『フィリピンのルソン島沖で、横浜を出港したパナマ船籍の貨物船「オーシャン・セレニティ号」との連絡が数日前から途絶えていることがわかりました。現場海域では巡視船や航空機による捜索が続けられていますが、これまでのところ船体や漂流物は確認されていません。当局によりますと、同船には正規の乗組員に加え、名簿には記載されていない二人が乗っていたとの情報もあり、関係機関が確認を急いでいます。消息を絶った理由については、悪天候による遭難や機関故障など複数の可能性が指摘されていますが、現時点では断定できない状況です……』

 

 アナウンサーは、すぐに次のニュースへと話題を移した。

 二人の密航者の名前が報じられることはなかった。

 彼らの存在は大海原の泡のように、誰にも知られることなく消えていった。

 

 その日を境に日本で「浣腸鬼」と呼ばれる男の犯行が起きることは二度となかった。

 一連の事件は容疑者不明のまま、やがて人々の記憶から風化し、都市伝説の片隅へと追いやられていった。

 ただ、警視庁の未解決事件ファイルの棚に、「高遠梓(あずさ)」という一人の女性刑事の失踪記録が、静かに埃をかぶることになっただけである。

 

― 完 ―

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