警視庁捜査一課のフロアに重く澱んだ空気が垂れ込めていた。
ここ数週間、首都圏近郊で断続的に発生している連続性的暴行事件は、その手口の残虐さと異常性によって、百戦錬磨の刑事たちの顔からも余裕を奪っていた。
単独の女性を狙い、拘束した上で徹底的に尊厳を破壊する。
犯行現場にはほとんど物証が残されず、犯人の神出鬼没な行動パターンは初動捜査を完全に翻弄していた。
この難事件の捜査本部に、一人の若き女性刑事が険しい表情で座っている。
高遠梓(たかとお あずさ)。警察学校を首席で卒業し、異例の速さで本庁捜査一課に配属されたエリート。
彼女の整った顔立ちは、今は鉄のように硬く、鋭い眼光が手元の資料に突き刺さっていた。
「高遠、また一件、類似の犯行だ。今度は山梨のキャンプ場で発見された」
上司であるベテラン刑事、田所が苦々しい声で報告書を彼女のデスクに置いた。
被害者は一人でキャンプに訪れていた三十二歳の会社員。
テント内で手足を結束バンドで縛られ、猿轡をされ、目隠しをされた状態で発見された。
そして、報告書の最後の一文が、
「……被害者は自らの排泄物の中で意識を失っていました。体内からは強制的に排便と排尿を促すための坐薬成分と、遠隔操作式のバイブレーターが……」
「胸糞悪いにも程があるぞ、こいつは」田所が吐き捨てるように言った。「人間のやることじゃねえ。被害者の心を、プライドを、根こそぎへし折るためだけの犯行だ」
写真に写された惨状から目を逸らさずに。
犯人が被害者に与えた屈辱、絶望、そして肉体的な苦痛。
その全てが、冷たい活字と不鮮明な画像を通して、彼女の脳裏に直接焼き付いた。
これは単なる性欲のはけ口ではない。
歪みきった支配欲と、他者の尊厳を踏み躙ることに至上の喜びを見出す、サイコパスの犯行だ。
「田所さん、被害者女性の聴取、私がやります。まだ混乱しているでしょうが、少しでも早く話を聞く必要があります」
「おい、高遠。お前が行くのか。精神的にもキツいぞ、こういうのは」
「女にしか話せないこともあるはずです」
その瞳に宿る強い意志に、田所はそれ以上何も言えず、ただ黙って頷いた。
病院の個室は消毒液の匂いと重苦しい沈黙に満たされていた。
ベッドの上で、被害者の女性は胎児のように体を丸め、虚ろな目で窓の外を眺めている。
「はじめまして、警視庁の高遠です。お辛いところ申し訳ありません。少しだけ、お話を聞かせてもらえますか」
女性はゆっくりと
ただ、深く刻まれた恐怖と絶望の色だけが、澱のように沈んでいる。
「……あの人は悪魔です」
「……詳しく教えていただけますか。どんな些細なことでも構いません。声、匂い、話し方……」
女性はぽつり、ぽつりと、悪夢の断片を語り始めた。
深夜、突然テントに侵入してきた男。
抵抗する間もなく体を縛り上げられ、声を奪われたこと。
暗闇の中で、体に何か冷たいものを塗りたくられ、異物を挿入された屈辱。
そして、自分の意思とは無関係に体を弄ばれ、堕とされていった快感と苦痛の地獄。
その話の端々から、犯人の冷酷で計算高い人物像が浮かび上がってくる。
「……声は低くも高くもない、特徴のない声でした。でも、話し方はとても……理性的で、落ち着いていて……まるで、実験でもしているみたいに……」
「容姿は? 少しでも見ていませんか?」
「目隠しをされて……。でも、一瞬だけ……布の隙間から……」女性は身を震わせた。
「……男が私を見下ろしていました。その時の顔……笑っていなかった。でも、目が……すごく、楽しそうだったんです。まるで、壊れていくおもちゃを見ているみたいに……」
他の被害者たちの証言と驚くほど酷似している。
犯人は身長175から180センチ程度、中肉中背、黒髪。年齢は三十代から四十代。
そして何より、被害者に恐怖と屈辱を与えることを心から楽しんでいる。
そのサディスティックな本質が全ての証言から共通して浮かび上がっていた。
「ありがとうございます。辛いことを思い出させて、申し訳ありませんでした」
「刑事さん……あいつは、またやります。あいつにとって、これはゲームなんです。私みたいな人間を、どれだけ汚く、無様に壊せるかっていう……。お願いです、捕まえてください。これ以上、私みたいな人を増やさないで……」
その悲痛な訴えに
「必ず捕まえます。私が、この手で」
捜査本部に戻った
犯行現場に残された痕跡は極めて少なく、指紋はおろか、体毛一本すら発見されていない。
監視カメラの映像を徹底的に洗い直しても、犯人らしき人物は巧みに死角を選んで移動しており、その姿を明確に捉えたものはない。
まるで幽霊だ。
特定の市域に留まらず、犯行のたびに県をまたいで移動している。
定職に就かず、特定のコミュニティに属していない可能性が高い。
「金の流れも追えん。被害者から金品を奪っているわけでもないし、犯行に使われている道具も、ネットで誰でも買えるようなものばかりだ」
捜査会議で田所が苛立たしげにテーブルを叩いた。
「こいつ、一体何者なんだ。どうやって生活してる?」
「一つ、気になることが」
「犯行は常に週末か連休中に行われています。そして、ターゲットは決まって『一人でいる自立した女性』。まるで、入念な下調べをした上で、確実に目的を遂行しているように見えます」
「つまり普段から獲物を探して街をうろついてるってことか? だが、それならどこかで目撃されてもいいはずだ」
「犯人は非常に頭が切れる上に、異常なまでの強運にも恵まれている。我々が仕掛けた網をことごとくすり抜けていく……」
犯人の輪郭はこれだけ鮮明に見えているのに、その実体に触れることができない。
まるで、分厚い霧の向こう側にいる相手と戦っているような、もどかしい焦燥感が捜査員たちを苛んでいた。
その頃、都心から少し離れた、ありふれたビジネスホテルの一室で、影山晶はベッドに寝そべり、壁にかけられた大型テレビを眺めていた。
画面の中では神妙な顔つきのニュースキャスターが、連続暴行事件の特集を組んで、警察の捜査が難航していることを伝えている。
ご丁寧に、犯人の手口の残虐性や、女性たちに与えた精神的ダメージの深刻さまで解説してくれている。
「警察は犯人の異常なまでの計画性と狡猾さに、捜査が後手に回っていることを認め……」
「ハハ……ハハハハハ!」
影山は腹を抱えて笑った。
自分の行いが、こうして世間を騒がせ、専門家や警察を唸らせている。
これ以上の快感がどこにあるだろうか。
画面に映し出される犯行現場の規制線や、俯いて歩く警察官たちの姿。
その全てが自分の偉業を讃えるための舞台装置のように見えた。
「有名人じゃないか、俺は」
彼がリモコンでチャンネルを変えると、別の局でも同じニュースが取り上げられていた。
被害者女性のプライバシーに配慮しつつも、犯行の特異性を強調する報道。
コメンテーターが「現代社会の闇が生んだ怪物」などと、陳腐な言葉で自分を分析しているのを見て、影山はさらに笑いが込み上げてきた。
お前たちに俺の崇高さが理解できるものか。
ニュースに満足すると、彼はベッドから起き上がり、部屋の隅に置かれたアタッシュケースを開いた。
中には彼の活動に用いるための様々な道具が整然と並べられている。
多種多様なギャグボール、材質の違う結束バンド、そして、今回のキャンプ場で使用したのと同じタイプのリモコンバイブレーター。
彼はそれらを一つ一つ、愛おしむように指でなぞった。
前回の女は確かに傑作だった。
強制的な排泄という、人間の最も根源的な尊厳を破壊する試みは見事に成功した。
だが、同じ手法を繰り返すのは怠慢というものだ。俺は常に新しい表現を模索し続けなければならない。
「次は何をテーマにしようか」
彼はケースの奥から一つの未使用の道具を取り出した。
それは滑らかなシリコンでできた、一見するとシンプルなアナルプラグだった。
しかし、その根元には細いチューブと小さな手動ポンプが繋がっている。
エアタイプ、内部で膨らませて固定するタイプのプラグだ。
「出せない苦しみ、か……」
影山はそれを手のひらの上で転がしながら思考を巡らせた。
前回の犯行は出したくなくても、出てしまう屈辱。
ならば、その逆はどうだろう。
出したくても、絶対に出せない苦しみ。
浣腸で極限まで便意を高めておきながら、このプラグで出口を完全に塞いでしまう。
内側から腸が張り裂けそうな圧迫感と、逃げ場のない苦痛。
その中で、さらに快感を与え続けたら、人間の精神はどうなるだろうか。
「……面白いかもしれないな」
影山は口の端に冷たい笑みを浮かべた。
脳裏には既に次の獲物の姿が浮かび上がっている。
苦悶に顔を歪め、体内で荒れ狂う嵐に耐えながら、それでも彼の与える刺激に体を震わせる女の姿。
その想像だけで、彼の体の中心が鈍く熱を持った。
彼はポンプを数回握り、プラグが静かに膨らみ、そして萎むのを満足げに眺めた。
次の傑作を生み出すための準備は、もう始まっている。