※この作品はR-18です。

浣腸鬼と呼ばれた男   作:たちばなさとし

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03犯人像 影山昌の稼ぎ

 あの田舎家での出来事から一週間が過ぎた。

 影山晶は、とある都市の安ホテルの一室で、ベッドに寝転がりながら天井の染みをぼんやりと眺めていた。

 脳裏にこびりついた女の絶望と汚濁の光景は、もはや甘美な記憶というよりは、鑑賞し終えた映画のワンシーンのように、彼の感性から遠ざかりつつあった。

 次の行動への資金はまだ十分に残っているが、永遠に湧き出る泉ではない。

 目的の遂行には、パトロンか、あるいはそれに代わる何かが必要不可欠なのだ。

 

「たまには仕事をするか」

 

 誰に言うともなくそう呟くと、影山は億劫そうに体を起こした。

 彼にとっての「仕事」とは世間一般のそれとは全く意味が異なる。

 それは彼の類稀なる「運」という才能を最も効率的に金という無味乾燥な紙切れに変換する作業に過ぎない。

 コンビニで最新の競馬新聞を数紙手に入れると、彼は再びホテルの自室へと戻った。

 

 そこからの時間は、一種の瞑想にも似ていた。

 テーブルに広げられた新聞の膨大な文字列と数字の羅列。

 馬の名前、血統、過去の戦績、騎手との相性、調教の状態。

 常人ならば情報を整理し、論理的な思考を積み重ねて結論を導き出そうとするだろう。しかし、影山のやり方は違った。

 彼はただ、紙面全体を一枚の絵画のように眺める。

 すると、ある一点、あるいはいくつかの組み合わせが、まるで発光しているかのように彼の意識に飛び込んでくるのだ。

 数字が意味を失い、ただの記号の連なりが、彼にだけ分かる「流れ」となって語りかけてくる。

 それは理論やデータ分析を超越した、ほとんど神託に近い直感だった。

 昼食もとらず、タバコを数本燻らせただけで、およそ半日が過ぎた頃には、彼の頭の中にはいくつかの三連勝単式、いわゆる三連単の馬券の組み合わせが、確信を持って浮かび上がっていた。

 それは競馬評論家たちが本命に挙げるような人気の組み合わせでは決してなかった。

 むしろ、誰もが「あり得ない」と切り捨てるであろう、大穴ばかりの組み合わせだった。

 

 数日後のレース開催日。

 影山は、その大規模な公営ギャンブルの殿堂──―競馬場にいた。

 熱気に浮かされた男たちの怒号や悲鳴が渦巻く中、彼は一人だけ、まるで植物園でも散策するかのように落ち着き払っていた。

 周囲の喧騒は彼にとって心地よいBGMでしかない。

 彼は自動発券機に向かうと、先日「見えた」組み合わせの馬券を一枚につき十万円という単位で、淡々と購入していく。

 彼が狙いを定めたのは、G1レースのような華やかな舞台ではない。

 ファンが注目するようなスターホースも出走しない、ごくありふれた午後の一般レース。

 しかし、彼にとっては、どのレースも本質的な違いはなかった。

 重要なのは、そこに「流れ」が存在するかどうか、それだけだ。

 合計で百万円近い金額を投じたが、彼の心に迷いや不安は一切なかった。

 それは投資ではなく、決まりきった未来から金を引き出す、単なる「作業」だったからだ。

 

 レースが始まった。

 ゲートが開き、十数頭の馬が一斉にターフへと躍り出る。

 影山はトラックに背を向け、大型ビジョンすら見ようとはしなかった。

 結果は既に分かっている。

 彼はただ、レース終了を告げるファンファーレが鳴り響くのを待っていた。

 やがて、確定を告げるアナウンスと、どよめきとも嘆きともつかない群衆の声が彼の耳に届いた。

 電光掲示板には、誰もが目を疑うような数字の組み合わせと、それに続いて表示された驚異的な配当金の額が映し出されていた。

 彼が購入した馬券は、その全てが寸分の狂いもなく的中していた。

 高いオッズ。大穴。偶然が偶然を呼んだとしか思えない奇跡的な結果。

 払戻金の総額は、およそ二千万円に達していた。

 

 払戻窓口で分厚い札束の入った封筒をいくつか受け取った影山は、それを無造作にビジネスバッグに詰め込むと、興奮の坩堝と化した競馬場を後にした。

 彼の足が向かったのは高級料亭や星付きのレストランではなかった。

 雑居ビルの地下にある、カウンター席だけの庶民的な居酒屋。

 くたびれたスーツ姿のサラリーマンたちが、安い酒で一日の疲れを癒しているような、ありふれた場所だった。

 

「熱燗と、もつ煮込み。あと、レバー串をタレで二本」

 

 彼はカウンターの隅に腰を下ろし、慣れた様子で注文した。

 すぐに運ばれてきた熱燗を猪口に注ぎ、くい、と一口煽る。

 アルコールが喉を焼き、体の芯にじんわりと染み渡っていく。

 続いて出されたもつ煮込みは、大ぶりの器にたっぷりと盛られ、湯気を立てていた。

 丁寧に下処理されたであろうモツは柔らかく、味噌のコクが深く染み込んでいる。

 

「……うまい」

 思わず、そんな言葉が口をついて出た。

 何十万もするコース料理よりも、何百万もする高級ワインよりも、今この瞬間に口にしている、数百円のもつ煮込みと熱燗の方が、よほど彼の魂を満足させた。

 それは金銭的な価値観からの解放を意味していた。大金を稼ぐ能力を持ちながら、その金がもたらすであろう虚飾の幸福に一切の価値を見出さない。

 多くの人間が渇望してやまないものを、いともたやすく手に入れ、そしてそれを意にも介さない。

 その絶対的な優越感こそが、彼にとって最高のスパイスなのだった。

 俺は、お前たちとは違う。

 この居酒屋で同じものを食っていても、その意味は全く違うのだ。

 彼は静かに祝杯をあげながら、次なる苦痛の構想に思いを馳せていた。

 

 その頃、警視庁捜査一課の一室で、一人の女刑事が行き詰まりを感じていた。

 彼女は数日前に保護された被害者の女性、例の田舎家で筆舌に尽くしがたい凌辱を受けた中年女性から、改めて事情聴取を行っていた。

 女性は精神科医のカウンセリングを受け、少しずつ落ち着きを取り戻してはいたが、その瞳の奥には未だ消えない恐怖と絶望の色が深く刻み込まれていた。

 

「……それで、犯人の男について、何か思い出せることはありますか。どんな些細なことでも構いません」

 

 女刑事は努めて優しい声色で問いかけた。しかし被害者の女性は力なく首を振るばかりだった。

 

「顔は……よく覚えていないんです。普通の、どこにでもいそうな人で……ただ、目が……あの人の目だけは……」

 

 女性はそこまで言うと、わなわなと震えだし、言葉を詰まらせた。

 人間を見る目ではなかった。

 まるで虫か何か汚いものでも見るような、冷酷で、無感情な目。その記憶がフラッシュバックし、彼女を再び恐怖の淵へと引きずり込む。

 

「無理に思い出さなくて大丈夫です。ゆっくりでいいですから」

 女刑事はそう言って聴取を一度中断し、捜査資料に目を落とした。

 今回の事件と、その前に都内で発生した女子大生への同様の事件。

 二つの事件には暴行の手口に「排泄」という異常な執着が見られるという共通点があった。

 しかし、それだけだった。

 事件が発生した場所は都心と山間の集落。

 被害者は二十代の女子大生と、四十代の主婦。年齢も境遇も、接点は何一つない。

 

「周辺の防犯カメラの映像ですが……」

 部下の刑事が気まずそうに報告する。

 

「犯人らしき男の姿はいくつか確認できました。ですが……」

 彼はモニターにいくつかの静止画を映し出した。

 そこには確かに中肉中背の男が映っていた。

 しかし、あるときは帽子を目深に被り、またあるときは絶妙な角度で顔を背け、あるいは逆光の中に紛れている。

 まるで、そこにカメラがあることを完全に把握し、意図的に顔を隠しているかのような不自然な動きだった。

 その姿は記録されていても、個人を特定できるような特徴的な情報は何一つとして捉えられていなかった。

 偶然にしては、あまりにも出来すぎている。

 

「まるで幽霊ね……」

 女刑事は吐き捨てるように呟いた。

 彼女は管轄の地図を広げ、事件のあった場所に赤いピンを刺した。

 二つのピンの間には何の脈絡も見出せない。

 被害者たちの人間関係、趣味、行動範囲。全てを洗い出したが、線は決して結ばれることがなかった。

 動機も不明。

 金品を奪うわけでもなく、性的暴行そのものが主目的とも思えない、儀式的で倒錯した犯行。

 犯人像は濃い霧の向こう側にあるかのように全く輪郭を結ばなかった。

 

 点と点。二つの事件は確かに同じ犯人によるものだろうという確信に近い予感はある。

 しかし、それらを繋ぐ論理的な線が、どこにも見当たらない。

 それは、まるで異なる星座に属する二つの星を無理矢理一つの物語にしようとするような、虚しい作業に思えた。

 女刑事は、いまだかつて経験したことのない、底知れない不気味さと焦燥感に包まれていた。

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