毒親に虐げられた青年は宝籤で大金を手に入れたので母親に復讐する話 作:葛轍偲刳
その日の夜。
美和子は指示されるがままに風呂を済ませた。下着だけの姿で甥の前に立つ。
「脱いで」
「……全部?」
「全部」
愛人契約を交わした以上、こうなるのは予測できた。それでも、まさか初日から――。戸惑いを押し殺して、素直に下着を脱ぎ捨てた。三十代も半ばとは思えぬ瑞々しい柔肌が露わになる。
宗一郎は無表情のまま美和子の肢体を視線でなぞった。
「こっちに来て」
寝台に呼ばれる。素直に応じると甥の腕が伸びてくる。抱き寄せられ、横たわると暖かな体温に包まれた。
――これで……終わるわけないわよね?
覚悟を決めたつもりだった。この甥に求められれば応えなくてはならない。それが契約なのだから。しかし――
「……寝る」
「え?」
宗一郎は美和子の裸体を腕の中に抱き締めたまま、瞼を閉じた。すやすやと穏やかな寝息が耳元に届く。
拍子抜けした。何とも言えない気分で、甥の寝顔を見つめる。まさか、このまま何もせずに眠るというのか。
「おやすみ」
呆然とする美和子に一言だけ告げると、宗一郎はすっかり眠り込んでしまった。まるで子供のような無防備さで。
美和子は困惑と安堵が入り混じった奇妙な心境で、甥の寝息に耳を澄ませた。
――これが、契約? 愛人なのに……? でも……
甥の腕の温もりは嫌ではなかった。むしろ心地よい。久しく忘れていた感覚だった。
宗一郎の手が美和子の腰に回される。その力強さにドキリとしたが、やはりそれ以上は何もしてこない。
「明日から始める」
「……始める?」
掠れた声で問いかけたが、すでに宗一郎は夢の中だった。美和子は溜息を漏らしながらも、甥の胸板に顔を埋めた。人肌の温もりを感じながら瞼を閉じる。
――明日から。それがどういう意味なのか考える気力は残っていなかった。ただ一つ確かなことは――
「宗一郎……」
ぽつりと呟いた名前に応えるものはいない。それでも美和子は甥の寝顔を見つめながら眠りについた。
この契約がどのような形で進むのかはわからない。だが今だけはこの温もりに身を委ねたかった。
---
翌朝。目覚めた美和子は最初に感じた違和感に戸惑った。
――何かが物足りないような……空気が違う。いや、空気が「澄んでいる」と表現するのが正しいだろう。そして――
「……」
いつも夫が吸い散らかした煙草の残り香がない。酒の臭いもしない。床に転がる空き缶も見当たらない。
代わりに鼻腔をくすぐるのは清潔なシーツと柔らかい羽毛布団の匂い。それから――
「……ん」
裸の乳房に頬をすり寄せて、無防備に寝入っている甥の顔。宗一郎の規則正しい寝息が肌にかかる。
そうだ。自分はもう、宗一郎の愛人なのだ。――まだ、愛人らしいことは何もされていないけれど。
美和子はゆっくりと指先で甥の頭を撫でた。ふわふわの髪が指の間を滑る感触が心地よかった。
「……うぅん?」
宗一郎が眉間に皺を寄せた。瞼が震え、やがてゆっくりと開く。その目はまだぼんやりとしていた。
「叔母さん?」
「おはよう」
「……起きてたんだ」
宗一郎は目を擦りながら身を起こした。全裸の美和子を見る目には、昨夜のような冷めた輝きはなかった。
「身体は平気? 痛いところとかない?」
「え? ええ……どこもないわ」
昨日は抱き締められただけで眠ってしまったのだ。痛みなどあるはずがない。ただ――
「……宗一郎」
「ん?」
「どうして……昨日は何もしなかったの?」
美和子の声には戸惑いが滲んでいた。愛人契約を結んだ以上、身体を差し出す覚悟はあった。だが――
「して欲しかった?」
「……」
答えは否だ。自分から甥の体を求めるほど理性や道徳を見失ったつもりはない。少なくとも、今の時点では。
「じゃあ、まだ別にいいよ。俺がそうしたくなったら言うし」
「……」
愛人、という言葉の意味がわからなくなる。宗一郎のペット、所有物。それは、こういう扱いのことを指すのだろうかと。
「とりあえず服を着ようか。叔母さんの裸は綺麗だから、見ていても飽きないけど。いつも丸出しにしていたら風邪をひく」
「宗一郎……私はまだ服を着ていいの?」
「当たり前だろ。家の中で裸のまま過ごすのは無理がある」
宗一郎の声音は変わらない。昨晩のように冷淡な契約者の口調でもなく、まるで普通の甥のように接してくる。
美和子はベッドを降りた。床に散らばった自分の下着を拾う。宗一郎は寝台の上で胡坐をかきながら彼女を見つめていた。
「宗一郎?」
「何?」
「……」
美和子は下着をつけながら唇を噛んだ。何か言いたいような気がしたが、言葉にならない。
――私はあなたの愛人でしょ? どうしてそんなに普通なの?
問いかけられず、喉の奥に沈めた疑問。宗一郎はそれを見透かしたように薄く微笑んだ。
「叔母さん。『愛人』っていうのはさ、ただ体さえあればいいってわけじゃないと思うよ。ただセックスがしたいだけなら、今の俺は幾らでも見繕える。こう言っちゃなんだけど、叔母さんよりも若くて綺麗な女を、何人でも好きなだけ呼べる」
「……」
「でも、そういうことじゃないんだ。俺が叔母さんに求めてるのは」
「何を?」
「叔母さんの存在そのもの。叔母さんっていう人間を、俺の傍に置いておきたい」
宗一郎の目は真剣だった。美和子は言葉に詰まる。これは契約上の一時的な関係ではないのかと。
「だから今日から色々と教えるよ。叔母さんにどんなことをして欲しいか。叔母さんがどんなことをすればいいのか」
「教えてくれるの? 私に……あなたのこと」
「そういうこと」
宗一郎は立ち上がった。美和子に衣服が手渡される。清潔な白いブラウス。黒いロングスカート。フリル付きの白いエプロン。煽情的でもない。卑猥でもない。ごくごく普通の、女物の服だ。いや、むしろ布地も仕立ても上質で、これまで自分が袖を通していた服よりもずっと値が張るかもしれない。
「今日の叔母さんはこれを着て過ごす。俺が命じたら下着だけになることもあるし、裸にもなる」
「他の服に着替えることも?」
「もちろん」
「他には?」
「掃除とか、洗濯とか、食事の支度とか」
ごくごく普通の家事ばかりだ。それこそ、専門の家政婦を雇えば自分よりもよほど綺麗にやってくれそうなものだが。しかし――
「叔母さんに頼みたいんだ。叔母さんの手で」
「……」
「叔母さんは俺の所有物だけどね。ただ従えばいいだけじゃない。叔母さんがどれだけ俺のために尽くしてくれるかを見てみたいんだ」
美和子は呆然と甥の顔を見つめた。所有物、と称しながらも宗一郎の要求はまるで普通の女性へのそれだ。
愛人という契約に縛られた自分に課されるのは、肉体的な奉仕かと思っていたが――
「でもね、宗一郎」
「ん?」
「私に……あなたが求める『尽くし方』ができるかどうか」
「できるよ」
「なんで言い切れるの?」
「叔母さんは昔から優しいから」
宗一郎の唇が緩む。美和子は息を呑んだ。彼の笑顔は昔と変わらない。幼い頃から見慣れたそれだ。
だが――その眼差しはどこか妖しい。
「それは……」
「だから叔母さんは俺の言うことに逆らえない。いや、逆らわない。そしていずれ俺の言う通りに……叔母さんが俺を愛するようになる。いや、してみせる」
囁くような宗一郎の声。そう言いながら宗一郎は美和子に服を着せ始める。ブラウスの襟元を正す指先は驚くほど優しい。
「まずは朝ご飯を作ってくれる? 久しぶりに叔母さんの手料理が食べたい」
「……ええ」
美和子は促されるままキッチンへ向かった。エプロンを結びながら背後の甥を見やる。
宗一郎は椅子に腰掛けて新聞を広げていた。だが時折ページ越しに美和子の動作を見つめている。
――これが……愛人契約? これで?
美和子は自問自答した。肉体関係はない。愛人らしさもない。ただ家事をさせるだけ? だが――
「叔母さん? どうしたの?」
「いえ……」
宗一郎がこちらを見ている。美和子は慌てて首を振った。
――これが私の役割だと言うのならば。
そう自分に言い聞かせながら卵を割る手を動かした。
宗一郎は黙って見ている。決して触れてこない。
「宗一郎……」
「何?」
「……なんでもないわ」
美和子は苦笑いを浮かべた。彼の意図はまだよくわからない。けれど――
「美味しい?」
フライパンに溶いた卵を流し込んでプレーンオムレツを作り、トースターで焼いた食パンにバターを添える。キッチンの棚に贈答品のティーセットがあったので、開封済みの紅茶の缶から茶葉を計ってティーポットに入れ、湯を注いだ。
「うん。すごく美味しいよ」
どうというほどのこともない、どこにでもあるような平凡かつ手のかからない献立だ。しかし、そんなものでも宗一郎は文句も言わず、むしろ素直に口に運んだ。
「普段は何を食べてるの?」
「カップ麺」
台所の隅に、業務用スーパーでまとめ買いしてきたと思われるカップ麵の段ボール箱が確かにあったが、それを今朝のメニューとして食べないで済んだことが嬉しいのだろうか。
「今度はもっと手の込んだ料理を作るわね」
「楽しみにしてる」
宗一郎は紅茶のカップを傾けながら答えた。
「後片付けが終わったら、部屋の掃除と洗濯もよろしく。掃除の順番や手順は任せるよ。俺は部屋でクロスワードパズルでも解いてるから、何かあったら訊いて」
「了解」
美和子は頷きながら思った。
――これなら、夫がいなくなった時の家事と大して変わらない。ただ一人暮らしの男の家で仕事をするだけのこと。だけど――
「叔母さん」
呼びかける宗一郎の声音は甘かった。そして同時に危険な響きを孕んでいた。まるで猛獣が獲物を見定める時のような鋭さ。
「俺の『所有物』である以上、叔母さんが俺の命令に従えないことなんて許さないよ。もちろん罰も与える。その覚悟はある?」
「あるわ」
「じゃあ頑張って」
宗一郎は唇の端を持ち上げた。その笑みは美和子に悪寒を走らせた。
――この契約は、まだ始まったばかりなのだ。
美和子は深呼吸をひとつすると、皿洗いに集中した。水道水で油汚れを流し落としながら考える。
この契約の本質は肉体関係ではない。それよりも深いところにある何かだ。
だがそれが何なのかはまだ掴めない。
「頑張るわ」
小さく呟いた声は泡と一緒に排水溝へ流れ去った。