夕暮れの山道を、里奈はひとり歩いていた。
足元の砂利が小さく鳴り、乾いた音が森の奥へ吸い込まれていく。空気には湿った土の匂いと杉の青い香りが満ち、吐き出す息さえ重く絡みつくようだった。
都会のざわめきから逃れてきたはずなのに、ここには別種のざわめきがあった。木々の葉擦れ、鳥の鳴き声、その合間に混じる得体の知れない気配。
谷間に沈む陽は赤を帯び、森の影を濃く落とす。光の境目は曖昧で、揺れる枝葉が頬をかすめるたびに、里奈はどこか別の世界へ足を踏み入れた錯覚を覚えた。
肩にかけたカメラバッグの重みを確かめ、彼女は深呼吸する。胸の奥で微かに脈打つのは、旅の期待か、それとも不安か。
道の脇には石垣や苔むした祠が点々と並ぶ。ひとつの祠に近づくと、木の札に墨の跡が浮かび上がっていた。
「触れるな」
「神を迎える夜」
にじんで判読しづらいが、その曖昧さがかえって胸をざわつかせた。
里奈は思わず指で札をなぞった。
冷たい。湿っている。
瞬間、皮膚の奥を撫でられたような感覚が走り、思わず息を止める。
「……こんな場所に、人が……」
口に出した途端、言葉は森に吸い込まれて消えた。
胸の奥に混ざり合うのは、未知に触れる興奮と、禁忌を侵した背徳感。
やがて視界の先に、夕暮れの光を受けて揺れる茅葺きの屋根が見えた。小川のせせらぎ、鶏の遠鳴き、煙の匂い。確かに人の営みがあるはずなのに、まるで別世界の入口のように思えた。
◇◇◇
村の細い道を抜け、里奈はようやく宿の前に立った。
木造二階建ての建物は、外壁の赤茶けた漆喰や軒先の苔に、長い時間の痕跡をまとっている。
扉の上には手書きの札がいくつか掛けられており、かすれた墨文字が読めた。
「今宵、神を迎える」
「触れてはならぬ」
一瞬、里奈の背筋に冷たいものが走る。
しかし足を止める間もなく、木戸を開けると中から女中風の仲居が現れた。
「お待ちしておりました。お一人でのご宿泊でございますね」
丁寧に頭を下げた仲居は、里奈を館内へと案内した。
「この村は夜になると冷え込みますから、どうぞ湯で温まってからお休みくださいませ」
「……ありがとうございます」
「ええ。お一人旅は気楽でよろしゅうございますが……夜は、少し不思議な夢を見る方もいらっしゃいますの」
ふと告げられたその言葉に、里奈は眉をひそめた。
冗談とも世間話ともつかない調子だったが、なぜか心に小さな棘のように残る。
案内された部屋は畳敷きの和室だった。荷物を置こうと腰をかがめたとき、隅に置かれた奇妙なものが目に入る。
逆さに組まれた榊、勾玉を連ねた縄、そして小動物の骨。
一見ただの置物に見えるそれらは、静かに、しかし確かな存在感を放っていた。
「この宿では、古いしきたりが残っておりまして……。どうかお気になさらずに」
仲居が里奈の視線に気づき、穏やかに微笑んだ。
その口調は柔らかいのに、なぜか“触れるな”と暗に告げているように感じられる。
「……はい」
里奈はそう答えつつも、胸の奥がざわついた。
未知のものに惹かれる興奮と、背徳感の入り混じるざわめき。
仲居が退室すると、部屋は静寂に包まれた。
里奈はしばし迷った末に、どうしても抗えない衝動に負け、祭具にそっと指先を伸ばす。
触れた瞬間、皮膚の奥をぞくりとした感覚が走った。
生き物のような温もりと、柔らかく波打つ振動――。
「……触っちゃった」
思わず呟き、手を引く。だが、胸の奥に残る感覚は消えない。
窓の外では森がざわめき、まるで彼女の行為に応えるようだった。
――今夜、この村で何かが自分を待っている。
そんな予感が、深く刻まれた瞬間だった。
◇◇◇
夜。布団に横たわった里奈の耳に、杉の梢が揺れる音が届く。
風音のはずなのに、呼吸のように聞こえる。誰かが傍らにいる。
指先にはまだ祭具の余韻が残り、熱が胸へ、そして下腹部へとじわじわ広がっていく。
眠気に抗えず意識が沈むと、闇に淡い光が灯り、彼女は見知らぬ社の境内に立っていた。
石段を照らす淡光、漂う杉の香り。
「……誰?」
囁いた声に応えるように、濃い影から青年が現れた。
柔らかな笑みを浮かべ、手を差し伸べる。その指先は現実の祭具と同じ温かさを帯びていた。
里奈は逃げようとするが、足は動かない。
差し伸べられた手に近づくだけで、全身が甘く痺れ、息が荒くなる。
「来なさい――」
その声は優しいのに、抗えぬ命令のように響いた。理性は拒もうとするのに、身体は従いたがっている。触れられるだけで、敏感に震え、奥深くをくすぐられる。
――そして目覚めたとき。
汗ばんだ肌、荒い呼吸、早鐘のような鼓動。
夢の余韻は祭具に触れたときの感覚と重なり、まだ消えずに身体の奥を満たしていた。
「……何だったの、今の」
怖いのに、惹かれてしまう。
この夜、そしてこれからの夢で、何かが確実に自分の中へ入り込もうとしている――そう確信せざるを得なかった。