障子越しに差し込む朝の光で目を覚ました。外はまだ薄い霧が残り、鳥の声がかすかに聞こえる。宿の一室に漂う木の匂いと、寝具に染み込んだ昨夜の汗の残り香が、現実と夢の境界を曖昧にしていた。
布団の上でしばらく動けずにいると、腹部に置いた掌から、かすかな鼓動のような感触が伝わってきた。昨夜の夢の中で青年が告げた言葉が、朝の静けさの中でよみがえる。これはまだ幻なのか、それとも確かに芽生え始めたものなのか――判断がつかないまま、胸の奥に冷たい不安と甘い陶酔が絡みついて離れない。
廊下の方から、仲居たちの慌ただしい足音や、庭先で交わされる村人の声が耳に届く。村全体が今夜に向けて動き始めているのが、肌でわかる。自分の知らぬ間に、確実に「何か」に組み込まれているのだという直感があった。
里奈は小さく息をつき、枕元に置いていたスマートフォンを手に取った。画面には遠方にいる彼の名前。ほんの数秒迷った末に、短いメッセージを送る。
「元気にしてるよ。こっちは少し不思議なところだけど、大丈夫」
送信ボタンを押した瞬間、ほんのわずかな安堵が胸に広がる。しかしそれ以上に、自分の内側に芽生えた「説明できない変化」を、どうしても彼に伝えられないことが、里奈をひどく孤独にさせた。
昼前になると、宿の庭先には村人たちの声が満ち始めていた。男たちは山から木材を運び出し、女たちは花や布を手にして通りを飾っていく。幼い子供ですら大人に混じり、決まりきった役割を果たしている。
里奈が外を歩けば、誰もが笑顔を見せるが、その瞳は決して真っ直ぐ彼女を見返さなかった。まるで、自分が「これから訪れる夜の中心」であることをすでに知っているかのように。
境内へ足を向けると、古い社の周りでは白布が張られ、祭壇が整えられていく最中だった。木立の奥からは、太鼓の低い音が響き始めている。陽光の下にあるはずなのに、あたりの空気はじっとりと湿り、胸の奥に絡みついて離れない。
宿へ戻り、畳に身を横たえると、昨夜の夢の余韻が再び蘇る。瞼を閉じた瞬間、耳の奥で青年の声が囁いた。
「……待っている。最後の夜を、おまえと共に」
その声に抗おうとする気力は、もうほとんど残されていなかった。ゆっくりと意識が沈み、里奈の身体は眠りの闇に落ちていく。
気がつけば、周囲は山奥の泉のほとりだった。澄んだ水面に月光が反射し、背後には祭壇のように組まれた石が並んでいる。そこに立つ青年の姿が、静かに彼女を迎えていた。
◇◇◇
泉のほとりに立つ青年の手が、そっと里奈の頬に触れた。その瞬間、足元から伸びた見えない根が、絡みつくように彼女を縛る。動こうとしても、膝から下が重たく沈み、抜け出せない。
青年の指先が首筋をなぞるたび、身体の奥から熱が芽吹き、甘い痺れとなって広がっていった。まるで花弁の内側に誘い込まれるように、柔らかな力が彼女を包み込む。抗おうとすればするほど、絡みつく蔓は強くなり、逃れる術は失われていく。
「これは祝福だ。村が守り続けた命の循環……その中心に、おまえは選ばれた」
青年の低い声が胸の奥に響き、里奈の抵抗心を溶かしていく。甘い蜜のような感覚が口元に流れ込み、理性を絡め取る。頭の中に霞がかかり、もう自分の意思では動けなかった。
身体は開かれ、泉の冷たい水と青年の熱が入り混じる。里奈はただ、捕食される虫のように意識を委ねるしかなかった。
腹部の奥で鼓動が強まり、それが青年の手と重なった瞬間、彼女の全身は快楽と恐怖に貫かれた。完全に呑み込まれた、と直感する。自分という輪郭が薄れていき、代わりに「何か別のもの」が宿っていく感覚が、確かにそこにあった。
◇◇◇
はっと目を開けると、宿の天井が見えた。薄暗い部屋、障子越しの夕暮れの光が赤く滲んでいる。
布団の上に横たわる里奈の全身は汗に濡れ、呼吸はまだ浅い。胸に手を置いても落ち着かず、代わりに腹部へ手を移した瞬間――
「……っ」
そこに、鼓動のような、しかし自分の心臓とは異なる震えが確かにあった。内側から微かに、コンコンと扉を叩くような感触が伝わってくる。
「うそ……これ……」
里奈の声は震え、同時に喉の奥からこみ上げる甘い吐息がそれを裏切る。恐怖と陶酔が絡み合い、抗おうとする意志を鈍らせていく。
もう元の身体ではない――その予感が、全身を痺れさせた。
窓の外から、笛と太鼓の音が微かに響いてきた。村人たちがどこかで祭の準備をしているのだろう。
その音は里奈にとって救いではなく、むしろ「自分がすでに儀式の中心に組み込まれている」証のように思えた。
腹部に残る微かな鼓動を抱きしめながら、里奈は目を閉じるしかなかった。逃げられぬことを悟りながらも、その甘美な束縛から解き放たれることを、心の奥では望んでいなかった。
夜が、完全に訪れようとしていた。