朝の光が障子越しに差し込み、部屋の畳を淡く照らしていた。
里奈は重たいまぶたをゆっくりと開け、枕元で深い息を吐く。胸の奥に残るざわつきと、身体の芯に広がる微かな熱は、眠りの中で見た夢の名残なのだろう。あれはただの夢――そう思いたいのに、皮膚の下に残る震えは現実のように鮮明で、否応なく記憶を呼び覚ましてしまう。
「……夢のはず、よね」
呟いてみても、自分の声は頼りなく、確信からはほど遠かった。
そのとき、襖の向こうから控えめに声がかかった。
「失礼いたします。朝餉をお持ちしました」
襖が静かに開くと、仲居が膳を運んでくる。炊きたての白米、山菜の煮物、味噌汁に香の物――素朴ながらも温かみのある献立が、淡い湯気とともに部屋に広がった。
「よくお休みになれましたか?」
にこやかに問いかける仲居の顔に、里奈はぎこちなく笑みを返す。
「ええ……少し、変な夢を見たような気がして」
仲居は膳を整えながら、ふっと意味ありげに目を細めた。
「この村に来られる方は、よくそうおっしゃいます。神さまに気に入られたのかもしれませんね」
箸を手にした里奈の動きが止まった。胸の奥がひやりと凍るような感覚に包まれる。
「神さま……?」
思わず聞き返すが、仲居はそれ以上は言葉を重ねず、ただ穏やかな笑顔を残して襖を閉めていった。
膳の上の湯気が、静かな部屋の中でゆらゆらと揺れる。
里奈は味噌汁を口に運びながらも、落ち着かない気持ちを抑えきれなかった。
食後、カメラを肩に掛けて宿を出る。朝の村はしんと静まり返り、澄んだ空気が肺の奥まで染み込んでいく。石畳の道を歩くたびに、足元から小石の乾いた音が響き、山鳥の声が遠くから重なる。
畑仕事をしている老人や、家の前を掃き清める女性とすれ違うたびに里奈は会釈をする。しかし、誰もが一瞬だけ視線を寄越すものの、決して目を合わせようとはしなかった。
すれ違った若い男が、背を向けながら小さく呟いた。
「……選ばれたんだな」
耳に残ったその言葉は、朝の静けさの中でやけに重く響き、里奈の胸を再びざわつかせた。
◇◇◇
夢の中。
湯煙がもうもうと立ち込める温泉のような空間に、私は一人で立っていた。現実で汗を流した湯場と似ているようで、どこか異様な静けさが漂っている。水面は揺れず、風もない。それなのに、背筋を撫でるような気配だけが確かに存在していた。
「……また来てくれたね」
振り返ると、あの青年――土地神がそこにいた。白い肌に黒髪が濡れて張りつき、まるで人間のようでいて人間ではない透明感を放っている。彼の目は底知れず深く、吸い込まれるような黒。
「ここは、君が望んでいる場所だ」
「望んで……?」
青年は微笑み、私の手をそっと取った。指先から熱が流れ込み、心臓が跳ね上がる。夢のはずなのに、感覚が生々しい。
「儀を進めよう。君の体を通して、私は現世と結びつく」
その声は甘やかでありながら、拒むことを許さない響きを孕んでいる。私は戸惑いながらも、導かれるまま彼の隣へ進んでいく。
気がつけば、足元の湯はゆっくりと色を変えていた。澄んだ水が淡く紅を帯び、夜明けのように広がっていく。胸の奥に警鐘が鳴るのに、逃げるという発想は浮かばなかった。むしろ、その熱に溺れていきたいとすら思っていた。
――これは、もう始まってしまったのだ。
青年は囁く。
「君が受け入れれば、すべては満たされる」
唇が近づく。その瞬間、夢の空間の空気が微かに震えた。
青年の唇が触れる寸前、世界が静まり返った。湯気さえも止まり、時が凍ったかのように。
彼の指が私の頬を撫で、首筋へと滑る。その軌跡に熱が芽生え、全身が敏感になっていく。まるで私自身が神に触れられるためだけに生まれた器であるかのように。
「君は、この地を継ぐ花となる」
「……花?」
囁きは甘く、けれども残酷な響きを含んでいた。
青年の胸に抱き寄せられると、鼓動が自分のものと重なり合っていく。現実では決して聞くことのない速さで。
背中にまわされた手は、私を逃がさぬように深く絡む。湯面が不自然に揺れ、紅色が濃さを増していった。
衣を解かれる感覚があった。夢なのに、肌を撫でる空気の冷たさと、神の体温の熱さが明確に対比している。思わず息を呑むと、その吐息すら彼に奪われていく。
「怖いか?」
「……怖い、でも……離れたくない」
自分の声が震えているのに、抗えない。いや、抗う気持ちが削がれていく。
青年は満足げに微笑み、私の下腹部へと掌を当てた。その瞬間、体内の奥で小さな火が灯るような感覚が走った。
「ここに、種を宿そう」
その言葉に、背筋がぞわりと震えた。恐怖と、抗しがたい甘美な期待がないまぜになり、私はただ彼に身を委ねるしかなかった。
熱が、夢の中の私を呑み込んでいく。
青年の掌に触れられた場所から、じわじわと何かが広がっていく感覚があった。甘く、重く、抗いがたい。
その中で、ふと耳に声が届いた。
「……お客さま、朝餉のご用意ができております」
仲居の声だった。遠く、霞がかった空気を裂くように響き、夢と現実の境を曖昧に揺さぶる。
はっとしたときには、私は布団の中で目を覚ましていた。額には汗が滲み、浴衣は乱れ、心臓はまだ速く打っている。
夢――そう思おうとするが、腹の奥に残る温もりがそれを否定していた。まるで、夢で触れられた痕跡が現実の体に刻まれているかのように。
「……これは、夢のはず」
声に出してみても、疑念は消えない。
障子の外からは、朝の光が差し込み始めていた。湯場で汗を流した昨夜が遠い昔のように思える。
仲居の声に応えるように起き上がり、布団を整えようとしたとき、畳に濃い紅色の染みが落ちているのに気づいた。
それは血とも、花の色とも見える。手を伸ばして触れようとした瞬間、染みはすっと畳に溶けて消えた。
夢と現実の境は、もう曖昧なままだった。