朝餉の膳が、部屋に運ばれてきた。湯気の立つ味噌汁、香ばしく焼かれた川魚、山菜のおひたしに白米。山の宿ならではの素朴さが並んでいるのに、箸を持った途端、胃の奥がずしりと重く感じられた。
「……いただきます」
そう口にしてみても、思うように箸が進まない。味噌汁を一口含んだだけで、舌が妙に敏感に反応し、塩気が強すぎるように思える。焼き魚も香りだけで胸の奥が詰まるようで、思わず膳から顔を背けてしまった。
「お客さま……お加減でも、悪いのですか?」
心配そうに仲居が膝をつき、こちらを覗き込んでくる。その目がやさしい分、余計に嘘をついている罪悪感が胸を刺す。
「いえ、大丈夫です。ただ……旅の疲れでしょうか」
無理に笑みを作ってみせると、仲居はしばし私を見つめた後、静かにうなずいて膳を下げた。残してしまった申し訳なさよりも、体のだるさのほうが勝っていた。
布団に横になると、視界の端がじわりと滲む。微熱のような熱がこもり、呼吸が浅くなる。
昨夜の夢が、何度も脳裏によみがえった。
青年の指先に撫でられた頬。抱き寄せられた胸の温かさ。
そして――腹部に触れられた瞬間の、あの異様な熱の流れ。
思わず、自分の腹にそっと手を置く。そこから、昨夜の残響のような温もりがじんわりと広がってくる気がした。
「夢だったはず」と繰り返しても、その感覚だけは嘘をついていなかった。
◇◇◇
昼前、どうにか体を起こして外へ出ると、村の空気はひんやりと澄んでいた。
木立の間から射す光はやわらかく、鳥の声が遠くで交わる。都会では決して味わえない静けさなのに、その心地よさが今はどこか異様に感じられる。
宿の前を流れる小川のせせらぎを聞きながら、私はふらりと歩き出した。体のだるさは消えていない。けれど、あの夢の余韻に導かれるように、どうしても足を止めていられなかった。
やがて、山道の脇にぽつりと立つ小さな祠にたどり着く。苔むした石の基壇、ひび割れた木の鳥居。その前に吊るされた札には、掠れた墨字でこう書かれていた。
――「触れるな」
――「神を迎える夜」
昨日、山道で見かけたものと同じ札だ。
その瞬間、背筋を冷たい風が抜けたように震えた。
「……やっぱり、この村は普通じゃない」
思わず小声でつぶやく。
けれど同時に、祠の奥から漂うような気配が私を離さなかった。目には見えないのに、たしかにそこに「誰か」がいる。呼吸の合間に感じる、温かく、甘やかな気配。
昨夜、夢で見た青年の姿が、頭の中に浮かぶ。
柔らかな微笑み。差し伸べられた手。
胸の奥がざわめき、腹部に置いた掌が熱を帯びる。
「これは夢の続き……それとも現実?」
問いかけても答えは返らない。ただ、祠の奥にひっそりと沈む闇が、まるで私の声に耳を傾けているように思えた。
◇◇◇
宿に戻ると、畳の部屋は昼の光を受けて薄明るく、静かだった。
体のだるさは相変わらずで、頭の奥がじんわり熱を帯びている。私は布団に横たわり、深呼吸を繰り返した。
――気のせいだ。
――ただの旅の疲れ。
そう言い聞かせながらも、まぶたを閉じるとすぐに昨夜の夢が押し寄せる。青年の面影が、影のように浮かんでは消えた。
「……また、会えるの?」
誰にともなく呟いた声が、畳の上で揺れる。
その瞬間、窓から入り込む風がふっと止まり、部屋の空気が妙に重たくなった。
耳を澄ますと、どこからか微かな囁きが混じる。
男の声――いや、昨夜の夢で聞いたあの青年の声に似ていた。
『……待っている』
胸の奥が跳ねた。
幻聴のはずなのに、心臓が熱を帯び、腹部に置いた掌がじわじわと温かくなる。
布団の中で膝を抱き寄せるように身を縮めても、その感覚から逃げられない。
「いや……これは夢じゃ……」
そう呟いた刹那、まぶたの裏に柔らかな光が揺れた。
見覚えのある光景――夜の社、石段、そして揺れる灯火。
現実の昼間に横たわっているはずなのに、意識がじわじわと夢へ引きずり込まれていく。
抗おうとする理性と、抗えぬ甘美な引力。その狭間で、私は静かに息を呑んだ。
◇◇◇
光が揺らめく夢の世界に、私は無意識のうちに足を踏み入れていた。現実の布団の感触はまだ残っているのに、視界は濃く、甘い湯気の立つ温泉のような場所に変わっていた。
「……来たね」
背後から声がする。振り返ると、あの青年――土地神が静かに立っていた。夢の中でしか触れられないはずの彼の指先が、温かく、抗えぬ力で私を包み込む。
彼の掌が腹に触れた瞬間、昨夜の儀式の余韻が体内に響き渡る。熱さと甘美さ、ぞくりとした刺激が重なり合い、理性の端はかすかに震えた。
「君の体は、もう私の種を受け入れはじめている」
言葉は低く、耳元でささやくように響いた。抗えない感覚に身を委ねるしかない自分を、私はただ見つめるしかなかった。
夢から目覚めると、布団の中で汗に濡れた肌を抱え、呼吸は荒く、心臓はまだ速く打っていた。
鏡に映る自分の顔を見ると、頬がほのかに紅潮し、昨夜の夢の影が確かに残っている。腹の奥の違和感に触れると、それは決して夢の産物ではないように思えた。
窓の外では、午前の光が静かに降り注ぐ。だが、現実のはずの世界に、青年の囁きと体感の痕跡が滲んでいる――
私は抗えぬ予感とともに、これから始まる儀式の連鎖を肌で感じながら、深く息をつくしかなかった。