朝の光が障子越しに差し込む。昨夜の熱の余韻を残したまま、里奈はぎこちない足取りで宿の食事処へ向かった。
畳敷きの広間に並べられた膳は、焼き魚と味噌汁、漬物に小鉢がひとつという簡素なもの。だが、不思議と山里の空気に馴染み、胃にやさしい匂いが漂っていた。
「おはようございます、お客様」
仲居が膳を整えながら、やわらかな笑みを浮かべる。だがその目の奥には、わずかな影が宿っているように見えた。
「昨夜は、よくお休みいただけましたか?」
里奈は小さくうなずきながら、箸を手に取る。返事の代わりに味噌汁を口に含むと、出汁の温かさが喉を滑り落ちていく。しかし、胸の奥にこびりついた不安までは溶かしてはくれなかった。
仲居はふと声を落とし、里奈の耳元に近づくようにして言った。
「……今夜は、この村にとって特別な夜でございます。どうか、外を出歩かぬように」
一瞬、里奈の箸が止まった。
「特別な夜……?」と聞き返しかけたが、仲居はそれ以上説明をする様子もなく、再びにこやかな顔をつくり、軽く頭を下げて去っていった。
残された里奈は、苦笑いを浮かべてみせる。
「まるで肝試しみたいな忠告……」
口にした声は軽く響いたが、心の奥では昨夜の夢が再び蘇り、微かな熱が肌の下にくすぶっていた。
食後、外の空気を吸いたくなって宿を出る。村の道はまだ朝露が残り、石畳の隙間から草の匂いが立ちのぼっていた。
通りすがる子供たちの笑い声が耳に届く――が、視線が合った瞬間、彼らはぱっと顔を背け、別の方向へ駆けて行った。
井戸端で話していた老人たちも、里奈の存在に気づくと、会話を切り上げたように背を向ける。
「……?」
ただ歩いているだけなのに、よそ者を避けるような気配が広がっていく。
村全体が、何かを秘めている。
その沈黙が、昨夜の夢と重なり合って、里奈の胸に重くのしかかってくるのだった。
昼過ぎ。散策から戻った里奈は、宿の部屋に敷かれた布団に身を横たえていた。
窓の外では、蝉の声が途切れ途切れに響き、風が障子を揺らしている。村の空気は静かすぎて、まるで時間が止まってしまったかのようだ。
まぶたを閉じた途端、胸の奥にひたひたと熱が満ちていく。
――来る。
そう直感する。昨夜から続く、あの夢の気配。抗おうとしても、甘い囁きに絡め取られるように意識が沈んでいった。
「……また会えたな」
耳元で低い声がする。振り返ると、青年がそこにいた。
場面は宿ではなく、山奥の泉のほとりだった。
木々に囲まれた水面は鏡のように澄み、淡い光が漂っている。鳥も虫も鳴かない――ただ、泉と青年だけが存在を主張していた。
青年は里奈に歩み寄り、その頬にそっと指先を触れた。
「これは、村が守り続けてきた儀式だ。……おまえの体を通して、再び命が循環する」
その言葉の意味を問い返すより早く、青年の手が首筋から肩、そして腕へと滑り落ちていく。
冷たい泉の空気の中で、その指先だけが熱を帯びていた。
「やめ……っ」
声を絞り出したが、抗う力は抜け落ちていく。
泉のほとりに敷かれた白布の上へと導かれると、里奈の体は自然に仰向けに横たえられていた。
青年の眼差しは深く、どこか哀しげでもあった。
「恐れるな。これはおまえに課された役目……」
その瞬間、泉の水面が揺れ、かすかな光がふたりを包み込んだ。
里奈は、もう現実との境界を見失い、ただ青年の言葉と体温に吸い寄せられていくのだった。
泉のほとり、風は止み、水面は静寂に包まれている。
青年の手が里奈の肩から胸へ、そして腹部へとそっと滑り落ちるたび、体の奥で熱い波が立ち上がった。理性で抗おうとする意志は、甘美な感覚に徐々に溶かされていく。
「……だ、め……」
絞り出すように声を漏らす里奈。しかし声の震えは、恐怖ではなく、抗えぬ陶酔の証のように響く。
青年は優しく微笑み、囁いた。
「おまえの体は、もう私の力を受け入れている。恐れる必要はない……」
その言葉に、里奈の胸はざわめき、呼吸は荒くなる。彼の指先が腹部を軽く撫でるたび、体の奥で甘く鋭い波が押し寄せる。意識は揺れ、全身の神経が敏感に反応しているのを感じた。
「おまえの体に宿るものは、やがて村に新しい命をもたらす」
青年の声は、命の重さを含んで、低く響いた。里奈は思わず目を見開く。
「……私……どうなってしまうの……」
震える声が、夢の静寂に溶けていく。胸の奥には甘美な陶酔が絡みつき、理性はほんのわずかしか残っていなかった。
青年の手が腰に回る。体が自然に反応し、甘くぞくぞくする波が全身を駆け巡る。泉の光に照らされ、肌の感触は水面に映る自分の影と重なり合い、現実感は遠ざかっていく。
理性の声は、もうかすかにしか聞こえない。
里奈は抗うことをやめ、ただその波に身を委ねる。胸の奥で、微かに鼓動が高鳴り、未知の力が体内に入り込む感覚があった。
夢の中で、彼女の体は神の力を受け入れ始めていた――甘く、抗えず、そして静かに新しい命の兆しを宿しつつあることを、まだ理解できないままに。
◇◇◇
目を覚ますと、部屋には柔らかな夕暮れの光が差し込んでいた。
布団にくるまった体は、昨夜の夢の余韻でまだ汗ばんでいる。手を腹部に置くと、微かに鼓動のような違和感が伝わってきた。自分の体なのに、そこに何かが宿ったかのような、奇妙な感覚――。
呼吸を整えながら、里奈は思わず身を起こす。視線を窓の外に向けると、村の人々が何やら準備をしている気配があった。子供たちが列を作り、老人たちは小さな道具を持って行き来している。祭囃子にも似たざわめきが、風に乗って遠くの山里まで届いている。
胸の奥で、昨夜の夢の光景が鮮明に蘇る。青年の指先の感触、泉の水の冷たさと温かさが混ざり合った感覚、そして「命を宿す」という言葉――。
理性はまだ薄く働くものの、身体の奥では抗えぬ期待と甘美な陶酔が絡みついて離れない。
「……私、どうなってしまったんだろう」
小さく呟く声が、部屋の静けさに溶けていく。
腹部の微かな振動を確かめながら、里奈は、自分がこの村と夢の儀式の中心に巻き込まれつつあることを直感した。
窓の外のざわめきは、祭りの準備かもしれないし、村が守る何か別の秘密かもしれない。
しかし、直感の奥底には、抗いきれない運命の気配が確かに横たわっていた。
里奈は布団の上で体を丸め、薄暗くなった室内を見つめながら、次の夜に待つものへの恐怖と期待を、混ざり合った感覚として抱きしめた。