※この作品はR-18です。

転生3   作:文thug

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転生3

第四章 隠岐の船幽霊

 

 

 倉織源太郎の手から図らずも流出してしまった幽霊船のビデオが動画サイトにアップされて数日が経過していた。

 その日をさかいに県庁の地域振興部地域政策課に特設されたメタンハイドレート利用推進委員会の窓口に幽霊船についての問合せが集中し始める。日本の報道はもとより世界各国のメディアから取材の申込が始まった。外線電話は鳴り続け、窓口に訪問取材に来る記者やテレビクルーも後を絶たない。とうとうその応対で同委員会の本来業務に支障が出始める。

 本来ならメタハイ利用推進委員会は商工労働部の産業技術センターに仮設すべきところだった。しかし調査するためには漁業試験船をチャーターしなければならない。当時、県は経費だけ消化して最悪何も成果が上がらない事態を怖れていた。その時の保険と対外的な理由付けをすることで県庁内の調整した結果、農林水産部を窓口にすることになった。

 皮肉なことに、この幽霊船騒動がメタハイの資源開発調査の広報活動の一端を担ってしまった。

 倉織源太郎は幽霊船の事案が公になることを予測していた。だから事前に関係者に口止めしていたし、にダビングするとき、個人名が明らかになる会話は全て小まめに消去している。 

 その予防策が功を奏し、源太郎の心配とは余所に今のところ自分や佳奈子の周りにマスコミの影がちらつくことはなかった。

(一週間そこそこじゃぁ、あの幽霊船動画から倉織家にたどり着くほど取材能力のある報道スタッフはいないらしい)

 源太郎は油断無く身辺の変化に気を配っていたが、内心ほっとしている。佳奈子も幽霊船の動画のことをそろそろ忘れかけていた頃だった。

 島女では例年行なわれる野外実習について、栗花落が授業を始まる前に配布したプリントの説明を始めていた。

「今回の課外授業のテーマは隠岐ジオパークということなんですが、担任の大西先生が体調不良の為、組の明日の引率は僕が行くことになりました。それから大きな声ではいえませんが、小さい声では聞えないっと──」

 

 教室全体が無反応というか、完全に栗花落のことを無視した。

「あ、あれ、あれれ 春遠からじなのに教室は凍えそうな冷え込みはなぜ いやそのぶっちゃけ、このナショナルジオパークってよく知らなかったんで…… 白状しちゃいますけどね」

 

 誰かがすかさず合いの手のような質問をする。

「他のこともそろそろ白状してください」

 

 教室全体がその質問にほんの少しだけ雰囲気がうごいた。佳奈子は教室の誰かの軽口で空気が和んだことに驚いていた。佳奈子はオタ教師を敵視し、ことあるごとに学校で反抗している。 

 その言動の影響も在ってか当初佳奈子のクラスでは表面上栗花落に気を許さない空気が熟成されていた。ところが赴任してから半月ほどで、クラス全体の雰囲気が栗花落に馴染み始めている。だからといって佳奈子はクラスメイトに対し、自分の蟠りに無理矢理つきあわせるようなことはしなかった。

(──何が理由でこうなったんだろ)佳奈子は自問自答する。

(やっぱり切っ掛けはあの朝の正門事件…… モデルのような外人女性に見送られ出勤したことか)

 それが矢島校長にばれて叱責をうけたことが大きかったかもしれない。来る早々、矢島校長に怒られっぱなしのオタ教師に同情票が集まったのか

(ていうか、あのアホさ加減に気を許したのかな)と、佳奈子は教壇の栗花落を一瞥して分析する。

「白状するも何も以前の説明の通りだから。え~ このパンフに書かれてるように、ジオパークとは地球科学的に見て重要な特徴を複数有するだけでなく、その他の自然遺産や文化遺産を有する地域のことです。それら様々な遺産を有機的に結びつけて、環境保全や教育、ツーリズムに利用しながら地域の持続的な経済発展を目指す仕組みを勉強する為の授業になります」

 

「うっわ~ 超オザナリ~」

 

 誰かがひやかしたのを聞いて、佳奈子は何故か心がざわついた。

「いいんです こっちの専門は地政学(地理政治学)で、地学(地球科学)じゃないから」

 

 栗花落は憮然とした表情で言い訳する。

 

「授業を始めますから静かにして下さい。え~、前回説明した通り新学期に新教科書が届くまでの予習の意味での占領政策のことを少しかじりました──」

 

 ようやく授業を開始したので栗花落への追求は次回に延期になる。

(まぁいいわ。来週の課外授業に来るみたいだし、そのときじっくりと暴いてやる)と、佳奈子は密かに静かな闘志を燃やしはじめた。

 

「え~、が行った占領政策の三本柱ってなんだったか、前回の復習もふくめて、はい委員チョ~」

 

 相変わらず教室内を落ち着きなく歩きまわりながら星野に質問する。

 

「一、東京裁判。二、日本国憲法。三、教育改革です」

 

「じゃぁ教育改悪で廃止になってしまったカリキュラムは何だったでしょうか」

 

「修身(道徳)、地理(地政学)、国史(天皇家を単位とした歴史および史伝叙述)です」

 

 急に当てられても星野瑠璃クラス委員長は、ノートも見ずに淀みなくすらすらと答えた。

 

「はい ご名答 今までだったらこういった設問の試験問題になったと思いますが、これからは違います。日本が戦争に負けて、アメリカ軍に占領されて、民主主義を教わって平和になりました~ 日本が戦争に負けたおかげでアジア諸国は平和になりました。ハイ、おわり~ みたいカンジでしたけどね」

 

 いつもの軽薄な栗花落独特の話し方は健在だった。そして一拍おいて続ける。

「これ、もう真っ赤な嘘です。大嘘もいいとこです。日本が戦争に負けてからすぐに、二つの国が中国によって滅ぼされてます。日本は戦争に負けてが来た時からが総力戦の本番が始りました。皆さんこの『総力戦』って言葉の意味、正確には知らないですよね──」

 

 栗花落は手早くデカデカと板書した。教室全体を一渡り見回す。しかし次に話し始めると、時偶みせる突然人格が変わったかのような落着いた喋り口調と物腰に変貌していた。 佳奈子は栗花落の得体の知れ無さはこういうところだと直感している。まるでどんな役でもこなしてみせる名優のような引出しの多さを感じているのだ。

 

「知らなくてもあたりまえです。大人もはっきり説明できる人間は少ないでしょう。理由は戦後教育でその大事な部分を教えてこなかったからです。そもそも日本人の思い描く『総力戦』と欧米人が認識している『総力戦』は根本的に違います。

 みんなが思い描く『総力戦』とは、全軍隊の総戦力をもって敵と戦うことだと考えてるでしょ。ですが後で百科事典やネットでぐぐってみて下さい。

 あっ、でもググるのは程々にね。ググり続けると自分がすごく賢くなったような錯覚しちゃうから気をつけましょう それって幻想だから。おっと、また脱線するとこだった──」

 

(どうせまた直ぐに脱線するくせに)と、佳奈子は心の中でツッコミをいれる。

 

「つまり『総力戦』の本当の意味は、国家の総力を結集した戦争であって、現代の戦争にあっては単に軍隊が戦うだけでなく、交戦国は互いにその国の経済、文化、思想、宣伝などあらゆる部門を解体して、戦争目的のために再編し、国民生活を統制することです。つまり国家の総力を持って戦争目的に集中し、相手国全ての分野の総力を叩きつぶすことを意味します」

 

 栗花落は決して力まず、気負わず、緩やかな口調で諭すように喋った。強弁するより、そのほうが数倍説得力が増していた。

 

「第二次世界大戦後、占領軍が進駐してきた際、最初の一〇日間で神奈川県下では一三三六件の強姦事件が発生しました。だから慌てて特殊慰安施設協会を造ります。これが連合国軍占領下の日本政府によって作られた同軍兵士の相手をする、日本人売春婦(慰安婦)がいた慰安所でした。

 だから最近、韓国や中国のロビー活動に踊らされた米州議会の一部が日本軍がexlaveを強制したとか事実無根の嘘を吹きまくってます。そんなこと、あんたらだけには言われたくない…… おっと失礼。 とにかく大変不幸な時代であったことは事実です。あ、過去形で言っちゃいましたので訂正します。大変不幸な時代が今も続いています」

 

 栗花落は小さく自嘲して肩の力を抜いた。一転して生臭い歴史の一部を紹介したので、教室全体の雰囲気が重くなるのではと怖れたが、特にその傾向は見られない。やはり数字として記録されたものだけを見聞きしても、リアリティは湧いてこない。それは仕方ないことだ。数字は唯の文字の羅列であって実態とはほど遠い。

 

「歴史を勉強しようというとき、さっきボクが説明したような数字の羅列では、これまでの勉強方法と一緒です。ただ暗記一辺倒の退屈な教科のままです。

 歴史とはヒストリーです。そこにストーリーがないと頭に入っていきません。何故その事柄が歴史的意味を持つのか理解できません。これは駄洒落で言ってるわけじゃなく、ストーリーとは、その事象の前後に起きた事柄との関係性とか、因果関係とかに置き換えて考えてください。あ、また脱線しちゃいました。話をもどすと──」

 

 栗花落は一呼吸置いて教室を見渡す。

 

「つまり占領軍の真の目的は日本の『総力』を潰すことででした。『総力』とは何度もいいますが、その国の経済、文化、思想、宗教、軍事力、宣伝などあらゆる部門を指します。 だから昭和二〇年八月一五日に戦争は終わっていません。そこからが本格的な日本の国体を解体するような思想戦が始まるからです。占領軍は民主化を広めようと日本に来たんじゃありません。日本を弱体化するために来たんです。ですが最近発見されたアメリカ公文書のなかにベノナという── あっ、すみません。ちょっち自習していてください」

 

「先生」

 

 授業中、急に何事かと訝しげに星野委員長が呼び止める。

 

「ごめん、ちょっとトイレ。すぐもどりますから」そう言い残して慌てて教室を出て行った。

 

 だが佳奈子はこのときの二人のやりとりを覚えていない。理由はさっきから強まってきた違和感と戦っていたからだ。少し前から栗花落の授業が何処かの講演のように遠く聞こえていた。

 

 

 

 最近少なくなったが、昨日みた嫌な夢が原因で授業中、急に気分が悪くなることが何度かあった。今回もその兆候らしき気分の落ち込みが始まったと自己診断できるようになっている。その分だけ、佳奈子の過去の疵は癒えかけていた。

 だが以前はこの気分の落ち込みが半日以上つづいてしまうことがあった。そうなると思考や感情の動きがほぼ停滞して身体も変調を覚える。

 全てはあの女の授業から始まっていた。

──小三のあの時、教条的な女教師から受けた虐めという名の差別と人権侵害。その教育者にとってあるまじき理不尽な行為。高校生の今だからこそ分かる事実もある。そして冷静に真意を探ることもできた。

 当時、女性教師の悪意に同調して大半の生徒たちが佳奈子を白眼視するようになっていた。卑怯な教師は教え子である幼い生徒を誘導し、周りから排撃するような空気を醸造した。幸いにも過激な虐めには発展しなかったが、完全に教室内で浮いた存在になり、仲間外れにされ、辛くて我慢できず、僅か一〇日ほどで登校拒否に陥っていた。

(そんな時だ。あの三人に出会ったのは……)

 いま佳奈子が曲がりなりにも高校生としてやっていけてるのは、幼なじみの星野や茂木や平沢の存在によるところが大きい。とにかく小学生当時からこの三人は三者三様の問題児だった。佳奈子を虐めた女教師だけではなく、他の教師達の言うことなど、端から大人しく聞き入れる子供ではなかった。

 星野、茂木、平沢は三者三様、小さい時から性格を全く異にしたアウトローだった。だが共通点がひとつだけある。それは三人とも、たとえ相手が大人だろうと、納得いかないことには妥協しないところだった。三人は、何かを尋ねたとき、大人達がテキトーに応えようものなら、「どうして なんで」と、いつまでも追求をやめない子達だった。

 だがら理由如何を問わず、先生が生徒を虐めることが間違っていることぐらい、小学生の低学年でもわかっていた。後は行動する勇気があるかないかの問題だけだが、元からそんなこと気にする彼女達ではなかった。

 幼いながら星野は、義侠心から佳奈子の側にずっと寄り添い、他の生徒や大人の悪意や嫌がらせからガードする盾の役目を担った。 

 茂木は小さい頃から賢しい子供だった。目には目を、権力には権力をと、女教師のことを当時会長だった祖母に言いつけ、これ以上学校で佳奈子を虐めないようにプレッシャーをかけ続けた。 

 平沢はともすれば直ぐに落ち込んでしまう佳奈子に対して、天然の性格を生かし、気分が鬱ぎ込まないように無意識にケアーしていた。

 

 佳奈子は『気分の停滞』が始まって身体が変調を来したとき、幼い三人とのやり取りが鮮明に蘇ってくる。まるで安全装置が働くように自然に思い出されてくるのだ。悪夢に魘される嫌な思い出だが、あの三人に出会えたのだからプラマイゼロ。いや結果的にプラスだったと佳奈子は最近そう思えるようになっている。

 今でこそ四人集まれば口げんかが絶えないが、実際佳奈子はあの三人に救われていた。勇気づけてくれたことを生涯忘れることはない。そいう根拠なき自信があった。

 結局、佳奈子を排撃した女教師は、茂木家という土地の実力者に睨まれることになった。 その影響もあったかどうか定かではないが、異動時期(三月末)がきて早々に県外の学校に転勤していくことになる。あとで知ったことだが、授業中に立たせて自分の家族を貶めた女教師は日本教職員組合という団体に入っていた。それを誰から聞いた情報なのか佳奈子は覚えていない。

 ネットでググると、日本教職員組合、略称『日教組』とは、戦後に日本を占領下に置いた連合国軍最高司令官総司令部()が、「民主化の一環」と称し、一九四五年一二月に教員組合の結成を指令した時から始まると記されていた。「民主化の一環」がその当事から共産党という政党に同調していたと記録もあった。

 

 佳奈子の席は廊下側だったので、窓際に座っている茂木は佳奈子の不調に気づかなかった。というのも茂木は少し前から他の事に気をとられていたからだ。三階の教室からトイレと言ったはずのオタ教師が正門の方に走って行くのが見えたからだ。

(どこまでトイレに行くつもりなのかしら)

 

 呆れながら遠目に様子を伺おうとしたが校庭の木立に邪魔されて見失う。丁度木々が邪魔で正門の守衛室が死角になっていた。好奇心に抗えず、茂木は立ち上がって角度を変えても、どうにも見えない。

 茂木は諦めて目を離したが、ものの一分間ほどで再び校舎に走り戻ってくる栗花落が現れた。その後を二人の守衛さんが追っかけてきて、しきりにお辞儀しながら礼をしてる。そして最後は挙手の敬礼をして栗花落を見送った。オタ教師も恐縮している様にぺこぺこと頭を下げながら校舎に戻ってくる。

(なんだったのかしら)

 

 茂木は疑問を抱きながらも特に気に留めなかった。数分後にパトカーがサイレンを鳴らしながら校門前に止まるまでは。教室の数人がサイレン気づき窓際にわらわらと集まってきたとき、ちょうど栗花落が教室に戻ってきたタイミングと合った。

 

「皆さん、すみませんでした~ 席に戻ってください。えっと。どこまで話したっけ委員長」

 

「の総力戦のとこからです」

 

 間髪をいれず星野は即答する。

 

「そうそう、じゃぁ続き始めま~す」

 

 何事もなく授業を再開した新人非常勤講師を見ながら茂木は思った。

(私達に嘘ついてる。席外したこの僅かな時間で、ダッシュして正門まで往復してトイレまで済ませたっていうの 息がぜんぜん上がってないし。なんなの、この先生)

 

 帰りがけ守衛さんに何があったか聞いてみることにしたが、どうせ昼休み新聞部の誰かが聞きに行くかも知れない。ルートがあるので意外に早く事情が判明するだろうと茂木の好奇心は益々肥大していく。

 

 佳奈子の知らない間に授業が終わるチャイムが鳴っていた。結局過去の疵を思い出されては授業の半分以上聞かずに終わってしまった。その佳奈子の座席は教室は廊下側の一番後のため、昼休みは自然と仲間内のたまり場になっている。

平沢と星野と茂木が次々と弁当持参で自席から集まってくるのが日常の風景だった。

 

「クララ、また調子悪そうだったね」

 

「そうなの」

 

 ランチボックスを開けながら星野が指摘したので茂木は初めて理解した。平沢もとくに心配する様子もなく追従する。

「無理しないで保健室で休んできたらいいのに」

 

 示唆しながら、プチトマトにプスッとフォークを突き立てる。

 

「オタ教師に貸し作るみたいで、絶っ対に・イ・ヤ」

 

 即座に否定しながら佳奈子は机につっぷした。

 

「次の授業中に倒れて、お姫様だっこで保健室に行くのと、どっちが恥ずかしいかしら」

 

 茂木も不安心理をかき立てて佳奈子に注意を促した。

 

「あ、ありえないから」

 

 むくっと顔を上げながら返答する。三人の気持ちは嬉しかったが、どうも食欲が湧いてこない。ランチボックスを開けずにボ~っとしていると

「倉織さん、ちょっといい」

 

 四人そろって呼ばれた方を振り返ってみると、逢坂英語教師が微笑みながら教室の入り口で手招きしている。

(((うわっ ミ~ちゃんだ。タイミング悪すぎ)))

 

 佳奈子以外の三人はポーカーフェースを保ちつつ心の中で叫んでいた。佳奈子はふらりと立ち上がり三人に断りをいれる。

 

「ちょっと行ってくる。私、食欲無いからお弁当、適当に分けていいよ」

 

「え~ クララだけダイエットするなんてずる~い。しかたないなぁ。それじゃぁみんな 仲良くデブエットしようよ」

 

 平沢が殊更明るくおどけてみせた。

 

「「するか」」

 

 星野と茂木の声が思わずハモる。わざと平沢は軽口をたたいて佳奈子を送り出していた。みんな慣れたもので、こういう時は付かず離れず、一定の距離感を置くようにしている。そのほうが佳奈子も精神的に負担にならないと三人は分かっていた。

 教室を出ると、みーちゃんこと逢坂先生は廊下で待っていたくれた。

 逢坂教諭は振り向きざま「あなた大丈夫なの」と体調を心配した。

 

「え なにがです」

 

「体調悪そうだから、先生から聞いてあげて下さいって、さっき栗花落先生が来られたから、また発作だと思って……」

 

(ふ~ん。極力普通にしてたのに気づいていたんだ……)

 

「みーちゃ、逢坂先生。私の発作のこと、あのオタ教師に話したの」

 

「オタ教師じゃありません。栗花落先生です。それに発作のことは栗花落先生には話してないから……」

 

「そう……ですか」

 

「明日の課外授業、調子悪かったら無理して行くことないと思うけど」

 

「え~ 母さんが、みんなのお弁当つくるって材料買い込んではりきっちゃってますし。 いつものことで、これぐら平気です」

 

「わかりました。じゃぁ五限目は大事とって保健室で休んでなさい。私から美術の御厨先生に説明してあげるから」

 

「ありがとう、ミーちゃん」

 

「逢坂先生でしょ、……もう」

 

「先生……」

 

「なに 他になにかしてほしい事ある」

 

「栗花落先生のこと、聞かないんですね……」

 

「学校に居るときは、どんな時でも生徒優先。私事は後回しだから」

 

(かっこつけちゃって。前に生徒の口から個人情報聞き出そうとしたくせに)

 

 しかし佳奈子は、そのへんはつっこんで聞くのはやめてあげた。しかたなく譲歩して、逢坂の言う通り五限目を保健室で休んで六限目から佳奈子は授業に復帰した。 

 逢坂は佳奈子が無事授業に復帰するのを確認して、放課後職員室の栗花落にお礼を言いに来た。ちょうどプリントをまとめていた栗花落は慌てて立上がった。

「栗花落先生、さっきは倉織さんのこと早めに気づいて下さってありがとうございました」

 

「いや~ よかったです~ 何か授業中急に固まったように動かなくなって顔色が悪くなっていたので。こちらこそ適切な対応して頂いて、さっすが~って感心しましたよ」

 

「いえ、そんなこと。慣れてるだけですから」

 

「倉織さんの持病の件は何も記載がなかったから、こちらも気づくのが遅れてすみませんでした。ホント助かりました」

 

 逢坂は少しだけ声のトーンを落として話し続ける。

「校医の診断で、彼女のあれは持病といか、発作。軽度のパニック障害なんです。幼少期のとても辛い体験の記憶が急にフラッシュバックして動悸が激しくなったり過呼吸になったり、無気力になったりすることが過去幾度かありました。原因は小学生の時に何かあったようなんです。だから三者面談のとき本人や保護者の方に何がトリガーになったか心当たりはないか聞いてみました。でもやっぱり分からないと言われてましたけど……」

 

「──けど」

 

「いえ、私の憶測ですけど、ご家族には原因は分かってるんじゃないかなって思います」

 

「逢坂先生みたいに生徒に近しい方でも言えない理由があるとか」

 

「でもそれは仕方ないことですよね。教師は万能じゃありませんし、セラピストでもないですし」

 

 自分自身を納得させるように言う逢坂の横顔は栗花落の目に寂しそうに映った。すこし話題を変えようと思い、栗花落は課外授業のことうを尋ねる。

「先生は明日の隠岐への引率はいかれます」

 

「いえ私は今回行けないんです。でも月並みな話ですけど、倉織さんが自然の中に身をおいて、素晴らしい風景のなかで、ちょっとでも癒しになってくれればと……」

 

「僕も出来るだけ注視していますから、心配なさらないで下さい」

 

「そういって頂けるとっ」

 

 逢坂は背中にじとっとした視線を感じて振り返ると星野学級委員長と二名の女生徒がニヤニヤしながら立っていた。

「あ、貴女たちいつからそこに」

 

「ん~と、教師は万能じゃありませんし──ってあたりから」

 

「たっ、立ち聞きするなんて趣味が悪いです」

 

「いや、さっきら何度も呼んでましたけど」ニヤニヤしながら星野委員長は応える。

 

「うあっ、そうなの。そ、それじゃぁっ、ちゅるりセンセ、明日の引率大変でしょうけど頑張ってくださいね。それじゃ~また~」

 

 そそくさと自席に戻っていった逢坂を見ながら

 

「委員長、あんまりミーちゃん苛めちゃだめだよ」「そうそう」

 

 星野委員長の付き添いの女生徒が口々窘めてくる。だけど意に介さない星野は、回収してきた残りのプリントを手渡し早々に引き上げようとしたので栗花落は慌てて呼び止めた。

「あっ、星野さん、ちょっと。さっき逢坂先生から聞いたことなんだけど、ちょっといい」

 

「瑠璃、先いくね~」

 

 付き添いの二人は星野を残して先に職員室を出ていった。入れ替りで数学の井口教師が職員室に戻ってくる。

 

「俺か、星野」井口は自分に質問にきたと勘違いする。

 

「いえ、栗花落先生と今──」

 

「そっか、じゃぁな」

 

 そっけなく返事し自席に戻っていく。一瞬、栗花落と星野のあいだに気まずい空気が流れたが、栗花落は用件を切りだした。

 

「君らのグループって倉織さんと仲良さそうだけど、その……昔の悩みとか、躰の問題とか、そういったことなにか聞いてないかな~と思って」

 

 栗花落がそう聞いた直後、星野の眼が冷たい輝きを放った。

 

「そういことは直接本人に聞かれたらいかがでしょう」

 

「いや、ごもっともです 貴女の言う通りです。ただあの逢坂先生が聞かれても教えてくれないのなら僕なんか到底無理だと思いましたから」

 

「さぁ、人生経験に乏しく浅学なわたくしには残念ながら思い当る事などありません。それを調べてご指導いただくのが先生のお仕事ではないでしょうか。それでは失礼いたします」

 

 深々と頭を下げ慇懃無礼に星野瑠璃は職員室を退出していった。ちょっと性急すぎたなと栗花落は反省する。あご髭をじょりじょり掻きながら、星野が出て言ったドアを暫く眺めていた。

 

 

 

 一方、茂木は放課後になっても珍しく新聞部から何も情報が入ってこないのでやきもきしていた。ようやく新聞部の知人をつかまえて確認したところ何も異常はなかったと言われたそうだ。パトカーは誤報だったと説明を受けていた。あのときの守衛さんとオタ教師のやり取りを茂木は思い出す。まったく納得できない茂木は帰りがけ守衛さんに直接聞いてみることにした。

 

「あ、これは茂木先生とこのお嬢さん、いつも家内がお世話になっています」

 

 島根女子高等学校の守衛室には常時四名の警備員が詰めている。のべ人数八名の交替制で昼夜間の校内警備を大手警備会社に委託していた。下校時間なので生徒達を見送りながら辺りを警戒監視している中年の警備員に茂木は声をかけていた。この警備員は生徒のことを誰でもお嬢さんと呼ぶことで有名なのだ。茂木が大病院の跡取り娘だからそう呼んだ訳ではない。誰にでも平等に接する昔気質の男だった。

「こちらこそ毎度ご贔屓にして頂き……というのも可笑しいですわね」

 

「ハハハ、それでご用件は」

 

 気さくに対応してくれた警備員の身分証には顔写真と一緒に大橋と明記されている。わざと気がない素振りで世間話のように茂木は本題に入った。

 

「たぶん何度も同じ質問されてご迷惑でしょうけど。昼前にパトカーがここで止まったので、なんだったか大橋さんに聞けば判ると思いまして」

 

「お嬢さんでその質問、一三人目ですよ。パトカーの警察官に聞くとイタズラ電話だったみたいですぐに引上げられましたけどね」

 

「そうなんですか。何か面白い話が聞けそうと思ってワクワクしてましたのに」

 

「みなさん刺激的な事件に飢えてられるようですな」

 

 大橋警備員はニコニコしながら茂木の雑談につきあっていた。

 

「ええ、そうなんですの。ですから大橋さんが栗花落先生に敬礼された理由にも、ワタクシ大変興味がありましたのよ」

 

「……」

 

 くすっと茂木は微笑んでみせたが、大橋警備員に与えた衝撃は相当なものだった。まるで全てを目撃していたような印象を与えて鎌をかけていた。

「では忙しいのでこれで」

 

 急にきびすを返し守衛室に戻るとする。(なんて判りやすい方かしら)と呆れながら茂木は追い打ちをかけた。

 

「大橋さん。情報源の秘匿は茂木家の名誉にかけて厳守いたします。若輩ものが大変失礼な物言いをすることをお許し下さい。これは大橋さんとワタクシとの正当な取引だとお考えください。情報をご提供頂ければ、それに見合う報酬をご用意させて頂きますわ」

 

 これは茂木にとっても賭だった。反対に相手の自尊心を傷つけ怒らせる危険性もある。だが自分の人間観察眼を信じみることで思い切りをつけていた。

 

 大橋警備員は立ち止まり、せかせかと戻ってきた。小声で聞き直す。

 

「報酬とは具体的に言いますと」

 

「只の女子校生の身分では金銭は自由になりませんが、通院されている奥様には便宜を図らせて頂くことができます」

 

 わざと茂木は遠慮がちな口調できりだした。以前から大橋警備員の奥さんが茂木総合病院の整形外科に通院していることを知っていた。歳の離れた茂木杏奈の従兄弟が整形の部長として勤務していたからだ。

 

「……」

 

 茂木には大橋警備員が逡巡している様子が手に取るように分った。

 

「お嬢さんを信用しないわけじゃないですが口約束でないことを証明して頂けるなら──」

 

「お疑いは当然です。色々無理言って申し訳ございませんでした。奥様が来週来院頂いたとき私の言葉が嘘偽りない左証をご呈示できるはずです」

 

「わかりました。その後でなら」

 

「ありがとうございます。若輩者の無礼を寛容に受け止めていただき感謝いたします。それではまた」

 

 茂木は深々と頭をさげて挨拶し立ち去ろうとした。

 

「お嬢さん。そこまでしてどうして」

 

「栗花落先生って変でしょ。だからかしら。興味がつきないって言いますか──」

 

 にこやかに応えた茂木に対して、大橋はやや緊張した面持ちで警告した。

 

「お嬢さん。あの方に関わらないほうがいいです。確かに普通じゃない」

 

「……そうですか。ご忠告ありがとうございます」

 

「いえ。それでは」

 

 僅か数分だったが、やはり何かあった…… 自分の持ち場に戻る大橋警備員は背中を見送りながら確信する。

(もうすこし強行な手段で聞き出した方がよかったかしら)

 

 茂木は大橋警備員の背中を見送りながら、明日から始まる隠岐の島郊外実習の日程が悔やまれてならなかった。

 

 

 

 

 隠岐諸島郊外実習は金曜日から一泊二日の予定。隠岐へ向かうフェリー乗り場は松江市美保関町七類にある。朝七時三〇分、校庭に集合した佳奈子たち二学年一六四名と引率の教師一七名。結構な大所帯である。

 予てから準備していた通り中型観光バス七台に分乗し七類港から出航する予定だった。

 七台のうち、六台は生徒の乗車用で、残り一台が教師たちと生徒の荷物運搬用に使われた。点呼のあと校庭に停車したバスに、生徒と引率の教師たちが協力して荷物の積み込みが始まる。栗花落は初めての経験だったが、課外授業の引率といっても雑用とお目付役がメインの仕事だった。

 生徒達のほとんどがディバック一個と手荷物という軽装なのに対し、教師の栗花落が身長と同じくらいの竿がはみ出した竿ケースと四〇リッターほどのクラ─ボックスの大荷物を持ち込んでいた。早々に生徒達に見つけられて、近くにいた平沢に弄られる。

「先生、それって完全に遊ぶ気満々ですね~ 教師がそんなテキトーでいいんですか~」

 

 全校一テキトーな女子高生にテキトーと言われて、たまたま側にいた佳奈子は呆れていたが、平沢が少なからず気を許していることに驚きも感じていた。

 

「いや、もし早朝時間が空いたらちょっとだけ試してみようと思っているだけで、その、絶対行くと決まったもんでもないし。でもね、やはり準備だけは万全を期さないとね。その悔いが残るっていうか──」

 

 以前、校門の朝帰り事件を目撃した平沢の容赦のない指摘に周りは失笑した。(ウソだね。絶対無理にでも時間を空けて行くつもりだよ)という佳奈子を含めた周りの白い視線が栗花落にビシバシ突き刺さる。

「先生、その竿長すぎ~ お父さんが釣りやってるから知ってるけど。竿ってフツ─継ぎ足してコンパクトになるでしょ」

 

 竿ケースから一本の竿が二〇センチほどはみ出している。それが余計に遊ぶ気満々だと周りにアピールしているようなものだった。

「平沢さん よく聞いてくれました。ここぞって時は、やっぱりいい道具で臨みたいじゃないですか。竿には振り出し竿と継竿ってのに大別されんだけど、それぞれ一長一短があってね、つまり繋ぎ目が少ない方がより──」

 

「もう、道具に頼ろうとする時点でダメじゃん」

 

 平沢は栗花落の話を最後まで聞かず断定した。佳奈子はポーカーフェースのまま、内心(ナイス、平沢 小気味いいほどバッサリだ)と面白がった。

「くっ、頼ってるというより道具は大切なんです。準備を怠っては──」

 

 戻ってきた茂木が栗花落の荷物に気づき

「わざわざケースに鍵をつけてることは、高価なものですか その竿」

 

 茂木がめんどくさそうに聞き直した。

「あ、いや…… そこそこ…… ローンで、自分の給料で払える範囲だから」

 

 栗花落はバツが悪そうに口を濁した。

「先生は趣味にお金を回すより普段の身だしなみにもう少し投資されたらどうかしら」

 

「あっ、言った」「もぎりん、言っちゃった……」

 

 クラス委員の呼び出しから戻ってきた星野委員長が冷ややかに追撃する。

「その、つ、釣りはですね、別名、悪魔の趣味とか言われてて、道具や餌や釣行先に凝りだすと際限が無くなって自制が効かなくなってしまうことがあります。それはそれは怖ろしい趣味なんですよ。釣りのめり込んでだ為に離婚した夫婦をボクは何組か知っているし」

 

「どうでもいいけど、先生、言い訳ウザすぎ……」

 

 佳奈子がトドメを刺すひと言を放つ。

 

「い、いや、これはですね~ 新しい土地に行ったら必ず趣味と実益を兼ねた生態系の調査で、その、そう、習慣みたいなもんで。だって周りは最高のローケーションじゃないですか この状況でただ海を見ているだけなんて拷問── いや、その…… そうボクにとっちゃライフワークのようなものなんですっ」

 

 などとぶつぶつ苦しい言い訳を続けていた。そして隠すように竿ケースとクーラーボックスを真っ先に荷物運搬用バスのカーゴに運び込む。

 そういう佳奈子も自分のことは棚に上げて栗花落に負けないくらいの大荷物だ。母、喜久子の気合いが入りまくった三段重ねの重箱弁当が二式を両手に下げている。

「クララも正月におせち料理を運ぶ、デパ地下の店員さんみたい」

 

 平沢につっこまれると、佳奈子もさすがにむっとする。

 

「じゃぁ平沢のお弁当ぬきでいい ダイエットしたいんでしょ」

 

「あ~ん、やめてよ~」

 

 無慈悲な返しで平沢は涙目になる。加奈子は少し溜飲をさげて、重箱弁当を積み込むため荷物運搬用バスに向かう。

 

 バス内で栗花落は竿とクーラーボックスが移動中転げないように固定していた。そこで栗花落のケイタイが鳴動する。

 

『誰だー誰だー誰だー、空の方に潜む影~』

 着メロは科学忍者隊ガッチャマンのオープニングを設定している。慌てて栗花落は、よく確認せず通話をタップした。

 

『栗花落様のケイタイでしょうか』秘書のような事務的な女性の声。

 

「いえ、違います」すぐに通話を切る。偶然バスの入り口で加奈子は、オタ教師がレンジローバーに乗り込むときに見せた険しい雰囲気を再見してしまう。

 

(なに 痴話げんか)あまり気にとめることなく、加奈子は荷物を運びいれる。だから加奈子は栗花落の深い溜息も見落としていた。

 

 

 

 本土から隠岐諸島への所要時間は高速船レインボージェットで約一時間、フェリーで約二時間半。早朝の時間帯なので七台のバスは、ほぼ渋滞無しで島女から一時間弱でフェリー乗り場に到着した。 

 そのまま朝九時前、本土七類港発の『フェリーおき』に観光バスごと次々と乗り込み、まもなく隠岐諸島へ向かい出航する。

 隠岐汽船は車高三.七メートルの大型観光バスも積載可能だったが、学校側は現地でのフットワークを考えて中型バスを用意した。大型より少し手狭だが、島に着いてから又バスを乗り換える手間や、島内での車両の取り回しなどの利便性を考えた結果だ。

 今回の校外学習の地、隠岐諸島は島前と島後の二つの島が近接しており、初日は島前の別府港で降り、島内観光して島後へまたフェリーで渡り一泊する行程だった。

 生徒たちはこの課外授業から帰ったら、グループ毎に分かれて隠岐諸島の観光キャンペーンの企画書を出さなければならず、この一泊二日を遊び半分で無為に過ごすと後できつい、しっぺ返しが待っている。

 そもそもこの課外授業は島根女子高校だけが行っているものではない。県下の中高で隠岐諸島に課外研修にきた生徒たちは、どんなに稚拙でも的外れでも、内容の如何に問わず、隠岐観光の新しいアイディアを出してもらうようにしている。

 こうして少しでも若い世代の意見を取り入れ、それを叩き台にして新たな観光プランを観光課が捻出することになっていた。 

 これが県教委と連携した県の観光課がうちだした施策だ。本土の出雲大社や世界遺産の石見銀山遺跡などの観光資源に取られ年々減少している観光客を呼び戻すため考え出された。

 その成果の一つとして、無線通信会社最大手と協業し、この去年から始めた航行中のフェリーのなかでも、転送速度に制限はあるがi-i通信が利用可能となった。

 それも含め島前、島後でもケイタイが繋がりにくい地域を早急になくすことで、訪れた観光客がブログやフェースブック、インスタなどを通じて隠岐諸島の情報発信を促進する狙いもある。

 もっとも今は幽霊船騒動の余波で、島根県への報道機関の人口と観光人口の移動が集中し、一時的ではあったが観光業界や関連産業も潤いつつあった。

 佳奈子たちを乗せたフェリーの短い航海は至って快調だった。片道二時間半で島前についてしまう。

 佳奈子が特別二等室のそばを通るとき、誰かが「二時間半もあったら、米子空港から成田まで往復できんじゃん」とぼやいていたの聞いている。

 佳奈子は来年卒業旅行はみんなでディズニーランドへ行こうと計画中だったので、そんな時間で行けるのかと驚いていた。

 青空のもと白地に赤い三本線が特徴の船体は静かに波を蹴立てている。両舷にペイントされたその三本線は船首の三角に並んだ赤い三つの点に繋がっている。船首の赤い三点は戦国大名毛利氏の家紋がモチーフになりマーキングされている。仕様は次のとおり。

●総トン数 ,366トン●全長 .50m ●全幅 .00m

●最大速力(時速) 二〇.四六ノット(.89km)

●航海速力(時速) 一八.九〇ノット(.00km)

●出力 ,620kw ●就航日 

●客室定員 八九〇名

●車輌積載台数 八tトラック二〇台、普通乗用車二六台

 通常の船内設備に加えて、高齢者や身障者に対応した客室、多機能トイレ、車いす対応エレベーターなどのバリアフリー設備を備えていることをセールスポイントにしている。

 

 海は穏やかで船酔いする生徒もいない。島前に着くまでは自由時間なので生徒たちは船内で思い思いに過ごしている。

 ゲームコーナーで遊ぶ者。持ち込んだお菓子を広げて恋バナに夢中になるグループ。自分たちが食べるために売店でお土産を買う者。ラウンジのテーブルで先生を囲んで遅めの朝食をとるグループ。屋外の席に出ようとして冷たい海風に吹かれ、慌てて戻るグループ。船室で脚をなげだし談笑する者。等々。 

 もともと周りに迷惑をかけるような騒がしい子は少なく、付き添いの先生も大いに楽ができた。このように引率といっても船上ではけっこう暇なのだ。空いた時間を利用してで栗花落はフェリー船内の彼方此方を歩いて回りながら船員たちに気さくに世間話を持ちかけたりして暇をつぶしていた。 

 隠岐フェリーの最大旅客数は八九〇名に対し乗組員数二八名。

 但し今日の乗客は一般客を含め二〇〇弱だそうだ。ほぼ島女の貸切り状態といっていい。

 連絡通路をうろうろしているとまた栗花落のケイタイが鳴動した。すぐに電話に出ず、人影がまばらな場所を探す。船内を出て二階左舷側の船外デッキで通話ボタンをタップした。

 

「もしも~し」

 

『……あなた、なぜ栗花落の姓を名乗っているのかしら』

 

 数年ぶりにその声を聞いて咄嗟に電話を切ろうとしたが、かろうじて思いとどまる。

 

「失礼ですが、どちらさまです」

 

『それ以前に、なぜ生きてるのかと問いたいわ。この結婚詐欺師』

 

「あの~どちら様か存じませんが、いきなり詐欺師呼ばわりされましても。電話きりますよ~」

 

『どうぞご勝手に。でも衛星から位置座標は特定したから。経営会議中ですぐにうごけないけど、あのこには教えるわね』

 

「いや、なに言ってるかわかんないし。じゃぁ、切りますね~」

 

 栗花落は通話を切断したケイタイをしばらく無表情で眺めていた。やがて、ぶらぶら階下の駐車ブースに向け歩きだす。

 

 

 

 そこで作業中の船員さんに、駄目もとで聞いてみた。

「あの学校としてお世話になる船長さんに御挨拶させて頂きたいのですが。ブリッジへの訪問許可を聞いていただけないでしょうか」

 

「あ、ぜんぜんかまわないですよ」

 

 応対してくれた船員さんが親切な人で、すぐに船内電話で確認してくれる。栗花落の申請はあっさりと承認された。

 お礼を言って栗花落はフェリーのブリッジへ上がる階段へ向かう。階段を昇ると三階の展望スペースと避難集合場所を兼ねた船橋甲板にでた。狭い階段から急に視界が開け真っ青な空が広がる。

 個性的な二基のファンネル(船舶の煙突、排気塔)が二階の甲板から最上甲板へ斜め後方に大きく突き出している。この高さ八メートル程のファンネルの間が展望スペースになっていた。船尾方向を望むと一本マストと二階の屋外椅子席の屋根が見え、その先には島根の山々がうっすらと霞んでいる。

 栗花落は反対側の左舷船首方向へ向かうと申し訳程度に低い柵が設けられており、関係者以外立入禁止もプレートがかけられている。その先には救命ゴムボートが格納されている鉄製のカプセルが舷側に何十個と設置され、更にその奥に特徴的なブリッジへの入口があった。栗花落は専用区画に入ろうと、その立入禁止の柵に手を伸ばそうとした瞬間、背後から野太い声で呼び止められる。

「そこは立入禁止です。何かご用ですか」

 

 栗花落が振り返ると紺の作業着を着た初老の男が立っている。ニット帽を被りヘルメットを麦わら帽子みたいに頭の後にかけている。作業着越しだが隆起した胸や腕の筋肉が見え、年の割に引き締まった体躯をしているのが栗花落には分かった。男は眉間に皺をよせ、訝しげな視線を投げかけている。

「あっ、倉さん、いいんです。島女の栗花落先生ですよね」

 

 関係者専用ハッチが開いて、初老の男と同じ作業着を着た若い船員が顔を覗かせ、栗花落に問いかけた。

「あっ、はい、さっき連絡させて頂いて──」

 

「どうぞどうぞ。そこ開けて入ってください、ご案内しますから」

 

 若い船員が左舷側の簡素な格子柵を開けながら招き入れる。

「どうも、お忙しい時にお邪魔してすみません」

 

「島女って、あんた佳奈子の学校の先生か」

 

 いきなりだなと思いながら振り返り、声の主に対して栗花落はとりあえず自己紹介した。

「はい、新任で近現代史と公民を担当している栗花落と申します。あの保護者の方ですか」

 

 そう言って名刺を出そうとしかけたが、ニット帽の男は手で制止する素振りをして、短く自己紹介した。

「や、これは失礼しました。二年組 倉織佳奈子の父、倉織源太郎と申します。いつも娘がお世話になってます。今、このフェリー会社で臨時の実習教官みたいなことをやらせてもらってます」

 

 栗花落は愛想笑いで驚きを隠しながら平静に対応する。源太郎は源太郎で、なるほど娘の言う通りの風体だと納得した。栗花落のボサボサ頭を見て、即刻バリカンで刈り込みたい衝動に囚われてしまう。しかし第一印象で全てを評価するような早計さは、掃海屋にとって命取りになる。そのこと過去の経験からを源太郎は身に染みてわかっていた。

 また栗花落は栗花落で簡単な自己紹介を済ませた源太郎をみて、ああ、気づく。

「そうでしたか、あなたが例の幽霊──」

 

「先生、その話はまた後で。先にブリッジにご案内しましょう」

 

 源太郎は若い船員に儂が行くからと断って、ブリッジに先導する。

 

「あ、はい。ではよろしく御願いします」

 

 鋭く話の気勢を削がれた栗花落は肩をすくめ、倉織源太郎についてブリッジへとつづく屋外通路に入る。救命ゴムボートと船員区画の間を進むと、直ぐにフェリー特有の横にやたら長いブリッジ(船橋)が見えた。同じような通路が右舷側にも有り左右対称になっている。ふたりはのんびりと歩きながら入り口に近づいた。 

 

「先生とはどこかでお会いしてませんでしたか」

 

 唐突に人なつっこい笑みをうかべて、倉織源太郎はたわいないこと聞いた。普段無愛想な自分にしては珍しいな、と自己分析する。ま、佳奈子の先生だしなと自分で納得した。

 

「ボクも倉織さんと初めてだなんて思えませんよ~」栗花落も陽気に応対する。

 

「お~、気が合いますな~」

 

 源太郎は豪快に笑って奥へ誘導する。

 フェリーのブリッジフロアーの構造は船幅の横幅いっぱいにスペースを確保しているのが一般的だ。『隠岐フェリー』もブリッジと船員区画が字型の構造になっている。

 ブリッジの入口まで来ると小規模なドジャーウィング(両舷に出窓のように突き出た見張り用の場所)の手前で立ち止まる。栗花落はこの船橋構造が『隠岐フェリー』の個性だなと感じていた。ブリッジに足を踏み入れると双眼鏡で航路を監視している白い正装をした人物が目にはいった。

 来訪者を案内してきた倉織源太郎は『隠岐フェリー』の平晴樹船長に声をかける。

「平船長、島根女子高を代表して、栗花落先生がご挨拶にこられました」

 

「一年と二年の近現代史を受持ちます栗花落と申します。今日はお世話になります。本来なら学年主任がご挨拶すべきところ、こんな若僧で申し訳ございません」

 

 恐縮して素早く腰を深く折る栗花落を平船長は温厚そうな笑顔で迎え入れ、マドロスハットをとって一礼する。

「平です。こちらこそ山陰汽船をご利用頂きありがとうございます。本来こちらから御礼を言うべきところ、わざわざご足労いただき有難うございます。近頃、先生みたいなご挨拶をされる教員のかたも少なくなりましたよ。短い時間ですがどうか寛いでいって下さい」

 

「はい。ありがとうございます。お仕事中すみませんでした。生徒ともども愉しませてもらって── あの…… 船長、さっきから航路監視されたていたのはあの魚船の為だったんですか」

 

 唐突で不躾な質問にも平船長はニコニコしながら答えてくれる。

「先生は船に興味がおありですか よかったら見学していってください」

 

 栗花落の次の言葉を聞くまでは、平にとって晴天で視界良好の安全な航海陽和だった。

 

(──そのひと言が、すべての始まりでした)後年、平の長い船乗り人生で、生涯忘れられない航海が始まったと、幾度となく述懐することになる。

「あれって昔、海保に追っかけられて自沈した工作船に似てますね~」

 

 まったく緊張感のない間延びした栗花落のひと言。

 だが、それに真っ先に反応したのは倉織源太郎だ。無言で足音を殺し、さっき入ってきた入口近くの移動する。つぎに素早くドジャーウィングから双眼鏡を構える。

 平船長が航路監視していたのは二時の方向だった。なので源太郎は素早く航路全体を確認すべく、先ず肉眼で水平線を見渡す。対象船以外に数隻が航走している。

 すると早春の穏やかな海面を一〇時方向からこのフェリーとすれ違うように中型船が航走して来るのが見えた。確かに漁船に見えるが船上に漁具が見当たらない。だがそれだけでは判断材料に乏しい。 

 双眼鏡の焦点を合わせると『第四小林丸』の船名が見えた。確かにあの教師が言うように北の工作母船に似ている。だが短波無線機など無線装備の強化を臭わす特徴的なアンテナやレーダー群が見えない。

 それでも源太郎は用心深く別の特徴の確認にとりかかる。以前横浜の「海上保安資料館横浜館」に自費で見学に行ったことがあった。

 もう十年以上前だが、今も自沈した北の工作船を引揚げた実物が展示されている。その光景が鮮明に蘇る。展示されていた赤錆に塗れた工作母船は圧倒的な逃げ足の早さに特化した船体だった。

 まずロシア等の諸外国から導入した強力なディーゼルエンジン四基を搭載。同型の漁船と比べて一〇倍の馬力と二倍の速力を持つ。しかもスクリューは三翼固定ピッチプロペラでエンジンと同様に四基装備されていた。これにより軍艦と同等以上の高速航行することが可能だと解説されていた。

 次に航走中は外観から目視しにくいが、喫水線下の形状に関して漁船とは大きく異なる。船足を上げるための改造が船首部分にも見ることができた。

 もともと工作船は中国や日本の古い延縄漁船、あるいは巻き縄漁船に偽装したものが多い。ただ漁船とは構造上大きく異なり、高速航行のための字型船底をしている。

 源太郎は経験と知識をもとに引き波の立ち方から、それを判断しようとしていた。

 一方、平船長はその歳にしては眼が良い方だと自負していたが、一般人に言われるまで気づかなかったことにショックを受けている。

 

(確かに、この先生が言う通り見ようによっては、九州沖で巡視船に発砲してきた船影によく似ている。しかしここは本土と隠岐の中間で近海も近海。ずっぽり領海内じゃないか。海上人命安全条約(条約)や特定船舶入港禁止法だって施行されている。いや、なにより──)

 

 平船長はそこから声にだして栗花落に解説した。

 

「先生もご存じのように、核実験やミサイル発射で、北国籍の船舶は日本への入港禁止という制裁措置が発動してます。だからありえませんよ」

 

 そう言って、平は栗花落の指摘を柔らかく否定した。

(制裁措置がなかっても、こんな近海に真っ昼間から来るものか。だいたい映画なら夜陰に紛れて航行する場面だろう)

 

 平船長は自分を納得させる為、常識の範疇で否定的な事実だけを次々と列挙していく。

 しかし最後には近年小笠原諸島に大量に現れた、中国の珊瑚密漁船団の事件で引っかかってしまう。だが平船長は早計な考えを自ら否定した。

(小笠原は本土から一,〇〇〇キロも離れていた。ここ隠岐は島根から五〇キロも離れていない。同じ条件では到底考えられん)

 

 否。平はさらに記憶を遡る……

 

 二〇一二年七月、台風からの緊急避難という名目で、長崎県五島列島福江島にある玉之浦という入江に一〇六隻の中国漁船が侵入した。海況が落着くまでだと一週間程、居座ったことがある。あの時、緊急避難という人道的目的という名目のため拒めなかったそうだ。

 しかし玉之浦は日中漁業協定で合意している両国の漁業境界ラインから一〇〇キロ以上離れている。それでは台風避難とは言い難い。

(昨今、中国の隣国への挑発行為が顕著になってきている。北は北で何を始めるか判らない無法国家だ。中国の力による周辺諸国への介入に便乗してこないだろうか)

 

 平はさっきから言いようのない不安に駆られている。しかし頭を切り換え、

 

(船名で海保に照会すればすっきりするじゃないか)

 

 現実に戻り、平船長はその線で対応を決めた。

 一方、倉織源太郎はブリッジから左舷屋外通路に出て監視を続けている。だが平船長の心配を余所に『第四小林丸』は十分に距離をとって『隠岐フェリー』とすれちがい、反対方向の島根方面へ航走していった。

 国際的なルールでは船が向かい合っている場合は、お互いに右によけることになっている。右側通航が基本なのだ。

 まだ倉織は双眼鏡で追いながら不審船を注視していた。相手船は普通に航行していたので、高速改造しているのか判断が難しく結論を出しかねている。もう少し早く見つけていれば、と思うと歯がゆかった。

 さっき休憩中に娘の様子を見にブリッジを離れていたのだ。中型フェリーに分類される『隠岐フェリー』の船内は以外と広い。今日は島女だけがフェリーを貸切っているわけではない。平日にしては珍しく一般客や観光客の乗り合せも多く、船内どのフロアーもやや混雑気味だった。

 これも例の幽霊船騒動の余波かと、うんざりしながら源太郎は車両積載甲板から全てのフロアーを歩きまわったが、結局佳奈子を見つけられなかった。こうしてウロウロしていている間に不審船の発見が遅れたのだ。

 船内で幼い女の子の親子連れを見かけたことで過去がフラッシュバックしていた。源太郎はある理由から、家族に対して悔やみ続けている。

──父親として幼い佳奈子を差別と孤立から守ってやれなかった。その自責の念に、絶えず囚われ続けている。

 嫁、喜久子に口では断ってたが、結局職場で働く自分の姿を子供に見せたいという欲求に抗えなかった。それがたとえ高校生になった娘でも。そんな事が免罪符にもなりはしないと判っている。ても、そうしなければならない衝動に駆られていた。

 

 柔らかい陽光が降り注ぐ海面を何事もなく不審船遠ざかっていく。倉織源太郎は霞んでいく船影を見送りながら、後悔だけが鮮明に蘇っていた。

「倉織さん、もと自衛官なんですね。すごいですね~」

 

 急に背後から声をかけられて思わず振り返る。さっき人騒がせな発言をした教師が、知らない間に屋外通路に出て来ていた。

 自分の発言が周囲にどれだけの波紋を投げかけた、まるで自覚がなさそうだ。とくに意識したり恐縮したりしている様子も見受けられない。

 警戒を解いて双眼鏡を下ろし、遠ざかっていく船影をに肉眼で見送ってから、源太郎は振り返りざま栗花落に聞いた。

「先生、なにか書くモノ持ってます」

 

「え ボールペンでよければ」

 

「すみません、ちょっと拝借します」

 

 源太郎は手早く自分の手の甲に船名と何か英数字を書き込んでペンを返した。そして思い出したように話の続きを始める。

「……凄いもなにも、自衛隊なんて疎ましく思う人や無関心な人のほうが多いですよ」

 

『なにがどう凄いと思われます』などと、栗花落の軽々しい感想を問質すような稚気は源太郎にない。元々一般の人に自衛官の内情を簡単に理解してもらえるなんて思っていなかった。

「でも震災の時に大活躍されて、皆さん感謝されてたじゃないですか。最近なんか自衛官の写真集や漫画も刊行されたりしてますよ」

 

 どうもこの教師は自衛官の話題を簡単に手放す気はないらしい。その事が源太郎は少し以外に感じた。

「……そうですね。現場の人間はそりゃ滅茶苦茶がんばってましたよ。無理に無理を重ね、食うモノもロクに食わずにね。被害の惨状を目の当たりにしたのが遠因で自殺者もでたほどです。でも肝心の上層部がアホなんで結局──ロジスティクス(もともと兵站とか後方支援を意味する軍事用語であり, 戦地での物資や兵員の調達, 輸送, 管理をトータルな戦略にもとづいて行うことを意味する)をコーディネイトできる人間がいなかった。あれが実戦なら投入された部隊は全滅でしたよ……」

 

 当事の不満と鬱憤が思い出され、不覚にも源太郎は初対面の人間に愚痴っていた。ニット帽のうえから頭を掻く。

「あ、いや、すんません。どうも歳喰うと、ぼやきが多くていけん……」

 

 思わずロジスティクスという言葉を一般人に使ってしまい、気恥ずかしさも湧き上がってきた。しかし栗花落はそんなことには頓着せず軽く聞き流して次々と話題を振ってくる。

「あのとき倉織さんは現役でしたか」

 

 子供みたいな好奇心で物怖じせずに聞いてくる奴だと、溜息がでそうになったが慌てて呑み込んだ。正直、面倒だなと思いつつ、娘の学校の先生なので無碍に扱うことも出来ない。源太郎は話に付合うかどうか迷って海を遠望する。

 快晴の青空は冬の日本海の色と見事なコントラストを創りだしていた。肌を刺す寒風が海面からデッキに吹き抜けていく。

 源太郎はセブンスターにターボライターで火をつけ、肺一杯に吸込んで一気にはき出した。風下にいた栗花落は煙の塊に襲われ、すこし咳き込む。源太郎は全然気づかず、咥え煙草でもう一度双眼鏡を覗いた。

「……あの時はまだ現役でした。あまり知られてませんが私が属していた海自の掃海部隊は機雷除去という役務以外に、災害派遣の初期段階で被災地までの航路啓開、或いは要救助者探索支援に投入されることが多いんですよ」

 

「変ですね──」栗花落は疑問を持った。

 

「そうですね。普通どうして掃海部隊が、と思われるでしょう。海猿さん(海上保安庁)に比べりゃ認知度は低いんですが、掃海隊群にもという水中処分員がいましてね。 掃海具では対応できない機雷を、海に潜って素手で処理することが出来る海のエキスパート集団です。彼らのスキルが行方不明者探索に──」

 

「いえ、倉織さん、違うんです。そうじゃなくて、あ、こちらからお聞きしておいて話しの腰、折ってすみません。いやあの、さっきの怪しい船、死角に入ったらターンしてきたんで……」

 

「ターン」(死角に入ったらターン 視認できないのに何故わかる)

 

 半信半疑だったが源太郎は念の為ブリッジに戻り、船尾モニターを確認しに行く。栗花落も後につづいた。

 モニター画面を切り替えると、高校教師の言う通りさっきの『第四小林丸』が追尾してくる映像が映し出された。さっき双眼鏡で警戒監視していた船に間違いない。源太郎は静かに平船長に近づき小声で進言する。

「船長、船尾カメラで確認しました。さっき島女の先生が指摘した船、回頭して本船を後方から追尾してきますが」

 

「……だからそれでなにか実害がでたか」

 

 苦虫を噛みつぶしたような表情をつくりながら平船長は源太郎に問い返した。

「実害が出てからでは遅すぎますよ」平坦な声で源太郎はこたえる。

 

「倉さん。怪しいだけじゃ、どうすることもできんよ。せいぜい保安庁にこんな船を目撃しましたと連絡するぐらいしか──」

 

「それでも構いません、お願いします」

 

「取り越し苦労だと思うが。梶本、保安庁に連絡し──倉さん、船名と登録番号は」

 

「第四小林丸、-

 

 さっき手の甲に書き写した番号を見ながら源太郎が大声で応えた。

 

「──聞いたな、海保に連絡して『第四小林丸』の船籍と航行海域を照会してくれ」

 

 通信士代行の若い船員が船舶電話をとるのを確認して源太郎は礼を言った。

「ありがとう船長」

 

 そのやり取りの間を見計らって、栗花落が源太郎に挨拶に来た。

「なんかお騒がせしたみたいですみません」

 

「いやいや。どうせ大したことないと思いますがね」

 

 なんだ自覚があったのかと少し呆れながら源太郎は応えた。だが否定的な言葉とは裏腹にさっきから胸騒ぎが消えない。倉織源太郎の嫌な予感は過去何度も的中している。一旦先生には階下へお引き取り願おうと思った時だった。

 

「日本人って言霊を気にする民族なんですよ。悪いことを想定して言うと『縁起でもない』とかすぐ言いますよね。それって迷信なんですけど。でも最悪の事態を想定するからこそ、悪いことが起こっても被害を最小限度に抑えることができると思うんです」

 

 栗花落は念押しするように源太郎に言う。源太郎は、それが言い訳のようには聞えなかった。そのとき梶原通信士が船長に報告がはいる。

「船長、先の件の回答が来ました。『問い合わせの漁船登録番号、船名に該当する船舶は実在する』とのことです」

 

 平船長は、ほらみたことかという視線を源太郎に投げかけた。続けて梶原通信士が聞き取ったメモを読上げる。

 

「現在、『千葉県房総沖で操業中』だそうです」

 

 平は自分の耳を疑った。平は梶原通信士に念を押す。

 

「間違いないんだな」

 

「はい。ですから、あの船舶は偽装船だそうで──」

 

「うむ。念のため県警にも同じ内容を報告をしてくれ」

 

「了解です」

 

 梶原通信士は船舶電話で県警に連絡をいれる。平船長は倉織を見た。同時に栗花落は静かに倉織に断りをいれる。

「倉織さん、お仕事の邪魔してすみませんでした。生徒のところに戻ります。あと全員二階のレストルーム周辺に集合させておきます。自信はありませんが一般客も誘導できるか工夫してみます」

 

 その落着いた口調と態度に源太郎は唖然とする。が、すぐ我にかえり忠告した。

「先生、くれぐれも騒ぎにならないように頼みます」

 

 片手を上げて素早くブリッジの出入り口から姿を消した教師の言動を、源太郎は意識して記憶に留めておこうとした。

 

 

 

 自分と同じ事を考えていた栗花落という教師の危機管理意識に驚いた。しかし今はやるべきことが多すぎて、あれこれと詮索する暇がない。

 ありえない事だが、源太郎は万が一発砲された時のことまで想定していた。海面から二階のレストルームまで、船体の外板や甲板が幾重にも重なり、窓際にさえ居なければ跳弾や貫通弾に当たる可能性は低くなる。

 気休めにしかならないが、もし貫通弾が車両甲板の車に被弾、炎上しても、上ならまだ安全確保しながら避難しやすい。

 あまり知られていないが鋼鉄のかたまりのように見える現代の鋼船の外板は、じつは意外なほど薄くできている。長さが三〇〇メートルもある大型貨物船でも三センチ程度の厚みしかないのだ。 

 それが如何ほどのものか実感が湧かなければ、こういう例え話がある。

 国民的キャラクターである世紀から来た猫型ロボットに『スモールライト』を借りたとしよう。それで三〇〇メートル程あるタンカーの船体を、五〇〇ミリリットルのビール缶程の大きさにに縮小したとする。

 そのプラモデルのように小さくなったその船体外板の厚みは、同サイズのアルミ缶よりもはるかに薄いという計算になる。

 この様に現代の大型船は、薄い鋼板とさまざまな補強材を組み合わせたパネル構造の部材を連続的に組み立て、じつに軽くしなやかに作られている。

 いわゆる柔構造と呼ばれるつくりで、航行している状態でも海面のうねりや積荷の状態に合わせて柔軟にたわむことで、全体として高い強度を維持することを可能にした。 

 ところが逆に特定の位置に集中する力には弱い面があり、ところかまわず押せば外板がへこんでしまう場合もある。

 当たり前だが民間船は海保や海自の艦船のように装甲板などない。強力な銃弾を撃ち込まれたら容易に貫通してしまう。こういった知識が無ければ、さっきの教師が言った避難場所は考えられない。

(まぁ偶然かもしれんし──)

 源太郎はを見ると『隠岐フェリー』の現在位置は本土と隠岐諸島のちょうど中間地点を示している。もしこのタイミングを狙って来たのなら、仮想敵の用意周到さが伺われる。

 晴天のおだやかな真昼の海上はキラキラと輝いている。まぶしそうに陽光を見つめていた平船長は、ゆっくりと源太郎に近づき押し殺した声で依頼した。

「倉さん、正式に補佐の件、お願いします」

 

「了解です、平船長」

 

 ニット帽をとり、軽く一礼して目深に被りなおす。源太郎の承諾とともに、平船長はブリッジにいる全員に聞えるよう大声をあげた。

「総員、聞いて下さい。今、倉織さんにこの船の船長補佐を依頼した。ご存じだと思うが、倉織さんは海自の掃海部隊で長年経験を積んでおられ、これまで船員の教育係でお世話になってきました。今日は島前に着くまで、倉織さんが船長だと思って指示に従うように 皆いい機会だから、倉さんからどん欲に何でも吸収するように励んでください。以上」

 

 虫の知らせで平は倉織源太郎に一時的に権限を委譲した。こうして源太郎は急遽、船長補佐の役割を担うことになる。直ちに各員に通達事項を次々と発令した。

「境(八菅 境海上保安部)に連絡して本船に一番近い巡視船は今どのあたりにいるか確認してください。教えてくれなかったら、緊急出動でこの海域に急行できる所要時間を聞いてください」

 

「あと機関室にどれだけ出力上げられそうか直ぐ報告させてください」

 

 通信士と機関士に指示をだしながら舵を握っている航海士に近づき、

「緊急の時は細かい指示をだすので、その心づもりで」と素早く念押しした。

 

「あと誰か船尾モニタとレーダー監視お願いします。わずかな動きがあったらすぐ報告を」

 

「船員の中から、目視で不審船を警戒監視する要員を立ててください。動きがあったらレシーバーで即連絡を送るように」

 

「船長、客室や他の船員たちへの情報開示は」

 

「我々の勘違いという線も残っている。もう少し現状のまま──」

 

「倉さん、急にレーダーの航跡が二つになりました」

 

 飛び込んできた状況報告に倉織は一瞬息をのんだ。

「……船長。いやなカンが当たったかもしれない」

 

「いや、なんで…… こんな近場でありえん…… ヘリなら美保基地から一〇分で飛んでこられる。レーダーにもすぐ捕捉される。そんな自殺行為を── 倉さん、あんたが工作船だと断定する根拠はなんだ」

 

 平は頑なに常識的な見解を捲したてる。

「さっき双眼鏡で観察したとき船尾に小型艇を出し入れする観音開きのゲートが見えていた。それでもまだ信じられんかったけどな。でもこれではっきりした。奴等、母船から切り離した小型艇と両面作戦で乗り移ってくる」

 

「バカな…… ここは隠岐だぞ。こんな近海で国際問題を起こすのか」

 

『後方の小型艇がスピードを上げて接近中です 距離八〇〇』

 

「北は国際問題なんて屁とも思っちゃいない。いいですか船長。たとえ海保のヘリが飛んできても、それまでに人質を取れたら奴等の勝ちだ。それに海保の装備じゃ、重武装の工作船とやり合ったら保安庁にも犠牲者が出るかも知れない」

 

「無茶苦茶な……」

 

「相手は核武装した国際常識が通用しないテロ支援国家ですよ。おまけにあの国の輸出品が低賃金の労働力と恫喝による〝恐怖〟か、兵器だけだ。しかも国家元首は恐怖政治を敷く世間知らずで苦労知らずの〝おぼっちゃま〟ときた。

 新たに拉致被害者を充当するような行動にでてもおかしくない。今から起きることは儂らの常識で対処せんほうがいい」

 

「海賊ごっこでもするつもりか。ここはソマリアじゃない」

 

『倉さん 小型艇がスピードを上げて左舷に近づいてき──マジかっ 奴等ライフルのようなもの持ってますよ』

 

「冗談のような現実です」

 

『──それと鈎つきの長い鉄ばしごが見えます あれを引っかけて乗り移るつもりです』

 

「やっぱり俺らの勘違いだったことにならんか……」

 

 この期に及んで現実逃避したい気持ちは痛いほど分かる。倉織でさえ丸腰で武装集団に対するのは初めてだった。だが納得させる時間がもうない。

「船長、腹くくりましょうや。今この船の乗員乗客を守れるのは儂らだけです」

 

 倉織は大声でがなった。

「消火用ポンプ、全基始動消化栓にホースを接続して放水準備にとりかっかって下さい とにかく梯子をかける素振りをみせたら即放水開始 あと手空きの乗員は船内の消化器を掻き集めて船尾車両甲板に集合して」

 

 しかし皆一様に他人事のように呆れてみたり、状況を把握出来ず誰一人動こうとしない。

 倉織源太郎は一瞬で悟った。

 

(無理もない。皆、火災訓練の経験はあるが、こういった緊急時の訓練などしていない。だから平時から異常時への迅速なマインドセットができない。欧米諸国の小学校では教育されているが日本ではそんなカリキュラムはない。

 恐怖に竦んでいるといより、間近に迫りつつある危険が認知できないからだ。いや無意識に認知を拒んでいるかもしれない。皆どこかで、まだ大丈夫だろうという楽観に縋ろうとしている)

 パニックより今のほうが怖い。源太郎は心底思った。だが人間の心理からすれば、自然な生理現象だった。誰でも陥る心理的呪縛。

 人間は希望や願望によって、不安な現実や未来のことを直視しなくなる。

 だがこれは現在進行中の『テロ』だ。

 このままでは乗り移られたら最後、あっという間に制圧されて全員捕虜だ。数百人の新たな拉致被害者が誕生してしまう。倉織源太郎は目の前がまっ暗になった。

 

 

 

******************************************************************************

 ブリッジ階下の二階、一階、車両甲板へ一気に駆け下りた栗花落は、自分の荷物を取り出しにきた。バスのなかでは荷物番の数学教師の井口が小説を読んでいる。運転手とバスガイドは休憩中で不在だった。極力平静さを全面にだし、息を整え、落着いた口調で話しかけた。

「井口先生、二階で参加無料のビンゴゲームが始まるみたいですよ」

 

 バスの降車口から栗花落が呼びかけると、奥から気のない返事が返ってくる。

 

「興味あるけど、見ての通り留守番中ですよ」

 

 文庫本から目を離さずに先輩教師はめんどくさそうに答えた。

「なんか豪華景品が当たるみたいです。先生も行かれたらどうです。そのあいだ僕が荷物番しときますから」

 

 栗花落の嘘八百の提案に、少し心が動かされ井口が重い腰を上げた。

 

「じゃぁちょっと売店で飲み物買ってきますから、その間だけ悪いけど交代お願いします。 誤解ないように言っときますけど、ビンゴには参加しないから」

 

 言い訳がましく井口は念押しする。

「わかってますって。少しぐらい長くなっても僕は全然かまいませんし」

 

 井口教諭は「悪いね」と言いつつ、いそいそとバスから出てきて二階へ向かった。入れ替わりに栗花落はバスに飛び込み竿ケースとクーラーボックスを担ぎ出そうとしたが、井口の座っていた席を見ると高級そうなジャケットが置き忘れている。

「そんな焦らんでも」と、栗花落は呆れてみせたが、すぐバスの昇降口を閉め、井口教師の後を追って階上の乗船受付窓口へ向かう。

 重さ一三キロにもなる竿ケースを肩からかけて、反対には重量一五キロのクーラーボックスを肩からさげて、栗花落は一気に一階客室甲板のエントランスに設けられた案内所に駆け上がった。合わせて三〇キロにもなる荷物を床にドカっと下ろし大きな溜息を吐く。三十キロは米一俵分と同じだ。すぐに常駐の係員を呼んだ。

「すみませ~ん。あの、島根女子の引率をしている栗花落といいますが、ちょっと船内放送で生徒達に集合のアナウンスを流したいんですが、よろしいでしょうか。あと救急箱もお借りしたいんですけど」

 

「ええどうぞどうぞ。本来、規則じゃダメなんですけど、今回だけということで。出来れば手短にお願いいたします」

 

 事務スペースの奥から若い男の係員が顔を出す。ネームプレートに島 大祐と明記されていた。

「それは勿論。ありがとうございます島さん、無理言ってすみませんです」

 

 県教委の関係者は上得意だったので対応も緩く、あっさり許可が下りた。マイクを握った栗花落に係員が頷き合図を示す。

「島女の皆さん、引率の栗花落で~す。いまから重要な連絡事項があります。一〇分後に、な、な、なんと、島女主催で豪華景品が当たるビンゴゲームが二階レストルームで始まりま~す。あと他の乗客の皆さんも飛入り参加オッケーです でも参加人数に制限がございますので、整理券をお配りしますから、二階レストルームに私、島根女子高の栗花落宛にお越しください」

 

 などと、すぐばれる嘘を栗花落は臆面もなく船内放送で流す。その嘘情報の放送を倉織源太郎はブリッジにも聞えていた。だが源太郎は源太郎でテロや戦争についてリアリティを感じない船員に、危機意識を呼び覚まそうと早口でレクチャーしてる最中だ。

 

「──繰り返しますが人は何か変事あっても自分だけは死なないと思ってる。

 でもそれは切なる願望であって事実じゃない あと集団同調性バイアスという思い込みも発生する

『そんな騒がなくてもどうせ何かの間違いだろ』とか、『みんな一緒だから大丈夫』とか考えてしまう。

 そんな根拠のない空気に今、支配していることに気づいてほしい。

 人間一人の時には、以外と危険を察知して即応できるのに、集団でいると周りに人がいるから大丈夫だと勝手に思い込んでしまう

 ソウルで起きた地下鉄大火災のとき、煙に巻かれていく車両内のビデオが残っている。煙が充満してきているのに乗客は皆ほとんど騒がず座ったままでいた。その間、窓を割って脱出した人間だけが九死に一生を得ている 天は自ら助くる者を助くという諺は──」

 口角泡を飛ばしながら、源太郎には言いようのない虚しさが去来していた。

 

 

 

****************************************************************

 栗花落は普通では重すぎる竿ケースとクーラーボックスを苦もなく二階まで担ぎ上げ、レストルームに向かう。しかし通路まであふれ出た生徒達から矢継ぎ早に要求責めにあい行く手を阻まれてしまった。

「先生 私も整理券ください」「私も」「こっちは名分で」「こっちもお願いします」「はやくはやく」

 

「ちょと待って待って 並んでからでないと配布しないから、そこ通して下さい」

 

 群がってくる女生徒達をかきわけ、かきわけ、やっとレストルームまでたどり着く。

 レストルームと名付けられてはいるが、四人掛けテーブルが八卓あるだけだ。隣にゲームコーナーが併設されている手狭なスペースだった。だがそこにはすでに女生徒が数十人がひしめき合って大混雑している。女子校生の体臭で栗花落はむせかえりそうになった。そんな新任教師をみつけた生徒が数名が駆け寄ってきた。

「あ~、やっと来た 先生おそ~い」

 

(いやいや、放送してから三分も経ってないぞ。ビンゴという撒き餌は効果抜群だな)と自画自賛する暇もなく、栗花落は例の四人を捜す。

 また他の付き添いの先生からも事情説明を求められる。今から準備しますからと、嘘を重ねてやりすごす。周りからの追求をふりほどいて、急ぎやるべきことを実行に移した。

「星野委員長 平沢さん 茂木さん 倉織さん ちょっと、ちょっとこっち来てもらえますか」

 

 言った途端に集まった女生徒たちのなかで姦しい伝言ゲームが始まる。二分と断たないうちにそれぞれ別方向から四人が集まってきた。不審がる四人を物陰に呼び寄せて、栗花落は小声で用件を伝えた。

「いきなりカミングアウトしますけど、さっき放送したビンゴの話、あれ真っ赤な嘘です」

 

「う、うそ」「信じられない」「意味わかんない……」「……」

 

 四人の顔が一瞬で曇る。星野が真っ先に口を挟む。

「この騒ぎの収集どうされるつもりですか 私たち四人で尻ぬぐいなんて出来ませんからね。 モギリン、平沢、クララ、行こう」

 

 素早く栗花落は両手を広げて制止した。

「大事なことだから聞いてください。これから始まることを手短に説明します」

 

 さっきとは別人のような栗花落の気迫に当てられ、四人は金縛りにあったように動きを止めた。四人はボサボサ頭の髭モジャ教師が何を言い出すのかと身構える。

「僕たちはいま歴史的ターニングポイントに立ち会ってます。具体的には北朝鮮の工作母船がこのフェリーを拿捕して本国へ乗客ごと持ち帰ろうと接近中です。幸い自衛官だった倉織さんのお父上が操船を任されてますので、北の思惑どおり簡単に事態が進まないでしょうが、工作員が乗り移ってくるのはもはや時間の問題です」

 

「お父上って……」佳奈子が呆れる。一瞬で四人がしらけたような表情に変わる。

「はぁ また深夜映画でも見て寝不足なんですか」ボケ役の平沢がつっこむ。

 

「そんな中二病みたいな痛い話、だれが信じますの」茂木が冷厳な眼差しを向ける。

 

「先生、父をネタに妄言はやめてください。まじキモいし」佳奈子が嫌悪を露わにする。

 

「とにかく誰かがこの騒ぎの収集をつけないといけないわね。先生、お気の毒ですけど、これ保護者会で問題になりますよ」星野が脅しにかかる。

 

 四人がそれぞれ別々のリアクションをしめす。想定内の栗花落は次の言葉を用意していた。

「君たちがすぐ信じられないのはわかります。だけどもし数分後に状況が変わったら、僕の今から言うことを思い出してください」

 

 栗花落は星野委員長に向き直り、

「星野さん。貴女はその秀でた統率力で変化する状況に応じて皆と協力しながら対処してください」

 

「嫌です。断固拒否します。対処ってなんですか 私、そんなスキルもやる気もありませんから」

 

 即答した星野には取り合わず、栗花落は視線を平沢に移し、借りてきた救急箱を彼女の足下に置く。

「平沢さん、貴女の和やかな性格と包容力で怯える人達を勇気づけてあげてください。できれば傷の手当てもお願いします」

 

「せんせ~、無理~ごめんなさい」

 

 穏やかに拒否した平沢に構わず、今度は茂木に向き直り

「茂木さん、貴女の知略と人脈を以て皆さんのサポートについてあげてください」

 

「それって腹黒だからって言いたいのかしら。どっちにしろお断りします」

 

 茂木の拒絶に臆することなく、最後に倉織佳奈子と向き合う。

「倉織さんはその洞察力で、上っ面の情報じゃないを真実をアナウンスしてみんなを導いてあげてください」

 

「やめてよ。私にそんなこと出来るわけないから」

 

 佳奈子の抗議のあと元の栗花落のかるいノリの口調に戻り

 

「君たちが、何も起こるはずないと思い込むのは自由です。でも主観的な自信や願望が、客観的な結果を導き出してくれるとは限らないよ」

 

「そんな屁理屈……」佳奈子は黙り込む。

 

「じゃぁ僕、もう行くからあと宜しくね~」

 

「栗花落先生 そんな意味ふの説明で逃げるんですか いいかげんいしてください」

 

 星野が背を向けた栗花落に我慢できずに叫んだ。 

「逃げたりしません。ちょこっと手伝ってくるだけですから」

 

 そう嘯いたら突然レストルームとは反対方向の船首へ向け足早に歩きだす。途中置いていた竿ケースとクーラーボックスを担ぎあげ階上の展望デッキに向かう階段を上るところで混雑している生徒達に遮られ姿が見えなくなった。

 偽ビンゴ情報に集まってきた生徒や乗客たちは増え続け、ごったがえすレストルームに収まりきらず、船内通路や屋外の上甲板椅子席にまで溢れ出している。

 四人は呆気に取られてその場に固まっていた。が、佳奈子が一番に口火を切る。

 

「まじで逃げ出すなんてサイテ─ ちょっと私連れ戻してくるから。絶対オタ教師本人に謝らせる」

 

「クララ、私も行く」「貴女ひとりじゃ無理よ」

 

 星野も茂木も同行しようとしたが、佳奈子は制止して首を振った。 

「ごめん瑠璃、平沢、モギリン。それまで他の先生に事情話して時間稼ぎお願い」

 

「あ~クララ、ずっる~い 自分だけラクなほう取って」

 

 平沢のぼやき声を背中で聞きながら、佳奈子も栗花落の後を追って船首へ向かった。普段より多少行動が大胆なのは、栗花落の話以前に、父親が運航教官としてこのフェリーに乗船していたからだ。乗船する間際に母からのメールで知らされていた。

 小走りで通路を進んでいくと展望台に上がる階段で足音が聞えた。その足音を追いかけ佳奈子も最上階へ向かう。

 

 

 

*******************************************************************************

 同時刻、ブリッジでは佳奈子の父、倉織源太郎が固まって動けない船員達に向かって、まだ説得を続けていた。後方から追いすがる敵を船尾モニターで注視しながら、すでに焦りを通り越して、異様な虚無感に囚われかけていた。

(本当にこれは現実なのか 居眠りして白昼夢でも見ているのでは)

 気持ちが萎えそうになる。だが気をとりなおし力説をはじめる。

 

「東日本大震災の時もそうです。津波だ、もっと高台に逃げろと大声で走り回って危険を知らせた人がいたのに、ある地域の人は信じずに最寄りの避難所から動こうとしなかった。 無理もない、そこが行政の指定避難所だったからです。でもその声を聞いて念のため少しでも高台へ目指した人だけが──」

 

 源太郎の声はそこで途切れる。モニターに映った北の小型艇に乗った工作員が天に向かって威嚇射撃を始めたからだ。銃声はここまで届かなかったが、自動小銃の先端から出る白い硝煙のようなガスが断続的に吹き出している。二階上甲板椅子席に誰かいたら銃声は間違いなく届いているだろう。

 佳奈子はその銃声を船尾から船員区画への上がるステップの途中で聞いていた。

 タタタタタタ──という軽い音で、まさかそれが旧ソ連製の自動小銃AK(一九四七年式カラシニコフ自動小銃)のコピー品から出た銃撃音だと知るはずもない。

 その音こそ島女の生徒達を日常から非日常へ誘う魔笛になった。

 一方、佳奈子がステップの途中で立ちどまっていたのは、前方で栗花落は竿ケースを天秤棒のように肩にかついで立ち止まっていたからだ。クーラーボックスはショルダーベルトで肩にかけられ腰辺りにぶら下がっていた。 

 両腕を竿ケースのせてぶらぶら案山子みたいな格好で振り返らず、栗花落は佳奈子の呼びかけに足を止めていた。 

「先生 さっきのどういうことですか 子供みたいな嘘で混乱させて何が──」

 

「倉織さん。すぐ二階に戻りなさい。ここから先は危険です。お父上のことは僕にまかせてくれて大丈夫だから」

 

「何言ってるか意味わかんない どうして先生なんかに任さなきゃ──」

 

 会話の途中でステップの下からフェリーの船体外板に大量の砂利をぶちまけたような音と衝撃が伝わる。同時に階下で生徒や乗客の鋭い悲鳴がこだました。続けて同じような音が立て続けに聞え、ガラスの砕ける音と、また悲鳴があがる。

 

「倉織さん 早く戻って」

 

 いつもの軽佻浮薄なオタ教師とは思えない大声に突き動かされ、佳奈子は蹌踉めくように船内に足をむけた。

 膝が震えている。

  あんな言い方しなくたって……

   オタ教師のくせに…… 

    不思議と佳奈子は階下で上がる悲鳴より、栗花落に強く言われたことのほうがダメージとして大きかった。

 唐突に源太郎にも非日常の世界が訪れた。左舷ブリッジの張りだしたドッジャーウィングの船窓が突如砕け散った。誰かの悲鳴が聞える。幸い付近には誰も居なく怪我人はなかった。

 ブリッジに残っていた人間は、一瞬息をするのを忘れたように割れたガラス破片を凝視している。左舷ブリッジ入口付近は、そこらじゅうガラスの破片や金属片が散乱していた。

 下手すれば踏み抜いて大怪我しそうなのを源太郎は瞬時に身を屈めながら慎重に通り抜ける。そして後部ドアを少し開けて左舷後方を目視した。 

 北の小型艇が小銃を構えた工作員を乗せて船尾に近づいている。双眼鏡で見直す間に、工作員らは長い鉄製の梯子を垂直に立てて乗り移る準備を開始した。

 この『隠岐フェリー』は船体側面が垂直に切り立っていて客室甲板までかなりの高さがある。水面からマストの先まで高さは、四階建てのビルに相当する。

 故に船首から中央まで梯子が届く処はないが、船尾の開閉作業甲板は海面から最も近くそこが敵が取り付く目標だと源太郎は直感した。

「佐山航海士 儂が合図したら、直ぐに取舵に当て、五秒後に面舵に当てだ 復唱してくれ」

 

 が、復唱はない。

 早くしないと北の小型艇は数分で左舷船尾に取り付かれてしまう。苛立ちを抑えながら操舵位置を振り返る。

「佐山くん」

 

「倉さん、駄目だ、あいつは避難した 取舵に当て、五秒後面舵に当て」

 

 我が目と耳を疑ったが今蛇を握っている平船長を見て理解した。

 馬鹿な…… この状況で何処に避難する 

 気づけばブリッジには、ほとんどの船員が居ない。今初めて気づいた自分の間抜けさに源太郎は愕然としていた。

 誰もが我が身がかわいい。それは仕方ないことだ。源太郎は最初っから無い物ねだりしていたことに漸く気づいた。

「船長、結局何名残った」

 

「すまん、俺を入れて名だ」「名前は」「中村です」「杉田です」

 

「改めてよろしくな 平船長は舵お願いします。中村君は目視で工作母船の動きを逐一儂に報告 杉田君は海保へ連絡してこの現状を実況してくれ」

 

 船長以下残った若い船員は持ち場について行動を起した。いまの若いやつも捨てたもんじゃないと気を取り直し、平船長に叫ぶ。

「海保が来てくれるまで時間稼ぎします な~に接近拒否さえ出来れば、なんとか凌げますよ」

 

 空元気だったが倉敷源太郎の声は、明るく快活にブリッジに響いた。

 

 

 

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 一方、階下の二階レストルームは生徒や乗客達がブリッジから逃げてきた船員に状況説明を求め、大騒ぎになったいる。

 治安のいい日本で銃撃されることなど誰も経験したことがない。だから当たり前の反応だ。生徒のなかには泣き叫んでいる子もいたが周りが必死に落着かそうとしていた。また放心状態の子やひきつって笑い出す者もいる。そんななか栗花落に拒絶され、二階にふらつきながら戻った佳奈子を同級生が見つけ、他の引率の先生に報告した。クラス委員の星野が飛んで来ていきなり抱きつく。

「ばか 心配したのよ どこか怪我してない」

 

 気づくと平沢や他の生徒たちが救急セットで乗客のお年寄りに傷の応急手当をしている。

 割れたガラス片で切ったのだと星野は説明してくれた。その光景を見て初めて栗花落の言ってた意味を佳奈子は理解した。

「オタ教師、知ってたんだ、こうなること……」

 

「おかしいよクララ、なんでそんなこと知ってるの あの先生なんなの 何しに行ったの」

 

「わかんない…… わかんないけど、たぶん敵じゃないと思う……」

 

 そう呟いた口元を見つめる星野の眼差しがきつくなってることに、佳奈子は気づいていなかった。

 

 

 

****************************************************************************

 ブリッジでは倉織源太郎と平船長のシニアコンビが巧みな操船で北の武装工作船の接舷をギリギリで阻んでいた。

 母船から分離した小型艇は『隠岐フェリー』に並行して航走しながら寄せてくれば、わざとフェリーをぶつけるように近づけたり、または逃げるように急に航路変更したりと、源太郎の的確な指示と平船長の操船技術で今までなんとか凌いでいた。

 源太郎はフェリーが起こす引き波を利用して、なんとか小型艇を転覆させようと試みたが工作船の手慣れた操船で上手く躱されてしまう。

 当然、小回りのきく小型艇のほうが取り回しに利がある。敵も何度かトライして失敗を重ねていくうちに学習し、徐々に船を寄せるタイミングが分かってきたらしい。

 小型艇の接近をあしらいながら源太郎は母船の動きが気になっていた。時折小型艇から散発的な銃撃を喰らう。本気で殺傷するつもりなら重火器を使ってくるだろう。

 二〇〇一年に発生した九州南西海域工作船事件。そこで北の工作母船が装備していた武装を、源太郎は思い出そうとしていた。

 海底からサルベージされた実物を見学したとき、写メと図解入りでメモを取っていた。その革手帳いまも持ち歩いている。北の小型艇を横目で追いながら、素早く胸ポケットから手帳を取り出す。片手でページをくると当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。

 箇条書きれた部分をみつけて、ざっと眼を通す。

 北朝鮮工作員が携行してた火器類は四種類。

 一、AKS- ×。

 二、八二式機関銃 ×。

 AKS-の放つ小口径高速弾、八二式機関銃が掃射する機関銃弾(フルサイズ小銃弾) ともに海上保安官の防弾ベストを貫通して殺傷する能力有り。

 三、- ×。

 -はソ連開発の携帯対戦車擲弾発射器。安価、簡便かつ効果的で途上国の軍隊やゲリラ、民兵が好んで使用。

「取舵一〇 船長、急いで」

 

 また、小型艇が船尾によせてきたので平船長に回避行動の指示をだす。今度は波の影響で距離が開く。今がチャンスだと感じ源太郎はまたメモに目を落とす。

 四、K イグラ- ×。

 K イグラ-は携行対空ミサイル。射程は五キロメートル。

 チャフやフレアといった軍用の防御装備を持たない海保機にとって大きな脅威。

 北朝鮮工作母船の固有武装は二種類。

 -(二連装対空機関砲)×(船尾)

 八二ミリ無反動砲(-に類似)×(船首)が主兵装。

 -は口径十四.五ミリ、かつて対戦車ライフル用弾丸を使用。貫通力に優れる。対人で使えば防弾ベストを着用していようと即死は免れない。

 巡視船や航空機の外殻を貫通可能。口径が二〇ミリ未満のため、機関砲では無く機関銃に分類されこと有り。

 工作船展示場では攻撃された巡視船の貫通弾痕も実物が展示されていた。あの重武装相手に当時海上保安庁に死者がでななかったのは奇跡としかいいようがない。

 源太郎は戦慄が足下から這い上がってくるような感覚を覚える。巡視船でさえ貫通できる機関砲ならフェリーの外板など紙のようなものだ。逃げ回っているうちはいいが、もし拿捕が困難と判断したら凶行に及ぶ可能性もある。海保が来る前に証拠隠滅のため撃沈を目的に攻撃に転じたら……

 車両甲板の自動車目掛けて機関砲を撃ち込めば、ガソリンを引火しフェリーの燃料を誘爆させることもできる。

 倉織源太郎は絶望的な状況に打ちのめされそうになっていた。

 

 

 

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 島根女子高校に赴任して一ヶ月も経っていない近現代史の新米教師。それが栗花落のもう一つの顔だった。

 展望デッキ兼避難集合場所に到着した栗花落は、やたら重い竿ケースとクーラーボックスをドカッと下ろす。当然周りには誰もいない。銃声が断続的に続き、その都度階下で悲鳴があがる。フェリーは小刻みな回避運動のためローリング(横揺れ)が激しい。これでは船酔いする生徒が続出しているだろうと気遣った。

 栗花落は三ケタのダイヤル式の錠前を四秒で外し、竿ケースから黒光りした金属棒を取り出す。その物体が竿でない証拠に、棒に折りたたまれていた二脚を広げ、展望デッキに固定することができた。

 次に先端部が字型の突起物がついた筒状の棒を取り出す。

 振り出し竿みたいに前に突き出すと、シャコーンとバレルが伸び、定位置でカチリと止まる。それをデッキに固定した棒状のモノの上に重ねる合わせる。

 その棒状のモノは細長い六角柱を半分に縦割りしたような形状をしていた。

 上部のマウントレールに照準スコープを装着。

 下部には引き金がついたグリップと銃床がついている。

 栗花落は手榴弾の太い安全ピンのようなモノを二箇所に差し込み銃身カバーを固定。

 次に非接触型のカードキーをかざしクーラーボックスのロックを解錠。

 一二.七ミリ弾が十発装填されたマガジンをとりだし銃底から装着。

 以上で射程距離二〇〇〇メートルのアンチマテリアルライフル、Mの組み立てを完了する。

 この間、十五秒。栗花落は暗闇でも同時間で組み立てられる訓練を積んでいた。 

 最後に遠距離狙撃に邪魔な、付け髭と一体化したぼさぼさ頭のウィッグをむしり取り、クーラーボックスの隠し蓋にしまい込む。

 現れた素顔は女子受けしそうな精悍な相貌だった。しかし今、その眼光から強烈な殺気を発散している。女子どころか屈強な男でさえ寄りつかないだろう。その表情から感情の起伏は消え、無機質な能面に変貌していく。

 趣味の悪い背広を脱いで甲板上に敷き、その上で腹ばいになる。

 伏せ撃ちの姿勢で栗花落は据銃。この一瞬で凄まじい集中力を漲らせる。次の瞬間、栗花落は無の境地に達していた。緊張、計算、恐怖、あらゆる雑念から解放される。

 周りのありとあらゆる音が消えていく。寒風吹きすさぶ風切り音も、散発的な銃撃音も、階下から突き上げるような甲高い悲鳴も。己の息遣いさえ聞えない。寒さも感じなくなっていた。

 ふと高校時代に揶揄された台詞がリフレインされた。相手はさっきの電話の相手だ。

 

「──なるほど。それなら比企谷くんにピッタリだと思うの。死角からの狙撃とか、適正が高いと思うわ」

 

「違いねぇ」苦笑いしてみた。

 

 闘争本能に研ぎ澄まされ肉体が一〇〇パーセントのスキルを発動させる。

「接近目標に対し追随射撃を開始する」

 

 栗花落は平坦な声で呟く。

 展望デッキの手すりの間から銃身を突き出し、コッキングレバーを引き弾丸を装填した。

 スコープを覗き、照門、照星から延伸する照準線が指向する先。小型艇めがけて気負いも焦りもなく無造作にトリガーを引く。

 瞬間、轟音が栗花落の半径二〇メートル内を支配。

 銃床から強烈な衝撃が肩胛骨に伝わる。

 ライフル機関部、右側面の排莢口からマジックインキほどの空薬莢が飛び出す。

 銃声と言うより砲声に近い。

 小型ヘッドセットのイヤーホンが無ければ、確実に鼓膜がおかしくなるレベルだ。

 そもそも船上からの狙撃はプロの狙撃手でも難しい。だが試し打ちもせず栗花落の放った一射目は狙いから僅かにずれて小型艇の無線アンテナを粉々に砕いた。

 銃身が冷たいうちに決める最初の一撃。

 それを人はコールドボアショットと呼ぶ。

 瞬時にスコープの照準線と弾道の交点誤差を微修正し、小型艇の工作員が応射するより早く二射、三射と連続して狙撃。

 弾丸はバレット弾。口径弾より小さく軽量に改良されていた。

 射出された弾丸は超音速で長距離を跳ぶ。

 故に引力、気温、湿度、風、空気抵抗の要素から影響を受けにくい。弾丸は破壊威力を維持したまま飛翔。

 それを可能にしたのは弾丸を撃ち出す薬莢内の火薬を特殊な配合で改良した成果だ。

 再度轟音が響きわたる。三射目で小型艇の上に立てかけた乗り移り用鉤つき梯子を真ん中からへし折った。間髪いれず四射五射と連射し外部エンジン二基のうち一基が吹っ飛ぶ。小型艇は白煙をあげ、忽ち失速してフェリーから遠ざかっていった。

 栗花落が放った大砲のような銃声はブリッジの源太郎まで届いた。最初、音の大きさに敵の重火器による攻撃が始まったと勘違いしたほどだ。運良く船尾モニターは度重なる工作員の銃撃にも破壊されず生き残っていた。源太郎は飛びつくようにそのモニターを確認すると、小型艇との距離はかなり開いていた。僅かに芽生えた安堵感が、初めてさっきの銃声がなんだったのか考えるゆとりを与えた。

 

「倉さん、いまのは」平船長が叫んだ。

 

「わからんが、後部デッキから聞えた」

 

(間違いなく、こちらから応射したものだ。私服警官でも乗船していたか いやいや拳銃であの銃声はない。拳銃や小銃ではあそこまで船体にダメージを与えられない。一体誰が何で撃った)

 

 源太郎は自然と銃声がした船尾方向をブリッジの入り口からみる。誰か甲板から立ち上がろうとしていた。

(誰だ)一瞬、どこかで見た後ろ姿だと既視感に見舞われる。

 

「倉さん前っ」

 

(しまった、交戦中だ)源太郎は後悔する。平船長の声で慌てて前方を確認すると、工作母船が、本船の航路を被せるように鼻面を抑えにかかっている。

 一方、小型艇を狙撃した栗花落は次のターゲットを求めて立上がる。母船の位置を確認するため、クーラーボックスとアンチマテリアルライフルを担ぎ上げ、ブリッジの屋根に上がるステップに手をかけた。

 ブリッジの源太郎は工作母船の急な変化に対処するため叫んでいた。

「回避運動 船長、取舵一〇度 杉田君は海保にもう一度連絡して現状報告を 機関室、あと何パーセント上げられる」

 

 源太郎は平船長と杉田船員に指示を出しながら、機関室と船内電話で二元中継する。

 

「これ以上無理です 全開で三〇分以上回し続けてるんでヤバイですよ」

 

 この状況で機関が停まることは命取りになる。なんとか現状でやり過ごすしかない。だが航路を変えても北の工作母船はまたフェリーの前に進路を変え、妨害しながら一定の距離を保ってくる。

 

「倉さん、前見てください 工作船の船尾が割れ始めています」

 

 目がいい中村青年が母船の変化を直ぐ栗花落に教える。源太郎も双眼鏡で確認した。

 

「これは」源太郎は目を見開いた。

 

 

 

*****************************************************************

 

 ちょうど北の小型艇から威嚇射撃が始まった時に少し時間を遡る。

 茂木杏菜はフェリー内が大混乱するなか、速やかに二階の売店で五万円を千円札に両替している。そして剛胆にも一人で一階左舷側、特別二等席の入口前まで降りて、自動券売機で千円のテレホンカード五〇枚を購入していた。

 後に島女カルテットと呼ばれる四人組だが、茂木は星野、平沢、倉織に比べ、一番小柄で見た目も儚く可憐に見える。だが実際そのへんの成人男子より肝が据わっていた。 

 その茂木が向かった先──『隠岐フェリー』の船舶公衆電話は一階特別二等室の入口付近に設置されている。薄いパーティションで間仕切りされた電話コーナーは人一人がやっと入れる狭さだった。そこにの船舶衛星電話が壁掛けされ、椅子の代わりに、障害者用の車椅子が置かれている。

 北の小型艇から散発的に間近の外板を掃射する着弾音と衝撃が響いている。そんななか茂木は気丈にも船舶公衆電話から救難メッセージを送り始めた。

 栗花落に示唆されたからではないが、とにかく利用できるコネクションはなんでも利用するつもりでいた。自分にはそれが可能だという自覚がある。茂木杏奈は何代も続く地元総合病院の跡取り娘である。地元名士が故に両親の顔は各方面に広い。

 まず父親のルートから真っ先に警察、海保関連に救難を求めた。

 さらに病院が準キー局のスポンサーであることを利用してキー局へ根回しを依頼する。 そして準備が調った時点で報道にリークし、茂木から局のスタジオ直通の回線を開けて実況放送を開始した。

 茂木はこの暴挙を現在進行形で公にすることで、国内の反日勢力を牽制し政府や官僚の重い腰を蹴り飛ばそうと考えた。

 やがてキー局から臨時ニュースのテロップが流れ、茂木の音声だけの実況は番組に割り込んでオンエアが始まる。放送は全国ネットで流され、当然フェリー隠岐の船内にも映し出された。

 丁度、栗花落が小型艇のエンジンをアンチマテリアルライフルで撃ち抜き後退させたので、一時的に銃撃が止んだタイミングと重なった。 

 チャンネルでは朝のワイドショー番組が突然切り替わり、ニュースセンターの映像になる。最近売り出し中のイケメンニュースキャスターが緊張した面持ちで、訥訥と緊急原稿を読み始めた。

『こちら報道スタジオです。只今未確認情報ですが、松江市沖を航行中の山陰汽船所属、『隠岐フェリー』が不審船から銃撃を受けているという、俄には信じられない一報が飛び込んできました。しかも現在、そのフェリーの乗客と船舶電話を通じてスタジオと繋がっているみたいです。一体誰がなんの目的で── あ、これで話せる』

 

 キャスターが眉根に緊張感を漂わせながら問いかける。

『もしもし、すみません。今どういう状況でしょうか 誰か話せますか』

 

『た……たす……けて……』

 

 消え入りそうな声がノイズに混じって流れ出た。一瞬でスタジオのデレクター他、スタッフ全員に緊張が走る。本来なら即報道スタジオへ引継ぎたかったがメインキャスターが外出中のため、若手に進行を委ねざるを得なかった。

『お、おちついてください。 ──あの、大変なときにすみません、お名前からいいでしょうか』

 

『……はい、島根県立 島根女子高等学校二年で……す。 助けて…… 助けてください 怖いです…… お、お願い──』

 

 茂木は気が動転しているふうに装ってわざと名前を言わなかった。

『大丈夫ですか 何処か怪我されてませんか』

 

 イケメンニュースキャスターは茂木を落着かそうと努めてゆっくり話しかけた。

『……はい…… ありがとう……ございます…… 怪我はないです』

 

 悲壮感漂う女子校生の切実な訴えかけに、あれほど混乱の渦中にあったフェリー二階フロアに、静寂の輪が波紋のように広がっていった。誰かがで自分たちの報道がされていると指摘した。銃撃が一時的に止んでいたのも幸いしていた。を取り囲んだ女生徒や乗客らは固唾を呑みこんで画面に釘付けになっていく。

 銃撃された恐怖より、全国的に報道されたことで皆落着きを取り戻しつつあった。

 誰もがこれで救助がくると希望が湧き出てきたのだ。やがて機関音が聞えるくらい周りが平常に戻りつつあった。ところが平沢はそんな重い空気をぶちこ壊すように明るく言い放った。

「うっわ~ これ、モギリンじゃん ちょっと~なに~ チョー不謹慎じゃん。こんな時に悪のりしすぎっしょっ」

 

 その声でその場にいた生徒達も初めて気づかされ、口々に騒ぎ出す。

「ほんと、茂木ちゃんの声だ」

 

「この、か弱そうな作り方まちがいない」

 

「え~ あの子何処から電話してるの」

 

「でもケイタイ今、繋がんないよ」

 

「確かにモギリンだよ、佳奈子」星野は佳奈子に同意を求めた。 

 

「うん……」

 

 ニュースキャスターは早く状況の把握をしたいのがみえみえで、やや性急すぎる聞き取りを始める。

『あの、どうい状況か詳しく説明できる大人のひと、近くにいますか』

 

『今……周りには私一人です。他のみんなは二階に避難してます。……こわいです…… 引率の先生が……北朝鮮の工作船が私達…… 私達を人質にするつもりだって言ってました……』

 

『き、北朝鮮 その情報確かですか 貴女はその工作船、ほんとうに見たんですか 何かの間違いじゃないですか』

 

 ニュースキャスターは信じられないと言った口調で再確認する。

 

『……さっきまで……外で…… 砂利が激しくぶつかるような音と衝撃がして…… 船はチラっとしか見てません…… 先生がなるべく船内の奥へ隠れなさいって……』

 

『わかりました。海上保安庁に救援要請はされましたか』

 

『わたし…… わかりません…… たぶん船員さんが急行しても一時間はかかるって言ってましたから…… わ、わからないです…… してるかも……』

 

 それは相手の攪乱を狙った茂木の偽情報だった。フェリーの乗客が今の情報を船員に再確認したが自分は知らないという返事が返ってきた。

 既に茂木は間接的に救援要請を終えている。高校生が言うより大人から言って貰った方が話が早いと判断して、父に真っ先に連絡し父親から通報してもらった。

 ほぼ同時にブリッジの平船長からも境海上保安部へ救援要請をおこなっている。各々違ったルートから発せられた救助要請は、多少時間差はあったが最終的に行き着く先は同じだった。

 地元の隠岐海上保安署から、偶々別の事案が終息して寄港していた型巡視船「さんべ」(総トン数 一九五トン・全長 四六メートル)に一報が入り、速力約三五ノット(約時速六五キロメートル)で現場に急行している。

 それに遅れること一五分、関西国際空港から一機の小型固定翼機サーブが飛び立っていた。行き先は米子空港に隣接する第八管区美保基地である。

 すでに基地では八管のMH、愛称『みほづる』という中型双発ヘリコプターがエンジンを始動して待機している。

 サーブの搭乗者は数ある特殊部隊のなかで一番実戦経験が豊富な対テロ特殊チーム、(海上保安庁 特殊警備隊)の八名だ。

 そして独自のルートで各インテリジェンスもこの事案は、発生以前から追跡対象になっていた。北の工作母船が隠岐フェリーに接触する一時間前、米軍三沢基地から無人偵察機グローバルホークが一機飛び立っている。

 行き先は尖閣や竹島ではなく隠岐諸島だ。三沢からグローバルホークが飛び立った同時刻、海自の佐世保基地よりはやぶさ型ミサイル艇が緊急出港している。出港当時隊員のほとんどが行先を知らされていなかった。

『フェリー隠岐』の二階の客室甲板では、しばらく銃声が止んでいたので生徒や乗客達は不安は残るものの、落ち着きを取り戻そうとしていた。

 たしか船舶公衆電話は一階だったはずだと倉織佳奈子は思い出した。星野委員長が独り言のように佳奈子に確認する。

「茂木って今一階に一人でいるの」 

 

「知らない…… でも危ないと感じたから一人で行ったんだと思う」

 

「だよね。モギリンなら十分やりそう」

 

 近くでベソかいてる小さな女の子に消毒液を傷に吹き付けながら平沢も同意する。

「それでどうなの 演劇部部長として茂木の演技は」

 

「う~ん……あざとすぎかな。でも男性ならイチコロで騙せるレベルだと思う。女子の場合、逆に警戒されるかも」

 

「イチコロって、ゴキブリか」星野はその比喩にあきれる。

 

「やっぱ先天的な悪女だからね」

 

 平沢が救急セットを持って別の怪我人の場所に移動しながら会話にいっちょかみしてきた。

「平沢…… 小気味いいほどバッサリだ」

 

 星野は苦笑いしながら特別報道番組に注意をむける。キャスターは茂木が使っている船舶電話を通してこのフェリーの詳細な状況を掴みたいらしく、茂木以外の人間とコンタクトを執拗に試みていた。

『──私たちも貴女たちをなんとか早急に救援したいと思っています。ですから関係省庁に詳しい状況を報告したいので、船の関係者の方を電話口に呼んできて貰えることはできますか』

 

 報道サイドとは被害者の状況を無視して自局の都合ばかり優先する。

『…………はぁ……』電話口で、おおきく嘆息する茂木。

 

『もしもし 大丈夫ですか 聞えてますか』

 

『…… さっき言いましたよ。近くに誰もいないって…… 貴方バカなの』

 

『……』

 

 そろそろ演技するのに飽きてきたみたいだ。佳奈子は素が出始め茂木の言葉を聞いて拙いな思い始める。

「わたしちょっと連れ戻してくる」

 

「だめよ 危ないことしちゃ」

 

 慌てた星野は素に戻って女子校生らしく佳奈子の腕にしがみついて放さなかった。佳奈子が心配したとおり、一気に茂木本来の口調に戻りだした。

 

『貴方、かりにも報道に身をおく人間なのでしょ。交戦中に味方の情報を公器の電波に乗せて拡散させる危険性が分からないのかしら どこまでも平和ボケされた、脳みそつるっつるの方ね。それとも私たちの安全より番組の視聴率がだいじなのかしら。あら、ごめんなさい。極限状態で追い詰められいて、つい本当のことを口走ってしまいましたわ』

 

 茂木は、立て板に水を流すハッキリとした口調で、キャスターをいじり始めた。

 

『あ、いや、そうじゃなくて──』

 

 メインキャスターがあまりの豹変ぶりに一瞬とまどって口ごもる。

 

『ニュースキャスターって、ろくに現場にも行かず、社会的背景や国際情勢も勉強せずに、与えられた原稿をただ読むだけの、女子ウケが良いお人形さんでしたものね。無い物ねだりした私が子供でしたわ』

 

 バストアップでに映っているイケメンニュースキャスターの顔が明らかに引きつっている。佳奈子は茂木の冷たい眼差しを思い浮かべていた。

『あ、貴女こそ、何も知らない高校生が交戦中とか不適切な言葉を使うのは慎んでください。事実を正確に──』

 

『絶えず報道する側が正しい。テレビが正義だとでも仰るのかしら テレビ報道ってオワコン──失礼。ネットで情報を得る時代に、番組価値が下がり続けているってことに製作サイドが気づけないなんて不幸ですよね』

 

『事実に基づかない誹謗中傷はやめなさい』

 

『事実に基づかない報道ばかりしてるくせに』

 

『私たちは、貴女と違って社会常識というものを弁えています』

 

『ではその高校生にでも理解できるように教えてくださいな。良識あるマスコミの方々にお尋ねします。現在、日本国内で活動している北朝鮮の工作員の推定人数をご存じかしら』

 

『そ、そんな質問今答える義務はないです。それより船内の情報を──』

 

『まぁ日本のマスコミレベルって他国に比べて低レベルだから、即答できなくても仕方ありませんわ。お人形さんだもの、無知でも恥じ入ることありません。それとも、そちらの局では北に気を遣わなければいけない事情でもおありなのかしら』

 

『……』ニュースキャスターは一瞬黙り込む。

 

 茂木は会話で遊びながら北朝鮮の蛮行を電波を使って世界に喧伝しようとしている。ニュースキャスターは通話を切りたかったが、スタジオのディレクターがそれを許さない。茂木はさらに挑発する。

『正解は北だけでもおよそ二万人の工作員が日本国内で活動しています。ついでに言うと在日中国人の数は約六〇万人。そうそう、二〇一〇年に中国で国家動員法という戦争時の動員法が制定されたこと、ご存じかしら 中国の国内法でありながら、実は有事の際、海外中国人動員法という戦争準備法がすでに施行されています。そういった日本国民が本当に知らなければいけないニュースは地上波じゃ、まず流さないでしょ。北とズブズブの関係のチャイナさんですもの。不用意に情報を与えてこれ以上、こちらの状況が悪化しても、貴方になんか責任とれないでしょ』

 

 茂木のよく回る口でマスコミをディスる波状攻撃を続ける。

 

『よくそんな── 出鱈目なことを…… いい加減なこと言わないでください。こんな状況で──』

 

 ここまでニュースキャスターは気圧されたが、すぐ否定しにかかった。

『出鱈目かどうかお疑いなら貴局のルートを通じてインテリジェンスに確かめられては如何かしら もっとも貴局にその人脈と能力があればの話ですけど』

 

 

 

***********************************************************************

 そんな遣り取りが階下で行われている事など知るよしもない。ブリッジで倉織源太郎は、観音開きになった不審船の船尾ハッチを双眼鏡で警戒監視していた。さっきの小型艇を回収するのかと焦点を合わせる。工作員らしき人影が作業中で、何かの積荷を動かしているのが確認できた。

 

「まさか拿捕は諦めて、沈めるつもりじゃ── 機関砲でも引っ張り出す気か」

 

 独り言を言いながら源太郎は背筋が寒くなる。しかし砲撃準備の活発な動きもなく、積み荷の移動作業が続いている。

 

「船長、本船の島前への航路は」

 

「ちょっと待て……」

 

 一瞬、中村船員に舵を任せ、平船長はを確認しに行く。

「最短コースのままだ」

 

 それを聞いていた中村は小首をかしげ疑問を倉織船長補佐にぶつける。

 

「妙だと思いませんか 奴らだってこんなこと起こしたら海保が飛んでくることくらい想定しているはずでしょ。時間だってないはずなのに……」

 

「最初から脅すのだけが目的なら、目的達成で諦めてくれたんじゃないのか」

 

 平船長は持ち場に戻り舵を中村から受け取って気休めを言う。

「だったら嬉しいがな。また急な操船指示をするかもしれ──」

 

 会話を途中で切った源太郎を平船長は訝った。

「どうした倉さん」

 

 双眼鏡の焦点を源太郎は細かく調整する。さっきまで工作員らが動かしていた荷物が五五ガロンのドラム缶であることに気づいた。合計三本確認できたが、そのうちの一本を手際よく海中に投棄した。

「予備燃料を棄てて船体を軽くして逃走準備を始めたか」

 源太郎から自然と独り言がでた。だが工作母船はいっこうに小型艇を回収する気配もなく、フェリーと等距離を保っている。

 急に何か途轍もない違和感が源太郎を捉えた。

 ドラム缶が漂いながら本船に近づいてくるのを警戒監視していたが、漂ってくるドラムが回転してないことと水面から出ている部分が僅かしかないのに気づいた時、無意識に叫んでいた。

「面舵いっぱい 面舵いっぱいだ 船長」

 

 平は急に怒鳴られたが、先刻源太郎が緊急の操舵を依頼することを予告していたので迷いはなかった。

「面~舵いっぱい」

 

 数秒の間隔で隠岐フェリーはゆっくりと進行方向右へ転舵していく。スピードが乗っていたのでやや傾斜していくが転覆の怖れはない。源太郎が怖れているのは転覆ではなく接触だった。

(間違いない あのドラム缶は浮流機雷だ)

 

 心の奥底でスペシャリストの経験とカンが警告を発している。

 しかし源太郎にとって、現実は冷酷で残酷だった。気づくのが遅すぎたのだ。

 潮流も運悪く真正面から後方に扇状に広がっている。

 船舶は車両みたいに急ハンドルを切っても急な変化が現れない。ドラム缶は着実にフェリーとの距離を詰めながら近づいてくる。続いて工作母船から二本目、三本目とドラム缶が連続投棄された。一本目のドラム缶はフェリーにあと五百メートルと迫っていた。

 ダミーであってくれと源太郎は祈ったが、現実にすぐ引き戻される。

(佳奈子はなんとしても助け出さないと、死んでも死にきれん……)

 だが今ここを離れることは出来ない。

 もし本物なら触雷してから沈没まで五分もかからないだろう…… 

 源太郎は任官時の宣誓を思い出していた。

『日本国憲法及び法令を遵守し、政治的活動に関与せず、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる』

 

 それはいざという時、自衛官は他人は助けることが出来ても自身の家族を優先して助けることが出来ないという内容だった。でも俺は退官したんだ。もう関係ない。

 どちらにしても沈没が始まって五分では誰も助けられない。救命ボートを用意する時間さえない。

 くそ

 一瞬そんなネガティブ思考が頭の片隅を掠めた、

 その時── 

 源太郎の頭上で、またあの大砲のような銃声が雷鳴の如く鳴り轟く。

 事実ブリッジの船窓や天井ビリビリと振動している。ブリッジの四人が反射的に天井を見上げた。

 間違いない。さっき小型船を狙撃した誰か知らないが、今度はブリッジの屋上から狙撃している。さらに一発、頭と腹に響く銃声が鳴り響いた。そしてもう一発。

 その直後、左舷十一時方向で轟音とともにフェリーの全高、四、五倍に匹敵する水柱が吹きあがった。衝撃波で船窓の何枚かにヒビがはいる。

 階下で悲鳴が聞えたような気がした。数秒後、四度また砲声のような銃声が響き、また轟音とともに巨大な水柱が盛大に噴き上がった。

 

 

 

***********************************************************************

 

 巨大な爆発音は二階に避難した佳奈子やクラスメイト、乗客や乗組員たちにも届き、彼方此方で悲鳴があがる。今まで攻撃が止んで沈静化していたからその反動は大きい。再び一瞬で恐怖が客室甲板を支配した。

 同時に一階で衛星船舶電話をかけていた茂木杏奈の受話器を通して、その爆発音はニュース特番に流れた。

 電話口の茂木に対し、ニュースキャスターが『……今の爆発音が何ですか』と質問してきたが、さすがに茂木も即答できない。足下から這い上がってくる恐怖に身が竦んでいたからだ。

 二階に避難している佳奈子と星野と平沢は、初めて栗花落の言った言葉の重さをいま噛みしめていた。

 星野は反芻している。

 

 『星野さん。貴女はその秀でた統率力で変化していく状況に皆と協力して立ち向かってください』

 

(そんなこと言ったって今更私に何ができるの……)

 

 恐怖と戦いながら星野瑠璃は自問する。佳奈子は私が守ってあげないといけない。幼い時からそうしてきたように。それは星野にとって崇高な義務であり、愛であり、自分にとって生きる意味だった。

 

『──具体的には北朝鮮の工作船がこのフェリーを拿捕して本国へ乗客ごと持ち帰ろうとしています──拿捕するため工作員が乗り移ろうとしてくる──』

 

 星野と茂木は持ち前の強い正義感から今時の高校生にしては珍しく北朝鮮拉致事件について独習していた。もっとも高校生なので具体的な活動はしていないが時折図書館やネットで自分なりに調べたりしている。

 切っ掛けは単純で、ニュース特番を見ていて、数十年前に自分と年齢が近い女の子が拉致誘拐されたことを知ったときからだ。専用サイトや学校の図書室で自主勉強すればするほど、狡猾で卑怯で不条理で理不尽な事件だとわかってくる。

 何十年も生死不明まま生き別れにさせられ、筆舌に尽くしがたい生き地獄のような辛酸を拉致被害者本人と残された家族に負わせたのだ。茂木が北朝鮮の事情に詳しかったのも、星野と色々と情報を交換していたからだ。

 今の星野には何故、北が日本近海でこの暴挙に及んだか分からない。だけど工作員らの意図ははっきり掴んでいる。乗り移ってきたら全員人質にされ北朝鮮に拉致される。いや全員じゃなくてもいいのだ。人質を射殺するのに何発弾が必要なのか…… 

 想像するだけで膝が小刻みに震えだした。抗おうにも暴力の前に一般市民はあまりにも非力で無力なのだ。

「私たち女子高生よ。未成年だよ。いったい何ができるっていうの」

 

 自然と独り言が漏れる。

(それこそ……この場で出来ることって、せいぜい立て籠もって時間稼ぎでするくらいじゃない)

 

(籠城か…… バリケードでも作って…… いや、時間稼ぎは有効かも……

 何かバリケードを作るいい材料はないか 無駄でもいい、例え僅かな時間でも工作員の侵入や接触を防げたら……)

 星野は直ぐに行動に移った。生徒や乗客たちは爆発の轟音で再び恐怖心が呼び起こされ、口々に不安を訴えている。不安のざわめき波紋のように広がり始めた。各々繋がらないケイタイで連絡を取ろうとしている生徒。我慢の限界がきて泣き出している子供もいる。

 重なる人垣をかき分け、星野は在る人物を捜し始めた。皆ケイタイがまた繋がるかもしれないと僅かな希望を抱いて、パネルを何度もタップしている。

 現代人にとって緊急時に情報が遮断される事が一番不安に駆られると聞いたことがある。不安は焦燥を呼び、やがてストレスとして蓄積され、個人差はあるが何れにせよ暴発してしまう。

「つながらない、つながらないよ~ どうして~ なんで繋がんないの」」

 星野のすぐそばで、何度かけなおしても家族に繋がらないとパニックを起こしている子がいた。周りのクラスメイトがなんとかして慰めようと努力していた。そんななか、やっと目当ての人物を捜し出し星野は大声で叫んだ。

「井口先生 ちょっと教えてください ここで籠城するなら、何処と何処を封鎖すればいいですか」

 

 まわりにいた生徒達が星野を振り返った。

「なに、お前 こんなとき、まだ悪あがきするつもり」

 

 乾いた笑いが井口の口元から漏れていた。いつも数Ⅱの授業中に見せる理路整然とした雰囲気は微塵も感じられない。目がどんよりと虚ろなのだ。

「大人がしっかりしろ」と、星野は怒鳴りつけてやりたかったが、どうにかそれに堪える。すでにどういう状況か大凡の現状を把握している井口教諭はもう諦めモードに入っていた。脱力した雰囲気から異常事態に対処しきれず思考停止している。星野は考えることなく井口の前に立ちはだかった。

 

「悔しいけど 認めたくないけど 理由わかんないけど 栗花落先生は何もかも知ってて私達を二階へ集めてくれたんです。佳奈子の話だとブリッジで船員さんを手伝っているらしいしっ いいですか ここは日本の領海ですよ 本土とだって、たった三〇キロしか離れてません いくら腑抜けた政府でもこんな暴挙見過ごしたりしませんよ 時間稼ぎさえできれば必ず助けがきますから、頑張りましょうよ」

 

 本当に栗花落を信じていいのか、正直自信はなかったが星野はわざとみんなに聞えるように大声をあげた。けっして威圧したりヒステリックに喚き散らす言い方ではない。ことさら明るく、『さあ校内の大掃除を班分けしてやりましょう』とでもいうノリで。

「そうか…… 栗花落くんは、それでわざわざ俺を二階へ…… なるほどな」

 

 ふらりと立ち上がった井口数学教師は、通路壁面にプレートで貼りつけられた避難経路図を僅かなあいだ眺めていたが、急に振り返り星野を手招きする。プレートを指で指し示しながら、クロスワードクイズに使ってたサインペンでチェックを入れる。うっすらとだが案内版に印が書き込まれた。

 

「屋外への出入口は船尾側に二箇所、こことここ。左舷と右舷側に一箇所ずつ、こことここ。中央と船首部分に一箇所ずつだ。このフロアーの椅子やテーブル、ゲームコーナーのゲーム台を使ってバリケードを作ろう。動かせるなら自動販売機も使う。外へ出る扉は外開きになってるから内側からドアノブをロープかなにかで固定する。急いだほうがいい。みんなに手伝ってもらい手分けしてかかろう」

 

 星野はすぐさま生徒達の中に飛び込み、井口先生の計画を話す。生存本能を呼び覚ます真摯な呼びかけに大勢が賛同し、船員を中心に引越のようなバリケード造りが始まった。

 

 

 

******************************************************************

 一方ブリッジでは倉織源太郎が危機的状況を忘れて驚嘆していた。

(こんな処から狙撃して当てるなんて…… まるで幽霊船の時と──)

 そこで思考を無理矢理手放し、双眼鏡で荒れた海面を見渡す。残り一本のドラム缶機雷の行方を探索する。

 すぐに発見できたが、最後の一本は爆発の影響で『隠岐フェリー』からかなり遠ざかっており、なんとか安全圏にはいる。もし一発でも触雷していたらあの威力だ。本当に五分も保たなかっただろうと、源太郎は改めて肝を冷やす。ひとまず生存に関わる緊急事態から脱して一瞬気が緩みかけたときだった。

「倉さん 左舷船尾にワイヤーがかけられています」

 

 杉田船員がモニターを凝視しながら叫んだ。その報告で安堵感が瞬時に霧散霧消し、背筋が凍る戦慄がはしる。機雷の回避に気をとられて接舷してきた小型艇を見逃していたのだ。工作母船がフェリーの鼻先を抑えたのはこの為か 航行速度を落とすのが目的。今さら悔やんでも後の祭りだった。

「船長、面舵一〇 急いでくれ」

 

 平は復唱せずに舵をきる。

「あと船長のタイミングで蛇行しながら、西郷港までお願いします」

 

 杉田船員は船尾カメラでワイヤ─が絡んだ舷側を拡大しようとしたら一人の小銃を肩から提げたた男がよじ登ってきた。

「倉さん、ライフル背負った男が……」

 

 杉田船員が独り言のような押し殺した声で呟いた。

「中村君と杉田君はブリッジから避難してください。今までありがとう、よく頑張ってくれた」

 

 平船長は今までの攻防がなかったかのように淡々とした口調で二人に言い渡した。

 

「いえ気にせんでください。俺も残りますから」

 

 中村は特に気負うことなく平船長の言葉を拒否した。続いて杉田も残ると主張する。それを無言で聞きいて源太郎は一喝した。

「船長の命令には絶対服従だ。とっとと避難するんだよ」

 

「しかし、倉さんと二人だけじゃ──」

 

「こっから先はジジイの役目だ。お前達は下の連中を守る仕事があるだろうが さっさと行け」

 

「あの……」

 

 誰か声のした方を振りかえると、一階乗船受付の事務担当者が船員区画から顔をだした。平船長は切迫した状況なので

「島君、すまない。いま取り込み中だ。ここは危険だから中村君と杉田君と一緒に二階に……」

 

 舵を握ったまま、そこで平船長の言葉は擦れて消えてしまった。なにごとかと源太郎は平船長の視線の先を追っていくと、島と呼んだ男の手の中に拳銃が握られている。鈍く黒光りする銃口は平船長の背中に向けられていた。

「船長、すまない。停船してくれ」

 

「お前、北の工作員か」

 

 ドスを殺した源太郎の声が静かに漏れ出た。中村と杉田は思わぬ内通者に固まっている。 源太郎の質問を黙殺してたことが、島と名乗っていた男の回答だった。

「すぐトンム(同志)たちがブリッジを占拠しに来る。黙って機関を停止しろ。出来るだけ殺さずに祖国へ連れ帰るように命令されている」

 

「なに言ってやがる 浮遊機雷を流しておいて。一発でも触雷してたら五分と経たず沈んでいたぞ」

 

 源太郎は銃口モノともせず工作員の矛盾点を即座に突いた。

「あれは囮だ。リモートで爆破させ脅しをかけ、停船させる為のモノだ」

 

「囮って、本物じゃねぇか」

 

「偽物だと説得力がないだろ」

 

 倉織源太郎は憮然と聞き流しながら別のことを考えていた。こいつ、ひょっとしてリモートで爆破させたと思ってるのか 確かに機雷爆破時にはブリッジにいなかった。

 つまり狙撃者の存在を知らないのか 

 いや…… もし、分離した小型艇や母船と逐次連絡を取り合っていたら、狙撃者の存在を知っているかも…… いやいや、本当は狙撃者の弾が外れ、こいつが言うようにリモートで爆発させた可能性もある。あらゆる可能性が源太郎のなかで渦巻いていた。

 源太郎は迷っている。くそ 判断が難しい。武装したテロリストはブリッジに直ぐ来る。やるなら今しかない。

 だが他にも仲間がいたら 

 コイツを処理して武器を奪うか そうなると自分も含め死傷者が──

 突然、拳銃が火を噴いた。ブリッジに銃声が鳴り響く。威嚇の弾丸は平船長の耳元を掠め前方の船窓を貫通していた。中村と杉田は咄嗟に床にしゃがんでいた。

「平船長 舵から離れ~ろぉ い、いそ~」

 

「」

 

 その場にいた四人が訳も分からず、ゆっくりと床に崩れ落ちていく島と名乗る内通者を目で追っていた。俯せに倒れた首筋に針のようなものが突き立っている。源太郎は訳が分からないまま直ぐに倒れた男から拳銃を奪い取り弾倉を調べた。抜き取ったマガジンには七発の残弾がある。

 源太郎の記憶が、手にした拳銃がトカレフ-のコピーだと教えた。中村と杉田船員が自分のベルトを外して内通者の手足を縛り上げるのを横目に、源太郎は無いよりましかとマガジンを戻す。

 トカレフは一九八〇年代以降、日本に多数が密輸入されていた。暴力団などの発砲事件にしばしば使われたことで広くその存在を知られている。もともと第二次世界大戦中、ソ連軍制式拳銃として広く用いられ、現在は共産圏諸国でライセンス生産されている。

 トカレフは本来拳銃に必須であるべき安全装置すら省略していた。徹底した単純化設計で、量産性向上と撃発能力確保に徹した銃だ。故に過酷な環境でも耐久性が高く、かつ弾丸の貫通力に優れている。無論オリジナルであればの話だが。

 倉織は侵入してくる工作員を迎え撃つべく体勢を整えようとした矢先、すぐに前方に人の気配を感じる。

 電気の消えた船員区画の通路奥で誰かが立っていた。 

 源太郎は射撃訓練のように拳銃を構える。

「倉織さん。銃を向ける相手が違うよ」

 

 おどけた相手の声に聞き覚えがあった。突然その男は奥の船員区画用ハッチを開け外に飛び出した。ハッチから外光が差し込み、眩しい逆光のなか、男が何かのケースを背負ってるのように見えた。同時に後部展望デッキ付近でマシンガンらしき乾いた掃射音が響きわたる。

 栗花落は別名スコーピオンと呼ばれるVz 61軍用短機関銃の掃射を右舷船員区画の影に隠れて凌いだ。直後、弾丸で削り取られた細かい鉄片を体中に浴びながら考える。

 機敏で洗練された敵のガンハンドリング(銃姿勢)を見た栗花落は、一瞬で相手が相当訓練されたプロだと判断。

 北工作員のファーストミッションは操舵室を制圧し操船権を奪うことにある。だが単独でブリッジに突入する場合、この火線を通過しなければならない。ただし相手が複数の場合はまた話が変わってくる。

 ここで防御戦を維持したほうがいいのか栗花落は迷う。本来ならブリッジの屋根から狙撃する方が確実だった。だが拳銃をもった男がブリッジに繋がる船員区画に入るのを目撃した為、しかたなく近接戦闘を余儀なくされたのだ。

 不本意だが今そのツケを払わされている状況だ。だが栗花落もまた船内戦闘の訓練を積んでいた。後悔とともに式.62mm小銃のトリガーを引絞り応射する。迅速に制圧しないと増援が投入されたら厄介だ。

(もし、さっきの男のような船員に化けた工作員がいたら それに小型艇から進入したのは、こいつだけか)

 

 次々と湧きおこる疑念を払拭するように栗花落は応射する。振動が伝わり乾いた機銃発射音が流れる。

 同時に左舷ブリッジ入口付近から銃声がして敵が潜んでいる左舷昇降階段付近に三発着弾した。その正確さから元自衛官、倉織源太郎の射撃だと直感する。

 判断は瞬間。爆発する瞬発力。

 クーラーボックスと竿ケースを置き去り、片手で応射しながら栗花落は右舷昇降階段に飛び込み一気に二階へ数段を飛び下りる。着地と同時にファンネル(排気筒)と船室の間の狭い通路を船尾方向へ駆け抜ける。予め船内を歩き回り、インプットした甲板図面をもとに、栗花落は敵を挟撃する。素早く左舷船尾屋外座席スペースから敵工作員の背後に回り込み発砲。

 敵も瞬時に応射したが左肩を撃ちぬかれる。その反動でVz 61軍用短機関銃を海へ落とし、階段を転がり落ちた。銃撃戦のさなか屋内から乗客や生徒たちの悲鳴が響く。

 栗花落は左舷通路を駆け抜けざま、二階出入り口の窓が視界に飛び込む。錬磨された動体視力が窓越しにゲーム台や家具でバリケードを作っている生徒達を一瞬で視認した。籠城したレストルームのなかで星野委員長が陣頭指揮を執っいる。

「星野、いい仕事だ」と感心しながら、栗花落は左舷二階の昇降階段から一階の様子を伺った瞬間、下でまた女生徒の悲鳴が聞えた。

 

(誰か一階に残っていたか)

 

 想定していたことだが後悔が先にたつ。気を取り直し、栗花落は船尾屋外座席から足音を消して右舷に回り込む。式.62mm小銃を構えなおし、静かに気配を殺して一階へ降りていく。右舷中央出入口まできて円窓から屋内の様子をそっと伺った。

 ついさっき、栗花落がマイクを借りて船内放送したエントランスまで血痕が続いている。 一瞬あの船内放送が、遙か遠い過去の出来事のように思えた。

 その正面が二階客室甲板へ上がる階段なのだが、いま二階の踊り場には荷物固定用のロープで作ったネットをハンモックのように張り、その上に船内の椅子やテーブルを乗せて封鎖されていた。短時間でよくこれだけの作業が出来たものだと栗花落は唸った。

 案内所のカウンターからトカレフの銃身が見え隠れしている。その奥に恐怖に歪んだ見覚えのある顔をみつけた。

(茂木……)

 

 心の中で呟いた栗花落はそっと右舷入り口から離れ、音を立てずに車両甲板へつながる昇降階段へ姿を消した。

 

 

 

********************************************************************

 茂木杏奈は、自分が置かれている状況が未だに理解できないでいる。突然、展望デッキから銃声が近づいてきたかと思うと、ドアが乱暴に蹴破られ、左肩から血を流した男が転がり込んできた。

 血みどろの男は船舶電話コーナーにいた自分に気づき、無理矢理引きずり出して案内所まで連れて来た。反動で鮮血が飛び、腕と制服に付着している。自分を案内所のカウンターに押し込め、身を屈めてドラマや映画でよくみる拳銃のようなモノをカウンターから突きだした。 

 そこまでは記憶があるが、それがどうして自分なのか理解できない。

 男は出血が多いせいか肩で息をしていた。したたり落ちる鮮血に怯えながら茂木は今更のように後悔していた。父親に救助依頼の電話したあと直ぐ二階のみんなの処へ戻っていればよかったと── 

 ニュース番組なんかに繋いでもらうんじゃなかった──

 調子にのってぺらぺらとお喋りするんじゃなかった──

 このままここで撃ち殺されるのだろうか それともこのまま拉致される

 常識が通用しない相手だ……覚悟しておかないと……覚悟 死ぬ覚悟 それとも拉致されて北で一生暮らす覚悟 

 ──そんなのムリ、できない できるはずがない……

 無理にきまってる…… 死にたくない…… まだ何にも経験してないのに…… いや……いやだ…… こんなところで死…… 虚しすぎる 

 茂木はあっという間に恐怖に呑み込まれていく。

 身体が寒い。息が苦しい。過呼吸 吐きそう

 これが死の恐怖…… こわい。イヤ。 誰か 誰かたすけてください……

 神様、お願い…… 

 身体を折り蹲って藁を持つかむ気持ちで茂木は手を合わせる。

 こんなことなら、もっと、もっと──

 気力が萎えて、ずるずると壁に持たせた身体が滑り落ち、床にへたり込んでしまった。

 その時、負傷した男が銃を構え直した。それが自分に向けてなのか、それとも違う相手なのか、もう冷静に判断する力は茂木には残っていない。極度の緊張と絶望感に苛まれ、意識は混濁していた。

 朦朧としていた茂木杏奈の耳に、階段を上がってくる足音が聞えてくる。果たしてそれが現実なのか、助かりたい願望が聞かせた幻聴なのか、茂木にはもう分からなかった。

「なんでケイタイつながらんねん。出る時はつながって──うわっ、血ぃや」

 

 緊張感のない方言が耳にはいる。でよく聞く関西弁だと茂木は無意識のうちに理解していた。

「オイ オマエ ソコデトマレ」

 

 負傷した男は、ややイントネーションのおかしな日本語で車両甲板から上がってきた客に銃口を向けて恫喝した。茂木は受付所のカウンターの奥で誰かが通りがかった事で、多少気が紛れているのに気づく。

「……俺 ひっ な、なんやあんた そんな物騒なモン ほんもん(本物)か こわっ、そんなんしもてんか、頼むわ。こっちは二階に行きたいだけやのに── あっ なんやこれ」

 

 今更のようにバリケードに気づき、通りすがりの男は慌ていた。工作員は銃口を振ってこっちへ来いと意思表示する。

「わかった、わかったから、なっ、俺引き返すから見逃してくれ、たのむわホンマこのとうり。こんなんシャレならへん。俺、何しに隠岐に来たんや。も~最悪や」

 

 茂木は通りすがりの男が後ずさりしているのが、その場の雰囲気で想像できた。好奇心が恐怖心を少し和らげてくれた。かといって立ち上がってカウンターから頭を出す勇気など持ち合わせていない。

「ダメダ…… コッチコイ 逃ゲルト背中カラ撃ツ」

 

「ひぇっ、わ、わわわかった、わかったから ちょー待ってくれ 行くから なっ、そっち行くから撃たんといて」

 

 茂木はこんな状況でも関西弁というのは緊迫感に欠けるなと変な感想を持つ。

「両手ヲアゲテ、ユックリダ」

 

「わ、わかったって、あんたも相当イラチやな」

 

 関西弁の男が視界に入ってきて茂木は慌てた。思わず床にへたりこんでいた自分の姿に恥じいる。スカート丈を短くカスタマイズしていたので脚が露わになっていた。

 原因はカウンターに引っ張り込まれた関西弁の男の容姿だ。極限状態でも年頃の女子校生がおずおずと居住まいを正すほど、端正な顔立ちをした凛々しい青年だった。 

 銃を突きつけらているような異常事態でも男は何処か飄々として身体検査を受けている。 それを見ていると茂木は勇気と気力が戻ってくるのを実感できた。一瞬、誰かに似ていると感じたが、それが誰かは判然としない。が、その理由はすぐにわかった。

 数学の井口教師が着ていた同じツイードのジャケットを着ていたからだ。茂木はブルックスブラザーズという海外ブランドのジャケットだったので覚えていた。だが不思議なことに、井口教師が着ていたモノと素材も色も織りも同じだ。おまけに消息スプレーの芳香が、やけに鼻につく。

(なに これ井口先生のジャケットじゃない…… ていうか、この人ドロボウ 置き引き)

 

 まさかこの男が変相を解いたオタ教師の栗花落だと茂木は気づけなかった。それほどギャップが酷すぎたのだ。栗花落は、わざと生徒から忌避されるような格好で新任教師に採用されていたから無理もない。

 当の栗花落は声音も立居振る舞いも細心の注意をはらいながら対応している。階下で殺気と火薬の臭いを消すのに手間取り今になった。

 だが栗花落にとって危険な賭だ。さっきまで撃ちあっていた敵の前に丸腰で姿を晒すのだ。こいつが冷静に撃合いのさなか栗花落の容姿を記憶していたら即座に撃ち殺されていただろう。が、栗花落の即席変装が効果を発揮し今のところ気づかれていない。

「おっ、なんや、先客が居てはったんか。しかもえらい別嬪(べっぴん)さんやし。あんたも災難やなぁ。せっかくの旅行がこないなってもぉて」

 

「え、えぇ。 べっぴんって」

 

 意味不明だが、つられて茂木は頷いてしまう。この男の容姿、間違いなくクラスメイトが騒ぎ出すレベルだ。

(だが惜しむらくは、こてこての関西人だ)と茂木が残念に感じるほど余裕が戻ってきた。亡くなった祖母がよく口癖で『東男に京女』と、言っていたのを思い出す。でもイントネーションが少しおかしい……

「カッテニ、シャベルナ。シズカニシテロ」

 

「わ、わかってんがな。俺まじでびびると、めっちゃ喋りたおして怖いの誤魔化そうとするからしゃーないわ。なぁ、あんたもそー思うやろ」

 

「い、いきなり同意を求められても困ります」

 

「なんや愛想無しやな」

 

 茂木はつい相手につられて余計な合の手を入れてしまった。今度は無言で銃口を関西弁の男に近づける。

 

「わかった、分かったって はい、お口にチャックするから、チャック~」

 

 そういって栗花落は茂木の前で子供みたいに口にチャックする真似をする。それを見て囚われの我が身を忘れ、茂木は思わず吹き出してしまった。

 関西弁の男は茂木のリアクションに気に留めず、工作員の股間を指さして

「なぁ、余計なお世話かもしれんけど、あんたこそ恥ずかしで。まじで下のチャック開けっ放しやないか」

 

 反射的に工作員は視線を落とし、茂木は目を逸らそうとしたが、

(あれ、どこが開いてるの)と思った瞬間、イケメン栗花落は猛然と工作員にタックルする。衝撃で工作員は手にしたトカレフを床に落とす。

 二人の男はそのまま盛大な勢いで案内所のカウンターに激突する。カウンターの記念スタンプ台や観光パンフレットが吹っ飛び派手に床にぶちまけられる。狭いカウンタのなかで前後左右に二人は身体が縺れたままぶつかりまくる。壁掛け船内電話の受話器が次々と外れ、客室配電盤のスイッチ類にぶち当たる。

 突如始まった格闘に茂木は無意識に頭を抱えて悲鳴を上げていた。負傷した工作員がいつのまにかサバイバルナイフを手にしている。栗花落はサバイバルナイフを奪おうと必死に手首を押さ食らいつくきながら叫ぶ。

「あんた 二階へ はよバリケードの中に逃げぇ ぐずぐずすな 走れ」

 

 同時に茂木は我に返る。栗花落も危うく茂木の名を叫びそうになったがそこは堪えた。 茂木は弾かれたように立上がり案内所から出ようとするが、ふたりの男が狭いカウンター内で取っ組み合いながら暴れ回ってるので廊下に進めない。しかも工作員が引き抜いた刃渡り数十センチのサバイバルナイフが目の前を閃いている。

 栗花落は工作員のサバイバルナイフを握っている指を引き剥がそうとする。敵も栗花落の身体を引き剥がそうと膝蹴りや肘で強烈な打撃を喰らわせる。しかし栗花落は負傷してるにも関わらずその強靱な肉体はびくともしない。 

 反対に負傷した工作員の鮮血が辺りに飛び散り、赤い点が床や壁に付着していく。

 イケメン栗花落は現状を打開しようと壁側に敵を引きつけ、反動を使って思いっきり両脚で壁の配電盤を蹴った。再度、勢いよく工作員ごとカウンタに突っ込み、衝撃でサバイバルナイフを手落とす。栗花落はそのまま両脚で踏ん張って、工作員をカウンターに押さえつけ僅かな隙間をつくった。

「今やっ 行けっ」

 

 茂木は小柄な体型を生かし、その隙間を縫うように案内所のカウンターから飛び出す。

 勢い余って通路の壁にぶつかって転けたが、直ぐに起き上がり左舷通路出口に向け走る。 あと二メートルでドアノブに手が掛かるところで不意に横から太い腕が現れ、特別二等室の入口に引っ張り込まれた。茂木は掴まれた手を無我夢中で引き離そうと必死で藻掻く。 無念だった。せっかく逃げ出せたのにまた捕まってしまう── 自然と大声を上げようとした瞬間、違う手で口を塞がれた。

 もう駄目…… 

 せっかくあの人が逃がしてくれたのに 絶望感と焦燥で吐きそうになった時、

「もぎりん、落着いて もう大丈夫だから……」

 

 耳元で優しく懐かしい声がした。十年来の幼なじみの声だ。半信半疑でそっと顔をあげると、倉織佳奈子が鼻をくっつけんばかりに顔を寄せていた。

「……くらら」

 

「茂木ちゃん、よく頑張ったな。怪我してないか」

 

 自分の腕をがっしり掴んでる男の顔を見ると、一気に力が抜けた。

「倉織のおじさま……」

 

「おうさ 相変わらず鳥みたいに軽い身体だ。ちゃんと飯食ってっか」

 

「父さん、恥ずかしいから喋んないで」

 

 娘は素早く無頼の父親を牽制する。今も案内所付近から断続的に続いている破壊音とともに関西弁の叫び声が届く。

「茂木 どないした 大丈夫か」

 

「だ、だいじょうぶですわ」

 

 急に安否を問われて反射的に返事する。直後、死角から現れた男ふたりがエントランスに置いている液晶テレビに身体ごと突っ込んだ。二人の体重がテレビにかかりベキベキッという破砕音がする。二人縺れ合ったまま今度はジュースの自販機に体当たりしていく。床は流れた血で滑りやすくなっていて、返り血を浴びて二人とも凄惨な様相を呈してきた。栗花落も格闘のなか彼方此方裂傷を負って流血していた。

「誰 知り合い」

 

「いえ、通りすがりに私を助けて──」

 

「いいから二人とも先に二階にあがれ」

 

 源太郎は会話を止めさせ、佳奈子と茂木に指示する。

「わかった。行くよモギリン」

 

「おじさまは」一瞬、茂木は躊躇する。

 

「ここで奴をとっ捕まえる。さぁ行った行った」

 

「……どうかお気をつけて」

 

 茂木は律儀に頭を下げる。源太郎はそれには応えず、猫でも追い払うように、しっしと手の甲を振る。それが照れ隠しだと気づいて笑おうとしたが、腰のベルトに差した拳銃に気づき過酷な現実に引き戻される。

 あの名も知らない青年がまだ格闘を続けているのに── 後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。茂木も佳奈子もその男が、変装を解いた栗花落だとは夢にも思わず、急いで左舷側の通路に出る。佳奈子は遠回りだが、来たルートを戻ろうと一旦船首前方の階段へ向かった。

 それにしてもこれほど剛胆な女子がいるだろうか 茂木は改めて倉織佳奈子の背中を見ながら後に続く。私を連れ戻しにテロリストが徘徊してるかもしない船内を歩き、父親を呼びにブリッジまで行ってくれたのだ。前方の様子を伺いながら慎重に進む佳奈子の背中に礼を言った。

「ありあとう、助けに来てくれて」

 

「わたしは父親を呼びに行っただけだよ」

 

 前方を注視しながら、佳奈子はにべもなく応える。

「ううん、違うと思う」

 

 やや間をあけて佳奈子は言葉を選んだ。普段なら照れくさくて言えない想いも、この異常な状況では素直に口をついて出た。

「もぎりんだって小学校の時、助けてくれたじゃん」

 

「こんな命がけじゃなかったわ」

 

 今度は茂木が謙遜する。

「でも助けてくれなかったら心が死んでた」

 

 茂木は佳奈子の謝辞にドキリとする。

 

「……貴女が男だったら間違いなく惚れてるわね」

 

「うわっ、キモ」

 

 佳奈子は茂木を連れ、あと数メートルで客室甲板へ上がる階段を昇る瞬間、何か目に見えないモノが眼前を通過した感覚を覚える。

 直後──

 船体外板にブリザードのような弾着の嵐が吹き荒ぶ。

 

 

 

 佳奈子は無意識に茂木の腕を掴んで引っぱり、舷側の鋼板の影に倒れ込んだ。弾着の嵐は一向に止む気配を見せず激しく鋼板を削り続けている。佳奈子と茂木は、いまにも弾雨が鋼板を破砕貫通し、自分たちに殺到しそうな恐怖に囚われ、お互い甲板に倒れ込んだまま固く抱き合う。本能的に抱き合っていた。そうすることで互いの鼓動を感じ、生きている実感と、目前に迫った死を共有できた。

 鉄の焼ける臭いと脳髄をかき回す着弾音の洪水。佳奈子は茂木を抱きしめながら、心の中で(お願い、早く止んでぇぇぇ)と何度も何度も連呼する。もうだめだ、これ以上続くと正気を保てそうにない。

 すると願いが届いたかのように鋼板に当たる銃弾の嵐が弱まったように思えた。理由はすぐわかり階下の案内所がある一階に弾着が集中が移動したからだ。やがて全体的に散発的な銃撃から終息に向かっていった。

(あ、あそこには父さんが……)

 

 佳奈子は普段は毛嫌いしていた、あんな父だが、いざこうなると肉親の安否を気遣う当たり前の感情が吹き出した。起き上がって様子を見に行こうとしたが、佳奈子のうえで茂木が恐怖のあまり抱きついたまま失神していた。

 巻き付いた腕をなんとか解き、甲板にそっと茂木を寝かせて階段の上から一階の様子を伺う。

 さっき出てきた左舷の入口は蜂の巣のように無数の弾痕が敷き詰められていた。ガラスは破砕して跡形もない。両開きのドアの片方は蝶番部分が穿たれ船室内部に向け傾いていおり、さっきの銃撃の凄まじさを物語っている。

 佳奈子は言いようのない不安に駆られ思わず叫んだ。

「父さん」

 

 しかし聞えてくるのは機関音と波音だけ。生存を臭わすモノ音は返ってこない。

「何処なの父さん 返事して」

 

 また叫ぶ佳奈子の足は無意識に階段を降りている。次の銃撃が何処から何時くるのかなんて全く頭になく無警戒のままフラフラとした歩みだった。壊れたドアからエントランスを覗き見ると電灯や電飾は全て破壊され薄暗い。どこかでまたガラスの割れる音がした。

 震える手で半開きになった一階扉を開ける──

 人影が眼前にあった。佳奈子の鼻先にさっきのテロリストの顔が迫り、恐怖を感じる暇もなく腕を取られ屋外に引きずり出される。後から恐怖が追いついてきたが、悲鳴すらあげることができない。力任せに引きずられ船尾甲板まで連れて行こうとされているが抗う気力はなかった。男の鮮血が制服の袖に点々と滴り落ちていたが不思議と気にならない。 視界が開け、船尾車両積下ろしハッチを開閉する作業甲板が目に入る。 

 その時、初めて左舷(ひだりげん)に古びた漁船が併走しながら接近してくるのに気づく。漁船甲板には銃を構えている男が三人が見えた。

 しかし佳奈子は茫然自失状態で感情が麻痺している。身体同様で心がまともに動かない。無意識に目に映った見たくない情報をカットしていた。

 さっきの激烈な銃撃はこの母船からのものだ。工作母船の三人の工作員は自動小銃を佳奈子達に向け構えなおした。工作母船はゆっくりと『隠岐フェリー』の左舷(ひだりげん)船尾側に寄せようとしている。操船している男の顔もはっきり見えた。

 同時に背後で自分名を呼ばれたような気がした。

 佳奈子はゆっくりと振り向く。そこには右舷(みぎげん)側の通路から二人の男が肩を支え合って後からついてきていた。自然と言葉が漏れでた。

「父さん……」

 

 工作員と格闘していた関西弁の男に支えられ、片足を引きずりながら、源太郎は怒気で爆発しそうな形相で叫ぶ。

「人質なら……俺がなる だから娘をかえせ」

 

 佳奈子は父親の腹部と左大腿部から血が流れいるのに気づいた。それを見て初めて正気を取り戻すことが出来たのだ。

「父さん…… 怪我してるの…… 弾…… 当たったの」

 

 ふらふらっと父親のもとへ歩み寄ろうとしたがテロリストに髪を掴まれ、苦痛で佳奈子の顔が歪んだ。源太郎は慌てて歩みを止める。

 栗花落は源太郎を支えながら、源太郎の腰に挟んでいるトカレフのグリップを握って隙を伺っていた。北の工作員から死角になって見えないが、敵は佳奈子の身体を盾にしているので容易に銃撃できる状態ではない。

 今、船尾作業甲板で佳奈子が工作員にサバイバルナイフを突きつけられ連れ去られようとしている。その状況を二階の客室甲板でバリケードを作って籠城している同級生や、引率の教師も物陰から固唾をのんで見守っていた。ただ見守ることしかできない。

 船尾に駆け下りようとした星野瑠璃を平沢をはじめクラスメイトが必死に押さえ込もうと骨を折っている。あと約二〇メートルで接舷される。工作員たちは、もやいロープを投げるため身構えた。

 その刹那──

 工作母船がフェリーに接舷しようと距離を詰めてきた海上に異変が起こる。二階甲板で籠城している生徒や乗客や乗務員にも、はっきり見えた。

 霧や煙霧なんて出いない快晴のもと──

 朝夕や夜じゃない、真っ昼間に──

 だから見間違えようもない──

 工作船とフェリーの間に割って、突如その輸送艦は海の中から浮上してきた。急角度(約三〇度)でその艦首を海面に突き出すように飛び出してきたのだ。

 潜水艦の専門用語でこういった動きを『ドルフィン運動』という。文字どおりイルカが海面序上に飛び出して空中を舞い、その直後に潜る動きに似ている為そう名付けられた。

 船体の大きさはフェリー隠岐の三分の二程で、工作母船の三、四倍はあるだろう。何の前触れも音もなくイルカのように海中から飛び出してきたのだ。

 二階に籠城していた一団は、あまりに唐突だったので白昼夢かと茫然自失になる。

 母船の工作員も佳奈子に銃を突きつけている工作員も、佳奈子自身も源太郎も一瞬固まる。

 固まっていなかったのは、倉織源太郎を支えていた栗花落だけ。

「倉織さん、しゃがんで」

 

 

 

 一瞬の隙をついて源太郎の腰からトカレフを抜き取り、右方向に横っ飛びし、人質の佳奈子を射線から出来るだけ遠ざけてトリガーを引く。

 が、工作員も特殊訓練を受けている。栗花落の行動に無意識に反応。佳奈子から飛び退き左舷側に身体を踊らせ射線をずらす。

 栗花落は残弾をカウントしながら二射目以降を連射する。

 確実に仕留めるつもりで突進しながらの射撃だった。

(、、) 

 栗花落は工作員にサバイバルナイフを使う機会を与えない。失神したように蹲った佳奈子の身体に覆い被さり、庇いながら最後の三発を撃ち尽くす。

(、、)

 だが当たらない。トリガーとグリップが源太郎の血糊で滑り、狙いが外れていた。

 だが佳奈子を手放した工作員は耐えきれずに舷側を飛び越え海中に身を投じる。同時に母船側からも海中へ逃走する工作員の援護射撃が開始された。だが海中から突如現れた輸送艦に阻まれ、弾はフェリーまで届かない。四角張った艦橋は銃弾を遮蔽する。

 源太郎は腹と大腿部の激痛に耐えながら匍匐前進して佳奈子のところに這ってきた。血が止まらず床に這いずった血痕を引く。

 栗花落は直ぐに佳奈子から身を離し、二階まで階段を駆け上がりかける。救急セットを籠城組に貸してもらうつもりだった。だがいち早くバリケードの一部が外され星野と平沢が救急セットを持って飛び出してくる。

「あんたら危ない まだ銃撃が続いとるで」

 

 すれ違いざま栗花落は慌てて関西弁を使い注意したが、二人は全く無視して倉織親子の元に駆け寄り手当を始めた。栗花落は井口数学教師をめざとく見つけ、

「せんせ~ 左舷の通路に生徒さんが一人気絶してます 今のうちに船内に保護せんと」

 

「わっ、わかりました、ありがとうございます」

 

 目の前の傷だらけの男が着ているボロボロで血まみれのジャケットがまさか自分のジャケットのなれの果てだとは井口は気づかなかった。勿論、眼前の男が同僚の栗花落だとも……

「いえいえ」

 

 愛想笑いをしながら、栗花落は井口に気づかれないようにトカレフを背中のベルトに挟んで隠した。

(ジャケットは必ず弁償しますから)

 

 心のなかで懺悔して栗花落は手を合わせる。

 井口数学教師に続いて数名の女性教師がおっかなビックリで通路に出てきて、茂木を抱きかかえて船内に運びこもうとしていた。

 栗花落は、もう一度一階に駆け下りさっきの工作員が落ちたところから注意深く海面を警戒する。今ちょうど小型艇が落水した工作員を拾い上げようとしているところだった。それを確認して、ベルトに差し込んでいたトカレフを海中に投げ捨てる。

 同時にヘリのローター音が聞こえてきた。海保がようやく駆けつけてくれたなと栗花落も慌てて撤収準備に取りかかる。

 一階の作業甲板から、また船尾階段で一気に二階に駆け上がりながら工作母船を見ると、既に全速でフェリーから離脱を開始している。それを追って小型艇も片肺の船外機を全開させながら遠ざかっていくところだった。

 逃走していく二隻を見て二階に籠城していた生徒や乗客、乗務員から歓声があげながら、バラバラと甲板に飛び出してきた。同時に海中から現れた輸送艦は静かに、まるでもと来た道を戻るかのように再び海中に没し去るところだった。

 乗客の誰かが「のアトラクションを見てるみたい」と呟いた。

 この現実離れした出来事に甲板に出てきた女生徒や乗客、乗務員たちは皆呆然と見送るしかなできない。女生徒の一人が誰に語るでもなく発した言葉が漏れ聞えた。

「じゃぁ……いまのが……あの幽霊船だったの」

 

 周りにいた誰もが肯定も否定も出来なかった。乗客乗員がその余韻から抜け出せない間に、栗花落は右舷側から一階にまわり、乱闘と銃撃で無残に損壊したエントランスから隠し置いた小銃を回収する。そして再び三階の展望デッキに駆け上がりアンチマテリアルライフルを一五秒でばらして竿ケースに詰め込んだ。

 そこらじゅうに飛び散った薬莢を回収することは諦め、やむなくそのまま捨て置く。

 すぐ竿ケースとクーラーボックスをかつきあげ近場のトイレに駆け込む。血で黒ずんだ衣服を全て脱ぎ捨て、クーラーボックスから救護セットを出す。痛みに堪えながら手早く傷を消毒。止血のため大判のテープを患部に貼って応急処置を済ませた。 

 救護セットを手早く片付けながら栗花落は悟る。

 島女の新任教師として残された時間はもう残り僅かだということを──

 それでもこの事案で正体を暴かれ、その短い時間も取り上げられることだけは何としても避けたい。特命任務の対価として超法規手段をもって手に入れた新任教師の立場だった。尚更、教師でいられる貴重な時間を大切にしたい。

 クーラーボックスに用意していた乗船前に着ていた同じ服──

(予め同じように洗いざらしにしてヨレヨレにし、綻びや染みも同じ位置に配置したクローンのような仕事着)を取り出して着替える。

 最後に隠し蓋にしまい込んだ、髭と一体化したウィッグを付けて直す。トイレの姿見で自身の身体を素早くチェックしながら強力な消臭剤を全身くまなく吹き付けた。顔の擦り傷やアザはボサボサの髪で隠しておく。ブサメン栗花落の完成である。

 身支度を調え車両甲板へ降り、竿ケースとクーラーボックスを自分の乗ってきた観光バスのなかに隠して漸く一息つく。

 バスから出ると周り全体が騒がしくなっている。海保のヘリがフェリー上空でホバーリングしていることが容易に想像できた。 

 栗花落は車両甲板から一階のバリケード部分を迂回して船首側の作業者用階段から一階へ上がる。さっき工作員と銃を奪い合うため格闘した時のダメージを隠しながら、平生を装って行動した。二、三歩、歩くたびにヒビが入ったかもしれない肋骨が軋む。そのたびに顔が歪みそうになるが、鍛錬したきた肉体と精神力のおかげで平静を保てた。

 間もなく二階から統率された小さな足音の一団が駆け下りてくる。濃紺のアサルトスーツに身を固め、短機関銃を居銃したSpecial Security Team:SSTの二人組だ。黒の目出し帽から殺気の篭もった視線が栗花落に突き刺さる。背後の別ルートから来た二人組が現れ、栗花落は一瞬で取り囲まれてしまった。

「手を上げろ」みたいな間抜けな言葉は吐かない。

 終始無言で、突きつけてくる銃を見て、一瞬で栗花落は確認する。

(&の(ドイツ・ヘッケラー&コッホ社 ㎜短機関銃)か)

 

 即、吃驚して強張った表情をつくり両手を挙げながら栗花落は弱々しく訴えた。

 

「ひっ、人質でも何でもなります。だから撃たないで……」

 

 

 

 

 あげた両腕で頭を抱えてその場に蹲ることで心が折れた男を演じた。今の演技は倉織佳奈子に何点採けてもらえるのかと、ふと埒もないことが頭を過ぎる。四人のは数秒の間、栗花落に銃口を向けていたが、三人は直ぐに照星(フロントサイト)から外す。しかし残り一名は依然としてを居銃し、照準を栗花落の後頭部に合わせていた。一人が歩み出て、低くて重圧がかかる声で断りが入る。

「もう大丈夫です。犯人は逃走しました。今、保安庁の職員が船内に異常がないか調査中です」

 

「た、助かったんですね僕…… よ、よかったぁ~」

 

 研ぎ澄まされたプロの気配を消し、ごく自然に栗花落は安堵の溜息を出してみせた。が、は緊張感をまだ解いていない。

「すみませんが一応ボディチェックします」

 

 二人の隊員に両脇を持って立たされ、残る一人は手早くボディーチェックを始める。残る一人はまだ栗花落の後方から後頭部に照準を合わせている。

「その傷はどうされました」

 

「に、逃げるとき階段から転げ落ちたときに──」

 

「そのわりに服汚れてませんね」

 

 間髪を入れず矛盾点をついてくる。が、栗花落も怯えたふりをしながら即答した。

「さ、さっきまで怖くてトイレの中に隠れて──そ、その──汚れはそこで払いました。う、嘘じゃないです。僕は島根女子高の教師で栗花落といいます」

 

 名刺を胸ポケットから出そうとして、素早く手首を隊員に押さえられる。が、名刺と確認できて手を自由にしてもらった。

「失礼しました。今、乗客乗務員の皆さん全員に三階の展望デッキに集合頂いてます。そこで簡単に事情聴取させて頂くことになります。あと今後の捜索についてご協力願うための説明を行いますので、そちらに今からご足労願います」

 

 言葉は丁寧だったが、有無を言わさない威圧感がある喋り方だった。栗花落はここでやっと解放される。最後までを構えていた隊員が銃口を天井に向けた。

「爆発物がないか確認作業を行っていますので船内には戻らないでください」

 

 黒いフルフェイスマスクの隊員がくぐもった声で栗花落に階段の上を指図した。以前殺気だった眼差しは変わっていない。

「わ、わかりました。ありがとうございます」

 

 栗花落はわざと覚束ない足取りで階段を上がっていった。その背中を視界から消えるまで見送っていた隊員の一人がマスクを外す。最後まで栗花落に銃口を向けていた隊員だった。そして大きく深呼吸して仲間に問いかけた。

「今の素人じゃねぇだろ……」

 

「だとしても今は構うな。船内の安全確保が優先だ」

 

「微かだが窒素酸化物の残臭がした」

 

「マスク越しにか」

 

「いや確証はない。時間を取らせた。急ごう」

 

 その隊員はマスクを再び付け直し、今やるべき安全確保のため急いだ。統率された小さな足音が聞えなくなるまで栗花落は階段の途中で止まっていた。

(どうやら見逃してくれたか……)

 

 内心そう呟き、今度は本当に階段を上がりだした。

 客室甲板まであがり左舷をみると海上保安庁の型巡視船『さんべ』(総トン数一九五トン・全長四六メートル・乗員一五名)が、今まさに接舷しようとするところだった。

 フェリー隠岐の乗務員は巡視船『さんべ』の接舷作業に協力するため持ち場についている。その作業を歓声をあげながら見物する女生徒や乗客で二階から三階の展望(避難)デッキはごった返していた。 

 変装を戻した栗花落は乗り込んで来ようとする海保職員に向け怒鳴った。

「銃で撃たれた負傷者がいます 出血が酷いのでヘリで本土に搬送できませんか」

 

「何名ですか」

 

 『さんべ』の甲板にいた職員の一人が応える。

 

「二名です 倉織源太郎と茂木杏菜 茂木は外傷はないですがショックで気絶したままで──」

 

 人垣の中からそう叫んだのは佳奈子だった。気丈にも必死に傷の状態を海保職員に説明し始める。栗花落は乗り込んでいた海保職員の一人をつかまえ、救助体制を確認しブリッジに犯人グループの一人を捕まえてると報告すると、

「ヘリがもう二機こちらに向かってます。それで要救助者を搬送します。応急処置は終わりましたか

」

「一通りは あと何分で着きますか」

 

「分程で それからまもなく巡視船『きそ』(工作船事案発生時に編成される機動船隊の指揮船・総トン数 一八〇〇トン・全長 九五メートル・乗員三〇名)が到着予定です」

 

 栗花落は色々と言いたいことはあったが、全て飲み込んで謝辞を述べた。

「ありがとう。ほんとによく来て下さいました。くれぐれも負傷者の搬送を最優先でお願いします」

 

 海保職員を両手で力強く握りしめその場を離れ、倉織源太郎の容態が気になり一階の作業甲板に駆け下りる。人垣をかき分けかき分けて輪の中心を覗き込むと、自分の制服が血で汚れるのことなど気にせず、横たわった初老の男の手当をする二人の女子高生がいた。

 星野委員長と包帯から滲み出る出血を手で必死に押さえ、平沢は泣きながら何か訴えかけていた。

「クララパパぁ、死んじゃやだ~ 死んだらクララも私も超泣くし~ 頑張ってよ~」

 

 

 

 

 平沢は小さな子供のように泣きながら、剃り上げたスキンヘッドをさすっている。栗花落はしゃがんで、その平沢の頭をくしゃっと撫でながら力強く語りかけた。

「倉織さん すぐヘリが来ます。もう大丈夫ですよ。だから気を確かにもってっ」

 

「先生~ 今までどこ行ってたのよ~ クララもモギリンもたいへんだったのに~」

 

 ベソかきながら平沢は抗議すると、それを引き継いで星野も

「先生 どこで何してたかは後できっちり追求してあげますから、だから、この血なんとかしてよ 血が流れすぎて──」

 

 言葉を詰まらせる星野の目に涙がにじんでいる。

「瑠璃っぺ…… 平沢ちゃん。心配してくれるのは有難いが……なんか儂……すぐ死んじまうように聞こえるぞ。おいちゃんは頑丈だけが取り得だから……そう簡単に死なねぇよ。 だから泣くな……」

 

 源太郎は娘の幼馴染み達に笑顔をつくり手をあげて元気を見せつける。そして荒い息のなか栗花落に視線を移す。

「……先生、あんがとよ娘らを助けてくれて……」

 

「いえボクはなにも…… 面目ないです。じつは怖くて、どうしようもなくて、ずっとトイレに隠れてました。ボクは臆病で卑怯者です。教育者失格です」 

 

「そうかい……」苦しい息遣いのなか源太郎は栗花落のため相槌を打ってやった。

 

「「……」」

 

 それを聞いた星野と平沢だったが何故かいつものように栗花落を責められなかった。

 栗花落の表情に今まで見たことない苦悶の表情が見て取れたからだろうか。何か違う、と二人は直感していた。なにか大事なことが今、隠されたのだと。

(もしかして栗花落先生がビンゴゲームでみんなを呼び寄せたのは、クララパパの指示で)

 

 星野は一瞬そう感じたが黙考してる時間など今はない。ただ自分たちも含めクラスメイト達もオタ教師と揶揄していたこの大人が、二階に人を集めたのは事実だ。そうでなければ人的被害はもっと多く、間違いなく大惨事になっていた。

 いつもポーカーフェースの栗花落が珍しく苦悶を顔に出した訳が何だったのか。

(いつか……かならず暴いてやる)

 星野は嗜虐的な衝動に囚われる。

「お役に立てず……すみませんでした」

 

「んなことはねぇ…… 死人も出てねぇし…… くっ、み、みんな大した怪我もしてねぇ。 誰も拉致られなかったしな……」

 

 苦痛に顔を歪めながら源太郎は努めて明朗に受け答えしようとしている。

「もう喋んないでよ~ クララパパは大した怪我だよ~」

 

 平沢がべそかきながら一応つっこみを入れる。

「ハハハ…… ちげぇねぇ……」

 

「みんなが助かったけど、倉織のおじさまが助からなきゃ意味ないです……」

 

 星野は血が滲み出る包帯をガーゼで押さえながら源太郎を気遣う。

 

「そうだよ…… そんなことになったら、あたしわんわん泣きまくってやるから」

 

「まいったな…… こりゃますます死ねねぇ……」

 

 平沢もなんとか元気づけようと脅したり泣き落としたりする。星野と平沢にとっても源太郎は昔っから頼りになる大人の一人だった。子供の頃、接したのは僅かな期間だったが、星野、平沢、そして茂木らにとって忘れ難い想い出が刻み込まれている。

 小五の夏休み、海水浴に連れていってもらった時のことだ。佳奈子と四人で乗ったゴムボートが沖に流され皆大声で泣き叫んでいるとき、突然海面から海坊主のような頭が現れてボートを砂浜まで引いて泳いでくれた。その後こっぴどく叱られたが、四人とも子供心に海の怖さを教えてくれているんだと理解できた。

 怒られたあと五人で海の家の焼きそばを食べ、ラムネを飲んで大声で笑い合った。後にも先にもこんな美味しい焼きそばを食べたことはない。それが五人の数少ない共通体験だった。

 平沢、星野、茂木の三人は反抗期に入ったとき、自分たちの両親の言うことを聞かなくても、源太郎だけには恭順の意を表するようになっていた。

 いつのまにか佳奈子がその場に帰っていた。

 

「父さん あと四分でヘリが来るって。それまで頑張らないと助からないよ」

 

「心配すんな…… 儂も佳奈も…… この三人にもう助けてもらった。……瑠璃っぺや……平沢ちゃん……茂木ちゃんに……もう……救われてんだよ……」

 

「な、なに言ってるのかわかんないし…… もぎりん、ここにいないし なに死にそうな顔してんのよ しゃきっとしてよ 友達の前で恥ずかしいじゃない そんなとこで寝てないで起きてよ」

 

 栗花落は今の言動で源太郎の意識が混濁しかけていると気づき焦る。

 

「クララ…… 駄目。 傷口にさわるよ」

 

 

 

 制止する星野を無視して佳奈子は父親の身体を無理に起こそうとしたが、栗花落に静かに止められた。そこへ担架をもった海保の隊員が二名、人垣を割って現れる。

 何処かで誰かが「ヘリが来た」と叫んだ。

 本当なら一刻を争うときに嬉しい誤算だと思ったが、先につり上げ救助の準備が先決だと栗花落は海保の隊員を注視する。

 まわりの野次馬は一斉に水平線を見渡しヘリを捜す。

 担架が源太郎の横に置かれ、隊員らはそっと源太郎の身体を持ち上げ、その下に栗花落が素早く担架を滑り込ませる。ゆっくりと隊員たちは源太郎を担架の上に下ろした。

 ヘリで担架をつり上げる為、身体をベルトで担架に固定する作業が始まった。栗花落は佳奈子に邪魔にならないように少し下がるように促す。

 MHみほづる号が数分でフェリー隠岐の頭上に到来しホバ─リングが始まった。

ローターの爆音とダウンウオッシュが作業甲板を襲う。その凄まじさは、自然の暴風がコンスタントな強さで吹いてくるようだ。ぼーっと立っていたら飛ばされてしまいそうな猛烈な風圧だ。

 作業甲板にいた女生徒や乗客のほとんどが慌てて船内に逃げ込む。それでも外に居残った者も海保隊員の指示で船内に入るように促された。海保のヘリも危険なので一時的に左舷海上に移動してホバーリングする。ダウンウォッシュが海面に激しく叩き、水煙を巻き上げ綺麗な虹を作っている。だが誰もそれを鑑賞する余裕などない。

 結局甲板に残ったものは数人の海保隊員と倉織源太郎の関係者だけになる。

 頭上から横から後からあらゆる方向から暴風に晒されている。上空からワイヤーが降りてきて隊員たちが素早く担架に固定して合図する。

 潮臭い飛沫を伴った海風とダウンウオッシュが顔に吹き付ける。吹き乱された髪が耳にかぶさり眼前で暴れ回っている。制服のスカートは風にあおられめくり上がりそうになる。佳奈子と星野と平沢はそれを直そうともせず、吊り上げられていく担架を見守っていた。

 急に佳奈子が近くの海保隊員に同行できないか聞き始めたが栗花落は思い止まらせようと爆音のなか大声をあげる。

「倉織さん お父さんは今から松江赤十字病院に搬送されます ここから直線距離で四〇キロもないです 海保のヘリは時速三一〇キロで飛ぶから分弱で着きます ところがもう一度ワイヤーを下ろして君をつり上げ、収容するのに一〇分はかかる お父さんのことは心配なのは分かりますが今は一分一秒が貴重です 向こうではお母さんが赤十字病院に向かわれています ここは辛いけど我慢して見送ってあげましょう」

 

 ど正論だったが、佳奈子は聞かない。

「そんなこといってもしものことがあったらどう責任とってくれるのよ 役立たずのくせして──」

 

「くららっ 栗花落先生の言う通りよ 冷静になりなさい」

 

 佳奈子を我に返らせる声が聞えた。

 

「も、もぎりん……」

 

 そこには頭に巻いたタオルをスカーフのようにはためかせた茂木杏奈が強風のなか毅然とした態度で立っていた。

「だって…… だって…… 父さんが……」

 

 絞りだすような声のあと佳奈子の風圧に押され膝はかくんと折れてその場に尻もちをついた。傍らの海保隊員へ栗花落が目顔で合図を送ると隊員は即座に両腕を上げて合図を送った。ホバーリングしていたMHみほづる号はゆくりと機首を松江市に向け飛び去っていく。瞬く間に風が穏やかになり、あれだけ喧しかったヘリのローター音も次第に遠ざかっていった。

 佳奈子は力なく顔を上げると三つの幼馴染みの顔が覗き込んでいた。小五のとき虐められて泣きじゃくって、泣き疲れて茫然自失になったときと同じだった。この三人は佳奈子を捜し出しては、こんな風に覗きこんでくれた。

 いつも星野と平沢が両脇から抱えて、へたりこんだ佳奈子を立たせ四人で肩を組み合い円陣をつくる。そしてぐりぐりと四人で頭を突き合わせ押し合うのだ。まるでオス山羊がヒエラルキーを決定するために頭突きを繰り返すように。 

 もちろん彼女たちは自分の序列を決めたいわけじゃない。これが四人のなかで誰かが落ち込んだとき、支えになったり励ましたりするときに行う儀式になった。それを高校生になって初めて再開したのだ。

 だが当事者の佳奈子は子供に退行したようにぐずっていた。

「くらら、これから一番早く市内に帰れる方法をみんなで考えるからもう泣かない」

 

「……うん」

 

「海保の人にお願いしてみるってのはどう」

 

「それならさっき私のルートで打診してるから」

 

「でもこれから事情聴取とかやるっていってたよ」

 

「そんなの無視無視。家族が怪我して病院に担ぎ込まれてるときに、つきあう必要なんかない。だって目撃者いっぱいいるじゃん」

 

 その傍らで存在を完全に無視されたように栗花落は捨て置かれていた。しかし当人は、そんなことは全く気にせず、一瞬慈しむような眼差しをその四人に投げかけた。まるで今この瞬間を生涯の記憶として刻み込むかのように……

 時折、肌寒い海風が四人の身体をなぎっていくが、心も体も凍えさせることは出来なかった。午後の陽光は眩しく暖かく、今まで何事もなかったかのように穏やかに甲板に降り注いでいた。

 

 

(続く)

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