窓際の光は、白からオレンジに変わりつつあった。
机の列に影が伸び、部屋は少しずつ夜に傾いていく。
壁の時計が静かに刻む音だけが響く。
一年の篠崎 蓮は、ホチキスの針を入れ替えていた。
角がずれて、やり直す。もう一度。
几帳面というより、不器用さがにじむ仕草だった。
「……丁寧ね。さすが一年生」
顔を上げると、三年の七草 真由美が頬杖をついて笑っていた。
七草家の紋が刻まれた銀のペンを指でくるりと回す。
軽い仕草なのに、目は柔らかく、空気を解くようだった。
「七草先輩が残っているのに、僕だけ帰れませんよ」
「真面目ね。そういうところ、好きよ」
胸の奥で糸が張ったように震えた。
冗談めかしているのに、冗談に聞こえない。
蓮は綴じ終えた束を揃え、端を指で軽く叩いた。
机には過去の傷や鉛筆の跡が残っていて、妙に現実感がある。
「篠崎くん」
呼ばれて、姿勢が正される。
真由美は椅子を離れ、机越しにこちらへ近づいた。
絨毯に足音は吸われ、距離だけが胸に沈んでいく。
「ここ、少し見せてもらえる?」
「あ、はい。どうぞ」
机の端を空けると、真由美は収支一覧を広げ、
銀のペン先で要所をトントンと指した。
「合ってるわ。……ただ、メモの置き方を変えましょう。
後で見るとき、自分が迷わないように」
「後で見る自分……ですか」
「ええ。私は未来の自分に丁寧な人が好き。
篠崎くんは“今の自分”に丁寧。そこも好き」
“好き”が二度。軽いのに、重みを持つ音だった。
蓮は思わず視線を落とした。
窓の外を、運動部の掛け声が過ぎていく。
生徒会室に人はもういない。扉が閉まり、静けさが深くなった。
「みんな、今日は早いのね」
「大会前だそうです」
「そう。……篠崎くん」
真由美はファイルを閉じ、正面から見据えた。
“逃げ場を用意した上で選ばせる”ような眼差し。
「もし、私と付き合うとしたら――どうする?」
声は笑っているのに、瞳は真剣だった。
喉が渇き、境界線が目の前にある。
それでも、言葉は自然に出た。
「……断れるわけがありません」
思いがけず素直に。
真由美は目を細め、銀のペンを止める。
「そう。じゃあ決まりね。
今日から、あなたは私の恋人。もちろん――二人だけの秘密よ」
“恋人”。“秘密”。
軽々しくは持てない札を渡された気がした。
「秘密、ですか」
「ええ。三年と一年。生徒会長と一年生。
十師族と一般人 。
正しく扱わなければ、すぐ噂になる。
だから――守るために隠す。いい?」
「もちろんです」
「いい子ね」
頭を撫でられたような声音で、真由美は笑った。
重い書類箱が滑りかけた瞬間、真由美の手が蓮の手首を支えた。
温度と重心が重なり、落ちかけたものは静かに収まる。
「ありがとう、助かりました」
「どういたしまして。……少し緊張してる?」
「ええ、してます」
「正直ね。そういうところ、好き」
また心臓が跳ねる。自分でも笑いたくなるくらいに。
「手、貸して。――恋人の特権よ」
差し出された手に触れる。握り込まない、ただ重ねるだけ。
それでも確かに“ここにいる”と伝わる。
真由美は会長としての顔を崩さない。
だが会議が続いた日の放課後、ふと肩の線が落ちる。
その一瞬を、蓮だけが見ていた。
彼女は誰にも弱みを見せず、役割を守り続ける。
その姿を見て、蓮は自然に思った。
――支えたい。役職の外で、人として。
片付けを終えたあと、真由美が袖をそっと摘んだ。
「最後に、お願い。……抱きしめてもいい?」
断る理由はなかった。
「お願いします」
抱擁は短い。肩越しに伝わる心音は、蓮のものとは違う速さ。
離れた空気が冷たく、確かに温もりがあったことを思い知らせる。
「ありがとう。帰りましょう」
鍵が回り、夜の廊下が広がった。
校門を出ると風が冷たい。
並んで歩く手の甲がかすかに触れる。
触れたことを、互いに確認しない。
それが次の余白になる。
駅が近づき別れる時、真由美は正面から言った。
「これから、よろしくね。――私の恋人」
その言葉は静かに胸へ沈む。
「はい。……こちらこそ、よろしくお願いします」
尾灯が遠ざかり、夜が戻る。
蓮は深く息を吐いた。
“恋人”は、手に入れるものより背負うものに近い。
“秘密”は、隠すためより守るためにある。
校門を離れ、夜風に吹かれながら歩く。
携帯は鳴らない。けれど胸の鼓動が代わりに響いていた。
“秘密の恋人”という現実。
その重さと温かさが、蓮の中に確かに宿っていた。