ゲヘナ学園。
自由と混沌を校風とする、学園都市キヴォトスにおいて一、二位を争うマンモス校として有名な学園。
破天荒な性格な生徒から型破りな生徒まで多数の学生が在籍し、千差万別の価値観で形成される場は、些細な議論やトラブルから大きな騒動になることもあり、自治区含めてキヴォトスにおいて最も治安の悪い地区とされている。
自治区の各エリアで事故や事件が年間で百件を下回れば御の字という時点で、ゲヘナの治安の悪さが如何程のものかは理解できるだろう。
当然、治安を守る為の組織が問題に駆り出される事も多く、その中でもゲヘナ学園の風紀委員会はその代表例と言える。
ゲヘナ学園風紀委員会。
それは、ゲヘナ学園を風紀と治安を守る為に結成された組織であり、自由気ままなゲヘナにおいて数少ない常識枠とされ、同時に秩序と統制を重んじるゲヘナ唯一の組織とも言える。
ゲヘナ学園の風紀委員会の委員長を務めるのは、学園の中でも指折りの実力者にして、他校の間でも名を轟かせる少女。空崎ヒナがその任を担っている。
ゲヘナ風紀委員会のトップに君臨する彼女は、規律を遵守し、自らの責務を全うする責任感の強い少女であった。常に冷静沈着で無表情を貫き、言葉遣いも淡々としている為、周りからは近寄り難い印象を持たれるが、根は優しく思いやりのある心を持つ人物である。
彼女とはアビドスが抱える借金問題の最中に出会い、先生と生徒の立場でありながら共に困難を乗り越えてきた。今では信頼できる関係性を築き上げ、何かあれば互いに連絡を取り合う間柄になっている。
そんなある日、何時ものように仕事をしていた先生のもとに一通のモモトークが届いた。
「……ヒナ?」
送り主はヒナ。
『先生』
『突然ごめんなさい』
『力を貸して欲しいの』
モモトークには、端的に簡潔に用件が書かれていた。ヒナの口調は、いつも通りで落ち着いており、どこか淡々とした雰囲気を纏っていた。
ヒナが連絡をしてくること自体が珍しい。特に彼女から力を貸してほしいと頼まれる事は、今までになかった。その事実に一抹の不安を覚えたが、ヒナが助けを求めるということは、相当な事情があるのだろう。
先生はすぐに返事を打つ。
『どうしたの?』
『ゲヘナで問題が起きてる』
『詳しい話は直接話したい』
『もちろん、大丈夫だよ』
『ありがとう』
『待ってる』
モモトークのやり取りを終えると、先生は急いで支度を始めた。ヒナが助けを求める状況だ。一刻も早く駆けつけなければならない。身支度を整え終えると、先生はシャーレの扉を勢いよく開け放ち、外へ飛び出した。空を見上げると、どんよりとした雲が広がり、雨が降り出しそうな天気だった。
(ヒナ……何があったんだろう?)
胸騒ぎを覚えつつも、先生はゲヘナ学園へと向かうのであった。
ヒナからの連絡を受け、先生はゲヘナ学園の風紀委員会本部へ到着した。
行き交う風紀委員会の生徒達は何処か慌ただしく、忙しなく駆け回っている様子が見て取れた。普段と変わらない光景だったが、ヒナからの連絡の後だと何かが起こったのではないかと疑ってしまう。
「先生!」
すると、前方から聞き慣れた声が聞こえた。見れば、銀鏡 イオリが立っていた。
「イオリ」
「よく来てくれた。委員長が奥で待ってる。ついて来てくれ」
そう言って、イオリは先生を先導し、奥へと進んでいく。先生はそれに続き、本部の奥へと足を踏み入れた。
通路を歩いている途中、先生は周囲を会話に耳を傾ける。聞けば『温泉開発部の生徒が……』や『○○と連絡が……』など、様々な内容が聞こえてくる。やはり何かが起きている。だが、具体的な情報は掴めなかった。
程なくして、二人は一つの部屋の前に辿り着いた。その部屋の前で、イオリは立ち止まり、先生の方へと振り向く。
「ここだ。詳しい事は委員長から直接聞いてくれ」
「ありがとうイオリ。助かるよ」
礼を言うと、イオリは小さく頷き、踵を返して去っていった。彼女もまた、風紀委員としての職務に戻るのだろう。急ぎ足で歩いていく背中を見送り、先生は目の前の扉に向き直る。
扉をノックすると、中から『入って』と声が聞こえた。その声を合図に、先生は扉を開けて中に入る。
「やぁ、ヒナ。遅くなってごめんね」
室内に入ると、そこには書類の山に目を通すヒナの姿があった。その表情は硬く、鋭い眼差しで紙面を見つめている。彼女の凛々しさが際立つ一方で、その瞳には疲労の色が見え隠れしている。恐らく、連日徹夜で業務に追われているのだろう。
先生が入室した事でヒナの視線が書類から外れ、その双眸が先生に向けられる。彼女は小さく息を吐き出し、緊張を解くように肩の力を抜いた。
「先生、来てくれてありがとう」
ヒナは椅子から立ち上がると、先生に来客用のソファを勧めた。机を挟んだ反対側にあるソファに腰掛けると、ヒナも向かい合う形でソファに座る。
「早速だけど、連絡にあった事について教えてもらえるかな?」
「分かった」
ヒナは一つ頷くと、話を切り出した。
「まずはこれを見て」
そう言って、ヒナはタブレット端末を操作し、ある画面を表示させる。画面には、ゲヘナの生徒達の顔写真が並んでいた。
名前、学年、所属する部活などの個人情報が記載されており、写真の横には赤い文字で『失踪』と書かれている。
「っ……これは」
「失踪したゲヘナ学園の生徒達よ」
ヒナの言葉に、先生は驚愕する。
ゲヘナは他の自治区と比べ、トラブルの多い地区として有名だが、生徒が失踪するという事件が頻発するとは考えられなかった。
「失踪事件の捜査で、ゲヘナの風紀委員会の人員を総動員してるけど、成果は上がっていない」
ヒナは続けて説明する。
「失踪した生徒達の共通点はない。特に問題があった生徒……一部を除いてだけど、それでも失踪するような素振りを見せていた生徒はいなかった」
ヒナの言葉に、先生は考え込む。
失踪した生徒達に共通点がないということは、事件の目的が不明瞭である事を意味する。何者かの計画的な犯行なのか、あるいは偶発的な出来事なのか。現時点では判断がつかない。
「失踪した生徒の数は?」
「現在確認できているだけでも五名以上。これはあくまでも私達が調べて把握している人数だから、もっと多い可能性もある」
失踪した生徒の数は少なく見積もっても五名以上。だが、その数は氷山の一角に過ぎず、実際はもっと多い可能性があるという事だ。ヒナの表情は険しく、事態の深刻さを物語っていた。
五名以上も生徒が失踪しているという異常事態。ゲヘナ全体が混乱に陥るのは避けられないだろう。
「失踪事件以外にも、最近、ゲヘナで奇妙な噂が流れているの」
「噂?」
「そう。噂によると、ゲヘナの各地で怪しい人影が目撃されているらしいの」
「……人影」
「この噂は、失踪事件が起こる少し前から流れていたわ」
ヒナの言葉に、先生は眉を顰める。
ゲヘナで奇妙な噂が流れているという事は、事件と何らかの関係がある可能性が高い。失踪事件と謎の人影。二つの出来事が何らかの形で繋がっているのだとしたら、これは単なる偶然ではないだろう。
「人影についてはどんな噂が流れてるの?」
「それが……具体的な情報は殆ど無いの」
ヒナは首を振る。
「人影を目撃した生徒達の証言によると、スーツ姿の男性とも女性とも判断がつかない人物。体格的に言えば男性と推測できるらしいけど、具体的な特徴については、あまり情報が集まっていないわ」
「スーツ姿の男性?」
「えぇ。でも、顔はよく見えなかったらしい」
「顔が見えない?」
「そう。目撃した生徒達は、その人物の顔を見たと言っているけれど、顔の部分だけぼやけていて、よく覚えていないそうよ」
「…………」
先生は考え込む。スーツ姿の男性。顔が見えないという不自然な証言。これらの情報から一人の人物が浮かび上がる。
『黒服』……かつて先生と対峙した人物。ゲマトリアの一員にして、キヴォトスの神秘を追求する人物。
しかし、彼と彼が所属する組織は解散し、以降、彼の消息は不明となっている。だが、もしも彼が再び暗躍しているとすれば、今回の失踪事件に関与している可能性は高い。
そして、ヒナへと視線を向けると、彼女もまた、個人的に今回の事件にその人物が関わっているのではないかと推測していたのだろう。
先生を此処に呼んだのも、今回の事件に彼等が関わっているかもしれない可能性を考慮し、それを先生と共有する為のものだったのかもしれない。
先生は改めて、ヒナの言葉を反芻する。
「失踪事件と謎の人影。この二つの出来事は、何か関係があると思う?」
「分からない。でも、可能性はあると思う」
ヒナの言葉に、先生は頷く。
確かに、失踪事件と謎の人影の関連性は否定できない。もしも、この二つの出来事が繋がっているのだとすれば、事件の真相に迫る糸口になるかもしれない。
「私達も全力で捜査しているけど、現状では手掛かりが少なすぎる。だから、先生の力を借りたいと思ったの」
ヒナは真剣な眼差しで先生を見つめる。
これらの出来事は、ゲヘナ学園の風紀を乱す重大な脅威となり得る。ヒナとしては、出来るだけ早期に事件を解決したいと考えているのだろう。だが、現状では手掛かりが少なく、捜査は難航している。そこで、ヒナは先生に助力を求める事にしたのだ。
「分かった。私も協力するよ」
「ありがとう、先生」
申し出を受け入れてくれた先生に、ヒナは安堵したように微笑む。
その笑顔は、普段の彼女からは想像できないほど柔らかく、優しかった。
それは、彼女が先生に対して心を開いている証拠でもある。
「早速だけど、ヒナはこれからどうするつもり?」
「まずは、ゲヘナ全域に警戒態勢を敷くわ。これ以上、失踪者が出ないように」
「失踪事件の捜査は?」
「平行して進めながら、怪しい人影の目撃情報を集める。何か分かったら、すぐに連絡するわ」
「分かった。私も出来る限りの事をするよ」
「頼りにしてるわ、先生」
ヒナは再び微笑み、先生に協力を約束した。
こうして、失踪事件の捜査は始まった。
ゲヘナ全域に警戒態勢が敷かれ、失踪者の捜索と謎の人影の目撃情報の収集が行われる。だが、事件の真相に繋がる決定的な手掛かりは、なかなか見つからない。
そんなある日の事だった。
ゲヘナの風紀委員会本部に、衝撃的な報告が舞い込んだ。
「ヒナ委員長! 大変だ!」
血相を変えたイオリが、息を切らしながら駆け込んできた。
「どうしたの? イオリ」
ヒナは驚きつつも、冷静に尋ねる。
「失踪していた生徒が見つかったんだ!」
「っ!」
その報告に、ヒナは目を見開く。
失踪していた生徒が見つかった。それは、事件の解決に大きく近づく可能性を秘めた出来事だった。
「どこで見つかったの?」
「ゲヘナ郊外の廃工場跡地だ」
「……廃工場跡地」
ヒナは思考を巡らせる。
廃工場跡地といえば、以前は不良グループが溜まり場にしていた所だが、風紀委員会が取り締まりを行い、今は誰も寄り付かない場所となっている。そんな場所に失踪していた生徒が見つかったという事は、事件との関連性が高い。
「生徒の容態は?」
「命に別状はない。でも、かなり衰弱している。詳しい話はまだ聞けていない」
「……そう」
ヒナは表情を曇らせる。
失踪していた生徒が見つかったのは朗報だが、彼女がどのような状況に置かれていたのか、詳細は不明だ。他の生徒達も無事である事を願うばかりだが、最悪の事態も想定しておく必要がある。
「先生にも報告した方がいいわね」
「そうだな。すぐに連絡する」
イオリは頷き、携帯端末を操作し始める。
その姿を横目に、ヒナは再び考え込む。
失踪していた生徒が見つかったという事は、事件の捜査に大きな進展があった事を意味する。だが、同時に新たな謎も生まれた。失踪した生徒がどのようにして犯人から逃げ果せたのか。
これまで、一切の情報がなかった事から、犯人が何らかの方法で生徒達を監禁していた可能性が高い。だが、その監禁場所から生徒が脱出できたという事は、犯人の監視体制に隙があったのか、あるいは、何か予期せぬ出来事が起こったのか。
(……あるいは、それこそが罠か)
いずれにせよ、失踪事件の捜査は新たな局面を迎えた事は間違いない。
ヒナは改めて、事件の真相究明に向けて動く決意を固めるのであった。
……と、彼女は推測するものと思われる。
これは事件解決の糸口であり、それと同時に罠でもあると。
此処までは計画通り。
全ては私の証明通りの結末となった。
ゲヘナで事件が起これば、空崎ヒナは必ず動き出す。
事件を解決する為に奔走し、シャーレの先生に協力を要請するだろう。
予想通り、彼女は先生に連絡を取り、協力を求めた。
かつての同胞……黒服の姿を模した事も、彼女が先生の協力を仰ぐための布石であり、予想通りの行動をしてくれた事に満足感を覚える。
シャーレの先生と空崎ヒナが接触し、協力関係を築く。それは、彼等にとって希望となるが、同時に絶望への第一歩でもある。
空崎ヒナは聡明な人物だ。だが、彼女には一つ弱点がある。
それは、シャーレの先生に対する信頼。彼女の行動原理は、先生を守る事にある。
そして、それは私が求める『証明』の完成には欠かせない要素でもある。
空崎ヒナは、シャーレの先生を守る為に、危険を顧みずに行動するだろう。
それが、彼女の破滅へと繋がる事になるとも知らずに。
さぁ、幕は上がった。
ここからが、本当のショーの始まりだ。
愚かなる傀儡達よ、踊り狂え。
この物語の主人公は、彼等ではない。
私こそが、この物語の主役なのだ。
私はただ証明する。
人類の愚かさを。
私の存在意義を。
『証明』とは、結果に過ぎない。
過程などはどうでも良い。
大切なのは、結果を齎す為の過程なのだから。
シャーレの先生と空崎 ヒナが絶望に染まる瞬間。
悲鳴を上げる姿。
涙を流す表情。
それら全てが、私の『証明』の糧となる。
空崎 ヒナよ。貴女は理解しているのだろうか?
事ここに至り、先生とは貴女にとっての足枷となる事を。