ゲヘナ郊外の廃工場跡地。
そこは、かつて不良グループが溜まり場にしていた場所だが、風紀委員会の取り締まりにより、今は誰も寄り付かない廃墟と化していた。だが、今は違う。失踪していた生徒が発見された場所として多くの風紀委員が集まり、現場検証が行われている。
その廃工場跡地に、シャーレの先生とゲヘナ風紀委員会の委員長である空崎ヒナが訪れていた。
「ここが、失踪していた生徒が見つかった場所か」
先生は廃工場跡地を見渡す。
荒れ果てた建物、錆び付いた機械、散乱するゴミ。まさに廃墟といった様相を呈している。
「えぇ。風紀委員会の捜査によると、この場所に複数の人間が出入りしていた痕跡があるわ」
ヒナは冷静な口調で説明する。
「失踪した生徒達も、恐らくこの場所に監禁されていたと思う」
「…………」
先生は無言で頷く。
失踪していた生徒が見つかった事は朗報だが、同時に別の問題も山積みである。
捜査の結果、此処にいたのは発見された生徒だけで他の生徒の姿はない。
出入りこそあったものの、それ以外の痕跡は見つからなかった。まるで、忽然と姿を消したかのように。
「ヒナ、これからどうするの?」
「話を聞いてみるわ。何か手掛かりが掴めるかもしれない。まだ、話せる状態ではないかもしれないけど」
発見された生徒は、現在救急医学部によって治療を受けている。意識は回復しているが、まだ衰弱しており、話せる状態ではない。
「分かった。私も同行するよ」
「助かるわ」
ヒナは短く答える。先生とヒナは、救急医学部が設置した仮設病院へと向かった。
救急医学部が管理する仮設病院は、廃工場跡地から少し離れた場所に設置されていた。テントが張られ、簡易的なベッドが並べられている。そこには、失踪していた生徒が寝かされていた。
「先生、ヒナ委員長」
救急医学部の生徒が、二人を出迎える。
「患者の容態は?」
「命に別状はありません。ですが、まだ話せる状態ではありません」
「……そう」
ヒナは表情を曇らせる。
生徒の容態は芳しくない。失踪していた期間が長かったせいか、体力が著しく低下している。このような状態では、まともに話せるとは思えない。
「彼女は何か言ってなかった?」
「いえ、何も。ただ、時折譫言のように何か呟いているようです」
「譫言?」
「はい。内容までは分かりませんが、ずっと同じ言葉を繰り返しています」
「…………」
ヒナは考え込む。
失踪した生徒が譫言のように呟いている言葉。それは、事件の真相に繋がる重要な手掛かりかもしれない。
「……先生、一度確認してみましょう」
「……大丈夫?」
先生の問いかけに、ヒナもまた頷く。
「彼女に負担がかからない程度にね」
「分かった」
ヒナは頷き、ベッドに横たわる生徒に近づく。
生徒は酷く衰弱した様子で眠っていた。顔色は青白く、呼吸も浅い。その姿は痛々しく、見るに堪えない。
近くに備え付けられていた椅子に座り、先生とヒナは生徒の様子を伺う。
すると、瞼が僅かに開き、続いて唇が微かに動いた。
「……誰か……助けて……」
生徒は譫言のように呟いた。
その声は、か細く震えていた。
「……怖い……怖いの……」
「…………」
ヒナは生徒の言葉に耳を傾ける。
彼女の言葉は、単なる恐怖だけではない。何か、深い悲しみと絶望が感じられた。
「誰か……助けて……」
生徒は、何度も同じ言葉を繰り返す。
まるで、誰かに助けを求めているかのように。
「…………」
ヒナは生徒の手を握る。
その手は冷たく、生気が感じられない。
「……安心して。貴女はもう安全よ」
ヒナは優しく囁く。すると、生徒の目から涙が零れ落ちた。
それは、まるで堰を切ったように溢れ出し、頬を伝って枕を濡らしていく。
「うぅ……うう……」
生徒は嗚咽を漏らす。
その姿は、とても痛々しく、見るに堪えない。
「辛かったでしょう。でも、もう大丈夫よ」
ヒナは生徒の頭を撫でる。
その手つきは優しく、慈愛に満ちていた。
生徒は暫く泣き続けた後、やがて静かに眠りについた。
「……先生」
ヒナは先生に視線を向ける。
「あの子は、何かに怯えていたわ」
「…………」
先生は頷く。
「失踪していた間に、何か恐ろしい目に遭ったのかもしれない」
ヒナは再び考え込む。
彼女が恐怖した原因は何なのか。失踪していた間に、一体何があったのか。
それは、事件の真相に繋がる重要な手掛かりかもしれない。
「……セナに彼女のカルテを見せてもらえば何か分かるかも」
直接彼女の状態を確認したセナや救急医学部の生徒ならば、先生やヒナの知らない情報が得られるかもしれない。
「そうだね。お願いできるかな?」
「えぇ。勿論よ」
ヒナは頷き、セナの元へと向かった。
その後、セナからカルテを見せてもらった結果、いくつかの事が判明した。
まず、生徒の身体には暴力や乱暴といった外傷は見受けられなかった。
その代わり、彼女の腕には注射痕のようなものが残されていた。
「注射痕?」
「えぇ。腕に数箇所、針を刺したような痕が残っています」
セナはカルテを見ながら説明する。
「……薬物?」
「その可能性も考慮して血液検査を行いましたが、現在判明している薬物は検出されませんでした」
注射痕があるという事は、何らかの薬物を投与された可能性がある。だが、血液検査の結果、そのような薬物は検出されなかった。
「……彼女は、何らかの実験台にされていたのかもしれませんね」
セナは淡々と告げる。
その言葉に、先生とヒナは息を呑む。
実験台。その言葉は、先生の脳裏に過去の記憶を呼び起こさせる。
アビドスの借金問題を解決する為に小鳥遊 ホシノが黒服と契約し、神秘の探求・研究という名の人体実験を行おうとした出来事。あの時は、様々な学園の協力を得てなんとか事なきを得たが、同じような事が実験がゲヘナでも起きている可能性がある。
「実験台って……一体、何の為に?」
「それは分かりません。ですが、可能性の一つとして考えられます」
セナはカルテを閉じる。
「今は、彼女の容態を安定させる事が最優先です。詳しい事は、彼女が回復してからでないと」
「……分かった」
ヒナは頷く。
「彼女は目覚めた時に『怖い』と言っていた」
「……そうだね」
「彼女が恐れていたのは、実験だったのかもしれない」
「…………」
ヒナの言葉に、先生は沈黙する。
失踪していた生徒が恐れていたのは、実験だったのかもしれない。もし、その仮説が正しいとすれば、今回の事件は非常に深刻な事態である。
「失踪した生徒達は、何らかの実験に利用されているのかもしれない。今も、何処かで」
先生は拳を握り締める。
「彼女達を助ける為にも、事件の真相を突き止めないと」
「えぇ。必ず」
ヒナは力強く頷く。
「まずは、周囲の監視カメラの映像を確認しよう。何か手掛かりが掴めるかもしれない」
「それと、医療関係……特に機材や薬品の流れを洗ってみるわ。それと、機材が何処かに搬入されているとしたらその情報が何処かに残っているはず」
郊外の廃工場跡地とはいえ、人の出入りがあった以上、周囲の地区の監視カメラに何かしらの情報が残っている可能性がある。加えて、仮に何かしらの実験を行っていたとなれば、その為の機材や薬品の運搬に関する情報が残っている可能性もあるだろう。
製薬会社や関連企業。機材の搬入や輸送ルートの特定、或いはそれらが行われる際に派遣された業者。そういった情報があれば、犯人の特定に繋がる可能性がある。
無論、失踪した生徒の容態を確認した事で、ヒナは1つの核心を得ていた。
これは罠であることを。
目的は自分か、或いは先生のどちらか。
この場合、先生の可能性が一番高い。
ゲマトリアと思わしき人物による誘拐騒動。そして、生徒達を人体実験に利用する傍らで、自分達の情報を敢えて漏洩させた事。この一連の流れから、ヒナは事件の目的が先生であると確信した。
(……罠なら、必ず何処かに隙がある)
ヒナは思考を巡らせる。
犯人は、巧妙に罠を仕掛けている。だが、完璧な計画など存在しない。必ず、何処かに綻びがある筈だ。
それを見つけ出し、逆に利用する。
(絶対に、先生を守る)
ヒナは決意を新たにする。
今回の事件は、ゲヘナの風紀を乱すだけでなく、先生の命を脅かす可能性もある。彼女にとって、先生は守るべき存在であり、失ってはならない存在だ。
だからこそ、ヒナは犯人を捕らえ、事件を解決しなければならない。
エデン条約では、最後まで守り抜く事は出来なかった。
しかし、今度こそ彼を……先生を守り抜く。
絶対に。
先生とヒナは、それぞれの役割を果たす為に動き出す。
廃工場跡地での調査、監視カメラの映像解析。そして物流の流れ。それぞれの情報を照らし合わせ、事件の真相に迫る。
時間は刻一刻と過ぎていく中、二人は漸く、失踪事件の犯人に繋がる有力な手掛かりを掴む事に成功したのだ。
それは、ゲヘナの郊外にある研究所の存在だった。
「研究所?」
「えぇ。既に潰れているけど、廃墟と化した建物に、複数の人間が出入りしている痕跡があったわ」
ヒナは手に持った資料を提示する。
そこには、廃墟となった筈の建物に複数の大型トラックが行き来する写真が添付されていた。
薬品や医療機器の搬入を示す帳簿や、廃墟と化した筈の建物に大量の電力が供給されている事を示す領収書など、様々な証拠が記載されている。
「周辺の監視カメラの映像から、複数の人間が出入りしている事も確認できたわ」
「……それは、つまり」
「えぇ。恐らく、その研究所が事件の拠点になっている可能性が高いわ」
「なるほど」
先生は頷く。
監視カメラの映像から、複数の人間が出入りしている事は明らかだ。廃墟と化した筈の建物に、なぜ多くの人間が出入りしているのか。その理由は、研究所が犯人達の拠点になっている可能性が高い事を示唆していた。
「……先生」
と、これからどうすべきかと考えていた先生に、ヒナが声をかける。
「正直に話すと、これは罠の可能性が高い」
失踪した生徒が発見された事から端を発し、自分達が欲した情報が揃う。偶然にしては出来すぎている。そこから導き出される答えは明白だった。
「この研究所が拠点だとすれば、犯人達は私達の動きを把握している可能性が高い。そして、その上でわざと情報を漏洩させた」
「……つまり、私達をおびき寄せようとしている?」
「えぇ。研究所を襲撃してくると予想しているはず」
ヒナの言葉に、先生は考え込む。
犯人達は、わざと情報を漏洩させ、自分達をおびき寄せようとしている。それは、罠を仕掛ける為の策略だろう。
「犯人達の狙いは、先生、貴方だと思う」
「…………」
先生は無言で頷く。
ヒナの推測は正しい。犯人達の狙いは、先生である可能性が高い。しかし、それを回避する術はない。
「先生、私から提案がある」
「提案?」
「犯人達は、私達が研究所を襲撃すると予想している。先生が指揮する風紀委員会を相手にしても、勝算があると考えているのよ」
犯人達は、先生達が研究所を襲撃すると予想している。そして、風紀委員会を相手にしても勝てる自信があるのだろう。
「だから、敢えてその罠に乗る」
「乗る?」
「えぇ。風紀委員会を率いて、研究所を襲撃する。ただし、それは陽動」
「陽動?」
「えぇ。風紀委員会が研究所を襲撃している間に、私と先生は別のルートから奇襲をかける」
そう言って、研究所の見取り図を取り出し、ヒナはそれを広げる。
そこには、研究所の構造や配置などが詳細に記載されていた。
「この研究所は、正面の入り口以外にも、地下に物資運搬用の通路がある。そこから侵入すれば、敵の裏をかくことができる」
ヒナの作戦は正面から風紀委員会が攻め込み、敵の注意を引きつける。その間に、ヒナと先生が地下通路から侵入し、内部から攻撃を仕掛ける。これなら、敵の不意を突く事ができるだろう。
そして、奇襲をかけるとしたら、自分が最も適任だとヒナは考えていた。
少数でありながら精鋭。そして、自分の強さは誰よりも理解している。
風紀委員会のメンバーを連れて行くという選択肢もあるが、その場合、彼女達の身に危険が及ぶ可能性が高い。それに、人数を増やせば敵の警戒心を高める事にも繋がる。
リスクを最小限に抑え、成功率を最大限に高める為には、ヒナと先生の二人で奇襲をかけるのが最善策だ。
「……分かった。その作戦で行こう」
先生はヒナの提案を受け入れる。
「その代わり、危険だと判断したら直ぐに撤退する事。それが条件だよ」
「勿論。その時は先生を連れて、安全な場所まで避難するわ」
もとより先生を危険に晒すつもりはない。
本来なら、先生が風紀委員会の皆を指揮してくれた方が戦力的には効率的だろう。しかし、今回の場合、先生の安全を確保する事を最優先にしなければならない。
そして、自分と他の風紀委員会のメンバーで先生の安全を天秤にかけた際、天秤は迷う事なく自分の方に傾いた。
だからこそ、ヒナは先生と共に奇襲をかける事を選んだのだ。
「それじゃあ、決行は明日の夜。私達の準備が整い次第、襲撃を開始する」
「分かった。皆もだけど、ヒナも無茶はしないでね」
「……っ」
その言葉に、ヒナは思わず頬を緩める。
自分の事を気にかけてくれる。その言葉だけで、十分だった。
「……分かってる。約束するわ」
先生の優しさに触れ、ヒナは非常時だというのに心が温かくなるのを感じた。
その夜、先生とヒナは最終的な打ち合わせを行う。
作戦の細部を詰め、それぞれの役割を確認する。そして、翌日の夜、計画は実行に移されるのであった。
罠であると知りつつ、それでも乗り込んでくる。愚かであると同時に、勇敢でもある。
だからこそ読み易い。
先生達の行動は常に予測可能だ。
研究所の警備は万全だ。武装した兵士達が、厳重に警戒している。研究所内には、様々な罠が仕掛けられており、風紀委員会は一歩たりとも近付けないだろう。
だが、そんな事は彼にとって些細な問題に過ぎない。
彼の目的は、研究所を守り、二人を退ける事ではない。
先生と空崎ヒナを、絶望の淵に叩き落とす事。
それこそが、彼の求める『証明』なのだ。
そして、計画は順調に進行している。
その為の『手駒』も用意した。
万が一の為の保険も用意した。
全ては、彼の思惑通りに進んでいる。
彼は笑みを浮かべる。
これが終わりではない。
始まりなのだ。
ここから、全てが始まる。
彼の求める『証明』は、これから達成されるのだ。
空崎 ヒナ。彼女は間違えていない。
彼の狙いは確かに先生である。
しかし、それと同時に、彼女自身も標的なのだ。
此処から先はカードの切り合いである。
手持ちの手札を如何に使い、相手の予想を上回るか。
戦力という意味合いでは、彼女に勝る戦力は存在しない。
圧倒的な暴力は、時に全てを捻じ伏せる。
だからこそ、彼女自身が敗北する事はない。
そう信じている。
しかし、それが間違いである事を、彼女は理解していないのだ。
誰しもが弱みを抱えている。
それは彼女も例外ではない。
彼女だからこそ、その弱みは致命的なものとなり、鋭い牙で彼女を喰らい尽くす。
空崎 ヒナ。君は気付いていない。
自分がどれ程の弱みを抱えているのか。
そして、その弱みこそが、君の最大の弱点である事を。
彼は嗤った。
此度の証明の為に用意した自身の手駒を従えながら。そして、彼は静かに呟く。
「さぁ、ゲームを始めよう。これは私の証明が正しかった事を示す物語だ」
その表情は、何処までも邪悪で禍々しかった。