※この作品はR-18です。

君に死んでほしくなかった。   作:道理通す

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あなたはだれかを好きになったことがありますか?

私はあります!

改訂:2025/10/09


恋バナしようぜ、少年。

 思い出せないものみたいなものが、きっとだれにでもあるんじゃないかな、と思う。すぐに湧いて出てきたことばを並べるならたとえば、頬を叩きながら叱る母の言葉とか、好いた人にかけられた笑顔の仔細とか。ひとりひとりの心が、知らない間に、もう思い出したくないからそっと小さなキューブ状にして、そっと部屋の隅に置いておく。そうするための心の仕組みが、ひとには備わっているんだろう。けれど、それはなんというか、物理法則みたいなもので、つまりある一定の、現実的な条件仮定のもとに成り立っているものに過ぎなくて、僕はいま、両手に抱えられるくらいのキューブを手にして、立ち尽くしている。あまりにもたくさんの時間が抜け落ちていくと、自分がだれだったのか、あぁ、でも自分ってなんだったかな。僕ってなんだろう。なに、って、なにだろう。意識して口から息を吸わないと、手足の先から痺れていって、自然と、呼吸の音を大きく感じる。喉の奥がぴたりととじて、首を掻き毟ろうとして、ぷつぷつと血が垂れるのも気にならなくて、筋肉に手を添えて無理やり押し広げる。とまらない。わたしの手が、からだを全部弄(まさぐ)って、そこでようやくこれが俺の手じゃないことに気づく。痛みは快楽になって、また、だれかが、思い出せないものを増やしていく……。

 

「……痛いです」

 

「うるさかったので。魘されすぎです」

 

 ひときわ息を吸うと、からだが勝手に跳ね起きてくれた。背中は妙に痛むし、額にちりちりとした感触が残っている。少しだけ残っていた耳鳴りを無視していると、コンクリートの臭さを遠慮がちにはねのけてくる、柔らかい香りがあった。滲んだ視界がじりじりと引き戻されていく。クリーム色の髪の毛。糸目でないくらいの、目。

 

「そろそろどこかシャワーのあるところに住みませんか。髪、だいぶ傷んでますよ」

 

「アコガレはしますが。身分が身分なのでムツカシイのです」

 

「まぁ確かに。僕も高校生みたいですからね」

 

「その通りです。学生証見てください」

 

 ひとを殺してるからなぁ。などと言って仕舞えば、どうだろう。私はこのひとの気まぐれで刺し殺されてしまうんだろうか。いやそれはこのひとのやることではない。僕はそれを知ってる。めのまえのひとを見るのが少し怖くて、気休めに窓の外を見やった。同じようなビル群がすぐ目の前にあって、塞いでいる。そのものは灰色のコンクリートが、いまはほとんど黒色になっていた。

 

「前はラブホテルのシャワーが使えたのです。お金もらえてチウチウできるからそれでよかったのに」

 

「……ごはん、どうします」

 

「あなたの分はてきとうに買ってください」

 

 ベッド──と、俺たちが呼称しているだけの、敷き詰めたダンボールに布を被せてるだけのもの──から、足を地面につけて座る。東京という場所はたくさんひとが居るものだから、場所を選ばなければ居られるだけの場所はそれなりにあった。それでも、だれからも隔絶された、となるととたんに少なくなってくる。ところどころ埃っぽくて、たまにつんと饐(す)えた食べ物の吐きそうな匂いと、頁をあけたまま三十年ほったらかしにしておいた本のにおい。

 

「──私はいまいただきます」

 

 それと、安物の香水。私はそのへんのあれこれに不得手だというのに、彼女がことあるごとに注文をつけるからほとほと困ってしまう。その辺にある量販店で手に入れた五百円そこらのものをさいごに気に入ってくれたから、まぁ、いい。

 

「いいですか」

 

「食べものに訊いても仕方ないでしょ」

 

 それもそうですね。彼女はあまり笑わない。でも、というか、だめなのは、とくに何も考えずに、僕の好きなものを手に取ってしまったことだ。ただたんにそっと近づいてくるだけなのに、彼女が腹部から滑らかに這い上がってくるように思って、そして、そのあたまのなかの彼女は衣服という概念を捨てていて。強い背徳感がやってくる。指が服に触れて、かすかな肌の擦れ、小さいけれど明確な音までもをいちいち捉えてしまう。そこに桃だかフローラルだかの香水の、ふわりと脳みそに入り込んでくるのを認めると、だめだ。首筋のすぐそばまできてる。口があいて、繋がれてた唾液の切れる、いくつかの短い音。

 

 いただきます。

  はい。

 

 ぁ。

 

   む。

 

 ちう。

 

 

 します(・・・)か? ……すみません。またそれからはじまってる。どっちですか。……その、おねがいします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どく。

 

 

 

 

 

 

 まいかい、慣れない。この快楽をどう表現したものか、考える気力がもうない。ちかちかとした、あたまのなかを直接いじられてる感覚から帰ってくると、上気した僕たちの頬と、ふたつの荒い吐息。不規則なあたまの波のせいでひとりでに漏れ出る、掠れた喘声。腹部に散らばっている幾許かの精液。カスみたいなベッドに彼女は仰向けに、ほんとうに物理的にひとつの衣服も纏わずに、焦点を失っている。彼女は発汗して、うすくつけたかおりが彼女生来のにおいと混ざって、それはまた、僕の鼓動をはやめていく。事後でしかまともに彼女の裸をみたことはないのだけれど、けして大きくはない胸も相まって肋骨がわずかに浮き出ている。もっと食べて欲しいな、なんてことを考える。私の血液でよかったらもう少し奪(と)っていってくれてもいいのに。できれば俺の、ドーパミンをあまり放出させないやりかたで。彼女は血を吸うのがきっとひとより、ずっと上手い。

 

 そう、彼女は。渡我被身子というひとは、ほんとうに血液を栄養源として摂取することができた。表面上は「個性」ということになっているのだけれど、それはていよく意思疎通をするためのカムフラージュみたいなもので──「個性」としてそれは別枠にあるんです、と彼女は不満げに語っていた──とかく彼女は、僕をよく食べている。じっさい、俺を食べる時はあくまで「食事」のあつかいみたいで、私の姿になったりはしない。

 

「……相変わらず、あなた、は遠慮がないです。そのくせさわりか、たは初心(うぶ)のまま…で」

 

 不自然なことに、俺はことの顛末をまったく覚えていない。覚えていないころの自分がそういう性格だったのかもしれない。「すみません」「謝るならしないでください」顔だけをやっと僕の方向に向けた彼女は焦点を取り戻し、私が伸ばした手を這う這うの体でつかみ、抱き起こされる。ひとりではそのままでいられないらしいから、彼女は私の腰に手を回す。頭はんぶんだけ俺の方が背が高いから、彼女が背を丸めるとだいたい胸の辺りに額が落ちてくる。

 

「あの、いつか訊こうと思っていたんですけれど。トガさんの個性と比べてどっちが気持ちいいとか、あるんですか」

 

「乙女の、ヒミツなのです……というかそれ、ヘンタイじゃないですか」

 

「いや、それは……はい、すみません」

 

「……みて、わかりませんか、カラダの相性くらい」

 

 ピロートークのボールは順当に俺の方に回ってきた。けどこの質問を、イエス・ノーの一軸ベクトルでどう評価しよう。有り余るほどの心地良さが、たぶんもう私たちのからだを、取り返しのつかないとこまで引きずり込んでいる。からだが物事を記憶するのを、何故か俺はよく知っている。

 

「いやだったら早いうちに、食べきってくださいね」

 

「わかってます。あなたが決めたみたいに言わないでください」

 

「ぁいた、痛い、痛いですって、トガさん」

 

 背中の皮フを爪で摘まれる。動いてしまうから、密に着いてしまう。腹部が重なって、精液がじゅくじゅくと擦れ合う感触。わずかに、くすぐったい。

 

「おもいで、まだ戻りそうにないですか」まだ軽く肩で息をしながら、問うてくる。気だるそうだ。

 

「悪いからってして(・・)くれてるならいやだって言ってるのに。べつにトガさんが謝ることじゃないですよ……教えては」

 

「あげません。ちゃんと刺せたら考えます」

 

「それもべつに、いつでもいいって」

 

「私がやなのです。あなたカァイくないので」

 

「それは……ちょっとかなしいですね。朝ごはん買ってきます。そのままバイトかな」

 

 ウェットティッシュ、いりますか。いります。はだを離そうとすると、つけたてのボンドみたいにゆっくりと腹部の皮がはがれて、ねちねちと音をたてた。二人してその様子をぼおっと見ていると、なんだかゆっくりと、コミカルらしさが滲み出てきて、背中を押されたみたいに軽く笑ってしまう。放置されっぱなしの棚にはいくつかの日用雑貨が放り込まれていて、とくにウェットティッシュやら汗拭きシートやらはかなり重宝している。水道もガスも何もないから、体を拭く手段はこれと、あとは制汗剤。シャンプーやらボディソープもあるけれど、朝(よる)に一度使うか使わないかといったぐあいになる。逆に食糧事情はかなりらくだ。俺が死ななければひとりぶん浮いているみたいなものなので。四、五枚とった後軽く放って投げたパッケージを、彼女はふと取り落とす。

 

「俺一人分で足りなかったら、そのへんで食べてもらっても良いんですよ」

 

「ちから抜けてるだけです。……あとわたし、年頃の乙女なので。カロリーとか、きにしちゃいます」

 

「そうですか」

 

 血液の云々にカロリーという概念は、はたして存在するんだろうか。これはあんまり考えてこなかったことだ。価値観というか、もののみかたというか、つまり血液に対する認識が彼女の中では違うにちがいない。より普通の、日常的な、きっと水みたいなかんじなんだろうか。

 

「出逢ったりおはなししたり、セックスしたりっていうのは、あなたにとって料理みたいなものなのです。だからあなたみたいなのはそんなにいないのです」

 

 腹部からはじまって、胸とふたつの手足をきれいになでた彼女が、僕を見ずに、あたまのなかの疑問に答えた。よくある現象だった。当らずともまぁ、遠からずといった塩梅。いま出た彼女の喩えを借りるのであれば、俺というたべものをどうやって切るのか、煮るのがいいのか焼くのがいいのかを知っているんだろう。

 

「じゃぁ、僕を料理で喩えるとなんになるんですか」

 

「鮭おにぎりです。コンビニの。手軽さバツグンでいいですねぇ」

 

「いやな喩えかたですね」

 

「いやですか」

 

「いや。べつに嬉しいです」

 

 へんなひとですね。体の拭かれたウェットティッシュが彼女によってくるくると丸にまとめられ、僕の方に投げられてくる。私もちょうど拭き終えたくらい。受け取って、大きめのレジ袋にそれをしまう。乾いたらあとで燃やして灰にしておくのだ。ライターはまだぎりぎり余裕がある。生活のためのこれが切れたら、居る場所をかえるのをふたりで約束している。あとせいぜい保って二週間くらいだろう。そろそろいまのアルバイト先にも伝えておかないといけない。

 

「どうでもいいですけれど、自分の呼び方……決まりましたか」

 

 白色のシャツに袖を通しながら、問うてくる。気だるそうだ。

 

「ううん、なんとも。いやじゃなきゃ、トガさんがつけてください。私、自分の名前が自分の名前って気がしないんです」

 

「たべものになまえつけるひとも居ないでしょう」

 

「それもそうですね」

 

 

 

 路地裏を抜けていくと、あるていど灯りの担保された通りになっていく。たくさんの広告と、俺たちみたいな場所へいけそうな、道脇の狭い空間。息のつまるほどの人。胎動する大きな、ひとつの生命体に取り込まれる感覚をもつと、すぐにだれも私に関心をはらおうとはしない。俺を知っている人は、たぶんここにはほとんどいない。

 

 知るというなら、渡我被身子というひとについて、僕はほとんどのことをしらない。世間一般で悪いひと扱いされてることとか、キャッチーな実名報道とか、街角のスクリーンを通り過ぎると、たまにまだそういうことをやってるのを……実際にいまも、見える。それは、知ってる。おおよそ全てのメディアで見かけるのは、裂けそうなほどに口角をあげた、ひとでないのを声高に主張された彼女だ。いま身を置いてる場所で彼女が見せる言葉、からだ。それらを知ってるひとは……たぶん、いるのだろうけど。彼ら(もしかすると彼女ら)は、彼女が渡我被身子であることを知らずに、雑多に堆積された性行為のひとつへと埋没させていっている、と、信じることにしている。彼彼女らがみているトガヒミコは、たしかに渡我被身子というひとの正しい、いち側面だと思う。僕の見ているトガヒミコも、またそうだろう。これだから外に出るのはあまり好きじゃない。かんがえごとはしないといけないと思うけれど、彼女のことを考えるのはあんまり好きじゃない。そもそも、ひとを知っていると言えるのはどれくらいからだろう? そのひとのぜんぶを知れたのなら、それはうれしいことなんだろうか。

 

 かんがえることはべつに、嫌いじゃない。かんがえていると時間はいくらでも過ぎていくし、かんがえることはそれ自体に価値があると思う。だからといって過程こそが最も重要だということばを手放しに認めるわけにはいかないけれど、普遍的な結論を受け入れるためには大事だ。ひとを避けて、たまに避けてもらって、神楽坂駅の前を通って十分ぐらいそうしていると、どこにでもあるコンビニエンスがみえる。スタッフ・オンリーの扉を開けるのは、年甲斐もなくすこしだけ好きだ。

 

「どうも。時間、遅れてないですか」

 

「ああ、お疲れ。だいたい十分前。まぁ適当に着替えておいで」

 

 腕(ワン)とかかれたネームプレートのこの女性は、いいわかるいかで言って仕舞えば、たぶんいい人なのだと思う。すこしふくよかな顔周りは浅い隈ができていて、それを化粧でうまく隠している。っぱ夜勤は疲れるわ~、心がさぁ、心。などと云いながらバックヤードなのをいいことに缶チューハイを口にしている。最初の頃は口を出したりしたのだけれど、他の職員共々もう、彼女のこんな行為を日常に取り入れる努力の方が価値があると気づいて久しい。

 

「そうだ、腕(ワン)さん。俺そろそろやめようと思うんです」

 

 ロッカーを開けながら後ろの彼女に声をかけると、カーテン越しにパイプ椅子の動く音がした。「あら、急ねぇ。つぎのシフト渋ってたのそれかしら」

 

「そうです。受験勉強とかあるんで」ぐらいに言っておきながら、このひとの、悪く言えば年らしい性格が思い出されて、心で舌を打たなければならなかった。

 

「へぇ。どこいきたいのか、訊いてもいぃい?」

 

「まぁ、都内のどこかに。あんまり具体的な志望校は決まってないですね」

 

「ふぅん。いけるとこに、ってかんじ」

 

「そんなとこです」

 

「そ。……あぁあ、おばさんになると高校時代はもう眩しくって仕方ないわ。戻りたいわね~。若いころは美人とか言う気は無いけど、まぁいまよりはましな体だったから。べつにそんなに変わんないのに体重ばっかり気にしてあれこれ苦心したもんだわ」

 

「ワンさんは大学、行かれたんですか」

 

「もう名前書いたら受かるみたいなとこよ。だからねぇ、あなたも後悔しないように……後悔しないように、じゃないわね。ううん、だから、後悔してもいいけど、なるべく、きちんと自分の意思で決めたことだけを後悔できる人生を送りなさいね」

 

「はぁ、どうも」

 

 ロッカー……を、閉めようとする。そうすると、右肩のあたりに、手を置かれているような感触がやってくる。これは俺の幻覚じゃなくて、腕さんの起こしている現実だ。見えない手のようなものを自らの意思によって生み出す、そういうことがこのひとにはできる。むかしちょっとだけ頑張ったの、といったくらいはあって、実際この女性の三次元空間把握能力はひとのそれではない。いきなり触るのはやめてくれませんか。カーテンを開けながら露骨に不満げな表情をつくってみるとワンさんはからからとして、背をのけぞらせた。おさけが好きな人はたいてい、人以上には呑めない。ほれほれ、などといいながら、作った手の形そのままに、見えない手で頬を指でつつかれる。このひとはふしぎな力というか、こういうスキンシップをあまりにも大胆にやってくるものだから、他人のもっている領域みたいなものを、かんたんに踏破して、受け入れざるを得なくなってくる。

 

「そういえば、ヒーローとか目指さなかったんですか。個性(それ)便利そうなのに」やめるのだから、このさい聞いておくことにした。

 

「だからがんばったの。で、やめたの」

 

「それはまたどうして」

 

「目標があるから。目標があるとねぇ、ことヒーローに限ってはよくないってわたし思うの。おかね稼ぎたいとか……いいひとみつけたいとか見栄張りたいとか。ほかのひとはしらないけどね。もっと純粋にヒーローできるって思ってたんだけどなぁ」

 

 あとわたし、運動音痴だし。とってつけたようにワンさんはチューハイの缶を揺らした。ほのかに桃の香りがした。ほら、もうシフトだろ、いってきなさいな。ワンさんはどうするんですか。あとちょっとサボってから品出し行きま〜す。こういう仕草をみると、一瞬このひとを少女に置き換えて見てしまいそうだから、いやだ。私は制服の襟を正して、レジに通ずる扉を開けた。

 

 レジ打ちという仕事も慣れて仕舞えば作業みたいなもので、つまりはちがうことを考えてしまって、きっと対外的にはおどろくべきことに、私はトガヒミコというひとが敵(ヴィラン)であるということを認知できていない。敵(ヴィラン)であるというシールをぺたりとしてしまえば、僕を含めたそのあたりにいるひとたちはもはやそれらを人とは見做さない。最初にそのひとをひとだと知覚してしまうときっと、僕はそのひとをひととしてしか見られなくなってしまうんだろう。だからヒーローという言葉が出てしまうと、無意識に彼女が庇護される立場に置かれていると思う。もしワンさんが彼女の言った、運動音痴と同じくらいの理由を気にしないだけの勇気と愚かさとがあったら、トガさんは彼女に殺されていたのかもしれない。俺はかんがえごとをするのが好きだから、疲れているとすぐ、トガさんのことに考えが移ろっていく。

 

 はじめてのことは、出会いもセックスもよく覚えていない。セックスの方ははじめて以外もほとんど覚えてないけれど。いつのまにか私の世界には彼女がいて、彼女の存在が当然だった。ぴ、ぴ、ぴ。お会計436円です。ふくろはご入用でしょうか。いらん。しつれいいたしました。またのご来店をお待ちしております。だから、いまのかんけいをどう表していいものかわからない。トガさんは俺がする(・・)のを口にしたとき、いちども断ったことがない。それがとても、不安になるし、いやだ。確率的に考えて一回でもそんなきぶんじゃなかったときがあるって考えた方が妥当で、あぁでも、つまり、トガさんにとってする、しないは一様に分布しているんだろうか? あるいはラブホテルでずっとそうしてきたように、僕とのそれも雑多な性行為のひとつに埋没させていってるんだろうか。お前これ箸つけてねぇじゃねぇか、ふざけんじゃねぇぞブッ殺すぞ。大変失礼いたしました、しかしながらさきほどお客様にお伺いしましたところ不要だとお答えいただいたかと存じますが。煩ぇなンなこと言ってねぇよ、グダグダしねぇでテメェは俺の言った通りさっさと箸用意すりゃいいんだよこのクソボケが。承知いたしました。こちら割り箸になります。ケッ、くだらん口聞いてねぇでサッサと渡しゃいいんだよ。時間の無駄だろうがバカ。またのご来店をお待ちしております。なら、それはかなしい。セックスが生きるために必要な、義務的なものとして定義されているなら、きっとトガさんにとってかなしくはないのだろうけれど、俺はかなしい。とはいえその理由を考えると、やっぱり、普通じゃないから、になる。そういうはなしが彼女はきらいだろうな。というか、こんなふうに考えるなら俺は自分のからだとの折り合いをつけなくてはならない。

 

 

 

「やーたいへんだね、おにーさん。悪いんだけどたばこもらっていい? んとねー、114番」

 

 だから、ちょっと疲れていたんだと思う。私はつかれていると、すぐに彼女のことを考えだしてしまう。意識の矢印が目の前の光景からあたまのなかに向かっている自覚があって、もうめのまえのひとをにじんだシルエットとしてしか認められなかった。それがよくなかった。

 

「……トガさん?」

 

 言葉遣いはもうまったくそれではないし、髪の色もこのひとの方がやや銀色じみている。サイドテールはごく普通に編まれて垂れさがっているし、においも、どこか酒臭い。あのにおいがしない。加速度的に戻ってきた視界を頼ると、きれいで、なめらかな白い肌の少女が僕に、少しばかりの思案顔を向けていた。目の色が、このひとのは青と、水色のだいたい中間ぐらいのそれだ。まったく、彼女らしくない。腹部をさらけ出した黒色のトレーニング・ウェアのような格好に外套を羽織っただけの奇抜なスタイルだけれど、このひとにはこれを通常の衣服と定義するだけの力が、ほのかに感じられる。きれいなひとだな、ぐらいにしか、まだ俺の脳味噌は考えられない。

 

「い~や、あたしトガさんじゃないない。七草ナズナ。なーちゃんでいいよ。大丈夫? つかれてない?」

 

「……失礼いたしました。114番ですね。少々お待ちください」

 

 見えない部分で、どこかいらない疲れがたまっていたのだろう。後ろを振り向いて、114をみつける。普段より、それに時間がかかってしまう。吐いてしまった言葉を奪い返すような想像が駆け巡るけれど、それが叶えられないことを私は知っている。心臓が不規則に鼓動を速めていって、指先のあたりからすうっと感覚がなくなっていく。おまたせいたしました。こちら114番の品物になります。お間違いありませんか。ナズナと名乗ったそのひとは、僕がさっき見たよりわずかに深く、コミカルに考えるそぶりをみせていた。ぽんと、その数秒後に、まるで頭上に旧い白熱電球が灯ったように手を打った。

 

「おもいだした! トガヒミコ。テレビでみたことあるわ、そういや。なに、あの有名人チャンと知り合いなの、きみ」

 

 なにもかんがえず口に出してしまった俺のことばは、私の想像通り、想像以上の致命性をはらんでいた。まぁ、たしかにみためちょ~~っと似てるけどさ、ほんのちょっぴりだけ。あたし流石に、ひと殺したことはないから。あぁでも、どこかのだれかのトガ違いなのかな。ど? 一瞬抱いたコミカルらしい印象をそのままにことばが、俺の方になだれ込んでくる。品出しをしているひとはいまは、目に見えない。監視カメラはたぶん、店長が昔気質だからあきれ返るほどふるい。音はまともに聞こえたものじゃない。レジには私しかいない。

 

「──え、ほんとにしりあいなの? マジ? ほんとにほんと?」

 

 差し出した煙草に手を伸ばしたまま、彼女は小さく困惑を浮かべた。沈黙を肯定ととられるのは、この社会の中で好きじゃない部分だけれど、ことばにもならないへんなことを考えてとっさに嘘を吐けない僕の性分は、それよりずっと好きじゃない。手指から伝わった冷たさをうまく保持したあたまの一部分が、それこそ沈黙やら動揺やらが如実に肯定を意味すると、のこりのあたまを殴りつけてくるのに、俺のからだは動こうとしない。

 

「……ち、ちがいます」

 

「いやぁ……ちょっとそりゃ、今更っつーか、その言い方じゃ無理が、ねぇ。ありますよおにーさん」

 

「まぁ、はい、そうですよね。すみません」

 

「いやいや、いーのいーの。あたしべつにそういうの、あんまりきにしないし」

 

 いやなあせが、幾つか首筋から腹のあたりに向かって流れていくのを感じた。自分がどうこうされて、よくないことを自分だけが被るならいいけれど、僕のせいでトガさんがいまよりももっと不自由になるのは、避けなければならなかった。

 

「いっかい、おなじ吸血仲間としてあれこれ言いたかったんだよねぇ。なってないっていうかさ──」

 

「あなたも、血を吸われるんですか」

 

 ──ぁ。こんどは、ナズナさんの方がかたまった。時間が止まったような気さえした。あたまのなかから、僕と、このひと以外の人が全て消え去ったのかもしれなかった。べつに俺は、とんとんな状況に持ち込んで痛み分けうんぬんなどを考えたわけではなくて、ただ単に純粋な疑問が口をついて出ただけ。かくして私たち二人はものの数秒で、おたがいにおよそ口外すべきでないことを知る仲になってしまった。僕のフリーズ具合もまぁ、大概だとは思うけれど、彼女の慌て具合もまぁ目に見るものがあって、あぁ、えっと、そのですね。んと、その。ぇと。

 

「……いやぁ〜、ちがいますけど、ねぇ」

 

「……ちょっとそれは、今更というか、無理が」

 

「ありますよねぇ……」

 

 彼女はかっくりと項垂れて、力なく手に取った煙草の箱を弄りまわしだした。このひとにはどうもコミックからまるごと飛び出してきたみたいな無稽さがある、気がする。血を吸う(そういう)個性です、なんて言って仕舞えば、もっとわかりやすく騙せたのに。こころのなかで、そんな煙にあっさり巻かれる自分自身を、はっきりと想像できた。きっと顔も覚えていない両親が丁寧に教えてくれたから、俺は嘘をついてはいけないと思うし、だから皆が嘘を吐いていないとはじめから決めてかかりがちなんだろう。このひとも、顔も知らない両親にやさしくそう教えられたのかもしれない。

 

「ぁ〜、んとね、ごめ! 肉まんも買うからちょっと聞かなかったことにしてくんないかな」

 

「すみません、俺もうちょっとでここやめるので……おみせの利益とかは、あんまり関係ないですね」

 

「だめか〜〜」観念したように、彼女はレジへ突っ伏した。

 

「……それに吸血鬼(あなたたち)って、たべものたべる必要あるんですか」

 

 角ばって、斥力すら帯びていた空気がわずかに緩まって、心に思ったままのことばがくちからでてきてしまう。きっとこのひとはそういう話し方に長けていて、ずるずると気づかないうちに誰も彼も惹き込まれていって、そうしてこのひとのことを好きになってしまうんだろう。そりゃもう! おさけとかサイッコーに決まってんよ。いやコンビニの肉まんもさ、マジでたまに食うと泣きたくなるくらい美味いんだよな。まぁ、たしかに云われてみればコンビニ以外で肉まんを買うことはなかなかないですけれど。肉まん、買われますか。いやー頼んじゃおっかな。頼んじゃうか。よるも過ごしやすくなってきたしね。かしこまりました…………その、おいくつなのか訊いてもいいですか。えぇー、レディにそんなこと聞いちゃってさ、おにーさん紳士じゃないね。すみません。いーのいーの。でも……はっきりとは覚えてないな。百はいってないと思う。たぶん。じゃぁ僕たちはまだまだ子供ですね。多分同いの十八なので。

 

「ハン! あんなコはね、まだまだ吸血鬼(ヴァンパイア)の風上にも置けませんよ。だれかれ構わず血ィ吸うなんてさ、恥じらいってもんが無いのかね、恥じらいってもんが」

 

 

 

 

「あなたはトガさんの何を知ってるんですか」

 

 え。そのひとは、一瞬硬直した。僕もそうだった。けれどその言葉はすでに生まれてしまっていた。

 

「たしかにトガさんはひとを殺してるし、私が殺されたひとの両親とかなら嫌いになると思うし、あなたからみたらまだ赤子なのだろうし、一般に流布されてる常識を受け入れてるとはいえないし、だからきっといいひととはいえないのかもしれない」

 

「けれど……ナズナさん、といいましたっけ。なにもしらない僕たちが、トガさんをまるで人間じゃないみたいに、あんなコというのは、違う」

 

 しんとしていた。僕たちは二人して動いていなかった。急停止した時間の反動がまだ残っていて、心臓が痛い。僕が何かを言ったみたいな気はなくて、なんというか、自然に、その音の羅列が空間にそっと置かれたのだった。斜め上のスピーカーからはジェイ・ポップの陳腐なインストゥルメンタルが流れていて、入り口を少し過ぎればしあわせな男女や不幸せな男女が横行する足音たちがする。無臭だと思ってた空間は、じつはいまも刻々と熱の失われつつある肉饅に、すでに侵されている。静謐な怒りなんてものが僕に存在しているのだろうか? トラッシュ・トークのひとつとして、あるていど受け入れられるべきつつきあいの軽口なのは目に見えてるのに。口答えしては怒られたのに。そう、だから疲れてるんだと思う。ずっと僕は疲れていたんだと思う。

 

「……ごめんなさい、へんなことを」

 

「ちがう、ちがうんだ。あたしこそごめん」

 

 そう、そうだね。ごめんね。そのひとのこと、あたし何も知らないのに。変なこといっちゃったな。ナズナと名乗ったそのひとは、うってかわって、寂しそうに笑んだ。遠慮がちに肉饅を包む紙に触れて、財布を取り出す。僕はこのひとをもう吸血鬼だと思ってしまっていて、そう信じてしまっている。このひとのこの表情にある過去をかんがえてしまう。このひとのことを僕はなにもしらないのに、ずかずかと踏み入ってしまいそうになる。そういうふうに、もう決まってしまっているような気がする。

 

「あのコのこと、すきなの」唐突に、そんなことばが現れた。

 

「はい? ……えぇと、たぶん」

 

「ごめんね、でも、こたえてみて。どっち」

 

「……はい。きっと」

 

 ──ありがと。下を向いて伏せられていた彼女の笑顔は、たしかに意思を持って、僕の方に向けられたみたいだった。ほんとうに、似てるのは見た目だけなんだな、などと思う。あぁでも、やっぱり、僕はトガさんのことを何も知らない。こんなふうに笑っているのをを見たことがないから、それだけで、このひとがトガさんらしくないと思う。がく、と時間がまた動き出そうとして、慣性によってまた頭が殴られる。きちんと笑っているあのひとを、いっかいみてみたいなと、思っちゃう。べつにそれが自分に向いていなくてもいいから。自分でも嫌になるくらいに、僕はただトガさんに死んでほしくなかったのだろうな。

 

「商品は、以上でよろしいでしょうか」

 

「へ」

 

「ほかにお買い上げなさる商品はございませんか」

 

 会話を終わらせるぐらいの時間だと思った。おたがいに同じくらいの秘密を握りつぶして、幾ヶ月で記憶の水に溶かしてあいまいに薄めるべきだと信じていた。

 

「んぁ……んー、えとね。よし」

 

 ちょっとまって。そう言って小走りに飲料コーナーのほうに走っていったかと思うと、彼女は両手にあふれんばかりのアルコール飲料を抱えてレジにどん、と置き散らかした。これももらっていい。あとビニール袋、でっかいやつ。畏まりました。

 

「あのさ。シフト上がり時間ある?」わずかに乗り出すようにして、彼女は僕を見つめてきた。

 

「ないわけじゃ、ないですけど」

 

「そう。じゃ、あたしの奢りでいいからさ──」

 

 恋バナしようぜ、少年。あたしもさ、好きなひとが居たんだよ。




と、トガさんの出番が……!
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