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その日、僕は耳慣れない電子音で目を覚ました。カーテン越しに差し込む薄明かりを頼りに、木琴のような音を発するスマートフォンを探す。
非通知のスパムなんかであれば無視を決め込んで二度寝ができたのだけども、表示されていたのはちゃんと心当たりのある名前だった。
『
嫌嫌ながら通話ボタンを押した電話口からは、落ち着きのない女子の声が聞こえてくる。こちらの答えを待つことなく、電話は一方的に切られてしまった。
「約束した覚えはないんだけど……」
スマホに表示されている時間は午前4時16分。こんなに早起きしたのは初めてだ。重い瞼を擦りながらゆっくりとベッドから出る。
待ち合わせの後、戻ってくる時間はないだろう。
仕方ないと観念しながら、学校の制服に袖を通していく。着替えが終わって部屋から出ると、ちょうどトイレから出てきたお母さんと鉢合わせしてしまった。
「あら……どうしたの、こんな早くに」
「えっと……部活?」
見つかった。
首を傾げつつ、苦笑いと一緒に適当な言い訳を並べる。半分嘘で、半分が本当だ。
「部活って……あなた入ってたかしら」
「とにかく、学校の人と会う約束があるから!」
足止めされる前に、お母さんを押しのけて玄関へと向かう。
「そ、そう……気をつけてね」
困惑したような呟きを背中に聴きながら、玄関を出ると、自転車に乗り込んだ。
日はまだ登っておらず、空は下の方の雲がやや紫色に染まっているだけだ。ただ一つ光を放つのは、低めの位置に浮かぶ月。街はほとんど寝静まって人通りはなく、街灯の光だけがぽつぽつと道路を照らしていた。
自転車のチェーンの音を響かせながら並んだ光の中を通っていくと、そのうちの一つの下に目的の人物がいるのが見えた。
「もう、遅いよ!」
きしむブレーキ音に気付き、制服姿の女子が振り返った。所どころで無造作に飛び出た黒のセミロングが、振り返った拍子に跳ねて光を乱反射させる。向けられた表情はどこか不満げな様子だった。
「
「えぇ? そう?」
自転車を停めながら言い返してみたが、先輩としてはどこ吹く風といった様子だ。
——
僕、
1年前、高校に入学したての頃。僕は、いわゆる“中二病”から回復するのが少し遅かった。表立って変な言動こそしなかったけれども、鞄の中にはオリジナルの“魔導書”を忍ばせていた。
ある日、学校の廊下で一人の女子とぶつかった僕は、鞄の中から散らばった“魔導書”をその女子に見られてしまった。「まだ“治ってない”のね」と鼻で笑われるのならまだ良かった。その女子の第一声はこうだった。
「キミ、魔法に興味があるの?」
これが暦先輩との出会いだった。それで僕の病は治ったけれど、「ただの痛い創作です」なんて言えるはずもなく、曖昧に頷いてしまった。
結果、僕はオカルト研究会の記念すべき第一号部員にされてしまったのだ。部員としてこれまでに色々な場所へ連れ回された。尤も、こんな時間に呼び出されたのは初めてだけど。
「さぁ渉くん、噂のあれを見に行こっか」
先輩は学生鞄の中からカメラを取り出してニッと笑う。
一口にオカルトと言っても、暦先輩の興味は多種多様だ。河童を探しに山奥へ行ったり、夜の学校でこっくりさんを試そうとして先生に叱られたり。気になったものは何でも調べたがる……そんな人間だ。
今回の獲物は、UFO。ここ2週間ほど、何人もの人が目撃している……らしい。時刻は日の出ごろ。場所は近所の寂れた神社の近く。ちょうど今、呼び出された場所と時間だった。
「ふふーん♪」
「どうせ今回もハズレですよ」
スキップするように石段を登っていく暦先輩を、後ろからゆっくりと追う。
これまでに付き合わされてきた計画のうち、目的のものが見られた試しはない。だいたい9割では何も起きず、残りも見間違いかただの人間の仕業だった。今回もそうだろう。
小高い丘の頂上にある神社からの見晴らしは思ったよりも良かった。木々の間から一軒家が立ち並ぶ街並みが見え、遠くにあるビルの背後から少しずつ光が差し始めている。
細長い月が、朝焼けの中でにぶく光を放っていた。
まあ、この景色が見られたのなら全くの無駄骨にはならないか……自分を納得させようとした時、後ろから歓声が聞こえた。
「来た!ねぇ見て!」
暦先輩が、普通の女子高生が男性アイドルでも見かけたかのような悲鳴をあげる。慌てて振り返ると、日差しと反対側、まだ暗い空に一筋の光が飛ぶのが目に入った。
ただの流れ星じゃないか? 疑ったのも束の間、その流れ星はみるみるうちに大きさを増し、こちらへと向かってきた。
「え……!?」
息を呑んで動きを追っていると、首が限界まで曲がった時、つまり僕らの真上で、それは見えない壁にでもぶつかったかのように止まった。
「ちょ、ちょっと待って!? もしかして、私たち認識されてる?」
上擦った声で暦先輩がこっちを見てくる。先輩は顔に満面の笑みを浮かべていたが、僕にはとてもそんな余裕はなかった。
「先輩、これってマズいんじゃ……」
「宇宙人の皆さーん!連れてってくださーい!」
明らかに普通の飛行物体とは違うそれを目にしてもなお、先輩はファンサービスでも求めるかのように興奮して両手を広げている。すると、先輩の声に答えるかのように赤い光が二人の上へと降り注いできた。
「きゃーっ♡」
「先輩、早く離れて!」
嬉しそうな鳴き声をあげる暦先輩を押して無理やりその場から離れようとした時、頭の中にズキンと痛みが走り、僕はその場で倒れた。
***
「……はっ!」
僕は目を覚ました。目に入るのは薄暗いさっきまでの空。背中にはひんやりとした石畳の温度を感じる。
「暦先輩、大丈夫ですか!?」
慌てて上半身を起こし、隣で寝転がっている相手に声をかける。
その相手の姿を認識するのと、出した声や起こした身体の違和感に気づくのとはほぼ同時だった。
「ぼっ、僕!?」
すぐ横で倒れていたのは、紛れもなく自分……福地渉の身体だった。
「ま、まさか……」
思わず後ずさると、太ももが直接、冷たくザラついた石畳と擦れる。スカートを履いているからだ。漏れ出る声も普段より高く、下を向けば髪が肩にかかり、シャツの下の大きな膨らみが視界を邪魔する。
「うぅ……っと、あれ? 私がいる……?」
倒れていた僕の身体がむくりと起き上がった。つい先ほどまで自分のものだったはずのその声が、とても変に聞こえる。抱いていた予想が、100%の確信に変わった瞬間だった。
「「入れ替わってる……!?」」
お互いを指差し、二人の声がハモった。信じられないが、信じるしかなかった。原理は分からないけれども、さっきのUFOの光によって、暦先輩と身体が入れ替えられてしまったのだ。
「ちょっと見せて」
「うわっ!?」
僕の身体になった暦先輩は、今の僕の腕……暦先輩の手首を掴んだ。驚く僕に構わず、僕の着ているシャツの袖をまくる。袖の下にはピンク色をした腕時計が巻かれていた。
「とりあえず、アブダクションされたのは1時間もないみたいね」
真剣な顔で時間を見た先輩は、ぼそりとそう呟く。時計は5時45分くらいを指していて、確かに倒れてから1時間も経っていないのが分かった。
「日付も変わってない、と」
僕の履いているスカートのポケットからスマホを取り出し、画面を確認する先輩。無理に元の高さに合わせようとしているのか先輩の声は半分くらい裏返っているものの、響きは至って冷静だった。しかし、その目にはとてつもない期待と興奮が滲んでいるのが分かる。
「よし、じゃあ次は私たちが本当に私たちなのか、記憶を確認しましょうか」
嬉しそうに笑う先輩は平然ととんでもない事を言ってのけた。おそらく、本当に精神が入れ替わっているかの確認なのだろうけれど、僕にとっては必要なかった。この状況でこんなことが言えるのは、先輩しかいない。
その後はお互いに遡れる範囲で記憶を遡って確認し、精神がそっくりそのまま入れ替わっているであろうことを確かめた。
「で、これからどうするんです?」
そうこうしている内に、学校の登校時間が近づいてきた。いい加減、今後のことを考えなきゃ色々とまずい。
「とりあえず病院とかに行ってみますか?」
「ダメよ。UFOに会って、精神が入れ替わっちゃいました、なんて病院で話すつもり?」
先輩は呆れ顔で僕のことを見つめてくる。確かに、こんな事言ったところで信じてもらえるかどうか……特に暦先輩の体では、普段の行いも相まって余計に胡散臭く見えてしまいそうだ。
「そんな事したら、黒服のおじさん達が来て研究所に連れていかれちゃうじゃん」
「……映画の見過ぎですよ!」
少し感心したのを返してほしい。すぐに梯子を外されてしまった。
そりゃそうだ。この人に限ってそんなところに気が回るとは思えない。
「とにかく、周りにバレたらろくなことにならなそうだから、とにかく今は学校に向かうよ」
神社の石段から立ち上がり、先輩はスタスタと下へ降りていく。僕も慌てて後を追った。一段降りるごとに腰のスカートがふわりと浮き、胸の肉が揺れる。やっぱりこの身体には慣れない。
「あ、渉くん、自転車借りるね」
制服のズボンをごそごそと探った先輩は、取り出した鍵を勝手に刺すと僕の自転車へと跨った。
「え、ちょっと……」
「うん、男子の自転車ってサドルが高いんだね。視界がいつもと違って少し不思議な感じ。身体が変わっても乗るのは大丈夫そうかな」
片足をペダルに乗せ、興味深そうに周囲を見渡しながら、試しに空回りさせている先輩。
「じゃあまた、昼休みあたり食堂で」
「あ……」
僕に手を振ると、暦先輩は僕の自転車を漕いで走り去ってしまった。
[]
「はぁ……」
暦先輩の属する3年1組の席に座り、ため息をつく。これから、先輩の立場で振る舞わなきゃいけないと思うと気が滅入る。
色々と時間を食ってしまったこともあり、少しするとすぐに担任の先生がやってきてホームルームが始まった。よく分からない話を聞き流しながらぼーっとしていると、先輩のスマホがポケットの中で震えた。表示されていた名前は「渉くん」。僕の携帯、つまり暦先輩からのメッセージだった。
『言い忘れたけど、一時間目の体育は体操着が更衣室のロッカーの中に入ってるから』
『鍵は差しっぱなしだし大丈夫だと思うけど』
周りには怪しまれないよう、さりげなくチラ見でメッセージを読む。
「……いや、ちょっと」
僕はその意味を咀嚼するのに少し時間がかかった。そして、飲み込んだと同時に頭を抱える。
この人は重要なことをさらっと言い過ぎではないか。話している相手が高校生の男子だということを忘れている。
ひとしきり心の中で叫び、周囲の状況に注意が戻った時には、もうホームルームは終わって移動が始まっていた。
***
「ふぅ……」
ピンク色をした扉の前に立ち、まずは深呼吸をする。これは仕方がない。暦先輩は気にしていないような口ぶりだったが、できる限り見ない方が良いだろう。
手のひらを立てて視界を狭めつつ、ゆっくりと更衣室の扉を開いた。
「う……」
当たり前ではあるが、中では複数人の女子が着替えていた。
みんな年上にあたる人だ。視線を壁や天井へと泳がせながら、目的のロッカーを探す。幸運にも、けっこう近くに鍵が刺さったままのロッカーがあるのを発見した。
扉には“天宮”のネームプレート。間違いない。
「まったく不用心な」
クラスの人に聞こえないようにぼそぼそと呟きながら、暦のロッカーの扉を開ける。言われた通り、中には巾着に入った体操服がぐしゃっと詰め込まれていた。
「まさか……」
嫌な予感が頭をよぎり、恐る恐る鼻を近づけてみる。危惧していたような匂いはしなかった。さすがの暦先輩も、その程度の良識は備えていたらしい。
「とにかく急ごう」
体操服を巾着から出し、元々緩めに結ばれていたネクタイを外すと、目を瞑りながらシャツのボタンを外していく。
最初の2,3回は思った位置にボタンが無く苦戦したが、これが女物だと気づいてからは意外とすんなり脱ぐことができた。あとは手探りでスカートのファスナーを見つけて下ろし、体操服を着てしまえば終わりだ。
思ったよりはスムーズに終わった。それでも終わった頃には更衣室に残っているのは残り2,3人になっていて、出て行く時には視線はあまり気にせずに済んだ。
体育の内容は、ダンスだった。
「暦、やるよ!」
「ダンスって……えぇ?」
先生の指示で数人のグループに分かれ、それぞれのダンスを練習するよう指示が出る。暦先輩が……ダンス? そりゃ、よく分からない儀式とかはやってそうだけど。J-POPに合わせて踊る姿はぜんぜん想像できない。
「ちょ、ちょっと待って!えっとさ、ほら!この前やったやつの動画とかない? 確認から入るのも重要かなーって」
何にせよ、ダンスなんてぜんぜん知らない。とりあえずお手本を見ないことには文字通り手も足も出ない。
「あるけど……暦がそんな事言うなんて珍しいわね」
暦先輩の友達はスマホを取り出し、前回録画したという動画を見せてくれた。
「うわ……」
その中身を見た僕は思わず息を呑んだ。動画の中の暦先輩は、曲としっかりシンクロした踊りを見せていた。
「信じられない……」
協調性という言葉から対極にあるような先輩が、他の人と合わせたダンスを見せている。顔は例によって心底つまらなさそうな感じだったが、首から下の動作には一つとしてブレがなかった。
「変なところでハードル上げないでくださいよぉ」
ところどころ止めたり巻き戻したりしながら改善点を話し合うクラスメイトの人たちだったが、暦先輩の動きには全然指摘が入らない。僕は必死で振り付けを覚えようと努めた。
「はーい、じゃあやってみるよー」
動画の確認が終わると、実際に練習が始まった。分かっていたことではあるけれども、何回かお手本を見たからといって踊れるようになるはずがない。周りの人をチラチラと見ながらどうにかそれらしい動きをするだけで精一杯だった。
その上、手足を動かすたびに長い髪が顔に当たって鬱陶しい。特に上半身の重心の位置が違うせいで、簡単なターンですらよろけてしまう。
「暦、どうしたの? 今日、動きがすごくカタいけど」
「え!? そ、そうかな……」
「そうそう。ロボットみたいだよ」
暦先輩のグループの人たちからは、当然疑問が出てくる。しかも、責めているというよりは純粋に心配している感じだった。すごく申し訳ない気持ちになるが、中身が別人だからです、なんてとても言えない。
「あんまり緊張しなくていいんだよ。暦は黙ってれば美人なんだから、いつも通り無表情で踊っててくれれば」
「ははは……」
残念ながら、今の状態じゃ“無表情で”なんて言われても却って考えることが増えるだけなんですよ。先輩の顔で苦笑いを返すことしかできなかった。
***
体育はどうにか終わった。
終わった後の着替えも大変だったはずだけれども、記憶がない。心労のせいでほとんど無心になっていたのかもしれない。
その後の授業も記憶が曖昧だ。
2時間目の英語は教科書もノートも新品同然で何も書かれていなかった事くらいしか覚えていない。
3時間目の古文に至っては皆無だ。
4時間目の数学の記憶は結構はっきりしているけども、3年生の内容だったせいで頭に全く入ってこなかった。
そして迎えた昼休み。食堂に行ってみると、暦先輩が僕の身体で待っていた。そわそわと身体を揺らし、落ち着きなく周囲を見回している。
「こよ……渉くん!」
「あ!いたっ!」
念のため体の名前で呼びかけてみたものの、先輩はいつも通りの調子で大声を出してきた。本名で呼んでこなかっただけマシだろうか。
「じゃあ、話そっか」
それぞれ思い思いのものを注文し、二人席に向かい合って座る。自分の顔と向かい合って食事をするなんて初めての経験だ。口に運んだカレーは心なしかいつもよりも辛く感じた。
「暦先輩、なんですかあのノート。ほとんど書いてないし、書いてあっても読めないかオカルトのメモしか書いてないんですけど。それに、僕まだ微分積分とかやってませんからね」
周りには聞こえないよう音量には注意しつつ、先輩に悪態をつく。お互いのフリをするなら、最低限の情報共有はしてほしい。
「別に、数学なんてあんなのパズルみたいなもんでしょ。そんなに言うなら、渉くんのクラスの日本史とか退屈で寝ちゃったんだけど」
「えぇ……」
あの歴史の先生、進み速いから一つ飛ばすと大変なのになぁ。
「もっとしっかりして下さいよ。時間割表を見る感じ午後は物理と化学らしいですけど、ちゃんと着いていけるようになってるんでしょうね」
「物理は割とマジメにノート書いてるから大丈夫じゃない? 化学は実験だったような覚えがあるから……まあ頑張って」
「そんな適当な……だいたい、学校が終わったら家に戻らなきゃいけないんですよ」
そう、問題は学校だけじゃない。むしろ、ここからが本番だった。
「先輩はいいですけど、僕、先輩の家のこと何も知らないんですからね。家族構成とか、夕飯の時のルールとか」
「あー、うちの親、今日はいないから夕飯は適当で大丈夫だよ。それより渉くん、キミの部屋、見てほしくない所とかある?」
「それ、具体的に言ったら絶対見ますよね。何も触らないでください。何も」
「えぇ? 私ってそんなに信用ない?」
「ないです」
禁止されている場所には嬉々として入っていくのがこの人だ。これだけ言っても多分意味はないだろう。もう私生活は全て先輩に覗かれると思ったほうがいい。密かに胸の中で覚悟を決めた。
「分かったってば。それより、私のほうも部屋のクローゼットだけは絶対に開けないでね」
呟きながら、先輩はふいと視線を逸らした。 まるで、何かやましいことでもあるかのように。ほんの少しだけ、顔が赤くなったように見えるのは気のせいだろうか。
「へ?」
「……雑誌を詰めすぎてて、下手に開けると雪崩が起きるから」
一瞬ドキリとしてしまったが、すぐにそれは余計な心配だったと気づく。僕の様子を見ながら、暦先輩は焼きそばパンを頬張り、僕の顔でふふっと笑った。その屈託のなさが、少しだけ恨めしかった。
僕はため息をつきながら、小さな声で一番の問題を切り出す。
「……先輩。あの、すごく言いにくいんですけど……身体、困ってないんですか?」
「え、渉くんの身体? 別に、ちょっと視線が高いのと、筋肉が足りないくらいかな」
「そういうことじゃなくて! こっちの!体育の時とか、周りの目とか……! 大体、家に帰った後、お風呂とかどうすればいいんですか!?」
思わず声が大きくなる。周りの生徒が何人かこちらを見た。暦先輩は、僕の顔のまま人差し指を口に当てて、声をひそめながら口を開いた。
「あー、それね。まあ、自分の身体じゃないんだし、気にしないのが一番だよ。嫌なら無理にとは言わないし」
「そんなこと言われても」
「大丈夫だって。私も渉くんの身体、隅々まで観察したりしないからさ」
「そういう意味でもないです!」
もうダメだ、この人には何を言っても通じない。僕が頭を抱えていると、不意に暦先輩が真顔になった。
「……まあでも、変な感じだよね」
「え?」
「いや、渉くんが、私の顔でそんなに表情してるの見ると……ごめん、ちょっとおもしろい」
そう言って、先輩は僕の顔でくすくすと笑い始めた。その顔を見て、僕も自分の顔で必死になっている今の状況があまりにもシュールで、なんだかおかしくなってきてしまった。
「……ふっ」
「あ、笑った」
「先輩こそ、僕の顔でそんな顔しないでください……」
「……とにかく」
暦先輩はパンを飲み込むと、気持ちを切り替えるように言った。
「午後の授業を乗り切って、放課後。昇降口で落ち合おう。それから、家に帰る前に、もう一度だけ作戦会議」
「はい」
僕はこくりと頷いた。
[]
「はぁ……」
ソプラノの声でため息をつきながら、昇降口へと向かう。僕の身体をした先輩は、ロッカーに寄りかかって待っていた。僕の姿を見て軽く手を振る。
「や。大丈夫だった?」
「大丈夫じゃなかったです」
5時間目、6時間目もそれまでと同じく災難の連続だった。
5時間目の物理は、確かにノート自体はしっかりと書かれていた。問題は内容だ。まだ習っていない僕でも、それが授業の内容と違うのは一目瞭然だった。たぶん、相対性理論とかそんな内容。前に先輩が宇宙人について語るときに似たような数式を見た気がする。電磁誘導の授業にはぜんぜん役に立たなかった。
次の化学実験では案の定、ボヤを出すことになってしまった。慌てて水をかけて鎮火し、きょろきょろと周りを見回すと「またやってるよ」みたいな反応をしていた。結果的には怪しまれなくて良かったと思うことにする。
「いいじゃん、終わったことなんだし」
「暦先輩が良いなら良いですけど」
仮に何かあっても、戻った後に困るのは暦先輩だ。そう、戻れたら。
「そうだ、元に戻る方法なんだけど」
同じことを考えたのか、僕の表情に出ていたのか。漠然とした不安が頭をよぎったその時、先輩が口を開く。
「やっぱり、もう一回あのUFOに会うしかないと思うんだよね」
「まあ、そうなりますよね」
僕たちが持っている手がかりはあれだけだ。糸口を見つけるためには、もう一度UFOに会うしかない。
「というわけで、昨日と同じ時間……いや、念のためもう少し早くに、同じ場所で集合。いい?」
「OKです」
方針を確認して頷き合うと、先輩は2年生、僕は3年生の下足箱へと向かう。「天宮」の文字を見つけ、扉を開けた。
中には僕のよりもサイズが小さい茶色のローファー。
その上に、小さな白い封筒が置かれている。
「は?」
思わず変な声が出た。表面を見たら、小さくハート型のシールが貼られている。端のあたりには、丁寧な字で“天宮先輩”と書かれている。間違いない。ここまで古典的なものもそうないだろう。
「渉くん、どうかした?」
「はいっ!?」
背後から声が聞こえ、反射的に戸を閉じた。
「えっと……さっき先生に呼ばれてたの思い出したので、先に帰っててもらえますか? 細かい注意点とかはスマホで聞いてもらえればいいので……」
なぜロッカーを閉じたのかは自分でも分からない。でも、暦先輩にこれを話す気は起きなかった。どうせ面倒なことになるに決まってる。ロッカーに背中を向けて振り返り、適当な言い訳で誤魔化す。
「ふーん……」
ほんの少しだけ、目の前にある僕の眉が動いた気がしたけど、先輩はそれ以上は何も言わず帰っていった。
僕の背中が完全に校門を出ていったのを見送ると、ロッカーから封筒を取り出し、書かれている場所を確認した。約束の場所は、予想通りの場所だった。
***
「暦先輩って、こういう時どうするんだろう?」
体育館裏に向かいながら、自問自答する。
これからあるのは多分、愛の告白だ。
OKする……のは先輩に限ってそんな事はない。問題は、どう断るか。そもそもこんな経験、本物の暦先輩はした事あるのだろうか。
たくさんの疑問符が頭に浮かぶけれども、答えは出ない。一つ確かなことがあるとするなら、本物の暦先輩はこんなことで悩んだり物怖じするような人ではないって事だけだ。
壁際から、頭を出して様子を伺う。他の誰も来ないような場所に、男子生徒の背中があるのが見えた。
「……行くしかないか」
砂を踏む音に、男子生徒がくるっと振り返る。
ひょっとしたら、ただのドッキリや罰ゲームなんじゃないか。薄っすらとそんな期待もしていたけれど、彼の表情にきっぱりと否定された。
背筋を伸ばし、表情筋をこわばらせる彼の表情を観察しながら、ゆっくりと近づいていく。一歩踏み出すごとに、ゲージが貯まるかのように彼の頬が赤くなるのが分かった。僕の方も変な緊張が高まってくる。
「あ……天宮先輩……ですよね」
「う、うん。そうだけど」
「急にすみません!僕、初めて見た時から先輩の事が————」
一目惚れ。相手が一年生っぽかった時点でそんな事じゃないかとは思っていた。
つまり、彼が知っているのは暦先輩の表側だけで、中身については全くの無知なんだ。とにかく、よりによって告白がこのタイミングだなんて巡り合わせが悪いとしか言いようがない。
『キミは知らないかもだけど、私の興味はオカルトだけ。残念ながらそういうのには1ミリも興味が湧かないのよね。君が地底人とかだって言うなら話は別だけど』
最初に浮かんだのはそんな言葉だった。人間の色恋なんて欠片も興味がないオカルト狂を演じてやれば、彼がこれ以上幻想を抱くこともない。ほとんど事実だし。ある意味では一番「正解」に近い答えなのかもしれない。
でも、喉元まで出かかった台詞は、ついに外へ出ることはなかった。必死で言葉をしぼり出し、答えを待っている彼に対してあまりにも残酷な仕打ちに思えてきたからだ。
「……あなたの気持ち、とても良く伝わってきたわ。でも……ごめんなさい。あなたの気持ちには多分、応えられない」
一呼吸を置いてから、ゆっくりと彼の目を見て話し始める。暦先輩の声帯から発される音声ではあるけれども、先輩として、というよりは僕としての言葉だった。
「
「だから、そのせいであなたを傷つけてしまうこともあるかもしれない。
先輩の真似ではなく、僕から見た先輩についての、素直な言葉。彼に、そして僕自身に聞かせるように、先輩の声で言葉を紡いでいく。
「でも……」
「じゃあ例えば、夜中に突然、電話で呼び出してもすぐ付いてきてくれる?」
「…………」
それを聞いて、彼は黙ってしまった。我ながら少し意地の悪い聞き方だったかもしれない。
でも、彼が答えられないのは事実。本物の先輩を知らずによくも、なんて言ったら流石に言い過ぎな気はするけれども。もしこれに“はい”と即答できるような人であれば、もうそれは暦先輩の運命の相手と言っていい。僕だって嫌なんだから。彼も僕も、そんな人間ではないというだけだ。
「大丈夫。あなたには勇気がある。初対面の相手に手紙まで出す勇気がね。それを認めてくれる人は、他にもきっといるはず」
うつむく彼の肩を、優しくぽんぽんと叩く。やや先輩らしくない言動だったかもしれないけど、こればかりは仕方ない。
そうして、やけに長く感じた放課後は終わった。
[]
夕日が沈み始めるころ、僕は暦先輩の家に到着した。門の前までは前にも来たことがあるものの、入るのは初めてだ。
インターホンに指が伸びたが、直前で止める。
「そうだ、鍵」
今は別にインターホン押す必要はなかったんだ。家の人は今日いないという話だったし。
慌ててカバンの中から鍵を探し出し、そっと門を開けた。よく分からない植物の鉢が並んだ小さな庭を通り抜け、玄関へと向かう。
先輩の家は、街の少し外れにある、古い民家を改築したような一軒家だった。ピカピカの豪邸という訳ではないけれど、どこか上品な雰囲気を醸し出している。
二箇所の鍵を順番に回し、玄関を開けた。薄暗い廊下に人の気配はない。手探りで明かりをつけ、靴を脱いですり足で進む。最初にあったドアを開けると、広々としたリビングに出た。
キッチンの近くには、落ち着いた木のテーブルと椅子。テレビ台や引き出しの上には、氷山の上に広がるオーロラや、先輩のお父さんであろう男の人がよく分からない外国の人と笑っている写真が額縁に入って並んでいる。
壁際の本棚には、立派な装丁がついた小説がきっちりと並んでいた。暦先輩の読むようなアングラな雑誌とはえらい違いだ。部屋の隅では金属ラックに洗濯物が干され、生活感を滲ませている。
どうしてここからあの落ち着きのない人間ができたのか不思議になるほど、リラックスできる空間だった。紙や木の匂いが香り、洗濯物を乾かす扇風機の音が気持ちを落ちつかせる。
「あれ……?」
同時に、急に頭から力が抜け、視界が揺らめくのを感じた。朝からずっと張りっぱなしだった緊張の糸が、ぷっつりと切れたのか。
肩にかけていた鞄を床に放ると、ふらつく足でソファへと向かう。倒れ込むようにして横になると、すぐに僕の意識はまどろんでいった。
***
次に目を覚ました時、窓の外はすっかり暗くなっていた。目を擦りながら起き上がると、お腹から鈍い音が聞こえる。
『温めて食べてください。私は缶詰になってきます』
そんなメモ書きと共に食卓に置かれていた鯖と野菜の炒め物をレンジに入れ、おにぎりと共に食べる。しっかりと愛情の伝わる味だった。お母さんは作家か何かなのかな?
食べ終わった皿を水洗いすると、先輩の部屋を探してみることにした。階段を上がると、いかにもな札がかけられた扉が突き当たりにあった。
こんな形になるとは思わなかったけど、女子の部屋に入るのは初めてだ。少し神妙な気持ちで、ドアノブのレバーを引き下げる。
室内の様子は、圧巻という他なかった。
壁という壁は、本棚と、巨大なホワイトボードやコルクボードで埋め尽くされている。大量の書籍は本棚に収まりきらず、床には本のタワーがいくつもそびえ立っていた。内容は難しそうな物理の教科書から、オカルト雑誌まで多種多様だ。
コルクボードの方は大小いろいろな地図が貼られ、UFOの目撃ポイント、ピラミッドの位置などなど無数のピンと赤い糸が複雑な模様を描いている。
部屋の中央にある机の上が、混沌の中心だった。やたらとスペックの高そうなPCモニターの周りには、ジュースの空き缶、駄菓子の袋、そしてはんだごてや、僕には何に使うのか見当もつかない電子部品が散乱している。あまりの情報量に眩暈がしそうだった。
「先輩の部屋、こんな感じなのか……」
壮絶な光景だったけれど、どこか納得できる景色だった。暦先輩の脳内を、直接的な形で覗いているような気分だ。畏怖と、ほんの少しの呆れを感じながら、混沌の中へ恐る恐る一歩を踏み出す。
いざ入ってみると、雑多そうに見えた中にも、歩くためのスペースは確保されているのが分かる。本の山の奥には、至って普通のベッドが置いてある。すぐ横にはクローゼットの扉。
「開けるな……ってやつだよね」
本が詰まっていて、開けたら崩れるという、あのクローゼット。見たところでは思ったよりパンパンな感じはしない。だからって開けたりはしないけどね。先輩とは違うんだから。
ベッドの上の布団は、人の形に膨らんで捲れている。起きたまま、な感じだ。枕元にはUMAを模したぬいぐるみが置かれていて、ここだけ見ると少しだけ女の子っぽい。
「さて……」
部屋の中はひととおり見終わった。これから明け方まで、どう時間を潰そうか。置いてある本とかを読んでみても良さそうだけど、変に物色するのもどうかと思う。さっき寝たばっかりだからあんまり眠くはないけど、朝まで寝て——。
「……ん」
考えているうちに、ふと妙な寒気のようなものを感じた。普段とはやや勝手が違うけど、この感覚には覚えがある。
「ま、まさかこのタイミングで……」
尿意。体が違ってもそれが訪れたことは直感で分かった。その上、分かったところでおいそれとトイレに向かうのは抵抗がある。どうにか気にしないよう努めるけれども、意識すると余計気になってくるのが面倒なところだ。
「まずい……」
とりあえず先輩の部屋から脱出し、内股になりながら階段を降りる。洗面所の近くにあったそれらしい扉がトイレであるのを確認すると、スマホを取り出した。
『先輩』
『聞きにくいんですけど、トイレって行ってOKですか』
震える指で文字を入力し、少し躊躇ったけども送信ボタンを押した。既読はすぐについた。返事が来るまでが永遠のように長く感じる。タイムスタンプ上では3分後に返事が来た。
『別に気にしなくていいよ』
『もし見たくないならスカートは下ろさずパンツだけ下ろせば?』
暦先輩の答えは、想像よりもあっさりとしていた。案外、先輩にとってはどうでも良いことなのか?とにかく、そんな事を考えていられる余裕はなかった。トイレに入り、言われた通りスカートは下ろさずパンツだけを下ろして腰掛ける。
普段とは違う、緩んで漏れ出ていくような感覚が下半身に伝わっていった。
「はぁ……」
安心やら恥ずかしさやら色々なものが混じったため息を吐くと、スカートの下から響く水音がさらに大きく聞こえるようになる。音が止まるまで、不思議な気持ちで目を瞑っていた。
トイレットペーパーを多めに引っぱり、万が一にも指先に触れた感覚が伝わらないよう、大きめの紙玉を作ってスカートの下へ入れる。もしそんな事をしてしまったら、頭が情報を処理しきれる自信はなかった。何回か擦ると、紙玉を水に落とす。ゆっくりと立ち上がって水を流すと、下ろしていたパンツを履き上げた。
「ぴゃっ!」
暦先輩の喉から、今までに聞いたこともないようなか細い声が上がった。下半身にひんやりとした電流が走ったせいだ。再度パンツを下ろしてそっと確かめると、股間部分に薄く水分が広がっているのが分かった。
拭きが甘かったか? それとも、体内にまだ残っていた? もしくは、脱ぐ時すでに少し漏れてた……?色々な可能性が頭をよぎったが、事実は変わらない。汚してしまった。いくら先輩相手でも、流石にこれは言えるわけがない。
「やるしかないか……」
かくなる上は仕方がない。トイレから出ると、リビングにあった洗濯ラックを見てみる。幸運にも、同じような形状の下着が干されていた。これでクローゼットは開けずに済む。ほんの少し申し訳ないと思いつつも、洗濯バサミからそれを取り外し、脱衣所へ向かう。
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カチリと軽い音を立てて脱衣所の明かりをつけると、ごく普通の、清潔な空間が照らし出された。洗濯機の上には、綺麗に畳まれたタオルが数枚。
手に握りしめたのは、乾いた下着。これから僕が身につけるものだ。そして、今まさに自分が身につけている、湿ってしまった下着を、どうにかしなければならない。
頭では分かっている。これを脱ぎ、身体を洗って、新しいものに履き替える。全ては僕の失敗を取り繕うための、やむを得ない行為だ。 けれども、その一つ一つが罪深いものに思えてならなかった。
僕はゆっくりと、暦先輩の制服のスカートのホックに手をかけた。慣れない手つきでファスナーを下ろし、変なシワが付かないよう平らに置く。次に、シャツのボタンを一つ、また一つと外していく。昼間、体育の授業の前に一度経験したはずの行為が、今はまるで初めてのように感じられた。
シャツを脱ぎ終えると、僕は完全に動きを止めてしまった。 現れたのは、肩紐が太く、胸全体を覆うようなシンプルな黒い布地。
昼間、学校にいる時から、何となくその存在は感じていた。たぶん、スポーツブラというやつだ。ホックのような金具は見当たらない。ということは、これを頭から脱がなきゃいけないのか。
僕は、体操着のTシャツでも脱ぐような感覚で、裾を掴んで上に持ち上げた。しかし、胸の膨らみが予想以上に抵抗となり、布地がそこで引っかかってしまう。
「うぐっ……!なんだこれ!?」
慌てて腕の角度を変えようとすると、今度は長い髪が絡みついてきて、身動きが取れなくなる。一人で脱衣所の真ん中で、変なポーズのまま固まってしまった。数秒間もがいた末、ようやく頭から引き抜くことができた時には、僕はすっかり息が上がっていた。 外したそれを棚に置き、大きく息をつく。たかが下着一枚で、こんなに疲れるなんて……。
「うぅ……」
洗面台の鏡に映る姿から、必死で目を逸らす。 そして、湿った感覚の残る下着に、震える指をかけた。 それは、僕の今までの人生で、最も長くて気まずい瞬間だったかもしれない。
脱ぎ終えたそれを、誰にも見られないよう、固く丸めて洗濯機の蓋を開ける。中には、他の洗濯物も入っていた。その一番下に、そっとそれを押し込んだ。これで証拠は消えたはずだ。
今はもう、身体には何も纏っていない。僕は固く目をつぶり、ほとんど祈るような気持ちで、浴室へと続くすりガラスの扉に手をかけた。 ひやりとした取っ手の感触が、罪悪感で火照った手のひらに、やけに冷たく感じられた。
浴室に入り、ドアを閉める。カチンという取手の音が狭い室内に反響し、僕の緊張をさらに張り詰めさせた。鏡に映る姿を見ないように、すぐにシャワーの方へと視線を移した。
壁のホルダーからシャワーヘッドを外し、蛇口を捻る。 最初は刺すように冷たかった水が、数秒かけてぬるま湯に変わっていく。
「どうしよう……」
頭は真っ白で、思考はまとまらない。ただ、ぼんやりと流れ落ちるお湯を眺めていた、その時だった。
いつもの癖で、僕はシャワーヘッドを持つ手を、そのまま自分の頭上へと持っていってしまったのだ。
次の瞬間、ズシリ、という衝撃に近い重みが頭にかかった。短い髪ならすぐに流れ落ちるはずのお湯が、長い髪にたっぷりと含まれ、首筋や背中に、べったりと張り付いてくる。
「……あっ」
そこでようやく、自分が何をしてしまったのかを理解した。慌ててシャワーヘッドを下ろすが、もう遅い。肩まである髪は、すっかり水を吸ってしまっていた。
「はぁ……」
思わず、深いため息が漏れる。
「……もう、洗うしかないか」
僕は観念して、壁際に並んだシャンプーのボトルに手を伸ばした。甘い果物のような香りが、ワンプッシュごとに湯気と一緒になって立ち上ってくる。
「意外と、普通?」
シャンプーは、しっかりとした女性用ブランドのものだった。暦先輩のお母さんが使っているのだろうか?考えてみれば確かに、先輩から変な匂いを感じたことはない。その辺にはしっかりしている家庭らしい。
そう思った途端、妙な義務感が芽生えてきた。雑に洗って、後で髪がギシギシするなんて事になったら申し訳ない。僕は、まるで美術品でも手入れするように、指の腹で丁寧に、優しく頭皮をマッサージするように洗った。
やや多めの髪全体に全体に泡を馴染ませた後、シャワーで流していく。これで合っているのかは分からないが僕にできる精一杯のことだった。
「よし……」
ひととおり泡を流し、シャワーを止めて頭を上げる。泡が落ち、水気を含んだ髪の暦先輩が鏡に映った。
「……かわいい」
ほとんど無意識に、そんな言葉を呟いてしまっていた。普段はぴょこぴょこと毛が飛び出ている黒髪が、しっとりとしたツヤと共に垂れ下がり、顔や首に密着している。水に濡れた暦先輩の姿は、いつもより何倍にも艶かしく見えた。
髪の行き先を目で追っていくと、肩口から鎖骨の下あたりまでぴったりと白い肌に張り付いている。
「……!」
気づいた時には、もう遅かった。湯気の中で、きらきらとした水滴が肌の上を滑り落ちていく。豊かな膨らみが、呼吸に合わせて、わずかに上下し震えていた。 見てはいけない。そう頭では分かっているはずなのに、視線を外すことができなかった。
雫のしたたる音と、換気扇のうなり声だけが、他に誰もいない浴室に響いている。
朝からずっと、その重みと柔らかさをシャツ越しに感じていたもの。ダンスをする時、靴を履く時、事あるごとに腕へ当たって僕を驚かせたもの。その全貌が今、目の前に曝け出されていた。
シャンプーの隣に並んでいた、ボディーソープへと腕が伸びる。それは、すでにほとんど決壊した良心が残した、最後の言い訳だった。石鹸を手のひらに出すと、機械的にこすり合わせて泡を立て、まっすぐに胸元へと向かわせた。
指先が、その柔らかな丘に触れた瞬間、時間が止まったように感じた。
「……あたたかい」
それは、熱を持っているかのように温かかった。単にシャワーの温水の熱が残っているのか、それとも、これが「女の子の身体」の体温なのか。
分からない。分からないけれど、指先から伝わってくる、今まで経験したことのない弾力と、生命感あふれる温もりに、思考へ麻痺が広がり始める。
そのまま、全体を包むようにして優しく手のひらを回していく。隔てる泡がクッションとなり、ほんの少しだけ、罪悪感を軽くさせた。少しでも指を立てると、そのまま沈み込んでいきそうな柔らかさ。下の方に手を滑らせて、軽く押し上げてみる。日中とは違い支える物のない重量が、指の動きに合わせてたゆんたゆんと振動した。
「これが……暦先輩の……」
入れ替わる前から、漠然と分かってはいた。他の女子と比べても、暦先輩はかなり大きい方だと。でも、いざ実際に見下ろすと、その大きさが文字通り肌で感じられる。ダメだ。これは暦先輩の身体だ。僕がこんなことをしていいはずがない。
理性では分かっているのに、手は止められなかった。泡をまとった人差し指が這いずり上がり丘の頂点に触れる。先端には蕾のような突起があり、他の部分よりも少し硬くなっていた。繊細な指の先にある、よく手入れされた爪が、蕾を引っ掻く。
「……ひぅっ」
自分の喉から掠れた甘い声が漏れ、全身の毛がよだつ。ほとばしる電気と背徳感に、頭の回路が焼き切れる音がした。他の指も、その点へと伸びていく。触れるに瞬間には震えていた指先も、一度触れてしまえばそこから先は躊躇うことなく進んでいった。
「は、ぁ……っ……んんっ……」
指の腹で突起を撫で、爪を立てるごとに、吐息が荒くなっていくのを感じる。ふと前に視線が向くと、薄くもやのかかった鏡の中に今の姿が映り込む。目の前の自分は、顔を上気させ、肩で息をしている。両脇から挟むようにして握られた双丘は、間に吸い込まれそうな深い裂け目を作っていた。
いつも見ている奔放で純粋な暦先輩はもうそこにおらず、快感を求める一人の女性がいるだけだった。
「ふ……ぅん」
胸を愛撫していた手はゆっくりと下へ滑り、腰のくびれ、腿の付け根へと泡のわだちを残しながら、その先へと向かう。
元はと言えば、ここの始末に来たんだ。洗わない訳にはいかない。いくら理由を並べても、所詮は都合の良い、黒い欲望にまみれた建前。そんな事は自分でも痛いほどよく分かっていた。それでも、言い聞かせなければ 自分がバラバラになってしまう気がした。
この体を今は好きにできる。独占欲と罪悪感とが、頭の中で複雑に絡み合って僕を突き動かしていた。
指先がそっと触れるだけでビクリと腰が跳ねる。水を吸って何本かにまとまった薄い茂みに泡を絡ませながら、その奥の花園へと進んでいく。
「うぁあ……」
割れ目は既にじっとりと湿っていて、指先を当てると温水の温かさとは異なる確かな湿度を感じる。明らかにシャンプーでもボディソープでもなく、もっと粘度が高い別の何か。一度手を離し、人差し指を鼻に近づけると、香料に混じって、微かに刺すような匂いがするのを感じた。顔が熱くなり、全身の血が沸騰したように体温が上がる。馴染ませるように人差し指と親指を擦ると、もう一度股間へと向かう。
「んん……」
厚く柔らかい花びらを優しく撫でると、指はゆっくりと中へと侵入していった。
静寂に包まれた浴室の中で、高鳴る鼓動だけが聞こえる。鼓動のリズムと同期するかのように、指先に圧迫感の波が伝わってきた。
下半身には明らかに違和感があるのに、むしろそれが心地良い。もっと奥まで挿れたい。そんな衝動が湧き上がってくる。ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てながら、それは指先をさらに奥まで咥え込む。中指と薬指、2本の指の大部分が飲み込まれた。
「んぁ…………ぁうっ!」
中を探るように、そっと弄り回す。柔らかい締め付けと共になんとも言えない感覚が伝わる中、突然指に引っ掛かりが覚え、下半身全体にむずむずとした快感が広がっていくのが分かった。
「何これ……ぅ、はぁ……っ!」
パニックになる僕の意思とは別の生き物のように、指の腹が同じ場所を撫で回す。意識がどんどん蕩けていくような気がして、開いた足ががくがくと震える。蜜がさらに溢れ、腿の内側まで汗と混ざりあいながら伝っていく。
「だめだ……っ、このままじゃ……ふぁ……っ!…ぁんっ……ぅ……!」
身体に力が入らない。指だけが、意思を持った生き物のように動き続ける。僕はついに身体を折り曲げ、もう片方の手で自身の乳房を強く握りしめた。指の隙間からあふれるほど、大きく柔らかな脂肪が揺れる。
「ひゃ……ぅ……これ、すごく……あぅ!……んん……!」
尖った乳首が指でつぶれると、甘い痺れが脳に突き刺さる。指で執拗に刺激を与えると、先端はさらに硬度を増して膨らんでいく。先輩の身体でありながら、興奮が収まらない。だめだと思えば思うほど欲望が抑えきれなくなる。
「くぅ……っ!……ぁ……こよみ、せんぱ……ッ!やっ……あん……あああっ!」
両手を使って全身を責め立てる快楽に溺れているうちにとうとう限界を迎えてしまった。膣に埋まった指が内側を動き回り、反対の手が乳首を摘み上げると同時に最高潮に達した快感は、全身に強烈な痙攣を起こす。腰は跳ね上がり足はピンと伸びきる。電気が走るような感覚と共に視界が白く染まった。
「はぁ……はぁ……」
力尽きた身体はぐったりと背中を丸め、肩で息をする。セミロングの髪が、床以外の視界をカーテンのように遮った。
「暦先輩、ごめんなさい……」
そんな呟きが、ぽつりと浴室に反響した。
[]
とんでもない事をしてしまった。
そんな罪悪感で、しばらく僕は放心状態だった。犯した罪の証拠は全て流されて排水溝の中。時間がかかるはずの長い髪を乾かすのも、気づいたらもう終わっていた。
タオルで水分が拭き取られた体に、リビングから持ってきた新しい下着と、元通りの制服を身につけ、先輩の部屋のベッドに横になっている。
「あと5時間弱かぁ……」
時計の時刻は11時半過ぎ。約束の時間までは、まだかなりある。本来なら寝てもいいのだけれど、とてもそんな余裕はない。
寝返りを打てばあの胸の重さが胴体にのしかかってくるし、枕からはほのかにあのシャンプーの香りがする。目を閉じれば、さっきの光景が瞼の裏に浮かんで睡眠どころではなかった。
「先輩は今頃、何をしてるんだろう」
薄暗い部屋の中、シルエットになった本の山や、地図上に描かれた幾何学模様を見ながら、ふとそんな事に思いを馳せる。
今回の事件について考察を深めているのか。あるいは僕の部屋の中を引っ掻き回したり、家族にダル絡みをしているのか。それとも僕と同じように……いやいや、そんな事はないか。
別のことを考えようとしても、記憶は拭いされない。枕元にいるモスマンのぬいぐるみが、じっとこちら側を見つめているような気がする。暗い部屋の中の苦悶は、ずっと続いていた。
***
ぽつぽつと光る街灯の中を、僕は重い足取りで歩いていく。まだ空に光はほとんどない。
約束の時間よりはだいぶ早いが、家にいてもしょうがないので、早めに約束の場所へ向かうことにしたのだ。例の神社は暦先輩の家からかなり近く、歩いて行ける距離だった。
石段の前に着くと、薄暗い茂みの近くに、見覚えのある自転車が停めてあるのが見えた。
「まさか……!」
訳のわからない衝動に駆られ、石段を一つ飛ばしで駆け上がる。思えば、今日一日でかなりこの体での歩き方にも慣れたものだ。
頂上に着くと、社殿の近くに人影がいるのがわかった。
「あれ〜!? もう来たんだ」
耳に覚えのある男の声が、ミスマッチなトーンで聞こえる。向こうはスマホのライトをつけてこちらを照らしてきたが、僕の方は相手を照らし返すことはしなかった。まともに顔を見られる気がしなかった。
「そ、そっちこそ、随分早いですね」
「そりゃそうでしょ、チャンスを逃しちゃいけないもん」
さっきまでの罪悪感を頭の隅に追いやり、素直な感想を口にする。先輩は自慢げに胸を張った。先輩がいつも通りなのに安心すると同時に、心へ小さな棘が刺さる。
「立ってても辛いだろうから、ほら」
古ぼけた社殿の縁側をライトで照らし、横に座るよう腰掛ける。冷えた木の感触が、腿の裏へ直に伝わってきた。聞こえるのは、夜風に揺れる木々のざわめきだけ。街は遠くでまだ寝静まっている。
僕は、隣に座る僕自身の顔を、正面から見ることができなかった。何かを話さなければ。その焦りから、僕は一番聞きたかった、そして一番聞きたくなかった質問を、静かに切り出した。
「……暦先輩」
「なに?」
暦先輩は僕の顔で首を傾げる。どうやら先輩の体は僕よりも夜目が良いらしく、明かりがなくても薄っすらとその表情が見える気がした。
「もしUFOが来なかったら、どうしますか?」
「明日もう一回ここに来てみる」
「ぷっ」
思い切ってぶつけた質問には、身も蓋もない答えがすぐに返ってきた。突拍子もない答えに、思わず吹き出してしまう。
「何で笑うのよ。明日もダメなら明後日も来てみる。明後日もダメならその次も」
「ふふふふ……」
先輩の声を聞いているうちに、変な笑いが込み上げてきた。あまりに真っ直ぐな、諦めの悪さが、なぜだか無性に面白かった。自分でもなにがおかしいのか分からないまま、肩を揺らして笑いを噛み殺す。
「何回かやってダメそうだったら……」
笑う僕に構わず話しつづけていた暦先輩の声が、半音だけ下がったような気がした。
「その身体、渉くんにあげる」
シン、と空気が静まり返った。
木々のざわめきが、耳からシャットアウトされる。
闇の中から聞こえてきたその静かな声に、僕は全ての笑いを忘れ、息を呑んだ。驚いた、というよりは、意味が飲み込めなかった、という方が正しかった。
「“
ほとんどシルエットの状態で、先輩は自分の胸をポンポンと叩くのが見える。
「私は、いっぱい調べて、必ずあのUFOともう一度会う」
先輩の言葉には、希望ではなく現実的な目標を語る、ある種の本気が籠っているように思えた。この人は、どこにいても、どんな身体でも、変わらないんだ。改めて実感し、暗闇の中のその姿に目を凝らした。
「最初に調べるのは、月、かな」
「月……ですか?」
先輩がフッと顔を上げ、つられて視線を追う。
東の空に、白色をした綺麗な弧が淡く浮かんでいる。
昨日よりも少し細くなっているけども、周りの暗さもあって輝きは増しているように感じた。
「知らない? 月は、いつも地球に同じ面を向けて回ってるの」
「いや、それは知ってますけど……」
「こっちからじゃ、裏側は直接見ることはできないって事。今までいくつか探査機が行ってるけど全部が調べられた訳じゃない。どこかに宇宙人が住んでる可能性は、ある」
それなら前にも聞かされたことがある。実は裏側に大きな都市があるなんて話はもうとっくに否定されているけれど、どこかに居てもおかしくない、なんて先輩は熱く語っていた。ただ、本気で信じてるのは暦先輩だけな気もするけど。
「近いように見えても、意外と分からないことは多いって話ね」
「意外と分からない……」
先輩の言葉を、僕は無意識に反芻していた。近いようで、分からない……それは、月だけの話ではないような気がしたからだ。
「宇宙人だって、何度も長い距離を旅するのは面倒でしょ。地球にくる宇宙人は、近くに拠点を持ってるはず。まずは一番近いところから調べていかないと。当然でしょ?」
少しずつ早口になる僕の声を聞きながら、僕は肌寒い夜の空気を感じていた。
「……とまあ、今回は必要なさそうだね」
「来た、んですね」
得意げに話していた暦先輩が、小さく呟く。
昨日と同じ方角から、巨大化する流れ星が近づいてくるのが見える。時計を見ると、昨日よりも針は進んでいない。早く来た甲斐があった、ということだ。
「そういえば渉くん、私のカメラは?」
「え? 持ってきてないですよ」
「えぇ〜? それはちょっと部員としてどうかと思うなぁ」
嬉しい気持ちが滲んでいるのは分かるものの、昨日のように跳ねたり叫んだりする様子はなかった。2回目だと喜びも薄れるのか、もしくは——。
パシャリ。
「やっぱり、スマホのカメラじゃまともに映らないね」
先輩の手元から、シャッター音が聞こえる。構えているのは僕のスマホだった。薄い赤一色に染まった写真を見せてくる。昨日と同じ赤い光が降り注ぎはじめ、先輩の苦笑いがはっきりと目に映った。
「さて、これで元に戻るって保証はないからね。次に何が起こってもいいよう、心の準備はしておいてよ」
「……はいっ」
小さく、でも力強く、答える。もしかしたら、これが初めて、暦先輩を部長だと思った瞬間だったかもしれない。
頭の中に情報が流れ込んでくるかのような痛みが走り、視界が明滅する。意識を失う前、最後に見たのは、僕の顔で屈託なく笑う先輩の姿だった。
***
「……んん」
石畳の上で、手をついて起き上がる。
「はっ!?」
そうだ、成功したのか? 反射的に下を向き、身体を確認する。平らな胸板。足まで覆うズボン。固く骨が突き出た喉と、低めの声。
「戻った……!」
「……そうみたい」
声がした方を見れば、同じく起き上がった先輩が、手の開閉を繰り返したり、長くなった髪を指で撫でたりをしていた。
「あ、そうだ、時間……」
暦先輩が、自分の腕につけられた腕時計を見る。示していた時間は、午前7時半だった。
「えっ!?」
「なっ!?」
昨日起きた時よりも、かなり時間が経っていた。今日は早く来て、遅く帰っていくとは、なんとも分からない存在だ。
「と、それより!」
「あっ、ちょっと、待ってよ!私を置いて行く気!?」
モタモタしていたら遅刻してしまう。僕は立ち上がって石段へと向かっていった。心のどこかに、先輩の顔を見るのが恥ずかしい気持ちがあったのかもしれない。幸い、今日の場合は自転車の鍵が僕の方にある。先輩には悪いけど、今回は先に行かせてもらいます。
[]
二週間後、人がいなくなった放課後の教室。並べられた木の机が、差し込む夕日を反射して光っている。
「場所は? 時間は? 何か喋ってましたか?」
腰掛ける僕の視界の先では、先輩が僕の同級生を質問攻めにしていた。UFOの目撃情報もあれ以来ぱったりと途絶え、結局入れ替わった詳細は完全に謎のままだ。
「大きさはどれくらい? 毛の色は?」
当の先輩は、あのUFOに固執することなく、また別の獲物を追い始めていた。彼が見たという「人面犬」。それが次の獲物だ。
「毛並みは柴犬風? 洋犬風?」
僕からすればどうでも良さそうな事までも身を乗り出して質問し、逐一詳細にメモをとっている。インタビューを受けている彼の様子が少し変なのは、先輩の押しが強いから……だけではなさそうだ。
僕も、先輩の体になった時に改めて実感した。あの顔と体は、凶器だ。超至近距離にあれが寄ってきて、平常心を保てる男性はほとんどいないと思う。
緩めのネクタイから、白い首元が覗いているはず。ひょっとすると、シャツのボタンの間から素肌まで見えているかもしれない。
勝手に彼の苦労に思いを馳せながら、僕はその尋問を眺めていた。
「ふふふ、また面白いものが見られそうだね、渉くん!」
そんな状況もあって、先輩のインタビューはスムーズに終わった。メモを勢いよく閉じると、目を輝かせて僕の方へ駆け寄ってくる。
「……先輩、もっと振る舞いに気をつけた方がいいんじゃないですかね」
「何が?」
ほんの少し赤くなった彼が帰るのを見送ると、さりげなく先輩に注意してみた。いずれ勘違いされて面倒なことにならないか心配だし、僕もあの時のことを思い出して胸が苦しくなるからだったんだけども、先輩は何のことか分からないとばかりにきょとんとするだけだ。
「だから、初対面の人にはもう少し適切な距離感ってものをですね……」
「ああ、そういう事ね。ごめんごめん、夢中になるとついそうなっちゃうんだよ」
ここまで言われてようやく僕の言った意味を理解したらしい先輩は、片手をひらひらとさせて適当に謝ってくる。
「まったく……」
やっぱりこの人は不安だ。好奇心に身を任せすぎて、自分の体のことに無頓着すぎるんじゃ——。
「——ただね渉くん」
ゆったりと歩く先輩は、僕の後ろに回った。振り返ろうとした時、僕の頬にほんのりと冷たい指先が触れる。 全身が金縛りのように硬直した。
「もしかしたら誤解してるのかもしれないけど」
両頬が先輩の手に挟まれる。細い腕は緩やかに顔の側面を滑り下り、首をそっと包んできた。
頭のてっぺんでは、顎を置かれたような感覚がある。長い髪が垂れ下がり、あの時嗅いだシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
聞こえる微かな吐息。
そして両肩には、一日だけ、確かに僕のものになっていた、あの柔らかい重さがのしかかってきた。
「私もさ、自分が男のヒトにどんな目を向けられてるか、気づかないほど鈍感ではないよ」
囁く声が、耳を支配する。月の裏側には、本当に知らない世界があるかもしれない。ふと、そんな事が頭をよぎった。