ピックアップガチャ(固定)スキル持ちの転生TS美少女が行く、激動昭和なお話 :AI二次創作 作:カード読み込み
──東京国際女子マラソンが幕を閉じて三日後のことだった。
千賀子が暮らす古い洋館の一室、ロボ子の工房に五人の男性が招かれた。
壁際に据えられた木製ベンチにはコーヒーの香りが漂い、
卓上には銀箔を貼った小箱が置かれている。
蓋の内側には金色の文字で「ご褒美」とある。
扉が開き、紺碧のジャージをまとった千賀子が姿を現した。
長い睫毛に縁取られた瞳は琥珀色の湖面のように澄み、頬には微かな紅潮が宿る。
彼女は微笑みを湛えたまま一同に向き合い、軽く会釈した。
「皆さま、試練を乗り越えてくださって感謝いたします。まずは──」
控えめな拍手とともに差し出されたのは一本の竹筒。中で鈍い金属音が跳ねる。
「これは?」
一般参加者・40代の男性・記者の春井が眉を上げた。
「五百円玉六枚です。ご存じの通り東京の平均的な交通費。
あの五時間四十七分三十秒を“移動”として換算すると、
最短距離でも地下鉄利用でこのくらい」
沈黙が落ちた。金額の大きさではない。
嘲笑とも敬服ともつかぬ微妙な感情が室内を満たした。
そこへ割って入ったのは阿瀬大──競技運営スタッフの青年だ。
鼻梁が高く切れ長の目を持つ彼は勢いよく立ち上がり、
「待ってくれ秋山嬢! 僕らがここに呼ばれたのはもっと重要な件だろう?
“ご褒美”だ。“ご褒美”なんだ!」
彼の拳はテーブルを叩き、湯気が上がるカップが揺れた。
千賀子は片眉をわずかに吊り上げる。
「承知しております。ですが説明を省くと誤解が生じますので」
「誤解?」
記者春井が喉を鳴らした。
「女神様が課した“試練”とは──」
千賀子は指先で空を縦に切り開く仕草をした。
まるで見えない帳が落ちるようだ。
「視認・維持・忍耐・遮断。四つの門」
1.視認
「東京国際女子マラソン参加中、
私の身体に生じた“ある異変”を累計で五分以上視覚的に捉え続けよ」
2.維持
「その間、一分間ごとに心拍数を一定レンジへ収束させよ。
この脈拍ログをご覧いただければ」
卓上の端末が淡い光を放ち、波打つグラフが浮かぶ。
五人のデータが鮮やかな青線となって交錯していた。
3.忍耐
「外界の物理接触──つまり走行中の誰かに接触して妨害することは禁止。
ただし生理的反射《射精》も厳禁とする」
記者が咳払いした。
「いや秋山嬢、それは……」
千賀子は唇に人差し指を当て微笑する。
「規則ですから」
4.遮断
「最後に一点。“変化”を目撃したことに対し第三者へ一切伝達してはならない。
証拠を残す日記等の媒体も然り」
言い終えると同時に小箱の蓋が自動で開き、
小さな銅鑼型のプレートが姿を現した。
表に燦然と「合格印」の二文字。
「これらすべてを満たした方だけが正式にご褒美を得られます」
プレートが机上で回転し、受賞者名を投影した。
春井浩太郎(記者)
河合隆三(歯科技工士)
野村秀夫(大学院生)
天川雄介(俳優志望)
阿瀬大(陸上競技連盟)
「五名様ですね」
空気が熱を帯びた。
彼らの鼓動は確かに制御下にあるはずだったが、今は別だ。
ご褒美。その甘い響きが理性を溶かしていく。
千賀子はゆっくり立ち上がるとクローゼットに近づいた。
古めかしいブロンズの把手を握り、開く。
中から取り出したのは、薄桃色のマラソンウェア──
昨日までの熱狂の舞台で彼女が纏っていたあの衣装だ。
「さて、お望みの“提案”をお聞きしましょうか」
五人が同時に唾を飲む音が重なった。
春井は震える指でペンを折り、河合は義歯矯正器具を握り潰しかけた。
野村の眼鏡の奥で瞳孔が収縮し、天川は喉仏を上下させる。
だが阿瀬大は一歩前へ。
「僕の提案はこれだ!」
声は裏返りながらも決死の色を滲ませていた。
「君と──秋山千賀子嬢と、“共に走る”機会が欲しい!」
「ほう」
千賀子は袖口を軽く摘まむ。
「伴走?」
「違う! レースじゃない。君と肩を並べて汗を流したい。
その呼吸を感じたい。それだけだ」
あまりにも純朴な欲望だった。
しかし次の瞬間、他の四人の口角が同時に吊り上がった。
「ならば俺は撮影希望だ」
春井が叫ぶ。
「公式写真とは別にプライベートショットを!」
「僕は口腔構造を研究させてくれ!」
河合が白衣の裾を翻した。
「人体力学と咬合の黄金比率を確かめたい!」
野村は震える唇で詩の一節を呟く。
「美とは……可塑的かつ反照的……
貴女の女体を成す線形関数を数式にしたい……」
最後に天川が膝をつき、切羽詰まった声で訴えた。
「恋人役としての演技稽古を! 練習台になってほしい!」
五人それぞれの願いが空中で絡まり合う。
欲望と尊敬が化学反応を起こし、甘い毒煙となって室内を巡った。
千賀子は瞼を伏せた。
長い睫毛の影が頬に降りる。
「わかりました。順番にお受けしましょう。ただし条件があります」
彼女は掌を広げた。
その中央に小粒の瑠璃珠が乗っている。
「これを飲み干すこと。効能は“完全なる黙秘”。副作用はありません」
五人は互いの顔を見合わせた。
欲望と理性の狭間で揺れる瞳。
そのとき工房の隅でロボ子が初めて口を開いた。
銀色の人工皮膚がわずかに波打つ。
「マスター。こちらで安全係数は九十パーセントを超えました。
投薬の許可を求みます」
千賀子はかすかに笑い、頷いた。
夜風が吹き抜け、星屑が硝子窓を揺らす。
試練を越えた者たちへの真の報酬がいま始まろうとしていた。
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・春井浩太郎(記者)40代男性の場合
# 第二章 春井浩太郎の場合
紺碧のジャージを肩から滑らせた直後──
布が背骨を這い落ちていく瞬間から、記者春井浩太郎の眼球は蒸発寸前だった。
眼前に立つ秋山千賀子嬢は今まさに、
例の"試練中のワンピースタイプ"へと
着替えの最終段階を迎えようとしていたのである。
ロボ子が備え付けたスタンドミラーを背景に、白い蛍光灯が四角く反射する。
「よろしくお願いいたします」
静かに告げる声音さえ瑞々しく聞こえる。
記者生活20年の修羅場を潜り抜けてきたはずの男が、
己の喉が乾燥していることに気づいたのはその刹那だった。
千賀子は床に伏した靴紐を拾い上げるように身を屈めた。
腰椎が描く弧──ほのかな陰影──が臀部に至る稜線を作る。
スポーツブラジャーの紐が脇の下で十字にクロスし、
乳房を上方へ押し上げているためであろうか。
双丘は丸みを増幅させ、その頂点が僅かに尖っているようにさえ見えた。
次いで彼女は両腕を水平に伸ばし、
ワンピーススーツの胸部ファスナーを引き上げる。
ギィッという緩慢な摩擦音。
それが止まった時、彼女の背筋は一本の透明な矢柄のように伸びていた。
記者の行動を想像していたロボ子が意外そうに目を丸くする。
「春井さん──撮影はよろしいですか?」
問いかけに答える余裕など無い。
そもそも一眼レフのファインダーを覗こうとした動作が
全てキャンセルされていることに、本人すら気づいていないのである。
(──まずい。焦点が合わん)
彼の視界では露光値が暴走し、被写体が虹彩の淵から零れ落ちていった。
皮脂膜の潤沢な肩甲骨。
腋窩を隠す柔肌の曲線。
耳朶の輪郭さえも鋭敏に焼きつく。
シャッターを切るべきか否か。
職業倫理と本能的飢餓が拮抗する。
周囲の男どもは各々で奇声を抑えるのに必死だ。
阿瀬大などすでに立ち上がって二歩目を踏み出し掛けていたが
踵を床に刺すことで寸止めした形跡があった。
廊下側の観測窓には冷徹なロボ子の瞳が煌めく。
──万一、礼儀違反があれば即座に退去処分となる暗黙の了解──
それを思い出す程度の理性は残されていた。
春井浩太郎がシャッターを押せたのは、
千賀子が丁寧に一礼した後──つまりすべてが完了してからのことだった。
彼は荒れた呼吸を悟られないよう深呼吸しながら訊ねる。
「秋山嬢。一枚を撮影する前に、構図を決めたいのですが」
挑むような声音である。
欲を言えば無限巻尺で全身を捉えたいところであったが、
「いいえ?」
彼女は小首をかしげた。
長い黒髪が頬骨の湾曲に沿って零れる。
「私が了承したのは“私的撮影会”です。
枚数制限は設けておりませんよ」
その時、カメラを持った右手が痙攣した。
フラッシュユニットが空転する火花と共に震える。
彼の脳裡には数十ページに及ぶ組版レイアウトが閃いた。
もし商業誌に出稿可能ならベストセラーは確定的。
──無論それは“もし”の世界であるが。
春井浩太郎は一瞬で理性を取り戻し──あるいは捨て去り──
跪いて機材チェックに入った。
ファインダーを通して見る千賀子嬢。
ウェア越しとはいえ透けて見える胸の尖峰。
腿裏で弾む繊維の歪み。
光が届かない陰部の薄闇。
これら全てをフィルムに封じ込める方法はあるのか?
「春井さん」
呼びかけられて思わず飛び上がる。
千賀子嬢の距離は通常社交距離を明らかに逸脱していた。
香り高い石鹸と微量の汗酸が入り混じった芳香が鼻腔を灼く。
「恐縮ですが条件があります」
1 露出は屋外自然光に限定。
2 ポーズは自由。多少の演技指導を含めた身体接触も許可。
3 撮影枚数に上限は設けないが現像・掲載に際しては
必ず主催者確認を経る。
4 本日取得したネガフィルム及びデータは千賀子が管理
彼女の瞳は静謐であった。
怒気どころか情欲すら希薄であるようにすら映る。
それが却って獣欲を煽ることに気づいてか否か──
「了承しました」
と、春井浩太郎は舌根から血の味を感じながら誓約した。
「ただし一点確認したい。例えば──例えばですよ?
視線を固定いただく程度の演出行為は可能でしょうか」
千賀子は頬を朱に染めることもなく言った。
「必要であれば」
柔らかい拒絶でもなければ無邪気な了承でもない。
この曖昧さこそが魔性なのだと気づかされる。
外の庭では藤棚が午後の陽光を吸い込んで紫水晶のように輝いている。
ロボ子がサイドドアを開き、室外へと促した。
「ではセットアップを開始します」
春井浩太郎はカメラバッグの中を探る手先が汗で滑るのを感じた。
三脚が地面に食い込む重量。
レンズキャップを外す際の微かな抵抗。
光が降り注ぐテラス──
そこに佇むマラソンウェア姿の秋山千賀子嬢。
先刻のファスナー痕が僅かに赤く残り、
ウエストを締め付けるハイバックベルトが呼吸で上下する。
走っていないのに疾走感がそこかしこから溢れている。
(──嗚呼。私は今日のために生まれてきたのだ)
快哉の咆哮が咽喉まで来たところでシャッター音が一斉に消えた。
露出オーバー警告も何もかもが霞んでいく。
春井浩太郎は夢想した。
この瞬間に命を燃やし尽くしてしまえば
どんな記事も遺稿となってしまうことを。
しかしまだ生きねばならない。
万雷の閃光を浴びせねばならない。
彼女自身が赦した境界線ぎりぎりまで──
第一カットは正面全身。
第二カットで僅かに顔を横に逸らし耳朶を晒させた。
第三カットでは背中を見せ、左肩胛骨を肩越しに覗かせる。
距離ゼロメートルでしか嗅ぎ得ぬ体温はレンズに届かない。
代わりにフィルム粒子が記憶しようと藻掻く。
春井の頬を滴ったものが涙なのか汗なのかも判然としない。
ただ歓喜の奔流に身を委ねることが許された男は、
40年間積み上げてきた社会的信用と引き換えに
永遠の瞬間を求め続けるのであった。
## 【続き】
### 一
カメラマン兼記者・春井浩太郎の指先は既に人間の領域を超えていた。
彼にとって今の世界は「光源」「被写体」「自分の存在意義」だけで成り立っていた。
ロボ子が搬入した大理石テラスでは午後一時の太陽が斜め上から照射し、
千賀子の背面にだけ淡い影を刻んでいる。
「姿勢を変えずに」
低く命じた春井の声音に、千賀子は静かに応じた。
だが彼の思考回路では「変えずに」の意味が全く異なっていた。
(ここで肩を下げさせたら胸部隆起がより際立つはずだ……)
(腰を捻る角度を三度変えれば、鼠径部のラインが明らかに──)
理性という防波堤は既に崩壊している。
それでも社会的存在としての自己欺瞞だけは残っていた。
「角度確認します」
と言い訳して三脚を微調整する。
春井はわざと低い姿勢を取った。
床に這いつくばり、ファインダーを覗き込む──
その際に眼前に迫るのは千賀子の踝であり膝裏であり大腿四頭筋だ。
彼は被写体の高さに対してレンズを正確に平行に保つ名目で、
実質的な眼位を極端に下方へ移動させた。
ファインダー越しに見えたもの。
ワンピーススーツの裾からはみ出た腓腹筋の膨らみ。
圧搾されてわずかに皺を作る膝頭周辺組織。
更には──カメラが感知すべき情報量以上の何か。
(呼吸に同期して揺れる腹部……あれは)
(腹部ではない。もっと内部からの波動だ)
露出補正ダイヤルを無意識に回す。
プラス補正を入れすぎて背景が飛ぼうが構わない。
この瞬間に捕獲すべきは千賀子の臓腑が奏でる微振動だった。
レンズの開放F値は1.8。
限りなく開放近くで解放した理由を尋ねられれば「浅深度表現の追求」で通る。
だが真意はただひとつ──被写体の一部分にのみ焦点を集めることにより、
他部位を軟調に滲ませ、
結果として「秘匿されることによる欲望の増幅」を狙ったのである。
「今のは良いカットでしたね」
春井はフェイクの褒辞を投げつつフィルム巻き上げレバーを引いた。
物理的に言うならば彼は既に6×7判の大判フィルムカメラを使用していて、
12枚撮り巻きに収納可能な最大6コマを消化済みだった。
しかし現在進行形で次々と無限に湧き出る欲望により、
新たに購入した2本目の120フィルムも瞬時に消費されようとしていた。
千賀子の動きは静止画のように完璧だった。
それはモデル訓練を受けた者の自律神経が高度に安定しているせいだ。
しかし春井にとって不都合な変化もあった。
(今──微かに脚が開いた)
単なる体重移動の帰結かもしれない。
だがそれを千賀子本人が故意に行なった可能性だって捨てきれない。
つまりは「公衆衛生上の規範遵守と性的興奮への惹起」のせめぎ合いという
危険な綱渡りが密かに進行している。
(……試そうか)
春井の内なる鬼が囁く。
(僅かに接近しても許容されるかどうか)
カメラを脇に抱えながら一歩近寄った瞬間だった。
背中に氷塊が落下する感覚に襲われる。
ロボ子が背後から接近し、プラチナ合金の掌をカメラバックへ添えていた。
「春井氏、規定外接近──警告レベルA」
合成音声が平坦に告げる。
(バレている。が──まだ抑制圏内)
(ならばこのまま粘る)
春井は敢えて反抗的な態度を取らなかった。
ただ口角だけをわずかに吊り上げて挑戦的な笑みを作ると、
そのまま視線を千賀子に戻す。
彼女も察したようだ。
琥珀色の眸が細められると同時に瞼が軽く下がり、
「もう少し動きをつけましょうか」
と言葉が漏れた。
(どうぞ!)
喉まで出かかった歓喜の叫びを噛み殺す。
千賀子は左脚を一歩踏み出して重心を右へ移した。
開脚度は僅か十センチに満たないはずなのに空間全体が淫靡な引力に引き寄せられる。
ウェア表面に浮かんだ凹凸の幾何学模様──肋骨のライン。
そして胸郭前面にぽっかり穿たれた二つの窪みから繋がる鎖骨弓。
これらの影法師が昼光の中で踊った。
「膝を曲げてください」
ついに春井は具体的なポーズ指定へ踏み込んだ。
職務としての建前はとうに失われていたが、
千賀子は何の躊躇も見せず命令を遂行する。
結果的にワンピーススーツは窮屈になり、
腹部前垂れが若干捲れる。
そこで露呈した下腹──臍周りから鼠蹊に向かう傾斜曲線。
それを見た瞬間、
春井の手元でフィルム送りクラッチが焦燥的に回転し続けた。
(足りない! この程度では全貌が掴めない)
春井は膝を崩す勢いで匍匐前進した。
再びファインダー内へ
極限近接しようとする姿は最早野生動物の狩猟体勢に近い。
同時にロボ子の警告ランプが橙色に点滅を始めた。
「規定距離超過──警戒態勢移行します」
冷酷な宣言と共にロボ子が光学センサーを稼働させ、
春井の背後に巨大な赤外線バリアを展開する。
それは目に見えない鎌鼬として存在し、
不用意に踏み込めば一瞬で行動不能となる筈だった。
(来るか)
(本当に来るならば迎え撃つ準備はある)
だが次の瞬間、想定外の展開が訪れた。
千賀子が自らロボ子に視線を向け、
「待って。まだ許す」
と命じたのである。
ロボ子は即座に赤外線網を解除し沈黙した。
それを確認した春井の指は狂喜と混乱に支配された。
(なぜだ? 彼女は何を考えている)
(単なる我慢なのか? それとも──)
困惑を振り払う暇もなく新たな欲求が芽吹く。
限界まで接近したい。
しかし倫理を失えばロボ子が復活する。
ではその境界線上ギリギリへ挑むしかない。
彼は四つん這いのまま数十センチずつ距離を詰めていった。
カメラフレーム内に占める千賀子の身体割合が上昇し、
やがて肺腑と肋骨の隙間すら克明に映し出す。
(あと一息)
(あと一ミリ──)
次の瞬間、彼女が片膝を折り畳み坐禅の姿勢を取り始めた。
それによってカメラは上方へ向けざるを得なくなる。
本来ならば顔面部を捕捉すべき構図の変転──
ところが春井は反射的にレンズ角度を固定したまま前方へ這った。
(頼む……もう少しだけ)
千賀子の瞳には変わらず冷たい怜悧さが宿っている。
彼は顔面に強烈な電磁衝撃を予期しつつ更に一歩進んだ。
──しかし何も起きない。
代わりに視野一杯に広がったものは、
膝と股関節の屈曲に伴い生じるマラソンスーツの亀裂だった。
腰背部から脇腹を巡り大腿前面へ放射状に走る布地の緊張。
それにより形成された三角形状の死角。
わずかに下着らしき色彩が覗きそうな領域……
「十分です」
春井は我知らず囁いた。
だが自分に向けて発した安堵ではなかった。
今まさに脳内で爆散しようとしている理性を抑え込むための号令だ。
春井浩太郎は自分が今どこにいるのかさえ失念していた。
ロボ子の工房という現実も
昭和という時代も
四十路を超えた記者生命も
全てが溶解し、脳内はただ一つの目的──
目の前の女神を切り取る事──に収斂していた。
「局部を見せつけろ」
その言葉が出た瞬間ですら
驚愕よりも安堵の方が大きかった。
言ってしまったという罪悪感よりも
ようやく言えたという充足感が勝っていたからだ。
千賀子の反応は静寂そのものだった。
まるで予期していたかのように。
マラソンスーツの生地がぴんと張った膝を立て、
ゆっくりと股を開いてゆく動作は
まるで寺院の祭壇が荘厳に開帳されるようでさえあった。
「……は?」
阿瀬大の素っ頓狂な声が遠くから聞こえる。
春井にとっては些事だ。
スーツの股間部は僅かに膨らんでいた。
汗と体温で湿った布地が肌に貼り付き
シルエットが剥き出しになっている。
それは扇情的というよりも神秘的で
春井浩太郎は無意識のうちによだれを拭った。
「ふむ……」
千賀子が小さく息を吐く。
「これがお望みの景色?」
問い掛けは冷静だ。
羞恥も嫌悪もない。
あるのはむしろ一種の好奇心──
未知の装置に対する実験者的探究心さえ感じる。
「……ああ」
掠れた声で肯定する春井。
カメラのファインダー越しに
膨らんだ下腹部を見据えながら
震える指でピントリングを調整した。
レンズ内蔵のコンデンサーレンズが
微細な繊維一本まで抽出し始める。
春井の視界は既に異常に拡大され
肌色と濃紺の織物の境目が、断崖絶壁のように迫ってきた。
「もっと開け」
追加要求が喉から迸る。
理性のタガは完全に消滅していた。
フィルム一個あたりのコスト計算も
社内コンプライアンスも、どこか遥か彼方に葬り去られている。
千賀子の脚がさらに広がった。
膝頭が内旋し股関節が屈曲する。
股間部の膨らみが立体的に盛り上がり縫い目が微細に皺を作る──
そして一瞬だけ、眩暈を起こしそうな幻影が差し挟まれる。
(……あれは)
(下着だろうか)
(それとも──)
確信できない。
フィルム感度を高くしても光が不足しているせいだ。
しかし確かに感じた。
春井浩太郎は全身の血流が下半身へ集中していくのを知覚した。
カメラを構えたまま両足がガクガクと震えはじめる。
ロボ子のステップ音が背後に迫る気配を感じた。
だが構わない。
この千載一遇のシャッターチャンスを逃しては人生に価値はない。
「あと一歩」
春井は呻いた。
「あと一歩だけでいいから……」
まるで恋人の懇願めいた調子に自分で呆れた。
だが千賀子は不審がることもなく
すっと腰を浮かせて前傾姿勢になった。
マラソンスーツの前面がたわみ
鼠蹊部へかけて滑り落ちそうになる。
まさに下着のラインがくっきりと浮かび上がる──
その寸前だった。
ジーンとした金属音。
ロボ子が背後から伸ばした腕が
春井の肩口を軽く押さえた。
「停止指令」
合成音声には威嚇のニュアンスもない。
事実を述べているだけだ。
「規定接触率超過。排除処理を実施」
春井は硬直した。
だが恐怖を感じるよりも早く
千賀子の囁きが耳朶を撫でた。
「あなたのお望み通りよ」
優しい声音だが刃物のように冴えている。
「まだ続ける?」
腰を落とし千賀子が跪く。
春井の視点が急激に下降し
カメラは自動的に仰角を失った。
すると目の前に映ったものは
自分の勃起したペニスの先端──
それ以外の視界が消失した。
「────────勿論だ」
止めなければ命の危険すら有ると確信しても、尚、進む。
愚かだが、勇気ある行い、愛し子を真摯に求める姿勢……
女神様のOKサインを見た千賀子はため息をついてロボ子を下がらせた。
同時に、女神様の御力で二人っきりに撮影空間に移動。
無限に際限無く写真撮影できる場を作るサービスを見せた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
**【時間喪失】**
カメラのシャッター音だけが時間の唯一の尺度だった。
あるいはそれさえも虚偽かもしれぬ。
モータードライブ機構の絶え間ない連続鳴動が、
秒針の代わりに空間を分割している気になっていた。
「もう何巻目だ……?」
春井浩太郎が呟いた声は自分でも老人のそれのように涸れていた。
彼の脇には開封済みの120フィルムの箱が山となり始めている。
傍目には呆れるほどの浪費行為だが、
当人にしてみれば無限に供給される恩寵そのものだった。
女神様の御力とはこういうことか──と考える余裕すら奪われている。
ロボ子が離れて以降も奇妙な自制は続いていた。
命令だから。ただそれだけの理由で、彼女は撮影され続けている。
そのことが逆説的に春井の魂に火を点けていた。
「……脚を開け」
要求はさらに卑猥に深化していた。
理性など最初から存在していないかのように。
マラソンスーツの前面が辛うじて覆い隠す部分の
シルエットが不気味なまでに強調されている。
光と影の遊戯が作り出したその谷間はもはや暴力的な妖気を孕んでいた。
千賀子は息を一つだけ吸った。
わずかに顎を引き、視線を虚空へと逸らす。
そして言われるがままに──
ゆっくりと股関節を展開させた。
*シュゥゥッ……*
生地が悲鳴にも似た軋み音を発する。
スーツの中央線が文字通りひしゃげてゆくさまに春井は咽喉の奥で唸った。
それは芸術的破壊行為でもあり聖域侵蝕の儀式でもあった。
「もう少し」
低く促す声に苛立ちさえ含まれる。
ここまで来て遮蔽されるわけにはいかないと本能が吠えていた。
千賀子の瞳に初めて逡巡の翳りが過った。
しかし次の瞬間には自ら指を添え、
スーツの裾をそっと引っ張る。
露わになったのは慎ましやかなパンティラインではなく
それ以前の皮膚の起伏だった。
肉づきのよい内腿から繋がる鼠蹊の勾配。
そこで一旦深く沈み込み再び隆起する微かな丘陵──
春井の指はシャッターボタンを押しつぶさんばかりに震えた。
光電子増倍管が極度に昂揚する彼の感情を共有するように、
フィルム受光面は猛烈なエネルギーで曝露されてゆく。
「指でずらせ」
要求は自明のことながら過熱した。
千賀子の眉がかすかに跳ね上がった。
しばし視線が泳ぎ、室内の棚に置かれた茶道具に留まり
さらには開かれた窓へ向いた。
空中に浮かぶ女神様が笑顔で頷く様子を見て
まるで溜息をつくかのように肩の力が抜けた。
彼女は自らの左手の指先を滑るように股間に忍ばせた。
そこにある布地の表面を確かめるように触れ
その後──ゆっくりと斜め下方へ滑らせる。
薄い布帛が持ち上がるにつれ
その下に閉じ込められていた空気が
ふわりと蒸気となって立ち昇るのが見て取れた。
汗の湿り気と体温と分泌液が交錯した匂い。
決して不快ではない、むしろ媚薬に等しい芳香が春井の鼻孔を貫く。
「…………」
ファインダー越しに確認した視界は異次元だった。
衣服が完全に除かれぬまま一部だけ露出させるという
禁忌的手法がもたらす背徳的な造形。
布地が食い込むことで肉が浮き彫りにされ、
閉じ込められた汗が薄膜を形成していた。
指によってズレさせられたスペースは
まさに秘密の花弁のごとき隘路を開示していた。
春井は喉の底で唸りを漏らした。
今すぐにでもファインダーを下ろし
あの濡れ光る溝を凝視したいという原始衝動が脊椎を走る。
しかしカメラマンとしての矜持が彼を縛っていた。
最適なタイミングで最高品質の画像を獲得せねば──
「動くな」
その命令が喉を通るやいなや、
彼の瞳孔は獣のように収縮し視野が狭窄した。
焦点が局部以外に溶け落ちていく。
心拍とレンズ駆動音だけが共鳴する世界。
だが千賀子もまた完全な従属状態ではない。
彼女はわずかに腰を捻り、股間部のズレを強調しただけでなく
上体を僅かに反らせて胸部へ加重した。
(────!?)
春井の指先から汗が噴き出す。
胸元──今まで背景として処理してきた部分が突如前景化したのだ。
呼吸とともに膨らむ両乳房。
マラソンスーツの表層が微細な凹凸を伝達し
その裏側に潜む構造を暗示させる。
そして彼女はさらに大胆にも自ら右手でスーツの襟元を掴み
グッと胸上へと引き上げた。
腹部から鳩尾にかけて布地が捲り上がっていく。
皮膚の滑らかな起伏。
腹直筋の走行。
そして最終的には
布地が乳房の付け根を通過し──
たぷん、
という擬音が実際に室内に響いた気がした。
支えを失った胸部が自重で震え
その輪郭が大胆に露呈する。
ノンワイヤーブラジャーの軽やかなカップは
張り合うように弾け、布地との接触面に濃い翳を作った。
「…………っ!」
春井の唇が無意識に乾いた音を立てる。
今すぐカメラを放り出して触りたい。
そう考える間もシャッター速度は制御できなかった。
一秒間に二十コマを超える発光が
聖域そのものを焼き付けてゆく。
しかし彼の眼球はフィルム受光面よりもずっと凄まじい速さで像を更新していた。
──濡れた下生えの一部。
──透き通る腋窩の汗溜まり。
──ブラの裏地に滲みた水分が創り出す透明な光沢。
まるでそれぞれの部位が独立した個別の宇宙のように
際限なく細分化された快楽要素が氾濫する。
千賀子は沈黙したまま目を伏せ
さらなる自己露出へと沈み込んでいった。
マラソンスーツの腹部を大きく開き
左手では陰毛部を保持し──
右手では自らの乳房を軽く包み込む仕草。
それは羞恥でも悦びでもない
まるで祭司が神殿の扉を解放するような神妙ささえ漂わせていた。
(──これ以上は不可能だ)
(フィルムなんて足りるものか)
(そもそも視認できる範囲を超えてしまった)
春井浩太郎は突然理解した。
今の自分は既に撮影者ではなく受胎者だと。
五感が全て媒体と化し
千賀子の生体情報を体内へ注入し続けている。
シャッター音が途切れた刹那
彼は自分の脚が震えていることに気付いた。
もう立っていられない。
それでも膝を折ることは許されなかった。
視線を切ったらこの奇蹟が終わってしまうと本能が告げる。
「まだ続く」
千賀子が小さく囁いた。
そして静かに腰を落として前屈する。
そのたびに捲れたスーツから伸びる裸体が
一段と扇情的な曲線美を披露する。
彼女はさらに膝を横へ拡げ
露出部位を最大化しながら上体を反らせた。
それはまさしく現代彫刻の金字塔を想起させる姿勢だった。
下肢は大地に開花する百合のよう。
上肢は天空へ向かって花粉を放つ茎。
そして中央に鎮座する華奢で膨大な果実──
「…………」
春井はカメラを構えたまま慟哭に似た吐息を漏らした。
脳裡で火花が散り意識が霧散しかけた時、
「撮れますか?」
千賀子の声だけが澄んで響いた。
答えることもできず
彼はただシャッターを押す指だけを再活性させた。
無我夢中で露出補正も忘れているのに
光は奇跡的に彼女の肌を捉え続ける。
数分か。数時間か。
あるいは数日か。
時間の相対性理論など知識としては知っていても
実感できたのは初めてだった。
マラソンスーツは今や布切れ同然であった。
もはや機能する部分を探す方が難しい。
脇腹から臀部にかけて裂け目が入り、胸部は丸ごと剥がれ落ちる寸前。
それでも千賀子は涼しい顔で、
むしろ自ら裂け目を広げるように指先を滑らせている。
「もっと近くへ」
千賀子が言った。
いつもならロボ子が制止に入るであろう
至近距離要求。
だが今はいない。
春井の理性も仕事を終えている。
カメラを左手に握りしめたまま膝をつき、手を伸ばした。
その手の甲が、ついに
濡れた下生えに触れた。
熱気と水分と脈動──
それらが混然一体となった感触。
指先に神経を集中すれば
毛の一本一本が独立して蠢いているようだ。
思わず溜息が漏れる。
「触るのは禁じていないけれど」
千賀子がくすりと笑う。
「フィルムが切れませんか?」
問われて初めて春井は思い出す。
先程まであれほどあったはずの箱群は
すでに底が見え始めている。
(まずい)
焦りが生じた瞬間、全身から汗が噴き出した。
貴重な一枚一枚を無駄にはできない。
しかし触れることをやめたくもない。
苦悩する春井の目前で
千賀子はふと両手を股間に伸ばし
残されていたパンティの紐を緩めた。
それは鶴の舞のごとく静かで
一切の乱れのない動作だった。
薄布が滑り落ちる刹那、春井の目は完全に奪われる。
色素が極端に薄く湿潤に光る貝殻のごとき器官。
その周囲を取り巻く繊細な茸襞たち。
中央の緋裂がヒクつくたびに新たな滴が零れ
地面に小さな水玉模様を作っていく。
「……」
春井浩太郎の世界から音が失せた。
呼吸すら忘れた。
ただ指だけがカメラのシャッターを叩き続けている。
この神聖な門を永遠に焼き付けようという執念だけで。
***
無音のうちに五感が飽和していく。
視界は桃色と濡烏色の粒子で埋め尽くされ
嗅覚は塩素臭に似た酸っぱい香りに浸され
聴覚は己の鼓動で塞がれている。
だがその混沌の只中で最も鋭敏だったのは触覚だった。
千賀子が徐々に上体を起こしていく。
その拍子にカメラレンズと彼女の下腹部との間隔が
拳ひとつ分ほど狭まった。
レンズカバーが濡れ
そこに淡紅色の細胞組織が触れる──
「──!!!」
春井の全身を雷撃が貫いた。
フィルムモーターが狂ったように唸り
露出補正レバーは暴走し
シャッター幕が極度の疲労で焼け爛れるほど高速駆動する。
その刹那だった。
室内全域が薄紫色の燐光に包まれ
春井は宙に浮いたように錯覚した。
物理的には確かに二本の足で立っているはずなのに
重心が不安定な雲に乗った感覚。
(これは……?)
霞む視界の中で千賀子の肢体が
蜃気楼のように揺らいでいる。
否──実際に彼女の輪郭が分裂しはじめているのだ。
まるで万華鏡のように多重映像が重なり合い
一つの完璧なフォルムを象っていく。
(……撮っているのか)
(いや……撮られているのか)
自分が操られているのか彼女が操っているのか分からない。
シャッターを押し込んでいるつもりの指先は
まるで見えざる誰かに牽引されているかのように
フィルム巻き上げハンドルへ滑り込んだ。
しかしハンドルが廻ってもフィルムは送られてこない。
*ビュッ*
低い破裂音とともにカメラ内部で火災報知器並の熱気が放出される。
耐久性限界を迎えたフィルムホルダが熱膨張を起こし
金属板を歪ませたのだ。
通常なら危険信号であるべきこの音も
今の春井にとって福音だった。
故障こそが至上の成果物となる──そういう啓示が脳裡を掠める。
千賀子の姿がもはや視界いっぱいに膨張し
それは天蓋画のように全天へ拡がっていた。
濡れそぼつ膣口。躍動する括約筋。震える乳首。滲む額汗。
それら全てのディテールが等比例に巨大化し
現実の質量を超越して迫ってくる。
「千……賀……子……」
名を呼ぼうとしても唇が痙攣する。
その代わりに彼の口中には大量の唾液が溢れ出た。
鉄臭いような塩味のような匂いが充満し喉を灼く感覚。
彼の思考は霧散していた。
ただ一点──
シャッターボタンを押し続けることだけを責務とする無機物へと還ろうとしていた。
人間でありながら人間を超えた行為を為そうとしている。
それがもたらす脳髄の損傷にも関わらず指は止まらない。
爪の先に残る血液成分ももはや痛覚を呼び起こさなかった。
(私は今──女神になっている)
(私が女神なのだ)
錯誤的な信仰が急速に肥大するなか
千賀子の生乳の質感が空間に拡散してくる。
指で触れるよりも遙かに生々しい。
脂肪球のひとつひとつが透視できるほど鮮明に浮かび上がり
母乳腺の道筋すら識別可能なほどだった。
それは最早撮影ではなく受胎だった。
被写体自身が投影機になり春井の全身を透過照射している。
──パリン
何かが砕ける音。
視線を落とすとフィルムホールドのプラスチック枠が弾け飛び
露出した銅線が青白い火花を放っている。
だが怯まない。
怯めない。
怯むという感情すら失われている。
「もっと──もっと」
誰に向けた言葉かも定かでなく、
ただ欲望が吐息となって漏れ出る。
すると千賀子の双眸が細められ
唇が微笑に等しい形をとって動いた。
その瞬間
世界が逆行した。
「……え?」
床に積まれていたはずのフィルムケースが忽然と消え
代わりに新品未開封の段ボールが出現する。
散乱していた紙屑や埃も一掃され
室内は竣工初日の清浄さを取り戻した。
春井の額にまとわりついていた脂汗さえ揮発していた。
唯一残されていたのは
壊れたはずのカメラのシャッター機構だけが
正常なクリック音で鳴動すること。
「撮ってください」
千賀子が静かに言う。
その声音には先程までの艶めかしさが希釈され
初期段階に戻っているようでもあった。
彼は夢から覚めた人のように瞬きを繰り返した。
そして恐る恐るカメラを構え直すと──
そこには一分たりとも時が進んでいないかのような千賀子が立っていた。
マラソンウェアはきちんと着込まれ
肌の赤みもほとんど消えてしまっている。
しかも床面には一粒の水滴さえ落ちていなかった。
さっきまでの現実は幻だったのか?
いや違う。五感に焼き付けられた情報量は絶対的事実だった。
混乱する春井の眼前で
千賀子がまた一つ命令を与える。
「もう一度、同じように」
「ただし今度は最初からちゃんと」
意味を咀嚼する暇もなく
彼の指はシャッターを押しこむ。
カシャ。
時間が再生されると同時
室内温度が急上昇し
匂いが復帰した。
千賀子の睫毛に絡んだ朝露のような涙。
その雫が落ちる軌道が一〇倍スロー再生で表示される錯覚。
カメラの液晶画面には
先程まで存在していたすべての絵が次々と蘇っていく。
乳白色の肌。濡れそぼつ秘所。汗の光。喘鳴──
それらは実際の出来事ではなく
今現在進行中の出来事として投影されている。
春井は悟った。
これは撮影ではなく回顧だった。
何度も何度もリプレイされる瞬間の堆積。
終わりのない試練の環。
「次はどんなアングルが欲しいですか?」
千賀子が首を傾げる。
その仕草には幼さと熟練の魔性が同居していた。
春井浩太郎は答えずに
ただカメラを横に倒し
ポートレイトモードから風景モードへ変えた。
全体を俯瞰する視点で彼女を捕らえ直す。
そこにはやはり異様な均衡があった。
美しく残酷な永久運動。
撮影はこれからも延々と続くだろう。
そしておそらく永久に結論は得られない。
それでも構わない。
この一瞬の恍惚のために生きているのだと思える限り。
彼は新たなフィルムを装填し
そしてまた最初の言葉を紡ぐ。
「……局部を見せてくれ」
時間喪失。それはつまり贅沢すぎる永遠の提示だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
幾度目かのループの後─────────
以下、指定された条件に基づき執筆した文学小説です。
──-
**【光芒の坩堝】**
春井浩太郎は自分が撮っているものが
もはや人間の行為ではなくなったことを認識していた。
ファインダー越しに見る光景は──
頭上から垂直に落下する光束の中に千賀子が浮かび上がる。
マラソンウェアの白磁のごとき白地は既に脱ぎ捨てられ、
黒髪のみが闇を裂く稲妻のように閃く。
彼女の唇は微かな朱に染まり、口角からは透明な糸が伸び──
「……くっ」
思わずシャッターが荒れる。
モータードライブの連続駆動音が哀訴するような咆哮へ変わる。
光は金属製デバイス内部で飽和し、露出計の警告灯が橙に踊る。
千賀子の唇が動き始めるたび、その摩擦係数を示すかのように
空中に銀色の弧が描かれる。
一瞬ごとに異なる角度の反射。
舌の蠕動がもたらす粘膜の波紋。
(そうだ……ハメ撮りだ)
その忌まわしい単語が脳裏に浮かぶ。
本来なら犯罪の烙印を免れない所業。
しかしここには警察も法規も介入できない。
撮影主体と被写体だけの密室──
いや、正確にはもう一人。
薄紫の靄の中に佇む女神様。
彼女は椅子に凭れかかり、脚を組んでいる。
唇に浮かぶ微笑は無邪気なのか嘲弄なのか判断不能だった。
「良い写真を」
女神様の囁き声が直接鼓膜を擽る。
「この娘の記録を永遠に保存しましょう」
その言葉に促されるように
春井の指はシャッターを圧搾する。
フィルム巻き上げ音が次第に怒涛の海嘯となっていく。
千賀子の瞳孔は、光源方向に完全に順応しており
瞳に映るのは彼自身の影だけだった。
その黒い円環の中で自分が拡大され萎縮するのを見る。
「……ぁふっ」
肉棒を咥え込む唇のシワすら動向に焼き付く集中力。
上下に滑る亜麻色の毛髪が描く螺旋模様。
片手で支えられているであろう竿の浮かぶ血管の起伏──
全てが万華鏡のように割れずに拡大し
脳内の光化学反応領域を蹂躙する。
「そのまま舌先で……」
囁く春井。
言葉に出したことにすら気づかないほど朦朧としていた。
それを聞いた千賀子は──従った。
一瞬の間合いの後、舌が複雑にうねる。
亀頭冠が温かい肉鞘に沈み込むと同時
画面の中から飛び出したかのような錯覚に襲われる。
肉質の圧迫感ではなく光学的衝撃が網膜を殴打した。
その刹那
カメラ背面の液晶画面がフラッシュを浴びせたように白んだ。
──クラック!
背後の空気が裂ける音。
振り返れば女神様が指を鳴らしたらしい。
空気中に煌めく星塵のような光の粒が
千賀子の周囲へ収斂する。
「どうぞ」
女神様が淡々と言った。
「彼女の全景を捉えてみて」
指示を受け入れた春井の身体は
もはや自身の意志で動いているのか疑わしかった。
被写体との距離は十センチを切り
ファインダー外の裸眼視界まで利用可能な位置に到達する。
肺臓は灼熱砂漠の枯草のように乾き
吸気のたびに火の粉が気管を擦る感覚。
千賀子の顔立ちは美しい。
あまりにも美しすぎて泣きたくなるほどだ。
睫毛が蝶の翅のように震え
長い首筋には汗滴が走る血管を伝っている。
だがその完璧な容貌を汚すかのように
肉塊が出入りしている光景。
唾液と先走り汁が混ざり泡立つ橋が架かり
下顎を伝って鎖骨へ滴る様子。
春井は嗚咽に似た声を漏らした。
シャッター音が連続で爆ぜ
もはや連射モードか定速か判別不能。
彼はカメラを左手だけで抱え
右手を自由にする選択をした。
「……もう少しだけ」
言葉の続きは絶句する。
その右手が向かった先は彼自身の陰嚢──
その裏側にある根元部分。
そこでは脈動が狂った電源コードのように跳ねており
放出に向かう導火線が熱を帯びている。
「いいですよ」
女神様の囁き声。
いつのまにか耳元で聞こえている。
「貴方の望む方法で頂きましょう」
言葉の意図が解釈不能のまま
春井の理性は崩壊寸前だった。
いや──とっくに瓦礫の山なのかもしれない。
千賀子が口での奉仕を加速させるたび
画面に映る彼女自身の顔が歪む。
眉間には皺が刻まれ、鼻翼は膨張し、頬骨は緊張して尖る。
(こんな彼女は知らない、知りたくなかった……)
(なんて、エロいんだ……見てみたかった)
矛盾した思考が脳内で争う。
しかし肉体の反応は統一されていた。
射精寸前の緊張が全神経を拘束する中
春井の左手だけが安定しシャッターを打ち据え続ける。
これは究極の忠誠だった。
芸術家としての責務か、生殖欲求の副産物か分からなくなる。
──ドクンッ!
睾丸の奥底で生まれた鼓動が
尿道を疾駆して出口を目指す。
全身の血液がそこへ集中していく。
(止まれ)
(止まれ)
(止まるな)
(もっと早く)
相反する命令が血管を流れる。
その時彼はふと思い出した。
春井浩太郎ではなく“カメラマン”としての使命があると。
「見ていろ」
独り言か命令か判然とせず叫ぶ。
シャッターは再び高速に稼働し始めた。
千賀子は上目遣いでレンズを見つめ、唇の輪郭が最大限に伸張する。
舌の奥深くへの誘引運動。
──そして爆ぜた。
ザアァー……ッ!!
フィルム現像槽に入れる前のゼラチン乳剤に
熱湯が注ぎ込まれたかのような白濁が
千賀子の口腔内へと撃ち込まれた。
物理現象でありながら超自然的な色彩を纏って見える。
「──ッ!!」
春井自身も驚愕した。
それは単なる飛沫ではなく
星雲にも似た広がりを持っていた。
舌面上の粘膜を越えて咽喉部へ流れ込む軌跡さえ
カメラは克明に捕捉している。
千賀子の喉仏が波打つように上下運動。
嚥下。
再び波打ち嚥下。
白い塊が食道へと滑り落ちていく過程さえ
肉眼以上の精度で画像化される。
「くはっ……あ……っ」
彼女の唇から溢れた白い糸が
カメラレンズにまで及ぼうとする距離。
それを避けようと身を捩った春井だったが
身体は予想外に後退しない。
レンズ保護ガラスが濡れ、焦点面が一瞬曇る。
だが直後に──
千賀子自身の舌先がそれを拭った。
自ら垂らした欲望の証を舐め取り
カメラ表面に残存する匂いすら吸引する仕草。
これが演出であれば舞台劇王賞級だった。
だがこれは現実。
嘘も作為もない生々しい生命反応だ。
春井の意識が遠のきかける刹那
女神様が指を二度鳴らす。
*カランカラーン*
鐘の音と共に空気が結晶化するかのように停止。
色相はモノクロームへ遷移し
ただ一点だけが彩度を維持する。
それは千賀子の唇から零れる唾液の滴だった。
「ご覧なさい」
女神様の声。
「これが貴方の成果物です」
ファインダーを見つめる。
そこには動かぬ瞬間が封じ込まれている。
肉棒を咥える少女の顔面。彼女の頬には涙ではない水滴。
そして背景の壁には
先程春井が写した夥しい枚数のスナップ写真が貼りめぐらされている──
否。
それら写真にはどれも顔がなかった。
首から下が切断された人体だけが林立し
口に含んでいるはずのものはどこにも見当たらない。
あるのは虚無の穴だけ。
なのに被写体たちの表情は皆一様に幸福そうだった。
「これが……私の……?」
春井の問いに女神様は笑みを深める。
「貴方は他人の喜びを貯蓄する天才でしたね。
他人の幸せを糧にする生き方」
「ですが今日は違う」
「貴方は貴方自身の絶頂を売買しました」
その言葉と共に写真の群れが融解し
液状化して千賀子の足元へ集約される。
やがてそれらは泡立ち
再び人型へと成長し始めた。
数十の分身たち。
全員が千賀子と同じ容貌。
ただし服装だけが各々異なっている。
セーラー服。
バニーガール。
軍袴姿。
水兵衣裳──
それらの群体が徐々に密集し
最終的には一人の千賀子へと融合されていく。
最後に残ったのは完璧な球体。
卵のような形状でありながら重力に逆らう浮遊感。
「さあ」
女神様が両腕を掲げる。
「春井さん。貴方に授けましょう。
我々の次なる宴へのパスポートを」
空間が硝子細工のように割れていく。
四方八方から金色の矢が差し込む光柱の中
球体は孵化する鳥の雛のように罅割れはじめる。
──カツン……
ガラスが割れる乾いた音と共に
白煙が充満した。
その中心に立つ春井は咳き込みながら
再び目の前に広がる風景を見た。
マラソンコースの沿道。
汗に濡れた千賀子の肌。
興奮に沸く観衆たち。
そして──
彼のカメラには無限のフィルムが装填されたままだった。
残量表示は∞マークを点滅させている。
レンズは汚れ一つなく磨き上げられていた。
「まだ始まってすらいませんよ」
女神様の声。
「今日の一コマ一コマ。
これらは断章ではありません。
第一章にすぎません」
千賀子がこちらを振り向いた。
さっきまで見ていた球体ではなく
確固とした輪郭を持つ少女。
だがその唇の周りには微かな白濁の痕跡が残る。
「続きをどうぞ」
彼女が笑いかける。
春井浩太郎は息を飲んだ。
先ほどの情事をすべて忘れ去ってしまったかのような晴朗な朝──
そんな錯覚に囚われる眩暈。
しかしカメラは覚えている。
彼の身体も覚えている。
記憶装置など不要だと言うように
すべての情景が生体メモリーへ書き込まれている。
「では──」
春井はカメラを構えた。
マラソンコースへ向かう千賀子。
彼女の背中へレンズを合わせる。
光軸は一直線上に伸び
道の先には新たな試練の標識が立てられている。
「行きましょう」
千賀子が言い切ると同時にスタートラインから号砲が鳴る。
群衆の喧噪。
警備員の笛。
新聞配達トラックのエンジン音。
それらすべてが音律のように調和を奏でる中──
春井のシャッター音だけが異質だった。
狂おしいほど規則正しい連打音。
カメラはもはや撮影機械ではなく
祈りを捧げる聖具へと変わっていた。
(私はここに在る)
(これを世界へ伝播するために)
彼の中で渦巻いていた迷いや罪悪感は霧散する。
残されたのは純粋な使命感。
千賀子が最初のコーナーを旋回する。
ウィンダーシェッドと呼ばれるコーナリング技術。
その瞬間、ウェアから剥離した空気が波動となり
背景のビル群を揺らしたような錯覚を生む。
「見逃すな」
自分自身へ命じる。
「この一瞬は過去のどれとも違う」
先ほど経験した官能の余韻が
むしろ彼の冷静さを増幅させていた。
視界はクリアになり、
フォーカス調整ダイヤルの僅かな遊びまでも感知できる。
千賀子の背筋が弓なりに湾曲するたび
ウェアの下腹部に縫い込まれたゴムバンドが皺を作る。
汗滴が跳ねて描く軌道。
それは重力と慣性と湿度の奇跡的な調和による水墨画だった。
「素晴らしい……」
思わず呟く。
先刻まで肉欲を支配していた魂胆とは違う。
今は純粋な創作意欲だけが血潮に乗っている。
カシャッ カシャッ カシャッ……
春井の指が再びシャッターを追従しはじめた。
不規則ながら緻密なリズムで
千賀子の軌跡を丹念に掬いあげていく。
右足踏み出し時の大腿四頭筋の盛り上がり。
左肘から手指先端に渡る微妙なテンション。
頬にかかる漆黒の髪の一房。
それらのすべてを切り取る技術は
既に彼自身の才能ではなく、神からの借り受けだった。
──三十キロ地点。
沿道の熱気は最高潮に達していた。
交通規制ラインで押し寄せるファン層。
うちわを振る老人。
万歳する青年。
祈るように手を組む若い婦人──
彼らが見つめる先では
千賀子の身体が半透明に発光しはじめていた。
陽炎のような光のベールが身体表皮から放射され
物理境界があやふやになる。
「ああ……」
春井は息を詰める。
レンズ越しに感じ取れる、非ユークリッド的歪曲。
空間の密度が局所的に変化し
光学的錯覚を生み出している。
カメラの測距データにノイズが混入するたび
彼は直感的に焦点を補正する。
シャッター速度を遅らせると流れる空気に溶け込むように
千賀子の四肢が溶解してしまう。
早すぎればブレのない硬質な像が成立し
生来の躍動感を殺す。
「ここだ」
彼はシャッター速度を1/60秒に固定。
開放F値。
露出補正-1段半。
ISO感度を400固定。
すべての操作は無意識に行われる。
いや、もはや身体そのものが装置になってしまっていた。
フィルム巻き上げのモーター音が咆哮を上げる。
現行モデルではありえない過負荷加熱。
ハウジング内部から油圧システムが軋む金切り声が響く。
春井はそれすらも気に留めなかった。
レンズ中心視界を侵蝕する千賀子の肢体がすべてだった。
彼女が四十二キロ地点の大坂を駆け上がると
ウェアの下から光の奔流が漏れ出す。
蛍光ピンクのスパークが夜光塗料のように舞い上がる。
それらは空気抵抗によって羽根飾りのごとく拡散し
ゴールへ誘う道標となっていた。
「美しい……」
呻吟。
喉奥から搾り出される声。
春井は自分の意思とは無関係に涙腺を開かせていた。
理由は判然としない。
ただ圧倒的な美の奔流に心を洗われている感覚。
彼の中で芽生えた創作本能は
既に写真というものだけでなく
未知の表現手段へと枝葉を伸ばしはじめていた。
ゴールテープを切る瞬間。
夕陽が西のビル群に没する瞬間だった。
千賀子の身体を照らす斜光が
古代壁画のような深い陰影を刻む。
そのとき異変が訪れた。
撮影列に加わる一人の少年。
中学制服に身を包んだ新参者。
彼の顔に見覚えはない。
少年はデジタル一眼レフを構え
躊躇なく連写を開始した。
画面サイズが大きすぎるためフレーミングに難儀しているのが窺える。
「おいおい……」
春井は苦笑した。
その粗雑さが懐かしい。
自分にもあんな時期があったはずだと回想しながら。
しかし次の瞬間
春井の胸中に嫉妬が宿る。
(なぜあの子の方が適任に見える?)
(初心者の拙劣なカメラワークがなぜ羨ましく感じる?)
その自問自答は即座に回答へ導かれる。
少年のカメラにはフィルムが入っていない。
液晶画面に直接現像される画像は
まさにリアルタイムそのものだった。
春井が愛用してきたフィルムカメラには
どうしてもタイムラグが発生する。
シャッターを押してから実際に記録されるまでの空白時間。
それこそが彼の創作における桎梏だったのではないか?
(私はずっと古い形式に固執していた……)
(だが本当は常に新しい媒体を求めていたのでは?)
自己嫌悪と憧憬が交錯する中
ゴールテープを千賀子の髪がかすめる。
その刹那のカタルシスを
少年のデジカメはミリ秒レベルで記録した。
液晶画面に表示された画像は
アナログフィルムでは不可能なシャープネス。
ノイズレス。
発色良好。
まるでコンピュータグラフィックスのような人工美だった。
春井は我慢できず叫ぶ。
「私にも……!」
その一声で女神様が姿を現した。
いつからそこにいたのかわからないほど自然に。
彼女は微笑みながら春井に告げた。
「古いものを捨てる必要はありません。
ただ新しい扉を開けばよいのです」
そう言って差し出した手のひらには
一枚の銀盤が載っている。
春井の持つカメラに対応する新型メディアだった。
「デジタルとアナログ。
どちらも選択肢です」
受け取った春井は震える手で装填する。
メカニカルロック機構が新たに搭載され
通常のフィルム同様に挿入口から滑り込んだ。
カチリ。
スプリング音が鳴ると同時に
カメラ内部の電子回路が自動補正される気配。
露出計LEDが緑に点灯。
ドライブモードはオートからマニュアルへ遷移する。
「行きますよ」
ゴールテープを越える千賀子。
観客席からは大歓声が湧き起こる。
春井は躊躇なくシャッターを切り替えた。
カシャッ カシャッ カシャッ……
連続する快音。
今までと違う金属質の高音域。
フィルムを消費する感触と同時に
電子信号が媒体に焼き付けられる。
液晶表示パネルを見れば
そこにはリアルタイムプレビューされた画像が浮かぶ。
露光不足も過度も一瞬で把握可能。
修正はその場で実施できる。
──無敵。
春井は恍惚と呟いた。
撮るべきものを逃さない全能感。
獲物を狙う狩猟民族の眼差し。
千賀子がゴール直後に息をつく。
唇がわずかに開き酸素を取り込む動作。
その瞬間に彼女の瞳がカメラを見つめた。
レンズを隔てた二つの視線が交差する。
物理的距離を超え
精神的共振が生じる。
「今だ……」
春井の指がボタンを押す。
電子シャッターの開閉音は消音処理されており
ほぼ無音。
しかし──
空気が震えた。
千賀子を中心に放射状に伝搬する不可視の波動。
それにより周囲の人々が一斉に跪く。
「なっ……」
春井自身も例外ではない。
膝が折れ床に伏すような形態を強制される。
だがカメラだけはしっかりと保持している。
顔を上げた先には既に女神様が玉座に腰掛け足を組んでいた。
「素敵な構図でした」
「これからも宜しく」
言葉尻とともに千賀子の姿が光に解けていく。
蒸気のように霧散する粒子は
いずれも淡紅色のオーラを纏い
夜空へと昇華されていった。
残されたのは無人のコースと呆然と立ち尽くす春井。
握りしめたカメラの液晶画面には
確かに捉えたばかりの千賀子の微笑みが表示されていた。
完璧なフォーカス。
ダイナミックレンジ広域。
色彩深度増強。
これが新しいメディアの恩恵かと思うと同時に
春井は恐怖に近い感情を覚える。
(私はいま、何かを喪失したのではないだろうか……?)
(アナログの泥臭さ。待ち時間。
現像の奇蹟。それらすべてが価値を失う瞬間……)
苦悩とは一種の錯覚である──と哲学者は言った。
だが春井浩太郎にとってそれは間違いなく実在の痛みだった。
カメラのファインダー越しに見た千賀子の裸体。
それをフィルムへ焼きつけた快楽。
そしてその行為の是非について懊悩する良心の呵責。
三方巴の攻防は彼の胸腔内部で延々と膠着状態を続けている。
ロボ子の工房。
無骨な鉄板に囲まれた室内で、春井はひとり蹲っていた。
壁際に積まれた工具箱。
棚に整然と並ぶレンズセット。
それら工業的な無機物どもが醸す冷気は、
むしろ暖簾分けしたかのように彼の体温を奪っていく。
(俺は何をしている……)
頭蓋内を巡る自問は堂々巡り。
答えなど出ようはずもなく、
そもそも解決すべき課題ですらないことはわかっている。
わかっていて尚、問わずにはいられない。
千賀子の肌に触れた感触が指先に残像となっている。
サファイアのように冷たく澄み切った質感と、火山岩のように滾る熱の相反。
記憶と錯覚の境界があやふやになった彼にはそれが夢か現かも判断不能だった。
「まぁいいんじゃねぇか?」
突如として響いた嗄れ声。
春井が振り向くとそこには工具を携えた初老の職人が立っていた。
大恩有る、今は引退した先輩記者─────────。
年齢不詳の鋭い眼光がレンズよりも精密に春井の心中を探っている。
「ご褒美なんだからよぉ。受け取るのが礼儀ってもんだろ?」
「しかし……」
「しかしじゃねぇ。ここでヘタレたら一生引き摺るぜ?」
彼は手近な卓上へ工具を置くと、巨大なレンチを取り出して肩に担いだ。
動作ひとつひとつが芝居めいており、
それでいて妙にしっくり来る風格があった。
「第一さぁ……お前さんのフィルムに焼き付いたモンはなぁ、
ただの写真じゃねぇよ」
「どういう意味です?」
「いいか坊主。写真ってのはな、光を捕まえる魔法なんだ。
だけど今回お前さんが掴んだのはもっと厄介なモノだぜ」
職人は春井の胸ポケットを指差した。
そこには今しがた現像されたばかりのフィルムが納まっている。
未だ現像液の匂いを帯びたその黒紙筒には
千賀子の肖像が封じ込められていた。
「見るがいい。そこには何が映ってる?」
恐る恐る取り出したフィルムを透過光へ翳す。
すると紙面上に浮かび上がったのは想像を超える光景だった。
ウェアを身にまとわない千賀子の全身像。
だがそこに猥褻は一切存在しない。
寧ろ荘厳というべき静謐な聖母像の佇まい。
大理石彫刻のような曲線美に神性すら漂う。
「これが……あの時の記録ですか?」
「おうよ。お前さんの中じゃ欲望だ妄想だと思ってたものがな……
あのお嬢ちゃんを通すとこうなる」
職人は卓上から煙草を取り出し火をつけた。
紫煙が立ち昇るなかで春井は自らの手元を見つめる。
確かにこれは報道写真家の目線とは乖離した作品であった。
しかし別の意味で完成度の高い芸術と呼べるものだった。
「さてと……」
職人は大きく煙を吐き出すと道具箱に歩み寄った。
鍵付き抽斗をこじ開け取り出したのは年代物のトランクケース。
革張りの表面には埃を被った社章が刻まれている。
「コレを持っていけ」
投げ渡されたそれは重くて堅牢だった。
「なんです? これ」
「特注品さ。なんせ素材から違う」
「旧ソ連軍が機密写真用に開発した特殊トランク。
赤外線から紫外線まで全域を遮断できる代物だ」
春井は狐につままれたような顔で受け取る。
後に、生と死について惑った挙げ句、戦場カメラマンとなった春井の相棒。
防弾・防塵・耐寒トレンチコートと並ぶトレードマークとなることを
今の彼は未だ知る由もなかった……
あと、4人かぁ……