とある世界の常識改変 作:ロロノア
午前6時30分ちょうどに条理は目を覚ました。スマホのアラームが鳴ったわけでもなく、モーニングコールがあったわけでもない。事前に設定したとおりに脳が活動状態に入ったのである。これは能力の恩恵だ。世界の常識を書き換える条理の能力を以てすれば、指定した時間に目を覚ますという設定を自分に課すことくらい造作もない。極めて難解かつ強力な能力の応用先としては肩透かしといっていいだろう。
とはいえ、日常生活に能力を応用するならこれくらいがちょうどいい。もしも条理の能力が物を壊すことしかできないというようなものなら、生活水準は無能力者と大して変わらないものとなっただろう。日常での使い道がまるでない能力は、あっても大して役に立たない。それこそ裏稼業に手を染めるくらいしか活躍の道はないだろう。
窓の外はもう明るく爽やかな青空が広がっている。
「おはようございます。お兄様」
「おはよう、加巳野」
当たり前のように隣にいるのは昨夜、大切な初めてを奪った後輩の少女だ。一足早く目を覚ましていたようだ。
「条理君、こっちにおはようの挨拶はないんですか?」
「唯一ちゃんもおはよう」
そして、昴の反対側には唯一がいる。
裸の女二人と一緒に川の字で並んで夜を明かした。
両手に花とはまさにこのことだ。
二人を腕枕しつつ抱き寄せて王様気分に浸りたいところだが、時間が時間だ。
「出発は何時だったっけ?」
「7時半ですよ」
「あと一時間か」
着替えて朝食を摂ったらちょうどいい時間になりそうだ。
「じゃあ、いったん部屋に戻りますか」
「では、お兄様、またレストランで」
唯一と昴はバスローブを着てベッドを降りた。彼女たちの部屋は条理の部屋の向いだ。ふらりと行き来するのに、不都合のあるような距離ではない。
レストランで落ち合う必要はないのではないかと思ったが、女性陣には男には分からない朝の支度が何かとあるものだ。
二人を見送った後、条理はスーツケースから服を引っ張り出した。
特別おしゃれに気を配る性質ではないが、上下ともに悪くないものに仕上がった。薄手のカーディガンをTシャツの上から羽織っただけで、ジーンズもブランド物といった類のものではない。どこにでもいる普通の日本人である。それでも、海美が見立てた服ということもあって、極端に外れた感じにはなっていないはずだ。これならおしゃれの本場の一つでもあるイタリアの街中を歩いていても、悪目立ちはするまい。
+
ホテルを出た条理は唯一と昴と合流してタクシーに乗り込んだ。
観光地とはいえまだ朝の早い時間帯で渋滞は発生していない。それでも、予定時刻に10分も遅れてきたのは、お国柄であろうか。
多少のスケジュールの遅延は想定内。そういう地域であることを前提にして動いている。
「条理君、念のためお願いね」
と、唯一に言われたので助手席に座った条理は運転手の男性の常識を少しだけ操作する。意識の片隅に時間厳守が浮かんでくるという程度の常識改変だ。
ナポリからポンペイの遺跡までは約30キロといったところだ。高速道路を使えば30分もかからないのだが、タクシーは高速道路を下りた後、遺跡とは反対方向に向かった。
おそらくは綺麗な夕日が見えるだろう海沿いをさらに走ること10分。
到着したのは集合住宅が立ち並ぶ一角だ。学園都市の学生用アパートが立ち並ぶ街並みとは趣から異なる石造りの街並みは、それが何ということのない日常の光景だとしても条理にとっては貴重な景色になる。
建物の構造からして学園都市とはまったく異なる。
鉄筋コンクリートの四角いマンションが無機質に立ち並ぶ景色が当たり前だった条理の目には、イタリアの石の街並みは異質であり、情緒的とも映った。
そんな異国情緒あふれる街の中に学園都市の協力企業が存在するというのもまた不思議だった。
一見すると5階建ての集合住宅だ。何の変哲もなく、周囲にある建物と変わりがない。その1階にあるのがミネルヴァ技研という看板を掲げた家電販売店だ。
「ここ?」
と、条理は唯一に尋ねた。
「ええ、間違いありません。ここですよ」
唯一は頷いた。
想像以上にこじんまりとしている。
どこにでもある家電の個人商店が学園都市と何等かの技術協力をしているというのか。
「まあ、言いたいことは分かります。とりあえずは中に入ってからにしましょう」
そう言うや唯一は店内に入った。
店内は決して広くない。外観から想像できる小売店で、棚に所狭しと商品が並べられている。日用品が多く、とても最先端の科学技術を扱っているようには見えない。
開店時間にはまだ早く、当然ながら客はいない。開店の準備をしている店員は入ってきた唯一に驚いたものの、事情を把握しているのかすぐに手元のスイッチらしきものを押した。
それから1分と経たずして店の奥からやってきたのは、40代から50代半ばにと思しい男性だった。背は高くすらりとした体形で金髪は短く刈り上げられている。
「ようこそ、お越しくださいました木原先生。お待ちしておりましたよ」
「おはようございます、カルロ所長。開店前にすみませんね」
「構いませんよ。技研の業務はすでに始まっていますから始業前というわけでもありません」
気さくな雰囲気を漂わせた男性は流暢な日本語を口にした。
唯一とは顔見知りのようだ。
「そちらは見学の生徒さんですね? 日本からだと遠くて大変だったでしょう」
「大変でしたけど、初めて見るものばかりで楽しいですよ」
「そうですか、それはよかった。ああ、まだポンペイの遺跡は見ていないのでしょう? 興味がありましたら、午後にでも発掘作業中の現場を見学できるように取り計らいますよ」
「できるんですか?」
「内々に話はしてありますよ。うちが納入している製品を多く使ってもらっている現場でしてね。保守管理から運用支援まで幅広く関わらせてもらっている関係で、多少の融通が利くのですよ」
「そうなんですね」
ポンペイの遺跡に興味がないと言えばウソになる。
何よりポンペイに来たのに遺跡は見ていないなど土産話としては下の下だろう。
どうせなら、発掘の裏側を見てみたいと思うのは当然の感情ではないだろうか。
「カルロ所長、生徒の学習に有益な場を提供していただけるのはありがたいですが、その前に」
「そうですね。まずは会議室に案内します」
カルロが先導して店の奥に案内する。『Staff Only』のプレートがかかった扉を開けると、そこには階段があった。
「技研は地下にあるんですよ。1階の店は地域と繋がる窓口みたいなもので、学園都市の技術開発に直接的な関りはありません」
と、唯一が解説してくれる。
ミネルヴァ技研は外部協力企業とは言うが実態としては学園都市の企業や研究機関が出資して設立した合弁会社だ。完全にイタリア国内の企業というわけではないので、ほぼ身内みたいなものだろう。
「イタリアの地下って掘るといろいろ出てくると聞いたことがありますが、この建物は地下空間がこんなに?」
昴は興味深そうに周囲を見回している。
技研の本社がある地下2階は、無機質な白い廊下の左右にガラス張りの研究室が設けられている。学園都市の一級品の研究所を見たことがあるとそこまで目を見張るような研究室には見えないが、それでも10人程度の白衣を着た研究者たちがデスクに向かってパソコンの画面を見つめているのは研究所というにふさわしい光景だ。
研究室はそれだけでなく、他にもいくつかあるようだ。
「地下に何もない場所を選定して用地取得をしたのですよ。おっしゃる通り掘れば遺跡や遺物が出土するというのはこの国ではよくあります。イタリアだけでなく、長い歴史のある都市では珍しくもないことですがね。確か、日本でも奈良や京都が同じような地域ですよね」
「そのようですね。未だに畑からも土器が出るとか」
「その場合、地権者や工事を請け負った業者は困るわけです。せっかく建物を建てたい、工事をしたいのに、遺跡が出たせいで工事ができないという状況になります。最初から穴を掘って大丈夫か確認できればいいのに、という需要に応える探査装置を開発しました。地下に何が埋まっているかを高精度で特定し、遺跡を避けて工事をしたり、ピンポイントで発掘したりできるようになりました。この地下施設は、その装置のデモも兼ねて建設したものです。弊社の代表的な商品の一つですね」
カルロは饒舌に説明してくれる。
なるほど確かに、地下に埋没した遺物や遺跡を高精度で確認できれば、未知の遺跡を見つけることはより簡単になるし工事でうっかり遺跡を壊すリスクも減る。まして、一般人が工事をしようとして遺跡を掘り出してしまうアクシデントも未然に防げる。地下に何があるか分からない地域では、需要があるというのは頷ける。京都や奈良のような歴史ある地域でも活用できそうな技術ではある。
「今は考古学方面で実証実験中ですが、将来的には雪崩や土砂災害の被災者を迅速に発見するといった災害救助での活用も視野に入れているんですよね?」
唯一が解説を補足する。
どのような理屈なのかは分からないが、埋まった何かを見つけ出す技術が完成すれば、災害救助に役立つのは間違いなさそうだ。
「人命が関わると基準が厳しくなるので、今まで以上の精度が求められるのですが、いずれはその分野でも実用化させたいですね」
「軍用としても?」
「ははは、どのような技術も使い方次第ですよ」
その後、地下2階の奥まったところにある会議室に唯一は案内された。
「学生さんたちは施設案内を。学校にレポートを提出しないといけないのでしょう?」
カルロがそう言ったところで、白衣を着た若い男性がやって来た。
どこかアジア系のラテン人といった風貌だ。
「彼は研究員のフェルモ・タカヤナギ。今日の施設案内の担当です」
「フェルモです。よろしくね」
人好きのする笑顔を見せて笑うフェルモ。
名前からして日系人のようだ。こちらもしっかりと日本語で話している。
簡単な自己紹介の後、唯一と条理と昴は別行動となった。
唯一はもともと仕事があり、条理と昴は唯一の仕事のおまけでここを訪れている。
条理と昴の「研修旅行」は唯一の仕事とは関係がない後付けのイベントに過ぎない。
要するに唯一が2人をイタリアに連れてくる口実として設定したものであった。
「しょうがないですね。2人とも迷惑かけないように」
「木原先生、先生みたいなことを仰いますね」
「どこからどう見ても先生ですよ、加巳野ちゃん」
昴の冷たい物言いに唯一がツッコミを入れた。
立ったまま施設関係者を横に置いて雑談を続けるわけにもいかないので、ここで切り上げる。
フェルモの先導で条理と昴は廊下を進む。
地下の研究施設というが、広大な蟻の巣のように入り組んでいるわけではない。
都市の地下に設ける施設がどんどん拡張できるはずもないからだ。
真っ白な廊下の壁はLED照明の明かりでますます白く映える。生活感が皆無の無機質な建物の内部というのは、どうしてこうも異世界感を感じるのだろうか。
研究施設というのは、どこもこんなものだろうか。
唯一の研究室は、もう少し雑然とした印象があったが、それは唯一の生活空間の一部になっているからだろうか。
しばらく歩いているとゴンゴンと鈍い音が聞こえてきた。
何か大きな機械が稼働している音のようだ。
「こちらへどうぞ」
フェルモがカードキーを翳して扉のロックを解除する。分厚い金属の自動ドアは、ここが重要な設備であることを如実に示している。
おーん、と機械の稼働音。
案内された部屋は決して広くはない。大人が四人も入れば手狭になる程度の小部屋だ。機材は2台のモニターとデスクトップパソコンだけで、電源が入っているわけではない。ただ狭さは感じない。壁がガラス張りになっていて、研究施設の根幹を高みから見下ろすことができるからだ。
ここよりもさらに下の階から吹き抜けになっている大きな研究室がガラスの向こうにある。
白衣を着た研究員が機材と向き合い、作業に没頭しているのが見下ろせる。
注目すべきは室内の三分の一を埋めるような巨大な機械と配管だろう。
それがこの部屋の根幹であり、メイン設備なのは間違いない。
上から見ると機械と配管が繋がりあって、さながら金属製の神経系のようだ。
「普段使うことのない会議室なのですが、ちょうど研究室を見下ろすことができるので見学にはもってこいでしょう。眺めがいいので、展望室などと社内では呼んでいるのですよ」
と、フェルモが自慢げに言う。
展望室というには視界に入るのは鉄の塊ばかりだが、確かに悪くはない景色ではある。
「男性は好きそうですね、こういう機械」
「そりゃ偏見だろ」
「失礼しました。お兄様は好きそうですね」
「そりゃね。でかい機械とかワクワクするだろ。ゴミの焼却場とか、昔見学に行って楽しかったの思い出したわ」
小学生の時の社会科見学で焼却場を見に行った時のワクワク感は格別だった。そんな昔の記憶が不意に蘇ってきた。普段見ることのない大型機械が動いているところを間近で見られたというだけで、有意義な時間になったと思える。もっとも、この内容ならイタリアまでくる必要はなかったのだが、それを言うと元も子もないか。
「あちらの大型機械が弊社のAMS……加速器質量分析装置になります。弊社を見学していただくのでしたら、ここは外せませんね」
フェルモが視線を下に向ける。
大型装置が重苦しい音を立てて稼働し、研究員たちが得られた数字を見て黙々と作業している。
「ちなみに、お二人はAMSのことはご存じですか?」
「まあ、ざっくりと」
「同位体の存在比を測定する装置……考古学では、放射性炭素年代測定で用いると聞いたことがあります」
さすがは常盤台の優等生。
あやふやな知識しかない条理に対し、昴は明朗な回答をした。
年下の妹分に知識で負ける。
特段、悔しくはない。
常盤台と普通の学校では凄まじい教育格差があるのは周知の事実だ。
昴は唯一の秘蔵っ子でもあるわけだから、基本的な能力水準が同世代よりも抜きんでているのは確かだ。昴はおそらく、AMSの名前を知っているというだけでなく、物理学的な理論も含めて理解していることだろう。
「さすがは木原先生の教え子。よくご存じですね。この設備を見ていただくと分かる通り、弊社は商品の開発と販売だけでなく、成分分析サービスも手掛けています。特にこちらのAMSは一般的なそれに比べて小型で使い勝手がいいのが特徴でして、個人的には学園都市外にあるAMSの中では最高性能と言ってもいいと思っていますよ」
小型とはいえ、それなりの大きさの設備だ。
ポンペイ遺跡が近くにある地域の地下に設けるのは、なかなか骨の折れる作業だっただろうが、それを可能とした技術もまた商品の一つである。
この実験場は高度な機械設備の小型化と低コスト運用。それと同時にそれらの設備を地下に建造する技術の双方を併せ持つ技研の心臓部にして最大のセールスポイントがこのAMSというわけだ。
「さて、本当はAMSの近くまで案内したいところですが、それは木原先生がお手すきになってからにしましょうか。こちらでおかけになってお待ちください。あちらの要件は、そうですね……1時間もすれば、終わるでしょう」
フェルモは展望室の隅に歩いていく。そこには小さなシンクがあり、隣に電気ポットが置いてある。
「コーヒーと紅茶がありますが、どちらがお好みですか?」
そう言ってフェルモはマグカップを手に取った。
+
教え子たちと別れた唯一は1人で使うには広い会議室でカルロと向かい合って座っている。ロングテーブルと床にはドッチファイルが山積みになっているが唯一が見ているのは手元のタブレットと説明用にカルロが配ったA4のコピー用紙3枚分の資料であった。
「とりあえず、100万ユーロの使途不明金からですか」
「申し訳ありません。経理担当に任せきりにしてた私の管理監督不足です」
カルロは唯一の指摘に言い訳をすることなく謝罪する。
すでに使途不明金の存在は学園都市側も把握していて、言い逃れは無意味だということが分かり切っている。唯一がここに来たのは、そうした技研の不祥事に対する監査の意味もあるのだ。
「3年8か月もの間、不正に気付かなかったのは重大ですよ。残念ですが監督責任が追及されるのは免れません。それで、抜かれた資金の回収の目途は?」
「気持ちはあるが、すでに使い切っているから返せないと」
「ギャンブルか女遊びか。日本ではよく聞く不正ですが、イタリアはどうなんでしょうね」
「イタリアでも重罪ですよ」
唯一はため息をついた。
正直、この横領事件には何の関心もない。彼女は科学者であって警察官でも裁判官でもない、会社の経営者でもない。使途不明金そのものを追及する立場にあるとは思っていないし、ただの犯罪であれば、それこそ警察が動くべき話だ。100万ユーロ。日本円にして約1億8,000万円という多額の横領事件は一般的には大事件として、ニュースを賑わせることにもなるだろう。
だが、それは一般の世界の話。
ここに唯一が派遣されたことからも分かる通り、これは学園都市の暗部に関わる領域でもある。
「……まあ、それはそうとして、問題はお金じゃあないんで。分かってますよね?」
「……ええ、それは重々」
「お金は稼げばいい。学園都市の技術なら取り返せる。けれど、その技術を流出させてしまったのでは話が変わる。上は技研の技術流出を疑っています。作成していただいた資料はよくできていますが、我々のリサーチとは異なる数字が散見されますね」
「学園都市が我が社の資金の流れをそこまで把握できるものですか?」
「それができるからわたしが派遣されたわけですが。あまり学園都市を舐めない方がいいですよ。外部のあなたたちには、想像しにくいことかもしれませんがね」
学園都市の内と外では常識があまりにも異なる。
魔術と科学という分類だけではない。
技術力が数世代離れているというだけでなく、人倫、法治、道徳といった社会の価値観からしてズレている。
日本国内にあって日本の法律とは異なるルールで動く事実上の治外法権。
学生のための学園都市を謳いながら科学のためなら、その裏側には人命を消費することも厭わない人非人も許容する闇がある。
その闇を学園都市外の人間が真に理解することは困難だ。
もっとも、カルロは単なる学園都市の外部協力者というわけではなく、暗部のことも理解している人物なだけに、小手先のごまかしが通るとは本気で思っているわけではあるまい。
もしも、そうなら本当に舐められたものだ。
それとも、学園都市から1万キロも距離があればこれだけ油断してしまうものだろうか。
「舐めているわけではありません。ただ、正直驚いてはいます」
カルロの声色はやや緊張感を帯びている。
「ですが、さすがに無理というわけですか。何百とある関連企業からこちらが目をつけられたのは運がなかった」
「資金流出ならばまだしも技術流出を見逃すほど、学園都市の目は曇ってないってことですよ。それで、大人しくお縄につく気はありますか? 心配しなくてもイタリアの警察に突き出すなんて真似はしませんよ」
「むしろイタリアの警察の方が優しい部類では? 学園都市の暗部が動いたからには、ただでは済まないというのは百も承知です」
カルロが席を立つのと唯一が身体を大きく捻って後ろに跳躍するのはほぼ同時だった。
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「まさか本当にこんな芸のない手段に打って出るとは」
唯一は呆れたとばかりに肩を竦める。
死角からの不意打ちを避けられた何者かは苦々し気に舌打ちをする。
真っ黒なロングコートを着た黒髪の女だった。
体格も身長も唯一と同じくらいだ。アジア人、というか十中八九日本人だ。
カルロの部下であろう。
女が不意に室内に飛び込んできて唯一に襲い掛かるまでの間にカルロは女と入れ替わるように部屋の入口近くまで走っていった。
「ケイ、殺すなよ」
「分かってる」
カルロの指示にケイと呼ばれた女が答えた。
(さて、学園都市の能力者と思っておくのが無難でしょうが)
唯一はケイを頭のてっぺんから足のつま先まで観察して思案する。
身のこなしからして暗部でも活動していたと見える。少なくともそれ相応の死線を潜り抜けているのは間違いない。
「学園都市出身者ってことで間違いないですか?」
「…………ふッ」
言葉の代わりに女が繰り出したのは右の拳だ。
驚異的なスピードで唯一に近づき、正拳突きを放った。プロボクサーも顔負けのパンチは、唯一の顔面を狙った。
が、ケイの拳が唯一を捉えることはなかった。
正拳突きは文字通り空を切る。
如何にその拳が弾丸のような脅威の塊であろうとも、当たらなければ何の意味も成さない。
ケイはさらに拳を繰り出す。
奇妙なのは右手には黒いグローブを嵌めているのに、左手は素手だということだ。
あからさまな左右非対称。
理由があると考えるべきだろう。
(倒してしまえば問題ないんですがね!)
ガガガッと鈍い音が響き渡った。
最初の2つは唯一の連続蹴りがケイの胴体に炸裂した音であり、3つ目はケイが壁に叩きつけられた音だ。一瞬の攻防は唯一が制した形となった。
ケイは背中を壁に打ち付けてバウンドし、地面に崩れ落ちた。
「ッ……!」
一息つく間もなく、唯一はとっさに頭を振った。
はらりと唯一の髪が数本、宙を待った。
再起動したケイが唯一を飛び掛かり、どこからか取り出した黒いナイフで斬りかかったのだ。狙いは首。危うく頸動脈が斬られるところだった。
猫の様な身軽さで女は唯一から距離を取る。
(まあ、それはいいとして――――あれで、決まったと思ったんですけどね)
手加減をしたつもりはない。唯一の蹴りは過たず女の胴体に吸い込まれていた。相手が人間なら、概ねこれで決着する。タイミングを合わせて2発の打撃を叩き込み、2方向からの衝撃を敵の体内でぶつけて血管内に気泡を発生させる即死技。それが唯一の蹴り技の真価であり、目の前の女にも躊躇なくそれを使用した。外された感覚はなく、本来ならば今頃は悶絶しながら床をのた打ち回り、絶命するはずであった。
「少し興味が出てきましたよ」
「そうか、だがこちらはあんたの興味に付き合う気はない」
女が口を開く。平坦でハスキーな声音。そこから感情を読み取ることは困難だった。
唯一が距離を縮めようと前のめりになったとき、女も動いた。
懐から取り出したのは拳銃だ。すでに引き金に指をかけ、セーフティも外れている。
「木原!」
唯一が駆け寄るよりも早く、ケイが引き金を引いた。
安直ではあるが効果的だ。唯一は能力者ではないただの人間だ。拳銃弾でも十分に致命傷を負う。口径が小さくても人間1人を射殺するには十分な威力だ。
「な――――」
唯一は足を止めなかった。回避もせずに白衣を翻してまっすぐに突っ込んでくる。銃弾と唯一の身体の間にあるのは、薄布の白衣一枚だけだ。放たれた鉛玉は白衣の上を滑るようにして軌道を変えて、コンクリートの壁に突き刺さる。砕けた壁の欠片が地面に転がるよりも前に唯一はケイの懐に飛び込んでいた。
「セイや!」
まずは銃を持つ右手を封じる。手首を掴んで捻り、そのまま足払いをして引きずり倒す。
その拘束はすぐに解かれた。
手のひらから鋭い痛みを感じた唯一が手を放して再び距離を取ったからだ。
唯一の右の手のひらに血が滲む。
「さすが木原。反応が速い」
「わたしの手に傷をつけるなんていい度胸してますね」
「傷を負うのが嫌だったか? 散々他人を傷つけてきた人間の言うことではないな」
「あなたと面識はないと思いますが、どこかでお会いしてますか?」
「いいや。だが、お前が木原というだけでろくでもないヤツなのは確定だ」
「酷い言いがかりですね。木原は科学の発展に尽くしているだけですよ」
「反吐が出る」
「2億近い横領事件の関係者に言われる筋合いはまったくありませんが?」
右手の痛みはすぐに引いた。幸い傷は浅く戦闘にはまったく支障はない。問題は何が起こったかだ。相手の手首を掴んだところで痛みが生じた。敵の皮膚に触れたところだ。
(肌に触れるとこちらが傷を負う、と。そこまで高レベルの能力ではなさそうですが)
そこで白衣の裾が裂けていることに気付いた。
銃弾すらも貫通しない頑丈な特別性の白衣だ。ただひっかけただけで裂けるような代物ではない。
どうもただ裂けただけではなさそうだ。
白衣の傷口が黒ずんでいる。
手のひらの傷を見ると、こちらも傷口の周囲が黒っぽくなっていた。
「なるほど、そういう能力ですか」
唯一の蹴りを食らっても立ち上がる耐久力も能力由来だ。
黒いコートもどこから取り出したか分からなかったナイフも同じ。
(おそらくは炭素の操作。それも肌が触れた部分だけという限定的なものでしょうね。レベル2が精々ですが、戦闘面ではなかなかに厄介ですね)
人体は多くが炭素を含む。唯一の肌を傷つけたのは、唯一の皮膚に含まれる炭素に干渉したからだろう。同じように白衣の耐久力も炭素を操作されれば維持できない。唯一が彼女を組み伏せようとしたタイミングで、白衣に触れられたのだろう。
一方で、炭素は極めて頑丈な物質を形成することも可能だ。有名なのはダイヤモンドだが、衝撃には脆いので今回は別物。
「例えばカーボンナノチューブとか自由に作れるのなら便利な力ですよね。潰してしまうのは、ちょっともったいないですね」
「……さすがに気付くか」
「さて、降参して学園都市に連行されるのなら、悪いようにはしませんよ。わたし、こう見えて木原の中ではまともな部類だと自負していますし」
「それはこちらのセリフだ。この状況で勝機があるとでも。お前に逃げ場はない。お前はここで搾取される側に堕ちるんだよ」
「何が目的です?」
「木原さ。技研の技術だけではこの先の成長には限界がある。学園都市から供与されるデータは歯抜けで重要な部分が抜け落ちているから会社の発展には活かせない。だから学園都市の頭脳を使うことにした。相手が木原なら、申し分ない!」
ケイが腕を振るう。
ロングコートの袖が解れて、ロープに変化する。カーボンナノチューブを束ねて作り上げたロープが蛇のように噛ま首を擡げて唯一に襲い掛かる。その数は8。左右に4本ずつだ。
「共同研究がしたいなら、きちんと手続きを踏んでくださいよ」
「外部機関に情報を流すことなんてしないだろう。どの道、学園都市との対立は覚悟していた。木原が乗り込んできてくれるかどうかは賭けだったが……」
「わたしがほいほい情報を渡すとでも?」
「お前の意思は重要じゃない。知識さえ引き出せればいい。そんなことは、そちらの方がが得意だろう? 頭に電極を刺して、質疑応答するなんてのは、学園都市の暗部じゃ珍しくない光景じゃないか」
「否定はしませんが、一緒にされるのは心外ですねぇ。昔ならともなく今のわたしにとっては悪趣味としか思えませんし。というかわたしの頭に電極刺してあれこれするって効率悪いでしょうに」
学園都市の中ならもっとうまくやるだろう。限られた技術、限られた知見、限られた資金の中でやりくりして、搾り出した結論がこれではいっそ出来が悪すぎて悲しくなる。
確かに唯一の知識を吐き出させて技術開発を進めれば、技研の技術力を大いに高めることにはなるだろう。学園都市がそのようなやり方での成長を見逃すはずがないし、何より彼らは別の外部組織ともつながりを持っている。唯一の頭脳が敵対組織にも共有されるリスクはさすがに許容できない。そうなれば、本格的に潰しに来るだろうが、それを分かっているのか。
横領も会計がどうとか言っていたが、実際は学園都市から別組織に宗旨替えするための準備に流用していたにすぎない。
会社ぐるみで横領と技術流出というのは、さすがに見過ごすわけにはいかない大きな問題だ。