とある世界の常識改変 作:ロロノア
イタリアといえば紅茶かコーヒーか。どちらが本場なのかと無益なことを考えているうちに、昴が紅茶をオーダーしていた。その流れで条理も同じものを頼むことにした。レストランならばともかく、ティーパックで提供されるごく普通の紅茶なので、別にこだわることもない。
唯一の仕事は技研の不正に関わる査察であり、条理と昴はおまけだ。ほぼ真っ黒な不正が疑われる企業に査察と並行して企業見学をさせるという教育者にあるまじき教育プログラムを組んでいるわけだが、唯一は理由をつけてこの面子で旅行しようという不埒な考えを持っていただけで、海外研修旅行を真剣に組み立てたわけではあるまい。面倒な仕事を押し付けられたことへの反発で、思い切った旅行プランを立てたというのが真実だ。
結果、条理と昴はイタリアの風光明媚な天然自然の絶景を味わうことなく地下施設の小部屋で紅茶を啜る時間を強要されている。
(別に悪くはないけどな)
学園都市にいてもなかなか見ることのできない機械設備が稼働している様子を目の当たりにできたのは収穫ではある。将来に活かすことは十中八九ないだろうが、この瞬間は特別な体験をしていると思うことはできる。イタリアらしさは1ミリもないが、企業見学らしさは味わえている。土産話としては面白みにかけるところもあるが、海外研修など望むべくもない一般校の条理にとっては、これだけでもお釣りがくる経験ではある。
「AMSなんて常盤台で扱うのか?」
「さすがに機械そのものは触れませんけど、授業の中で取り上げる内容ではあります。物理ではなく歴史の範囲ですけど」
「それで放射性炭素年代測定ね」
「ちなみにそれ以外の用途はご存じですか?」
「いや知らん。そもそもAMSもよく分からんし」
聞き覚えのある単語だが、受験にも定期テストにも出てきそうにない機械の名前など、すぐに忘れてしまう。目の前に実物があれば興味を惹かれるが、資料集でほんの少し触れられる程度の情報であれば、特に記憶には残らない。最初から覚える気がないので当然だ。聞き流してしまえば仮に優秀な頭脳を持っていても意味がない。
それにしても手持無沙汰だ。
技研の見学と言っても学生が出入りできる部屋は限られている。そもそもそこまで広大な敷地のある企業ではないし、何よりここは地下である。目玉となるAMSを見たので、もう新たに見学するような部屋はないだろう。後は、実際に働いている社員を遠巻きに眺めるくらいの内容になるのではないか。
フェルモは出入口付近に立って、雑談を続ける条理と昴を眺めている。
この部屋に入ってからそろそろ1時間が経過する。
フェルモは唯一の仕事は1時間程度と見積もっていたので、その通りならそろそろ終わりだ。
フェルモは腕時計にちらちらと落ち着きなく視線を向ける。それは何かを待っているかのようだ。
「フェルモさん、どうかしましたか?」
と、条理は尋ねた。
「まだ、あちらからの連絡が来ないので次に進めるべきかどうか思案していました」
「1時間経ちますからね」
「そうですね。すみません、もうしばらくここで待機していただければと」
「ええ、はい。木原先生の仕事を邪魔するわけにもいきませんし」
条理は頷いて、すっかり冷めたマグカップを手に取った。紅茶の残りをすべて飲み干す。
「今度はコーヒーにでもしますか?」
と、フェルモが尋ねてくる。
「いえ」
と、言って条理はマグカップを置いた。
「あまり飲みすぎるとトイレが近くなるので」
「そうですか」
フェルモはインスタントコーヒーが入った袋を戸棚に戻す。
今のところ、研修らしい研修にもならず企業の見学と称して上からAMSが動いている様子を眺めているだけの時間が延々と続いている。
実際のところ、ミネルヴァ技研の規模は決して大きいというわけではない。AMSがあるにはあるが、特筆すべきはそれだけだ。企業見学の見せ場はこの展望室からの眺めくらいのもので、他は黙々と仕事に励む研究者たちの後ろ姿を眺めるばかりとなるだろう。
見るべきものはもう見た。
解説すべきものも、これ以上はないだろう。
技研にとっても唯一の対応が主であって、学生の企業見学に付き合っている場合ではないというのが本音だろう。
学園都市に探りを入れられているのだから、半端な対応ができるはずもなく学生の企業見学に割く余力はないはずだ。
圧倒的に学園都市側の立場が上だからこそ、このような無理筋の話が通っている。
「フェルモさんは飲まないのですか?」
「私は結構です。業務中ですから」
「別にいいじゃないですか。水分補給は大切ですよ。俺たちだけ紅茶をいただくのは、なんかばつが悪いんですが」
「ご心配なく。水は多めに飲んでますから」
「そうですか。でも、かなり汗をかいているみたいですよ」
条理と話をするうちにフェルモは頬が熱くなるのを感じた。じわりと身体が汗ばんでいて、それは条理が見ても分かる変化なのだろう。
「ははは、汗っかきで困りものです、体質なんですよ」
「なおさら水は飲んだ方がいいのでは?」
「そうですね。紅茶はお客様用なので、私はミネラルウォーターをいただきますよ」
「ああ、それなら俺たちに出したことにすればいいですよ。別に飲んだら死ぬわけでもないでしょ。ちょっと眠くなるくらいなんだから」
「――――何の」
フェルモが息を呑み、湧き上がる何かをぐっと堪えた様子が伺える。
条理は左手を上げて腕時計をフェルモに見せた。
液晶画面に表示されているのは時間ではなかった。
「この時計、簡易的な成分分析ができるんだよ。商品化されてないジョークグッズの試供品なんだけど、毒性の有無を警告してくれたりして面白いでしょ。登録してある市販薬と成分が合致すれば、候補の商品名も出してくれる。一滴あれば十分。で、物は試しでやってみたら、どうやら睡眠薬の成分が混入しているみたいなんだよね」
「面白い時計ですね。今の学園都市の学生はそんなものまで入手できるのですか。とはいえ、精度はそこまででもないようですね。それが本当なら、紅茶を全部飲んだあなたは今頃眠っているはずですよ」
「そりゃ、常識的に言って俺にこんな薬は効かないからな」
フェルモが生唾を飲んだ。
フェルモが汗をかいていたのは、いつまで経っても眠らない条理たちを前にして酷く緊張していたからだ。
「お兄様、わたくしの紅茶は」
「ああ、加巳野の紅茶にも入ってたけど、無害化しといたから大丈夫」
「分析するまでもなく気付いていたじゃないですか。その時計を使いたいからって遠回しなことをしなくてもいいでしょう」
「こうでもしないとコイツの出番がないじゃないか」
妹分の呆れたような視線に唇を尖らせる条理。
もちろん、回りくどいことをしないで手早く済ませる方法はいくらでもある。
ただそれは面白みがないというのが正直なところである。せっかくのジョークグッズが手元にあるのだから、少しくらい遊びを交えてもいいだろう。
「加巳野はロマンが分かってないな」
「避けられるリスクを敢えて避けない理由がないだけです。お兄様なら、いくらでもどうとでもできるわけですから」
「それはそうなんだけどな」
何でもできるがゆえに、何かしら楽しみを見出さなければ人生は無味乾燥としたものになってしまう。ただの作業ではつまらない。それがわざと無駄なひと手間を加える癖に繋がっている。万能な能力を得たが故の弊害だ。合理性とは逆方向に進む不合理な遊びを取り入れるのは、言ってしまえば「舐めた」行いだ。当然、それは侮辱と受け取る者は少なくない。
「ぶっちゃけ大人の仕事に中途半端に口を出すのはダメだろうと思ってたんだけど、そっちから手を出してきたんじゃ仕方ないよな」
「――――ああ、まったく、調子に乗った子どもほど手の付けられないものはないな」
フェルモの口調が変わる。
ビジネスライクな関係から純粋な敵対関係にシフトしたという意思表示。
「できるだけ穏便に済ませようとしていたんだぞ」
ヴヴヴ……、と不快な物音。
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴとその音ははっきりと部屋のあちらこちらから聞こえるようになる。機械の音ではないが、嫌というほど聞き覚えがある。
それが姿を見せたのは、天井の換気口だ。地下設備だからこそ空調は何よりも大切だ。配管が隅々まで行き渡り新鮮な空気を循環させている。
そんな人の目につかない暗闇の中にそれは巣を作り、数を増やしていたのだ。
瞬く間に部屋中に数千匹にもなる蜂の大群が雪崩れ込んでくる。
狭い部屋の中では逃げ場もなく、四方八方から叩きつけられる羽音の大合唱はそれだけで常人の精神を狂わせるだろう。
蜂の大きさは3センチくらいだろうか。日本のオオスズメバチよりは小ぶりだ。身体の大部分が赤茶色で、腹部と頭部に明るい黄色が入っている。
「オリエントスズメバチ。生きてるのは初めて見た」
「博識だな」
「日本男子にはな、昆虫図鑑にときめく時期があるんだよ。こいつ、確か、太陽光発電ができる珍しい蜂じゃなかったかな。地下で飼うのは可哀そうじゃないか?」
「何、心配いらない。こいつらは特別な品種改良を行った、私だけのオリエントスズメバチだ。外にいる野生種とは別物だよ」
ホバリングするスズメバチはすべての個体が条理と昴を取り囲んでいる。飼い主が指示を出せば、一斉に襲い掛かってくるだろう。
「あんたも学園都市で能力開発を受けたことがあるんだな」
「ああ、残念ながらレベルは2止まりだったが、レベルの高低と殺傷能力は必ずしもイコールではないのは見ての通りだ」
「昆虫特化の
精神感応能力自体数は多くないが、同時に複数の相手と交流するのは多大な処理能力を要するためさらに数は少なくなる。対象が限定されているとはいえ、同時に数千匹の蜂を支配するというのは難しく、実は高位能力者なのではないかとすら思える。
昆虫の中でも蜂は最上位の危険性がある。多くの人の命を奪う死神みたいな虫だ。精神感応能力そのものの殺傷力皆無でも、スズメバチに群がられたら大抵の人間は命を落とすことになるだろう。
「この蜂をすべて直接支配しているわけではないでしょう。レベル2の演算能力では、数千匹の蜂を同時にコントロールするほどの処理能力はないはずです。例えば女王バチを介して働きバチを操るというような、何かしらのハブを噛ませていると思うのですが」
昴は条理の背に隠れるように身を潜めつつそのように分析する。
蜂は社会性昆虫だ。
そのコミュニティは女王バチを頂点とするピラミッド構造となっていて、機械的に各々の役割を果たしている。
女王を中継器として全体に能力を作用させるというのは、なるほど無理のない能力の使い方ではある。まして、このオリエントスズメバチはフェルモが品種改良した特別性だという。当然、操りやすいような処理を施しているのは間違いない。
「……私の能力を分析したところで状況は変わらん。それにこの蜂は毒性も強化している。一刺しで大の大人が泣きわめき、発狂するほどに痛覚を鋭敏化する。当然、千匹以上の毒針に曝されれば、人間程度は1分も持たずに死ぬだろうね」
蜂に刺されて命を落とす人間は少なくない。大抵はアナフィラキシーショックによるものだが、この改造スズメバチならもしかしたら純粋な毒性だけで人間を殺すこともあるかもしれない。まして、フェルモの言う通り数が多いし、ミツバチのように一刺しで終わってはくれないだろう。
「君たちにとっては不運だったろうが、大人しくこちらの指示に従うのなら手荒な真似はしない」
「あからさまな脅しをかけてくる相手の言うことが信用できるわけないでしょ」
「信用の問題じゃない。現実的な状況判断の話だ」
部屋を覆い尽くす数えきれないスズメバチ。ブンブンブンブンと煩くて仕方がない。太古の昔から数えきれない人間を死に追いやった毒虫は、その羽音だけで人間の精神を軋ませる。
視覚的にも威圧感が凄まじい。
正直、スズメバチに囲まれるというのは、気分のいい状況ではない。
日本人の条理からすれば、オオスズメバチでないだけマシだと思うが、やはり蜂は蜂。本能が危険性を訴えている。
「お兄様。手早く済ませてください」
「怖かったら後ろで隠れてていいぞ」
「大丈夫です。いざとなれば、わたくしだけで脱出します」
「そこは俺も連れてけよ。なんで1人で逃げる気なんだよ」
「お兄様にその必要はないかと」
冷たい妹分の宣言に条理には苦笑する。
昴の能力ならこの危機的状況を打開するのは容易だ。脱出も簡単にできる。昴が顔を歪めているのは蜂に対する生理的嫌悪感に対してであって、数千匹の蜂に包囲された程度を危機と認識しているわけではない。
そして、それは条理も同じだ。
「さすがにこれが切り札なんだったら拍子抜けだぞ」
条理は空中を指さした。
条理が指さした虚空にいたのは蜂ではなかった。もっと小さな昆虫である。人差し指の先で、空中で固まったように動かなくなっている体長3ミリ程度の蚊だ。
「スズメバチで気を引いて、本命はこっち。虫使いが相手なんだから警戒するのは当たり前だな」
空中で蚊は潰れた。大気に押しつぶされたかのように圧縮されて、床に散らばる埃に仲間入りする。
「……く」
「この蚊に毒を仕込んでたんだろうけど、ぶっちゃけ蜂も蚊も俺には意味ないぞ。薬が効かなかった時点で、予想できただろ」
+
ケイと呼ばれた女能力者の戦闘能力は非常に高い。能力のレベルこそ高くはないが、炭素の操作という汎用性のある能力とそれを適切に運用する経験が組み合わさり、唯一と互角の戦いを展開している。
狭い室内。
能力を駆使する相手との戦い。
まして、ここは敵地のど真ん中である。
何一つ唯一に利するものがない状況で互角というのは、むしろ彼女の戦闘能力の高さを示すことでもある。
(この女、無能力者のくせに……ッ!)
と、歯噛みするのはケイのほうだった。
唯一を生け捕りにするという制約があるにしても、無能力者を陣中に引き込んで仕留めきれないというのは初めての経験だ。
唯一の攻撃手段はただの徒手空拳だ。
本来なら避けるまでもなくその身にまとうカーボンコートで受け止めるだけで事足りる。
だが、唯一の打撃は一撃必殺だ。
迂闊に受けることはできず、安全を優先して距離を取ってしまう。
一方で、唯一からしても攻め手に欠くのは否めない。
ケイを一撃で仕留められなかった絡繰は想像できる。
彼女のカーボンコートが唯一の打撃の衝撃の『伝わり方』を変えたからだろう。
唯一の打撃が一撃必殺の即死技なのは、人体内部に2つの衝撃を打ち込み、それらをぶつけて血管内に気泡を発生させるからである。与える衝撃は強ければいいというわけではなく、衝撃を与える箇所やタイミングも正確に調整して撃ち込まなければならない。よって、重要な衝撃の伝わり方を変えられれば、血管内に気泡が発生することもない。それが、唯一の打撃でケイが落命しなかった理由だ。
(絶対ってわけではないでしょう。ぶっつけ本番でうまくいっただけのことで次も同じようにうまくいくとは限らないですよね)
唯一の攻撃が絶対的に防がれるというわけではないのはケイの戦い方を見れば分かる。もしも唯一の反撃が何の意味も成さないのなら、ケイが唯一から距離を取る意味がない。カーボンコートの防御力に任せてより積極的に近接戦を挑んできても不思議ではない。それをしないのは、ケイ自身もこの戦い方に絶対的自身があるわけではないということの証左であろう。
唯一の特殊な打撃を再現できる者は他にいない。
ケイが事前に唯一の打撃を想定した訓練は積めないのだから、そう何度も対応はできないはずだ。
「ま、どうとでもなりますね」
「その余裕がどこまで続くか試してみようか。お前ら学園都市の研究者どもがわたしたちにしてきたことを一つ一つ味わわせてやる」
「生憎とそういうのは経験済みなんですよね」
「何……、んぐッ」
唯一が蹴りこみがケイの腹部に突き立つ。
油断はなかったが、想定を超えた運動能力に思考が停止する。
常人が1歩踏み出すのと同じ感覚で実に10歩分もの距離を詰める超人的な踏み込み。
反応はできなかったが、体が自然と動いた。というよりも脳が動いたというべきか。手足を動かすよりも先に、カーボンコートの強化を優先した。鋼鉄にも匹敵する頑丈さを持ちながらも柔軟な炭素繊維で織られたコートは、ケイの能力を十全に発揮する触媒として機能する。唯一の蹴りの衝撃はケイの身体には届かず、カーボンコートが受け止めて吸収する。
ケイの能力の特徴は炭素の支配力にある。炭素を操り組成を弄る。それができるというのは、炭素に限定した念動力を持つと言い換えてもいいだろう。それを突き詰めれば、炭素繊維が壊れないように形を固定化することも不可能ではないし、その場合の防御力は物質の硬度にケイの演算能力が上乗せされる。唯一がカーボンコートの防御を抜くには、ケイの能力でも対応できない強力な衝撃を与えるしかない。
この段階で、どさくさに紛れてカルロは会議室を出ていった。
賢明な判断だ。
唯一とケイの戦いが始まった時点で、カルロの出番はなくなった。
戦いの邪魔になるだけなので、部屋を出るのは当然だろう。
次にカルロが姿を見せるのは、ケイが唯一を捕縛して、機械に繋ぐなりなんなりしてからだろう。
技研の想定通りに事が進めば、唯一が正気のままカルロと会話をする機会はもうないのだろう。
「フッ」
短い呼吸で全身に酸素を行き渡らせる。
唯一が蹴ったロングテーブルは勢いよく床を滑ってケイに向かう。
ぶつかれば大の大人でも骨折は免がれない速度だったが、途中で真っ二つに両断される。カーボン製の刃がロングテーブルを切り裂いたのである。カーボンコートの袖を利用した形状変化。鮮やかな能力の応用技を唯一は手放しで賞賛する。瞬時の判断と能力を用いた的確な対処は非常に難しい。それを思いつくだけなく、演算して実行に移すのは、かなりの鍛錬を要する。
手足を動かすのとはわけが違う。
後付けの、しかも脳で演算をする手間がかかる能力を自在に使いこなすのは、能力の強弱とは異なる評価軸で評価するべきであろう。
要するに能力を戦いで活かすセンスがケイにはあった。これがなければ、強力な能力も宝の持ち腐れになる。
とはいえ、その僅かな隙は唯一の次の行動には十分な時間だった。
唯一は素早く出入口に駆け寄ってドアを開け、会議室の外に脱出した。
「チィ、電子錠を!」
会議室のドアの鍵は電子錠だ。パスワードかカードキーがなければ、内側からでも外には出られない。そういう設定にしてある。しかし、唯一はまるで鍵などないかのようにあっさりと外に出てしまった。これはケイも想定していなかった。
だが、現実として唯一が外に出たのは事実だ。頭を真っ白にして突っ立っているわけにはいかない。
ケイは、すぐに唯一を追って会議室の外に飛び出した。
会議室から脱出した唯一はまっしぐらに階段に向かう。
監視カメラもあるだろうし唯一の行動はすべて筒抜けだ。隠れてやり過ごすことはできそうにないので、とにかく今は逃げる一択。条理と昴は優れた能力者なので問題ない。というか条理が負けるというのはまずないので心配はしていない。
陸上選手も青ざめるほどのスプリントで廊下を駆け抜ける唯一だが、階段の手前でブレーキを踏むことになった。
「あー、これは抜けそうにないですねぇ」
防火扉が廊下を完全に塞いでいた。非常扉もないので、ここから先には進めない。鉄板を素手で破壊する力は唯一にはないので手詰まりだ。
「ここは地下で技研の持ち物なんだ。お前たちの逃げ道を塞ぐことなんて造作もない。のこのこ地下に下りてきた時点で、袋のネズミだ」
ケイが追い付いてきた。
「それにしても、まさか、あの状況で電子錠のハッキングをしているとは思わなかった。さすがは木原の頭脳だな」
ケイの推察のとおり唯一はケイと交戦しつつこの部屋の電子錠を解除するためにシステムにハッキングを仕掛けていた。彼女の腕時計にはその機能がある。学園都市の中では役に立たないが、外の科学技術に対しては有用だ。特に技研が使用しているシステムは事前にある程度把握していたので万が一に備えて対策を取ることは可能だ。
「……これで袋のネズミとは、わたしからすればまだぬるいくらいですよ」
「……できれば五体満足で確保したかったが、仕方ないか」
口の減らない唯一に苛立つケイは、右手を振るった。細いワイヤ―のような炭素繊維が彼女の近くにある金属製の棚を切り裂いた。
棚の中から黒い粒子が大量に零れ出し、粉塵となって舞い上がる。
「心配するな。毒じゃない。見ての通り、ただの煤だ」
ガンガンガンと廊下に点在する棚を次々に破壊するケイ。その中に入っていたのは、すべて煤だったようで白い廊下に黒く汚れていく。
棚から零れた時こそ舞い上がった粉塵だが、すぐに消えた。換気扇に吸い込まれたからではない。空気中の煤も足元の煤もすべてケイの集約されているからだ。
「なるほど、そこかしこに武器を仕込んでたわけですか」
「感心するようなことじゃない。誰でもやっていることだ」
特定の物質を操る能力者に共通する弱点は、操る対象を失うと何もできないということだ。例えば窒素を操る能力があったとしても、十分に効果を発揮できるだけの窒素を確保できなければ意味がない。そのため、液体窒素などを携帯して窒素不足に備えている。
ケイも同じだ。
敵と戦うために武器となる炭素を用意している。まして、この地下施設自体が彼女たちのテリトリーだ。むしろ、そういった準備を怠る方があり得ない。
大量の煤とカーボンコートが混ざり合い、廊下をぴったりと塞ぐ黒い壁となった。壁の表面には剣山のように鋭い突起が何本も並んでいてその用途は明白だ。
「それは普通に死ぬんじゃない!?」
「安心しろ。脳だけは活かしてやる!」
ケイは形成した炭素壁を進ませる。
能力で操っているので重さは気にならないようだ。唯一の逃げ場はなく、棚の残骸を巻き込みながら迫る炭素壁の前に立ち尽くすことしかできない。
剣山に串刺しにされるのは確定で、唯一にできるのは刺される場所を選ぶ程度であろう。
炭素壁を加速させたのと、その炭素壁が長方形にくり抜かれるのは同時だった。
「は――――?」
今度はケイが愕然とする番だった。
ちょうど唯一が佇んでいた場所が幅1メートル高さ2メートルの空洞になった。唯一を串刺しにすることはできず、防火扉だけが被害を被った。
「もう少し早く助けに来てくださいよ、加巳野ちゃん」
「先生なら手助け不要かと思いまして」
「そんなことないですよ。わたしは見ての通り、無能力のか弱い乙女なんですから……なんです、その目は」
「いえ、何でもありません」
唯一を仕留め損なったことも驚きだが、どこから現れたのかも分からない昴の存在にも驚いた。
「なぜ、君がここに。フェルモはどうした?」
「ここは俺に任せて先に行け、とお兄様が仰るので先に来てしまいました。ああ、フェルモさんの安否でしたら、まあ、はい、わたくしからは特にお伝えする義理はありませんね」
「――――ッ」
ケイは歯噛みする。
やはり想定外は唯一が連れてきた学生だ。
能力者という時点で警戒すべき相手であり、さらに言えば木原の教え子がまともなはずがない。2人の学生の背景事情は知らないが命のやり取りに関与した経験がありそうだ。さすがは学園都市。闇が深い。そして状況は一気に悪化した。数的不利かつフェルモが敗れたとなればもう1人とも対峙するリスクがある。こうなったからには、撤退して体勢を立て直すべきなのだが、
「逃げ場、ありませんよね。ここ地下ですし」
唯一が得意げに口を開く。
地上に向かう階段の一つは今まさに防火扉と炭素壁で塞いでいて、唯一の背後にある。別の階段に走るにしてもタイミングを誤れば追い付かれてしまう。まして、昴の能力が不透明だ。
(彼女が
突然現れた昴の存在がケイの判断を難しくする。状況証拠から空間移動の類だと思われるが、炭素壁に穴を開けた理屈が分からない。移動と攻撃を高いレベルで併用できるのなら脅威度は唯一以上と言わざるを得ない。
「じゃ、今度はこっちから行きますか!」
攻守が逆転する。
唯一が猛然とケイに向かって走り出した。
「調子に乗るなよ、木原!」
手元に残る炭素繊維を研ぎ澄ませて細く鋭いワイヤーを形成する。唯一と自分の間に蜘蛛の巣状に張り巡らせる。それは唯一を捕らえる投網となって、大きく広がった。
「痛い思いをしたくなければ大人しくしろ! 指くらいなら簡単に切り落とす鋭さだ!」
だが、唯一は速度を緩めることはなかった。
投網が途中で「消滅」したからだ。
「な、クソッ」
カーボンコートの大部分は炭素壁に使用した。炭素壁を解除して手元に炭素を呼び戻すよりも前に、唯一が懐に飛び込んでくるのは目に見えて明らかだ。
ケイは距離を取るためにバックステップをしつつカーボンコートの残りを使って剣と盾を作り出す。前時代的な武器だが、白兵戦ではこの上なく役に立つ。とにかく唯一の蹴りを身体で受けるのが一番危険なのだ。最高硬度の炭素の武器で唯一を迎撃する。
能力を使って炭素の動きを硬直させた。分子レベルで動きを制限することで物質の強度を上回る頑丈さを実現する。
ケイは武器を構えた直後、その手ごたえがなくなって愕然とした。
押し固めた炭素が消えた。
自分の能力の出力先がなくなったのだ。
剣は刃の部分が消えてなくなり、盾も真ん中が消滅して、消え残りの左右両端が床に落ちた。
視線は自ずと乱入者に向けられる。
「わたくしの能力は「消滅」。どれだけ強固に頑丈に作った武器であろうと、強度を無視して消してしまえるのです」
「ば――――ッ」
言葉は続かない。
もうそこに唯一が踏み込んでいるからだ。
「セイッ」
ケイは咄嗟に両手を上半身の前にクロスした。唯一の致命的な蹴りを回避するためのせめてもの抵抗だ。ところが、衝撃は側頭部を襲った。唯一のしなやかな足が繰り出しのはハイキックだったのだ。
強烈な蹴りが直接脳を揺さぶり、ケイは勢いのままに頭を壁に打ち付け、床に大の字になって倒れた。
ピクリとも動かないケイは完全に気絶していた。
「先生、今の大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないですか。脳震盪でK.O.されただけですし、んー、ま、しばらくは意識は戻らないでしょうね。とりあえず、その辺のテープでぐるぐる巻きにしておきますか」
人体の構造に詳しい唯一は軽くケイの状態を診断してそう結論する。
命を取らないのは昴の前だからだ。それに、炭素操作というのは貴重な能力でもある。ケイの素性は後々詳しく調べるとして、学園都市にとって有益な能力だ。簡単に命を取るのはもったいない。彼女にどれだけ投資されたかはまだ分からないが、唯一が体感した限りでは利用価値がまだありそうだ。学園都市的には彼女の行いを許すことはないので、死んだ方がよかったと思う末路があるかもしれないが、その先は関知しない。
「で、加巳野ちゃん。条理君は実際どうしてますか?」
「はい、ここに来る前にカルロさんを見かけたのでそちらを追いました」
「ああ、そうですか。残念なことに彼が元凶ですしね」
乙女心的にはこちらに助けに来てほしかったところではあるが、それは唯一なら何とでもなるという信頼からだろうか。昴を寄越したのは戦いから彼女を遠ざけるためだろう。結果的には昴が唯一の戦闘を手伝うことになったわけだが。
「それでは、我々もカルロを追いますか。あ、学園都市に一報入れてからね」
唯一は社用携帯を取り出して依頼主に電話を掛けた。