とある世界の常識改変 作:ロロノア
追手がどこまで迫っているか分からないフロリスには、いつまでも山中に身を潜め、来るかどうかも分からない危険をやり過ごすという選択肢はなかった。
山中に隠れる人間を探すというのは重労働だ。
簡単にそれができるのなら、山の行方不明事案は速やかに解決するだろう。
しかし、魔術師が相手だとそうでもない。
人間とそれ以外を識別する術式を相手が使用する可能性は十分にある。
木を隠すなら森の中。人を隠すなら人の中、だ。
その他大勢の人間に紛れ込むことで、魔術師の追跡から逃れることができる。
フロリスは慎重に魔術的に気配を消して人里まで出てきてから、バスと電車を乗り継いで北上し、風光明媚な港町までやって来た。
ここまで丸3日もかかった。移動した距離は車で5時間程度だ。追跡に気を配りながらの移動は精神的にも負担が大きいが、自棄になってもいいことは何もない。努めて冷静に慎重に行動する。できることならば早くこの重圧から解放されたいところだ。
(しかし、まあ、風光明媚な場所だな。できるんなら純度100%の観光がしたかったんだが)
断崖絶壁に囲まれた都市だ。急峻な地形に囲まれた僅かな平地に建物が密集し、それでも収まりきらないので丘や絶壁というべき場所にまで住宅が広がっている。
ここは世界で最も美しいとされるアマルフィ海岸に面した都市アマルフィ。
風光明媚という感想がこの上なく似合う観光地だ。
キャリーケースをガラガラと鳴らしながらフロリスは坂道を登っていく。
下手に魔術を使うと感知されるかもしれないので、額に汗しながら己の筋力だけで歩を進めている。
「はあ、失敗した。タクシー捕まえるんだった」
もうすぐ夕方になろうかという時間帯だ。西日がきつく背中に当たってじりじりと焼けそうだ。このままではこんがりと日焼けして肌が真っ赤になってしまう。
(それどころかローストチキンになっちゃうな)
地面の照り返しも厳しい。
追手を気にしなくていいのなら魔術でこれでもかと楽をしたいと思ってしまう。
とはいえ、仮に追手がなかったとしても、魔術で楽をするという選択肢はない。何せここはイタリアだ。首都ローマから距離があるとはいえ、ローマ正教のお膝元である。イギリス人魔術師が不用意に魔術を使えば、どんな反応が返ってくるか分からない。
つべこべ言っていても埒が明かない。頼る仲間のいない一人旅だ。アクシデントの1つや2つは覚悟の上――――すでに両手で数えられないくらいには発生しているが――――気持ちを強く持ってホテルを目指す。
まずはホテルのディナーだ。
撃墜されてからの3日間、落ち着いて食事もできていない。常に気を張っていて、泊まるホテルは予約なしの飛び込みだった。当然、食事はない。だが、今日は違う。アマルフィはもともとの目的地。そのため、ホテルは事前に確保済みだった。多少予定はズレたが、バッファを持たせたスケジュールだったのが功を奏した。
もうすぐホテルでハッピーなディナーだと思うと自然と勇み足になる。
そして観光客の間を縫って歩いたところで、レストランから出てきた日本人と目が合った。
+
条理と昴の姿はアマルフィにあった。
技研に泊まり込みで書類とデータ整理に追われている唯一は帰ってくる見通しが立たず、かといってポンペイ周辺の観光はもう十分だ。せっかくイタリアまで来てホテルで1日だらだら過ごすのは、あまりにももったいないということで、次の観光地を目指すことにした。
ポンペイからアマルフィまでは遠くはない。車なら約1時間ほどだ。アマルフィの背後に連なるラッタリ山脈を超える道は、特に学園都市で生活していては見ることのない自然の姿を見ることができるので、これだけでも味わい深いものがあった。
アマルフィに到着してからは、行先は昴に任せていた。街並みと海岸を見て回り、観光客向けの土産物屋を物色してレストランで腹を満たす。
オーソドックスな観光なのだが、イタリアの古都は魅力的な見どころに溢れている。アマルフィ大聖堂と紙の博物館だけでも半日は必要だ。歴史ある都市を1日で味わい尽くすのは難しい。
ふらりと立ち寄ったレストランで、少し休憩を取ることにした。昼食を摂ってからは歩きっぱなしだったので、足を止める。
「デリツィア・アル・リモーネをください」
と、昴が注文する。
「さっきも食べなかったか?」
「あれはグラニータ・ディ・リモーネです。わたくしの本命は実はこちらなんですよ」
「呪文みたいな名前だよ」
どちらもレモンを使ったスイーツだ。
アマルフィはレモンの名産地で、レモンを使ったスイーツもまた有名だ。
昴曰く、アマルフィに来て本場のデリツィア・アル・リモーネを食べないわけにはいかないのだとか。
「……レモンのケーキ?」
「そうですね」
メニュー表の写真を見ると、どうやら昴が注文したのはそのようなものらしい。
「昼のかき氷とは違うのね」
「風情がないのでちゃんとグラニータ・ディ・リモーネと言ってください。レモンシロップを凍らせながらかき混ぜて作るフローズンデザートです。氷にシロップを掛けるかき氷とは別物です。ちなみに、デリツィア・アル・リモーネはレモンシロップの浸み込んだスポンジの中にレモンクリームを注入し、レモンクリームで包むというレモン尽くしのスイーツです」
一息に昴はスイーツを解説する。
よほど楽しみにしていたのだろうか。
アマルフィと言えばレモンらしい。
その前提知識も条理にはなかった。
「同じような名前で覚えられん」
「お兄様は何でもできるのですから、できないというのはそもそもその気がないという意思表示。わたくしはとても残念です」
「はいはい、グラニータ・ディ・リモーネ、グラニータ・ディ・リモーネ、デリツィア・アル・リモーネ、デリツィア・アル・リモーネ、はい、覚えましたよ」
棘のある言い方の妹分に押されて条理は要望を受け入れる。
彼女の言い分にも理がある。
条理の能力を踏まえれば、「できない」は「やる気がない」と同義だ。その気になれば、常識改変してでもできるようになるはずだからだ。
もっとも、イタリアのデザート名を覚えるために常識改変を使うという発想がそもそもなかったし、その必要もないのだが。
「お兄様、明日はポジターノまで行きませんか?」
と、昴は言う。
楽しみにしていたデリツィア・アル・リモーネを半分ほど食べたところだ。
「どこのこと?」
「ポジターノです。ここからバスで30分ほどにある村?です。アマルフィ海岸の西の端ですね」
「アマルフィ海岸でそこのことじゃないんだ」
「ええ、都市のアマルフィはアマルフィ海岸のちょうど真ん中に位置していて、海岸自体は東西に長く複数の自治体に跨ってます」
「その西の端がポジターノ?」
「はい。せっかくポンペイを見て、アマルフィまで来たのですからポジターノも見たいです」
「関係ある?」
「もちろん。ポジターノは古代ローマ時代には貴族たちの別荘地だったんですが、ヴェスヴィオ火山の噴火で壊滅したんだとか。そのころの別荘が発掘されて一般公開されているとのことですよ」
「火砕流が山脈超えて街を埋めたってこと?」
「どうでしょう。灰で埋もれたのは事実のようですが。まあ、富士山も本気を出せばそれくらいの被害は出すでしょうし、そういうものかと」
「そうかもしれんけど」
条理は今日通って来たラッタリ山脈を思い返す。ヴェスヴィオ火山から噴き出した溶岩なり火山灰なりが、あの山を乗り越えてこちら側まで流れ込んでくる状況が想像できない。天然の巨大な防護壁が突破されるものなのか。大自然の力の恐ろしさは、話で聞いても実感不可能だ。
「アマルフィ海岸の宝石とまで呼ばれる絶景があるとか。サンタ・マリア・アッスンタ教会にフォルニッロ・ビーチ、恋人たちの道と呼ばれる遊歩道、見どころは多数あります」
「……結構リサーチしてきてるな」
「それはもう。貴重な海外旅行を無駄にはできません。木原先生は、残念ながらまだ帰れないでしょうし」
唯一の仕事がどこまでかかるかは不透明だが、今日明日決着することはなさそうだ。滞在期間中に終わらなければ、条理と昴だけで帰国することにもなりかねない。
「まあ、せっかくだしな」
条理はイタリアの観光地に詳しくない。
昴が行きたいというのなら、それを受け入れない理由がなかった。
念願のデリツィア・アル・リモーネを堪能して、冷たいリモンチェッロ(ノンアルコール)で水分を補給する。
満足したころには美しい夕日が海に沈む時間になっていた。
レストランにいたのは、小一時間くらいだろうか。
会計を済ませて外に出た。
気温は少し下がったが、夕日が強く肌に刺さるようだ。
条理はまぶしさに目を細め、ばったり彼女と目が合った。
「あ」
と、口を開いたのはほぼ同時だった。
「あれ、もしかしてフロリス?」
「え、なんで条理がいんの?」
思わぬ再会に互いに目が点になった。
金髪碧眼の少女とは、1年ほどまでに知り合った。
イギリス人魔術師で学園都市で起こったちょっとしたトラブルの当事者だ。条理は運悪く巻き込まれ彼女と奔走したのはいい思い出だ。
魔術のこともそのときに知った。
ちなみに、条理が持ち歩いている霊装も実はフロリスが作成し、条理に送ったものだ。
「俺は旅行」
「へえ、そうなの、旅行。こんなところで会うなんてびっくり。学園都市の外に出ることあるんだね」
「そりゃ、まあ、めったにないのはそう。今回は特例。学校のイベントみたいなもん。そっちは?」
「ワタシは仕事」
「イギリスの魔術師がイタリアに来ることあるんだな」
「……ん? ……ああ、そうね。日本よりは近いし」
確かに、以前にフロリスが忍び込んだ学園都市に比べればイタリアは遥かに近い。魔術サイドと科学サイドの違いもある。学園都市で会うよりイタリアで会うほうが自然なようにも思える。もっとも、異国の地で偶然知人に会うということが、そもそも超低確率なので日本だろうがイタリアだろうが誤差の範囲だろうが。
「お兄様」
「ん」
振り返ると、昴が能面のような凍った微笑みを浮かべている。
「つい先ほど、明日の予定に恋人たちの道を追加したと記憶しています」
「ポジターノのな」
「ええ、それでいて舌の根も乾かぬうちに他の女性と親し気に話をされるなんて、本当に驚きました。驚きすぎて、わたくし、うっかり11次元を折りたたんでしまいそうです」
肌がひりつくのは錯覚か。それとも昴の演算がすでに働いているのか。条理でなければ喉元にナイフを突きつけられたような気持ちになっただろう。
昴がその気になれば、文字通り跡形もなく人体を消し去ることも不可能ではない。
そのひりつきもすぐに消える。
昴がこれ見よがしにため息をついた。
「まったく、お兄様が相手では脅しにもジャブにもなりませんね」
昴とフロリスが視線を交わす。
「ワタシはフロリス。よろしく」
「はい、加巳野昴です。お兄様とはどこで?」
「1年前に学園都市で色々あってさ。うーん、条理に妹がいるとは知らなかったな」
「もちろん、血縁はありませんよ。3年ほど前から同じ師の下で学んでいるのです。言わば妹弟子という立場ですから兄弟子を敬うのは当然のことです」
「へえ、学園都市にもギルドみたいな文化があるんだね」
木原研究室は別にギルドというわけではないし、そんな文化もない。昴のこだわりがそのような表現になっているだけだ。
「楽しそうに話しているところ悪いんだけど、ちょっといいかなぁ」
不意に第三者の声が割り込んできた。
女の声だった。
フロリスの背後、10メートルほど先に銀髪の女が立っていた。
おそらく、条理と同じくらいの年齢だろう。フロリスよりは年上に見える。顔立ちは整っているが、見るからに不機嫌、というか攻撃的な表情を浮かべている。
「――――ベイロープ!? なんで、ここに!?」
驚きの声を上げたのはフロリスだった。
「なんでって? あんたが一番よく分かってるんじゃないの?」
「は? 何言ってんの?」
「わたしだってね、ローマ正教の連中がどこにいるかも分かんないイタリアなんぞに来る気はなかったんだけど、あんたがイタリアに逃げ込んだから仕方ないじゃない」
フロリスとは知り合いのようだが、ベイロープの言葉には棘がある。かなり険悪な雰囲気だ。
「第零聖堂区が来てないのは外交問題を避けるためってのと、天草式風に言うなら『新たなる光』への踏み絵ってヤツかしら。とにかく、大人しくしなさい。これ以上逃げるんなら、いよいよただじゃ済まないわよ」
「……ごめん、全然意味が分かんないんだけど。もしかして、ワタシを追いかけてたのはあんたなの?」
「それも気付いてなかったの? 散々逃げ回ってたから、わたしが追跡してんのがバレてたのかと思ってたくらいなんだけど。まあ、そんなことはもういいわ。フロリス。あんたには逮捕状が出てる。『必要悪の教会』が動けば命の保証もない――――」
「ちょっと待って、何、逮捕状? ワタシに? なんで?」
「なんでってそりゃそうでしょ。霊装の窃盗と密輸なんて捕まって当然。わたしだって信じたくなかったけど、実際にフロリスが霊装を持ち運んでるんだから、もう、ねえ」
「ご、誤解だ。ワタシは任務としてコイツの輸送を依頼されただけだ。窃盗と密輸って、何の冗談。騎士団からの正式な依頼なんだから」
「依頼? そんなもの、出てないわよ」
「は――――?」
フロリスは愕然とした様子で立ち竦んだ。
「ど、どういうこと?」
「わたしに聞かないで。こっちもいっぱいいっぱいなんだから。とにかく、とっとと片付けないと、レッサーたちの身の安全もかかってるのよ。もう逃げないでよね」
「いや、意味が、本当に分からなくて……」
当惑するフロリスの眼前で、ガキンガキンと金属の甲高い音が響いた。
細い鉄パイプのようなものをベイロープは取り出していた。先端には指のような刃が4本取り付けられていて、広げた手のひらのようにも見える。
その武器に条理は見覚えがあった。
(フロリスの武器と同じヤツだな)
フロリスが振り回していた槍と同じものだ。確か名前は『鋼の手袋』。北欧神話の雷神の逸話をベースにして設計した霊装という話だった。
「ちょっと、待ってよ。本気!?」
「当たり前でしょ!」
「いや、ほんとに待って、こんな人前で」
「人前? 何言ってんの。さすがに気を抜きすぎじゃないの?」
冷ややかなベイロープの声音。
そこでようやく、フロリスははっと周りを見回した。
主要な観光スポットから外れているとはいえ、観光地の通りで大喧嘩をしていれば耳目を集める。まして、明らかに武器と思しい鉄棒を持ち出しているのだから騒ぎになってもおかしくはないのに、いつの間にか周囲に人気がなくなっていた。
「お兄様、何か妙な感じがします」
昴が警戒感を声音に乗せて条理の袖を引いた。
突然始まった刃傷沙汰一歩手前の言い争いに、完全部外者の昴は困惑して黙っていたが、何かの能力が行使されたことを感じ取って眉根を寄せた。
人払いの魔術だ。
条理にとってはおよそ1年ぶりになるだろうか。
フィクションの世界にはよくある特殊能力であり、魔術という形で現実にも存在する。その結果だけは条理も目の当たりにしているので、理論は不明だがそういう結果をもたらす技術として理解している。
「じゃあ、フロリス。状況は分かったわね。大人しく、ついてきてもらいましょうか」
「ッ、こ、断る。悪いけど、ワタシは今これを運ばないといけないんだ。ベイロープには悪いけど、その指示には従えない」
フロリスはキャリーケースの持ち手を握りしめた。
ベイロープはまさか断られるとは思っていなかったのだろう。一瞬、ポカンとした表情を浮かべた後、引きつった笑みを浮かべた。怒髪天を突いて、笑ってしまった。そんな表情だ。
「そ、そう。まさか、ここから逃げられると思ってるわけ? 『新たなる光』よりそれが大事ってわけ?」
「そうは言ってないじゃん。でも、ワタシはこれを運ばないといけない。それがワタシの仕事だから」
「ふぅん、じゃあ、もういいわ。長々交渉する気も時間もないから。説得できなかったっていう事実だけあれば十分」
フロリスが『翼』を広げた。
長距離移動を可能とする霊装は、数日前の戦闘で受けたダメージを残しながらも主の身体を空中に持ち上げた。最初に時間をかけて応急処置をしたおかげで、まだ辛うじて運用可能だ。悲鳴を上げる『翼』に鞭打つように魔力を注ぎ、急激な加速を行う。さながらジェット機のように魔力を噴射し、その後グライダーのように滑空する。
閃光が視界を塞ぎ、フロリスは急ブレーキを余儀なくされた。
ドーン、という耳を劈く轟音が鳴り響く。
間一髪だった。
目の前に落ちた雷はフロリスの前方、10メートル先の道路を焼き焦がすだけに留まった。
勢いを殺して着地できたのは、『翼』を長く使い続けてきたおかげだ。積み上げた経験が、安全な急制動を可能とした。
「あ、ぶな――――ぁ、あ!」
それでも、その次を防ぐことは叶わなかった。
今度はフロリスの身体が悲鳴を上げた。
何か大きな手に上半身を握られているような感覚。見えない何かに締め上げられて身動きが取れない。首だけを回してフロリスはベイロープを見た。
「ここまで来て逃がすわけないでしょ」
「く……こんな機能、あった?」
「逃げ足の速いあんたを追いかけるわけだから、必要なものは用意するでしょ」
銀色の槍をフロリスに向けるベイロープが言う。
槍の先端にある4つの刃が今は閉じている。さながら、握りこぶしのようだ。
「『掴む』機能はもともとあったじゃない。だから、トールの逸話からより拘束力のある性能を上乗せする程度の改造はできる」
「ヨルムンガンドを釣った時の話?」
「正解。トールが海底にいるヨルムンガンドを釣り上げた逸話を基にして、遠方の敵を掴めるようにしたってわけ。シンプルだけど、使い勝手はいいでしょ。あんたの力じゃ抜け出せないわ」
ベイロープとフロリスが持つ『鋼の手袋』は北欧神話の雷神トールの逸話を基に構成した霊装だ。それも、伝説に謳われるトールが持つ3つの道具の機能を1つにまとめるという荒っぽい解釈で作成したものだ。だからこそ、この霊装には拡張性がある。改造することで、追加機能を持たせることも不可能ではない。
「チェックメイトね、フロリス。残念だけど」
「ふぐ、く、ヤバ……これ、ぁ」
上半身が圧縮されていく。さすがにここでフロリスを殺すことはないだろう。が、意識は確実に持っていくつもりだ。ベイロープは本気だ。大きな誤解があるはずなのに、それを弁明する余裕がもうない。何かがおかしい。歯車がかみ合わない不快感がある。
(ダメ、もう息が)
胸部を圧迫されて呼吸ができない。
超自然的な力を持つ魔術師と言えど人間の枠組みを超えているわけではない。息が止まれば意識も途切れる。すっと脱力しかけたとき、身体を締め上げる圧力が唐突に消えた。
フロリスは膝から崩れて、その場にへたり込んだ。
「かはッ――――はぁ、げほッ」
急に肺が自由になったので身体が驚いたようだ。失った酸素を求めて、激しくせき込んだ。
「今、あなた何かした?」
ベイロープの疑問はフロリスに投げかけられたものではなかった。
詰問するかのようなベイロープの言葉は、条理に向けられていた。
「なんで俺だと?」
「この状況でフロリスに手を貸しそうなのはあなただけでしょ。日本人――――なら学園都市の人間なんでしょうけど」
「まあ、そう。隠してもしょうがないし」
「フロリスと知り合いみたいだけど、首を突っ込まないでほしいのよ。これはわたしたちの内ゲバであって、学園都市には無関係。組織間の問題にしたくないでしょ」
「ああ、魔術サイドとか科学サイドとかいう話? 生憎と、そういうのは学園都市の運営側が考えることであって、俺たち一般人はただの学生なんですよね。魔術のことだって、存在も知らない学生が大半なんで、組織間の話とかされても分かりません」
事実ではある。
魔術は世間一般には秘匿された技術だ。それは学園都市の中でも同じである。学園都市の学生たちは能力開発によって異能を身に着けていても、それは科学の延長としか認識していない。学生たちにとって魔術は漫画やアニメの世界の存在でしかないのだ。
当然、魔術と科学の二元論のことも全く知らないし組織間の対立がどうのといった政治的な話に関わる学生はほとんどいない。
そして、条理もまた政治的な影響力は皆無だ。魔術のことを知っているだけで、条理自身は一介の学生に過ぎない。
「……まあいいわ。先に手を出してきたのはそっちよ。邪魔するんなら、排除させてもらうけど?」
「待って、ベイロープ、ダメ」
フロリスがベイロープを制止する。
その言葉にベイロープは耳を傾けない。
彼女はすでに条理を敵として認識した。その時点でスイッチは切り替わった。学園都市の学生に手を出すのは禁忌ではある。ベイロープ自身が言った通り、厄介な政治闘争に繋がりかねないからだ。それでも、フロリス逮捕を阻むのであれば話は別だ。こちらの仕事の邪魔をしたのだから、相応の対処はしても構わない。もともと、冷戦の様な関係性なのだ。隙を見せた学園都市側が悪い。
ベイロープは耳にひっかけている2本の真空管ようなものを撫でた。『鋼の手袋』とは異なるベイロープだけの霊装だ。
それから、ベイロープは勢いよく跳躍した。
人間の跳躍力を遥かに上回る驚異的な力で一気に条理に向かって飛んでくる。その身体は弧を描いて空中で1回転すると『鋼の手袋』を条理に振り下ろした。
爆弾が爆発したような破裂音が響いた。
実際、それに近しい衝撃があった。
見えない何かが炸裂して大気を砕いた。
条理は昴の手を引いて、距離を取る。こちらも人間離れした素早さだ。ベイロープの跳躍は体操選手を思わせる動きだったが、条理の動きはスケート選手のようだ。路上を10メートル近くも滑走したのだ。
「やっぱり能力者ね。何の力なのかしら?」
「そりゃ、もちろん秘密」
「でしょうね!」
ベイロープはさらに追撃を仕掛けため、『鋼の手袋』を肩に担いで接近する。
腕力の強化というシンプルながら敵を叩くには都合のいい機能を最大限に活用する。
ただの鉄の棒ですら、常人を殺傷するには十分な武器となる。まして、『鋼の手袋』は雷神トールの逸話に由来する怪力を使用者に与えるので、ベイロープのフルスイングは一撃で人体を粉砕するくらいは簡単にできるだろう。
条理の頭を目掛けて『鋼の手袋』を振り下ろす直前に、ベイロープの眼前が黒く染まる。
「な……チィッ」
舌打ちをして素早く飛び退いた。
彼女の視界を塞いだのは、無数の木の葉だった。
発生源は条理の手にある木刀だ。
そこから枝葉が伸びて、ベイロープの前に木の葉の壁を作ったのだ。
枝葉すぐに消えて木刀の形状に戻る。
そして何事もなかったかのように、彼我の距離を10メートルのまま維持している。
「……それ、霊装じゃない。なんで学園都市の能力者が?」
ベイロープは怪訝そうな顔をして条理を見つめる。
疑問は2つある。
1つは学園都市の能力者は、たとえレベル0でも魔術は使えないというルールがある。能力者が魔術を使おうとすれば身体が拒絶反応を起こして、最悪死に至る。
もう1つは、そもそも何故条理が霊装を持っているのかということだが、これは推測はできる。
「フロリス、あんた、他人に、それも学年都市の人間に霊装渡すのはアウトじゃない?」
「ワ、ワタシのだって証拠はないでしょ」
「状況証拠から言ってもあなた以外にいないでしょ。ベースはユグドラシルっぽいけど、それだけじゃないっぽいわね。世界樹伝説全般を混ぜ合わせてる? なるほどね。〝伝説の共通項を抜き出して1つにまとめることで網羅的に各神話的要素にアプローチする〟って発想は、〝トールの武器の逸話を1つにまとめる〟『鋼の手袋』の応用って感じか。それにしても趣味に走り過ぎてるケド」
閃光が走る。
空から落ちる雷撃が上空20メートル付近で爆発的な光を発したのだ。
落雷は条理を傷つけることなく、耳を劈く残響で大気を震わせながら消えた。
「へえ、よく使いこんでるわね」
と、ベイロープは感心したように呟く。
条理の手を離れた木刀が上空で雷撃を受け止めて散らしたのをしっかりと見て取っていた。
(この男、戦い慣れてる。不意の落雷にも対応したか。しかも能力ではなく霊装で迎撃とはね)
手の内を隠すつもりか。
少なくともフロリスを救出したのとベイロープから距離を取ったときには能力を行使していた。戦う技術はあるに違いないが、その正体が掴めない。
(霊装の機能は植物にまつわる力の強化と拡大解釈ってところか。厄介だけどできることが多い分だけ霊装の操作も管理も難しくなる。まして、フロリスが1年前に短期で作ったものだっていうなら、細部まで設計してあるとは思えないわね)
落雷を防いだのは植物の避雷針としての機能の拡大解釈だ。特に珍しいことではない。雷と植物の関係性を落とし込んだ神話は洋の東西を問わず存在する。ほかならぬ雷神トールが農耕神としての側面も有していることからもそれは明らかだ。
雷神は雨と風をもたらし農業を支援するからだろう。
科学の視点からも雷と植物は関係がある。高い木に落雷するという単純な話ではない。落雷は大気中の窒素を硝酸塩などに変換することが分かっている。そうして生成された窒素化合物は雨水によって土壌に供給され、植物の成長を促進する。古代人はそうした自然の摂理をよく観察し、認識していたようだ。
条理の手に戻った木刀が鮮やかに光を放った。
炎だ。
燃え上がった木刀から伸びた炎の枝がベイロープを襲う。
炎の枝は手のひらのように広がり、ベイロープを包み込もうとした。
「ああ、もう!」
舌打ちしながらベイロープは『鋼の手袋』を振り下ろした。
『鋼の手袋』が掴んだのは炎そのものだ。
条理が発生させた炎を掴みとって、力任せに振り回す。それだけで、炎の枝は強引に引き裂かれ、粉砕された。
「木は燃えるものだけど、それを可能性の1つにカウントするのはかわいそうじゃない?」
「中には火事を誘発するように進化した種もあるんだって」
「知ってるわよ。ジャイアントセコイアでしょ。世界最大の木で落雷を使って山火事を起こし、周囲のライバルを焼き払うって話。しかも種子は火の熱を受けてようやく発芽するっていうから驚きよね。神話的には天と地を繋ぐ柱だし……まあ、世界樹伝説の1つといってもいいかしら。その霊装にも要素としては含まれているわけね」
「含まれているかどうかは知らんけど、機能としてはそういうのもある」
「ええ、そうね。知らないでしょう。あなた、魔術師じゃないし」
ベイロープは『鋼の手袋』を構えながら、不敵に笑った。
「これは忠告なんだけど、自分でメンテできない道具は使うもんじゃないわよ」
バキバキと固い物が割れる音がした。
発生源は条理の手元だ。
「うおッ!?」
木刀が爆ぜたかと思えば肥大化して幹回り1メートルほどの巨木に成長した。それと同時に、条理の身体は幹に取り込まれて、固定された。下半身は樹木の中に完全にめり込んでいる。
「勝負ありってトコ? 科学サイドの能力者が魔術を使うのは驚いたけど、それだけね。ワンオフ物のあなたたちと違ってこっちは手札の多さがウリなんで、ちょっと人と違う手札があるだけで勝てるとは思わないことね」
条理を拘束したベイロープは昴とフロリスにそれぞれ視線を向ける。未だ動きも能力も掴めない昴を無視するわけにはいかないが、標的はあくまでもフロリスだ。
「これ以上関わらないんなら、ここで終わりにしといてあげる。そっちのお嬢さんにも手を出さないわ」
「そりゃ御親切にどうも。それにしても、コントロールを奪われるとは思わなかったな」
「余裕あるわね。このまま人払いを張ったまま放置してあげることもできるのだけど? まあ、せっかくだから疑問には答えてあげる。
「あー、なるほど。それは、その通りだ。返す言葉もない」
魔術の中身まで理解していない条理からすれば、PCに例えてもらったのは理解が早くてありがたい。
魔術では術式なんて言葉も使うようだが、プログラムだと思えばしっくりくる。
それは中身を弄れる方が有利になるに決まっている。
「じゃあ、次は
ベイロープが目を見開いた。
視界の半分は占めていたであろう巨木が消えたからだ。
それは条理の手元でシャーペンほどの大きさの棒になっていた。
「何? 今、何をしたの?」
巨木から解放された条理は、何事もなかったかのように佇んでいる。
困惑するベイロープはそれでも油断なく後方に下がった。何があってもいつでも対応できる距離を測る。条理の能力は今のところ不明だが、その片鱗は見えている。拘束したフロリスを開放する力と高速で移動する力だ。加えて巨木を消した、もしくは魔術をリセットした力。
(本当に何をしたの? わたしは魔術を解いてない。なのに、一瞬で術式が消えた)
それは、フロリスを取り逃がした時の感覚に似ている。
しっかりとベイロープがグリップしているはずの力がするりと通り抜けるような感じだ。
「だからダメって言ったじゃん」
と、横から口を出したのはフロリスだった。
「ベイロープじゃ条理に勝てないよ」
フロリスはまだそこにいる。
逃げようと思えば、逃げる機会はあっただろう。それなのに動いていないのは、観念したわけでもなく、ベイロープの敗北を確信していたからか。
「ッ、何言って――――ッ」
ベイロープの言葉が途切れたのは、目と鼻の先に条理がいたからだ。
一瞬、目を離した隙に距離を詰められている。
条理は『鋼の手袋』を掴んだ。
「馬鹿ね、奪えると思ってるの!?」
腕力強化。
最もシンプルな暴力が炸裂する。
横薙ぎに『鋼の手袋』を振り回す。
仕留めた感触は――――皆無。
ぶおん、と空気を裂いたむなしい音が響いただけだ。
「は?」
理解ができないのはそれだけではなかった。
条理の姿が消えている。
いや、元の位置に戻ったという方が正しいか。
接近を許す直前から一歩も動いていないかのようだ。
(何が起こっているの? 幻? 確かに『鋼の手袋』を掴まれた感覚はあったわよ?)
学園都市の能力者が相手だと魔術の知識から能力を推測することができない。
科学的アプローチの能力なので、現代人のベイロープにとっては教科書レベルの理解ならば可能という種類の能力が多いのだが、条理の力はまったく予想がつかない。
「何が起こったかなんて、考えるだけ無駄だぞ」
「く……」
危機感に背筋を震わせたベイロープは、『鋼の手袋』が生み出す力のすべてを使って条理から離れることにする。
できるだけ遠くに可能な限り早く移動する。
「よくわからん相手と距離を取るってのは常識的な対応だな」
条理がそう言うや世界がぐにゃりと捩じれた。
実際にそのようなことはないのだが、ベイロープにはそのように思えた。
ベイロープの視界が切り替わり、また目の前に条理がいる。
今度は自分の立ち位置が変わっていた。
瞬きの間にベイロープは条理の眼前に移動していたのだ。
「は――――?」
状況を理解する間もなくベイロープの意識が刈り取られ、膝から崩れ落ちた身体を条理が受け止める。
それを見て、言わんこっちゃない、とフロリスがため息交じりに呟いた。