『鳥籠の国』 -My Cage, My Love- 作:heatmajin
Ⅰ
その国についての噂を耳にしたのは、乾いた風が砂埃を運んでくる、町外れの寂れた食堂でのことだった。キノはパースエイダーの手入れをしながら、隣のテーブルに座った旅人たちの会話に、とはなしに耳を傾けていた。
「──エウダイモニアのことかい? ああ、行ってきたよ。とんでもない国だった」
一人の男が、まるで夢から覚めたばかりのような口調で言った。
「なんせ、犯罪ってものがないんだ。夜中に一人で歩いていても、荷物を置きっぱなしにしても、誰も何もしない。それに、金もいらない。三日間なら、宿も食事も、国が全部面倒を見てくれる」
「話が出来すぎている。何か裏があるんじゃないのか?」
もう一人が、疑い深そうに言った。
「それが、何もないんだ。ただ、ひたすらに親切で、完璧な国だった。ああ、それから、あそこの王立研究所の技術は本物だ。俺のガタがきてたモトラドが、まるで新品みたいになって戻ってきた」
その言葉に、キノの足元に停めてあったモトラド、エルメスが電子音を発した。
『ねえキノ。王立だってさ。なんだかすごそうだね。見てみたいな。ピカピカになりたいな』
「⋯⋯」
キノは手入れを終えたパースエイダーをホルスターに収めると、短い返事をした。
「そうだね、エルメス」
完璧すぎるものには、たいてい完璧な見返りが求められる。キノはそう思った。だが、長年の旅で蓄積したエルメスの疲労も、また事実だった。
「行ってみようか」
『うん!』
エルメスが嬉しそうにエンジンを震わせた。キノは残っていたスープを飲み干すと、静かに席を立った。
Ⅱ
エウダイモニアの国境は、キノがこれまでに見てきたどの国のものとも違っていた。高い壁も、有刺鉄線も、物々しい監視塔もない。そこにあったのは、白い大理石とガラスでできた、まるで美術館か何かのための建築物だった。
しかし、その完璧な景観の中に、キノはいくつかの異質なものを見つけた。
壁の継ぎ目は不自然なほど精密で、よく見ると幾何学的な模様に沿って、細い線が走っている。それは、何かが格納されていることを示唆していた。空には、金属でできた小鳥が数羽、優雅に舞っている。だが、その動きはあまりに機械的で、時折、その目が赤い光を微かに点滅させていた。
ゲートを守る警備兵は、純白の、身体にぴったりと合った服を着ていた。彼らが肩から提げている銃は、キノが知っているどの銃とも形が違う。銃口は硝子のように透き通り、火薬の匂いが全くしなかった。
『キノ、なんだか静かだね』
「そうだね」
この国は、ボクが知らない種類の、非常に進んだ力を持っている。キノはそう直感した。ここで銃を抜くのは、賢明な判断とは言えないだろう。
キノはエルメスをゆっくりと進め、入国審査ブースの前に停めた。
「ようこそ、エウダイモニアへ」
合成音声が流れ、透明な円筒形のブースに入るよう促される。内部は真っ白で、壁には一枚の肖像画が掲げられていた。穏やかな笑みを浮かべた、神話に出てくる神のように美しい男の絵だった。
「我らが賢王、カイウス様です。国の安全と、あなたの健康管理のため、全身のスキャンを行います」
柔らかな光が、キノの身体を頭の先から足の爪先まで、ゆっくりと撫でていった。肖像画の男に見つめられながら、身体の隅々までを調べられているような感覚は、決して心地よいものではなかった。
スキャンが終わると、ブースの向こう側の扉が開いた。そこに、一人の女性が立っていた。
「キノ様、ようこそおいでくださいました。私、ご滞在中の案内役を務めます、エリアナと申します」
彼女は、絵の中の王と同じくらい、完璧な微笑みを浮かべていた。
Ⅲ
エリアナに案内されて足を踏み入れた国境都市フィロキセニアは、噂に違わず完璧な場所だった。道にゴミ一つ落ちておらず、すれ違う人々は皆、満ち足りた表情で穏やかに会釈をしてくる。
キノはまず、エルメスを預けるために「王立技術研究所」へと向かった。白衣を着た技術者たちは、エルメスを見るなり目を輝かせ、「これは歴史的な遺産だ」と口々に称賛した。
「お任せください。我々の誇りに懸けて、最高の状態にしてご覧にいれます」
主任らしき老人の目には、狂信的とさえ言えるほどの自信が宿っていた。キノは、エルメスに「少しの間、我慢してくれ」とだけ告げ、彼らに相棒を預けた。
次に案内されたホテルは、街で一番高い建物だった。大理石のロビーには、国境で見たものと同じカイウスの肖像画が、より大きく、より荘厳に飾られている。人々は、その前を通るたびに、軽く頭を下げていた。
最上階の部屋は、旅人が泊まるには広すぎた。窓からは、完璧な街並みが一望できる。
「何かお困りの際は、壁のパネルでいつでも私をお呼び出しください。それでは、ごゆっくり」
エリアナは完璧な礼儀作法で一礼すると、音もなく部屋を退出していった。
一人になったキノは、広い部屋の中央に立ったまま、しばらく窓の外を眺めていた。鳥籠の中から、外の景色を眺めているような気分だった。
──その頃。
国の心臓部である王宮の、薄暗い一室。
壁一面を埋め尽くすモニターの前で、一人の男が玉座に座っていた。彼の名はカイウス。
彼の目の前のメインモニターには、先ほどスキャンされたキノの詳細な三次元モデルと、正確な生体データが映し出されている。そして、その隣の画面には、ホテルの部屋に佇むキノの姿が、複数の角度からリアルタイムで送られてきていた。
カイウスは、その映像を、まるで美しい昆虫標本でも眺めるかのように、静かに見つめていた。
「⋯⋯面白い蝶が、迷い込んできた」
彼の口元に、肖像画と同じ、穏やかな笑みが浮かんだ。
Ⅳ
部屋に用意されていた食事は、キノがここ数ヶ月で口にしたどんなものよりも美味だった。柔らかく調理された肉、新鮮な野菜、そして焼きたてのパン。完璧な味付けは、長旅で疲弊した身体の隅々にまで染み渡っていくようだった。
食事を終え、キノはバスルームに向かった。旅の汚れと、この国に来てから感じ続けている微かな緊張を、湯で洗い流してしまいたかった。
シャワーの栓をひねると、心地よい温度の湯が勢いよく噴き出した。だが、いくら湯を浴びても、身体の芯で燻るような熱は、なぜか引かなかった。むしろ、血行が良くなったせいか、肌が普段よりもずっと敏感になっているのを感じる。湯の雫が、痩せた胸の先端をかすめる。それだけのことで、背筋に奇妙な疼きが走った。
「⋯⋯」
何かがおかしい。
熱の中心は、もっと別の場所にあった。下腹部の奥深く。まるで、小さな炭火が埋め込まれたかのように、じくじくと、しつこく疼いている。
キノは、その疼きを鎮めようと、無意識に、自らの指をそこへ伸ばしていた。
指先が、毛が一切ない、つるりとした滑らかな肌に触れる。そのあまりにも無防備な感触に、びくりと彼女の痩せた身体が跳ねた。理性では、ただの自分の指だと分かっている。だが身体は、それを未知の、侵入者のような刺激として受け取っていた。
指は、意思とは無関係に、熱の源を探るように、湿った谷間を彷徨い始める。そして、最も敏感な、小さな蕾のような場所に触れてしまった。
「あっ⋯!」
短い息が漏れる。止めなければ。そう思うのに、指は止まらない。むしろ、疼きを掻き出すように、その動きは速くなる。腰が、勝手に微かな律動を始めた。キノは、シャワーの降り注ぐ水音に紛れて、滑りやすいタイル張りの壁に身体を預けた。漏れそうになる声を殺し、小さく喘ぎながら、生まれて初めてともいえる、意図せぬ衝動の波に、その身を委ねていた。
自分の身体が、自分のものではなくなってしまったような、深い恐怖と混乱だけが、後に残った。
Ⅴ
シャワーを終え、厚手のバスローブをまとったキノは、ほとんど逃げ込むようにしてベッドに倒れ込んだ。身体は疲労困憊で、思考はまとまらない。抗いがたい眠気が、霧のように意識を包み込んでいく。
キノは、すぐに深い眠りの底へと落ちていった。
──夢を見ていた。
温かい陽だまりの中にいるような、不思議な夢だった。
誰かに、優しく抱きしめられている。その腕は温かく、絶対的な安心感があった。キノが顔を上げると、そこに一人の男がいた。男は、穏やかに微笑んでいる。
その顔は、国境で、そしてホテルのロビーで見た、王カイウスの肖像画そのものだった。
夢の中のカイウスは、何も言わずに、キノの髪を優しく梳いた。そして、その唇に、自分の唇を、そっと重ねた。
夢のはずだった。
だが、唇に触れる感触は、あまりにも生々しく、温かかった。
これは、本当にただの夢なのだろうか。
キノの意識は、その甘い感触と疑問の狭間で、深い眠りの底へと、さらに沈んでいった。