『鳥籠の国』 -My Cage, My Love- 作:heatmajin
Ⅰ
キノは夢を見ていた。
深い眠りの淵で、誰かに優しく抱きしめられている。その腕は温かく、揺るぎない力強さがあり、不思議なほどの安心感があった。旅の緊張も、孤独も、その腕の中では全てが溶けて消えていくようだった。
キノが顔を上げると、そこに一人の男がいた。男は、穏やかに微笑んでいる。
その顔は、国境で、そしてホテルのロビーで見た、王カイウスの肖像画そのものだった。
恋など、したことはない。人が人を愛おしいと思う気持ちが、どういうものなのか、キノは知らない。だが、目の前の男を見つめていると、胸の奥から、温かい何かが込み上げてくるのを感じた。これが、そうなのではないか、と思った。
夢の中のカイウスは、何も言わずに、キノの髪を優しく梳いた。そして、その唇に、自分の唇を、そっと重ねた。
夢のはずなのに、その感触はあまりにも生々しかった。
次に、その手と唇は、キノの身体の隅々を、まるで聖域を確かめるかのように、ゆっくりと、しかし執拗に愛撫し始めた。抵抗しようという気は、なぜか起きなかった。キノは、その甘美な愛撫に、されるがままに身を委ねていた。
「君は、私のものだ」
夢の最後に、男はそう囁いた。その声は、拒絶できない事実のように、キノの意識の最も深い場所に、静かに染み込んでいった。
Ⅱ
心地よい気怠さとともに、キノは目を覚ました。全身が、微熱を帯びたように火照り、甘く満たされた疲労感に包まれている。こんな感覚は、初めてだった。
キノは無意識に、自らの唇に指で触れた。そこには、夢の中のキスを記憶しているかのような、微かな腫れぼったさが残っていた。
バスローブの下の肌は、じっとりと汗ばんでいる。そして、脚の付け根が、しっとりと湿っていた。身体の節々、特に肌の薄い部分が、昨日よりもさらに敏感になっている。
ただの夢だ。そう、理性が告げている。
しかし、身体に残されたあまりにも生々しい痕跡が、それを執拗に否定していた。
誰かが、眠っている間に自分に触れた。
その結論に至った瞬間、背筋を冷たいものが走り抜けた。深い恐怖と、静かな怒りが、腹の底から湧き上がってくる。
だが、おかしかった。怒りを感じているはずなのに、身体の奥では、夢の中で与えられた快感の残滓が、まだ甘く疼いている。まるで、キノの身体だけが、あの男の再訪を待ち望んでいるかのようだった。
キノは、自分の身体と心が、分裂していくような感覚に襲われた。
Ⅲ
部屋のドアがノックされ、エリアナが朝食を運んできた。メニューは、黄金色の蜂蜜がたっぷりとかかったパンケーキだった。
キノは、この国の食事に何か仕掛けがあると強く警戒しており、テーブルに置かれた皿を、手をつけずに睨みつけていた。
エリアナは、そんなキノの様子に気づきながらも、動じずに完璧な笑顔でこう告げた。
「お口に合いませんでしょうか? それとも、何かご心配事が? ですが、ご安心ください。これは王カイウス様から、あなた様個人への『贈り物』です。これを食さぬということは、王のご厚意を拒絶した、と見なされます」
その声は穏やかだったが、言葉の内容は明確な脅迫だった。
拒絶すれば、旅人としてのもてなしは終わり、即座に敵対行動と見なされるだろう。そうなれば、相棒のエルメスを取り返す前に、全てが終わってしまう。
これは、一種の踏み絵なのだ。
キノは、国境で見た、あの奇妙な銃を構える警備兵たちの姿を思い出した。ここで物理的な抵抗に移るのは、自殺行為に等しい。
覚悟を決めるしかなかった。計画を立てるための時間を稼ぐために。
「⋯⋯いただきます。王のご厚意に、感謝します」
キノはフォークを手に取り、パンケーキの一切れを口に運んだ。
濃厚な甘さが、口の中に広がる。その瞬間、頭の中で、夢の中の男の甘い愛撫の記憶が、分かちがたく結びついてしまった。
キノは、怒りと屈辱を感じながらも、身体がその甘さに喜んでいるのを自覚し、静かに戦慄した。この国は、自分の身体を、自分の意志から切り離し、快感だけで支配しようとしている。
食事を終えると、エリアナが言った。
「キノ様、本日は、我が国の芸術の粋を集めた王立美術館にご案内いたします。きっと、お気に召すことでしょう」
その笑顔は、まるで全てを見透かしているかのようだった。
Ⅳ
王立美術館は、静寂と荘厳さに満ちた空間だった。高い天井から差し込む光が、壁にかけられた数々の絵画を神々しく照らし出している。そのほとんどが、王カイウスの肖像画か、彼の偉大な功績を称える歴史画だった。
エリアナに導かれ、キノはその絵画の前を一つ一つ通り過ぎていく。そのたびに、キノの心臓は不自然に高鳴り、身体が熱くなるのを感じた。薬の効果か、それとも夢による刷り込みか。理由は分からない。ただ、描かれた王の姿を見るだけで、身体が勝手に反応してしまうのだ。
展示室の奥、中央に一体の彫像が置かれていた。それは、完璧な肉体を持つ、カイウスの等身大の裸像だった。純白の大理石で彫られたその像は、古代の神々のように、一切の衣類をまとわず、その肉体の美しさを惜しげもなく晒していた。
キノは、その像から目が離せなくなった。
特に、その逞しい股間に、まるで磁石のように視線が吸い寄せられる。夢の中で、自分を愛撫したかもしれないという、不確かな記憶がフラッシュバックした。顔が熱くなり、軽いめまいを覚える。
「素晴らしいでしょう?」
エリアナが、キノの内心を見透かしたかのように、うっとりとした声で囁いた。
「王の偉大なるお身体は、我々国民にとって信仰の対象なのです。この像に祈りを捧げることで、我々は王と一体となり、その力を分けていただくことができるのですよ」
彼女の言葉を聞き、キノの中で、張り詰めていた最後の理性の糸が、切れる寸前まで、ぴんと引き絞られた。
Ⅴ
これは、ただの奇妙な国ではない。
自分の身に起きていることは、偶然や体調不良などではない。この国によって、王によって、意図的に何かを仕掛けられているのだ。
夢、食事、そしてこの異常なまでの王への崇拝。全てが一本の線で繋がった。
キノは、エリアナの横で、像に向かって深く祈りを捧げる他の国民の姿を、冷たい目で見つめていた。彼らの、あの完璧なまでの忠誠心。それこそが、この国の最大の強みであり、同時に最大の弱点ではないか?
王を人質に取れば、この完璧なシステムは機能不全に陥るのではないか?
──王に心酔した信奉者を演じ、懐に飛び込み、王本人を叩く。
キノの中で、脱出計画の骨子が、初めて明確な形を結んだ。
美術館からの帰り道、キノは人が変わったかのようだった。
「エリアナさん」
キノは、潤んだ瞳で、熱っぽくエリアナに語りかけた。
「ボクは、分かりました。王カイウス様の、その偉大さが⋯。ああ、ボクも、あなたたちのようになりたい。この完璧な国の一員として、王様にお仕えしたいのです」
その演技は、完璧だった。いや、薬の効果で火照った身体と、高鳴る心臓が、その演技に恐ろしいほどの真実味を与えていた。
「お願いです。この揺るぎない忠誠心を、ぜひ直接、王様にお伝えしたい。一目お会いする栄誉を、ボクにください」
キノは、エリアナの前にひざまずき、涙ながらに懇願した。
エリアナは、驚くでもなく、まるで全てを予期していたかのように、穏やかに微笑んだ。
「王様も、きっとあなた様をお待ちです」
そのあまりにスムーズな承諾に、キノは一瞬「罠かもしれない」と疑念を抱いた。
しかし、もうこの道しかない、という覚悟が、その疑念を上回った。
キノは、自らの知略が、完璧な国のシステムを出し抜くための唯一の鍵だと信じた。
彼女はまだ知らない。
自らが掴んだと思った蜘蛛の糸は、巣の中心へと彼女を導くため、蜘蛛自身がわざと垂らした一本であったことを。