『鳥籠の国』 -My Cage, My Love- 作:heatmajin
Ⅰ
謁見の間へと続く長い廊下を、キノはエリアナに導かれて歩いていた。大理石の床に、自身の裸足が吸い付くような感触だけが、やけに生々しい。
エリアナの言葉が、呪いのように頭の中で反響していた。
『私も、あなた様と同じ旅人でした』
『大丈夫。あなた様も、すぐに分かりますわ』
ボクも、ああなるのか? 旅を捨て、過去を捨て、ただ王という存在に隷属するためだけに生きる、あの完璧な人形のように?
──絶対に、そうはならない。
キノは、内心で固く誓った。恐怖と、屈辱と、そしてエリアナに対する微かな憐れみが、彼女の決意を鋼のように硬化させていく。指の間に隠した『旅人の棘』の冷たい感触だけが、その誓いを証明する、唯一の現実だった。
やがて、巨大な観音開きの扉が、音もなく開かれた。
その向こうに、謁見の間が広がっていた。
天井には、寸分違わぬ星空が描かれている。磨き上げられた黒い大理石の床は、その星々を映して、静かに輝いていた。広大な空間は、まるで宇宙そのものの中にいるかのような錯覚を覚えさせた。部屋の奥、数段高くなった壇上に、巨大な玉座が一つ。だが、そこに王の姿はなかった。
エリアナは、部屋の中央でキノを一人残すと、壁際に控えた他の侍女たちの中に、音もなく溶け込んでいった。
Ⅱ
広い空間に、たった一人。
キノは、薄い絹の布をまとっただけの、ほとんど裸の姿で佇んでいた。心臓の音が、やけに大きく響く。
その時だった。
部屋の側面にあった、巨大な柱の陰から、一人の男が、ゆっくりと姿を現した。
白い、装飾の少ない、しかし上質な衣服をまとった男。色素の薄い髪。理知的な光を宿した瞳。そして、あの美術館で見た肖像画や彫像と寸分違わぬ、神話の神のように美しい貌。
王カイウス、本人だった。
彼がキノの視界に入った、その瞬間。
ドクンッ!!
キノの心臓が、まるで肋骨を内側から叩き割るかのように、一度、大きく跳ねた。次の瞬間には、ドクドクドクドク⋯! と、これまでの人生で経験したことのないほどの速さで、早鐘を打ち始める。
カッと、全身の血が沸騰するような感覚。体温が急上昇し、オイルで輝いていた肌が、内側からの熱で、さらに赤みを帯びていくのが分かった。目の前のカイウスの姿が、潤み始めた瞳のせいで、わずかに滲んで見える。
そして、下腹部の奥、燻っていた熱の芯が、爆発的に疼き始めた。まるで、彼の存在そのものが、キノの身体の最も深い場所にある、未知のスイッチを入れたかのようだった。
カイウスは、キノから目を離さずに、静かな、しかし王者の風格に満ちた足取りで、ゆっくりと近づいてくる。
一歩、また一歩と、彼我の距離が縮まっていく。
キノは、金縛りにあったかのように、その場から一歩も動けなかった。逃げなければ、という思考は、もはや脳のどこにも存在しない。ただ、近づいてくる彼の姿を、食い入るように見つめることしかできなかった。
やがて、カイウスはキノの目の前で、足を止めた。
その距離、わずか腕一本分。彼の体温、彼の呼吸、そして彼から放たれる、形容しがたいほどの存在感が、キノの全身を圧する。
彼は、何も言わずに、ゆっくりと右手を上げた。
そして、その指先が、キノの剥き出しの肩に、そっと、触れた。
「──―っ!」
その手が触れた瞬間、キノの身体に、雷に打たれたかのような衝撃が走った。
やけに、温かい。
彼の指先から、熱が、命が、そして抗いがたい何かが、直接キノの身体に流れ込んでくるようだった。
キノは、思わず彼の顔を見上げた。
カイウスは、キノの反応を愉しむかのように、その美しい顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。そして、その薄い唇が、ゆっくりと開かれる。
「ようやく、会えたね。キノ」
その声。
それは、昨夜の夢の中で、キノを優しく抱きしめた男の声と、全く同じだった。
低く、甘く、そして脳の芯までを蕩かすような、抗いがたい響き。
その声を、耳が拾った瞬間、キノの脳は、思考することを、完全に放棄したかのように見えた。
まるで、熱い蜜の中に沈められていくかのように、意識が、理性が、溶けていく。
ああ、この声に、もっと触れられたい。この手に、もっとめちゃくちゃにされたい。
そんな、自分のものではないはずの欲望が、心の底から湧き上がってくるのを、キノは感じていた。
Ⅲ
身体が、魂が、目の前の男にひざまずけと叫んでいる。
だが、その甘美な麻痺の中で、キノの意識の最後の砦が、悲鳴を上げていた。
(違う⋯! 騙されるな⋯! これが、計画だ!)
キノは、朦朧とする意識の中で、最後の理性を振り絞った。
身体の裏切りを逆手に取る。この潤んだ瞳も、上気した頬も、悦びに震える身体も、全てを完璧な「信奉者」の演技として、利用するのだ。
キノは、カイウスの前に、ゆっくりと、しかし恭しくひざまずいた。薄い絹の布が床に擦れ、その感触さえもが、肌に甘い疼きを走らせる。
「王よ⋯カイウス様⋯」
キノは、恍惚とした表情を浮かべ、床に額をこすりつけた。
「愚かな旅人であった私に⋯どうか、あなた様にお仕えする栄誉を⋯お与えください⋯」
その声は、心からの帰依に打ち震える、哀れな信者のそれだった。
カイウスは、満足げに、静かに頷いた。
「よかろう。君の忠誠を受け入れよう」
彼は、祝福を与えるために、その手を、ひざまずくキノの頭へと、ゆっくりと伸ばした。
──今だ。
キノは、床に手をつく動作に紛れさせ、掌中の『旅人の棘』を、利き手の中指の先端に、攻撃のために固定した。
そして、床を蹴った。
狙うは、カイウスの首筋。一撃で意識を奪える急所。
旅人として培った技術の全てを込めた、音もなく、一切の無駄もない、完璧な一撃だった。
Ⅳ
キノの指先が、カイウスの喉元の、白い肌に触れる──その、寸前。
指の間にあったはずの針が、まるで磁石に引かれたかのように、ふわりと宙に吸い上げられた。
そして、カラン、と。
黒い大理石の床に、乾いた、あまりにも軽い音を立てて落ちた。
同時に、キノの身体は、見えない力によって完全に拘束され、空中で動きを止めた。指先が、カイウスの肌に触れた、その奇妙な姿勢のまま。
身動き一つ、取れない。
キノが、驚愕に見開いた目で見上げると、カイウスは初めて、その穏やかな笑みを消していた。
その瞳に宿っていたのは、絶対的な支配者の、底冷えのするような、冷たい光だった。
Ⅴ
「見事な演技だったよ、キノ。君がそう考え、そう行動することも、全て私の計算通りだ」
カイウスの声は、もはや甘くはなかった。それは、裁定を下す神のように、冷徹に響いた。
「君のような誇り高い旅人を屈服させるには、力ずくでは意味がない。君自身の意志で抵抗させ、その上で、君の知略も、勇気も、最後の武器も、全てが私の掌の上で無力であると、魂で理解させる必要があったのだ」
最後の武器も、最後の希望であった自らの知略さえも、敵の掌の上で弄ばれていたに過ぎなかった。
その事実を突きつけられ、キノの瞳から、光が消えた。
身体を拘束していた力が、ふっと解かれる。糸の切れた人形のように、彼女の身体が、ぐらりと傾いだ。
床に崩れ落ちる、その寸前。
カイウスは、音もなくその背後に回り込み、キノの意識を失いかけた身体を、その逞しい腕で、優しく、しかし力強く抱き止めた。
「さあ、晩餐の時間だ」
彼は、キノの耳元でそう囁くと、抵抗する気力さえ失った彼女の唇に、自らの唇を深く重ねた。
そのキスは、夢の中で体験したような、優しいものではなかった。それは、全てを奪い、支配し、味わい尽くす、所有者のキスだった。
抵抗する力も、気力も、キノにはもう残されていなかった。彼女の身体は、念入りに施されてきた「下拵え」によって、もはやカイウスの刺激だけを渇望する、完璧な器と成り果てていた。
キスは、夢を遥かに超える快楽を、キノの脳髄に直接流し込んだ。
カイウスは、ぐったりと弛緩したキノの身体を、まるで花嫁を抱きかかえるかのように、軽々と横抱きにする。
「君のための舞台は、こちらに用意してある」
彼は、玉座の背後にあった隠し扉へと、ゆっくりと歩き始めた。扉の向こうには、仄暗い照明に照らされた、王の私室へと続く階段が見えている。
そして、その部屋の中央には、天蓋付きの、おそろしく巨大なベッドが鎮座しているのが、一瞬だけ垣間見えた。
カイウスの腕の中で、キノは微かに身を震わせるだけだった。それは、もはや抵抗の震えではなく、これから与えられるであろう未知の快楽への、本能的な期待の震えだった。
念入りに下拵えされた心と体は、これから王に、心ゆくまで「おいしく」調理され、食べられるだけだ。
主を失った謁見の間に、黒い大理石の床に落ちた一本の小さな棘だけが、天井の星空の光を反射して、虚しく光っていた。