学校を出た僕はそのまま寮に向かった。そこには友達と出かけていたはずの櫛田さんがいると思ったからだ。嫌な予感、というわけではない。ただ、どことなく気になったのだ。
予感は当たった。寮に着いてすぐ、丁度玄関から出てくる櫛田さんを見つけた。
「あ、荒清くん」
「や、やあ櫛田さん」
視線が合った瞬間、お互いにわずかな驚きを隠せなかった。
「さっきまで友達と遊んでたんだけど、急に予定が変わっちゃって」
「そうなんだ」
「うん……それでね、その……」
言葉を切りながら、何か言いたそうにしている彼女の様子に、僕は少しだけ戸惑った。
「どうかしたの?」
「えっと……あのね、このあと時間ある?」
「うん、大丈夫だよ」
返事をすると、櫛田さんはほっとしたような表情を見せた。そして、一瞬玄関の方に視線を向け、何かを探すかのような仕草をする。誰かを待っていたのかとも思ったが、それも一瞬で終わり、彼女は再び普通の顔に戻りながら僕の方に向き直った。
「もし良かったらなんだけど……」
「うん?」
「一緒にお出かけしない……?」
予想外の提案に驚いた僕だったが、結局その誘いを受けることにした。そして二人で学校の近くにある静かな公園へと足を運んだ。道中はどこかぎこちない雰囲気があったけれど、それでも心地よい沈黙のようなものだった。
近くに自動販売機があったので、僕は緑茶、櫛田さんはホットココアを買って、公園のベンチに腰を下ろした。いつも通りに振る舞おうとするのに、どうも緊張感が拭えない。買ったばかりの緑茶をそっと手で包みながら、隣に座る彼女を横目で盗み見ると、普段明るい印象とは違い、どこか落ち着かずホットココアのカップをじっと見つめていた。
「あの……ごめんね。一緒に出かけようなんて急に言っちゃって……。もしかして何か予定あった?」
「いや、そんなことないよ」
事実だった。特に予定があるわけでもなく、この静かなひとときが意外と心地よいとすら思えてきた。
一口ココアをすすった櫛田さんが、ふぅ、と大きく息を吐く。その吐息は白い湯気となって春の寒さの中へ溶けていった。その仕草はどこか物憂げで、一瞬ドラマのワンシーンを思わせる。
「ちょっと緊張しちゃったな……」
その言葉にはっとさせられる。僕が知っている限りでは、櫛田さんは誰にも気軽に話しかけられる明るい性格が持ち味で、まさか彼女が緊張するとは思えなかったからだ。
「え、本当に緊張してたの?」
「うん……少しね」
彼女は小さくうなずきながら目を伏せた。その横顔がリラックスしきれない様子なのにも気づいたが、それ以上に、普段とは違う彼女の姿に胸が高鳴った。一体、この穏やかな空間でいったい何を言い出すつもりだろう。
「あ……じゃあね、素直に聞くね」
不意打ちで真剣な声色に本能的な警戒心が首をもたげる中で、ぼそりと語りかけてきた。
「荒清くんって、堀北さんが笑うところ見たことある?」
唐突なその問いに、僕は驚きを隠せず、応えに窮した。堀北さんの笑顔……。いつも冷静沈着で、人前で感情を露わにすることなどほとんどない彼女。思い返しても、その表情は理知的で真剣そのもの。笑みを浮かべる瞬間など、記憶を辿っても見当たらない。
「堀北さんって、あんまり笑わないからなぁ」
意図が掴めないまま口をついて出た率直な感想に櫛田さんは頷きながら、少しばかり残念そうな表情を浮かべた。考えてみれば、僕自身もあえてその笑顔について考察したことなど一度もなかった。しかし、全く笑わないというわけでもない。
「でも、僕といる時には、微笑んだりすることがあるかな」
思わずこぼれた言葉に櫛田さんは目を見張った。そして、その目が少し羨むような輝きを帯びているように見える。
「え……そうなの?」と小声で返す彼女に、僕は少し照れながら続けた。
「まあ、滅多にないけどね。僕が何か変なことを言ったりすると、ほんの少しだけ口角が上がるんだ。それくらいだけど」
説明を聞き終えた櫛田さんは僕を見つめたまま、ふっと小さく微笑んだ。その微笑みは純粋な好奇心にあふれ、自分でもどう感じているのかわからなくなるほど不思議な気分になった。
「へえ……荒清くんってすごいね。同じクラスなのに、私はそんな彼女を見たことないよ」
彼女の言葉は意外だった。同じ時間を共有していながらも、堀北さんが毎回そうであるとも思えなかったし、それとも僕にだけ何か余計なリアクションを取ってしまっているのだろうか? 思考が巡るうち、ついつい核心に触れる質問を投げかけてしまった。
「櫛田さんはどうして堀北さんの笑顔をそんなに気にしているの?」
真意を探りたいという気持ちが強かったが、その後の展開は予想だにしないものだった。空になったココアのカップをそっとベンチに置いた櫛田さんは、不意に僕の手首を握りしめ、自分の胸元に押し当てた。その鼓動から伝わる生々しさに息を呑む。
「え……!?」
突然すぎる行動に固まる僕。だが、一瞬たりとも躊躇せずこちらをまっすぐ見据える彼女の澄んだ目、それには迷いがない。そして、その中には普段の明るさとは異なる戸惑いとわずかな切実さ、そして儚げな涙の跡……。
「……荒清くん、本当に堀北さんの笑顔を見たことがあるの?」
絞り出されるようなその言葉に、混乱していた頭の中がゆっくりと動き出す。彼女がこんなにも真摯である意図は分からない。ただ、その必死さは肌で感じ取れ、それだけで無下にはできなかった。
「う……うん」
「じゃあさ……私にでも、できると思う……?」
そう呟いた櫛田さんは、少し目を伏せた。その声はどこか頼りなく、まるで小さな子どもが誰かに何かをお願いしているようで、繊細な響きを帯びていた。彼女の手が触れる僕の掌には、速くなる彼女の心臓の鼓動が伝わってきて、その音は不安と期待が入り混じったように感じられた。
「うーん……どうだろう」
結論を出せず、曖昧に答える僕に、櫛田さんは小さくため息をついた。その真剣な表情と、かすかに感じる鼓動は、どう返事すべきか真剣に考えさせられる力を持っていた。確かに、堀北さんが僕の前でふっと笑みを見せる時があるのは事実だ。ただ、それが他人にもできることなのか、それはまた別の問題に思えた。特に堀北さんの性格を知れば、そう簡単でないことは明らかだった。
「櫛田さんの気持ちは分かるけど……堀北さんの感情を引き出すのって、相当難しいと思う。あんまり感情を見せる人じゃないからさ」
僕の率直な言葉に、櫛田さんは少し切なげな表情を浮かべた。そして上目遣いで無言のまま僕を見上げてくる。その目にはかすかな揺らぎが映っていて、その仕草だけで僕の心拍数は軽く跳ね上がった。
「……やっぱり、ダメ?」
か細い声が耳を打ち、潤んだ瞳がこちらをまっすぐ見つめた。その瞳は、今にも涙を溢れさせそうで、いつも明るく振る舞う彼女の姿からは想像がつかないくらい儚げだった。思わず息を飲む。僕への可愛い仕草を重ねた正攻法、この「可愛い+お願い+上目遣い=致死」という方程式は僕にはあまりにも強力過ぎた。
冷静になろうと深呼吸する。それでも心臓は止めどなく高鳴り続ける。理性では「難しい」とわかっていても、この切実な彼女の姿を見ると、何とか力になりたいという気持ちが膨らんできていた。
「う、うーん……」
言葉が詰まりそうになる。この状態で「無理だ」と簡単には言えない。それに駄目だと言ってしまえば、この視線がさらに悲しみに染まりそうだった。伝わる微かな熱と心音、その必死な願い。そしてその願いは確実に僕の心を強く揺さぶっていた。ついに僕は彼女を前に折れるしかなかった。
「わ、分かったよ……一緒に、堀北さんを笑わせてみよう」
僕の隣で緊張した様子を浮かべていた櫛田さんは、その瞬間、一瞬驚いた顔をしたあと、ほっとしたような柔らかな笑みを浮かべた。その表情は子供が探し物を見つけ出したときの純粋な幸せが溢れているようだった。
「本当に? 本当にいいの?」
念押しする声に戸惑いつつも静かに僕は頷く。それだけで櫛田さんの顔が明るく輝き、その華やかな表情とともに強く握られた手から感謝と喜びが伝わってきた。
「ありがとう、荒清くん!」
その笑顔は、心を奪われるほど魅力的で、不意に胸が高鳴った。でもすぐに冷静さを取り戻し、目の前の課題に意識を集中させる。
「でも……堀北さんを笑わせるにはどうしたらいいんだろう……?」
戸惑ったように尋ねると、櫛田さんが「それはこれから一緒に考えてこうよ、ね?」とおちゃめな仕草で返事をしてくれた。その変わらない明るい笑顔を前に、僕はただ「そ、そうだね……」と答えることしかできなかった。
寮の自室へ戻り、ひとり静かに今回の件について考え直す。堀北さんを笑わせる方法に関しては何も具体的なアイデアが浮かばない。櫛田さんと別れてから気づいたのだが、もう後戻りはできない状況だ。彼女と協力し合いながら、何としてでも堀北さんの笑顔を引き出す方法を見つけるしかない。
果たして僕たちは、堀北さんの心を解きほぐすような新しいアプローチを見つけられるだろうか─。