社会の授業は、担任の茶柱先生の授業だった。
先生は教室の前に立つと、カツカツと黒板に文字を書き始める。
「ちょっと静かにしてくれ。今日は少し真面目に話を聞いてほしい。」
騒がしかった教室内は、一瞬で静まり返り、全員が注目する。
「この間も言ったが、月末だからな、小テストをやることにした。」
「えぇ~!聞いてないよ!」
クラス中に誰かの不満げな声が響いたが、茶柱先生は気にせず続けた。
「慌てるな。今回のテストはあくまで今後の参考にするだけだ。成績には影響しないから安心しろ。ただし、カンニングは当然禁止だ。ではテスト用紙を配るから、後ろの席まで回してくれ。」
先生の指示で配られた小テストの用紙をちらりと眺めた僕は、それにある程度の安心を覚えた。一科目につき4問、全20問の合計100点満点だったけれど……。
「……簡単だな。」
そう呟いてうっかり笑みさえ漏れてしまう。受験のときに解いた問題と比べたら、なんてことはない。これなら楽勝だな、と問題を読み進めていたその時だ――最後の3問についたところで、思考が完全に止まったどころか、そこから先はまるで異次元に引き込まれるような圧倒的な難易度を前に息を飲んでしまった。数学に至っては、最終問題を見ても解法の道筋すら浮かんでこない。問題全部がこんなレベルじゃないのが救いか……。だけど、ここまで難しくして、いったい先生は何を考えているんだろう?本当に成績に影響しないのかと疑いながら、僕はテスト用紙に向き合い始めた。
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休み時間になる頃には、教室内から嘆き声があふれ出していた。
「これ、マジで難しすぎだろ!特に最後の3問とか無理ゲー!」
「ほんとそれ!中学レベルじゃ絶対ないって!」
教室のあちこちで、不満気な声が飛び交っている。どうやらみんな同じ箇所で詰まったようだ。それにしても茶柱先生の意図が全然掴めない。ただ参考程度、と言っていた割には、このテストには何かある気がしてならない。
「堀北さんも、最後の問題解けなかったんじゃない?」
堀北さんに話しかけてみたところ、彼女は小さく頭を縦に動かすだけだった。
「あの最後の3問、本気で解けると思う?」
「いいえ。私も無理だったわ。」
「堀北さんでも解けないとか、よっぽど難しいんだね。」
「……そうね。それなりに検討はしたけど、答えへのアプローチすら見つからなかった。特に最後の問題は異質だった。」
堀北さんすら手が出せない問題となると、本当にどれほどなのか……。僕も散々格闘したけど、大方想像通り何もわからなかった。ただ、それでもひっかかる。何故こんな難題を出したんだろう?それが気になって仕方ない。でも今考えたところで結論なんて出そうにもない。
「まあ、これ以上考えても仕方ないよね。」
「そうね……」
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少し間はあったものの、堀北さんが了承してくれたおかげで、放課後を待つのみとなった。
放課後になり、彼女に連絡を取ると、どうやら僕の部屋へ来ることになったらしい。そこで、僕は飲み物やお菓子を準備しながら彼女を待つことにした。
しばらくするとインターホンが鳴り、玄関のドアを開ける。立っていたのは堀北さんだったが、どこか不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「えっと……何かあったの?大丈夫?」
「別に大したことじゃないわ」
そう言う彼女の様子は明らかにそんな風には見えなかったが、この場であれこれ聞くのもためらわれた。ひとまず中に入ってもらうことにする。
「まあ、とりあえず中に入ってよ」
「……お邪魔するわ」
部屋に通すと、堀北さんはきょろきょろと室内を見回しながら入ってきた。
「適当に座っていいからね。今、お茶とか用意するから」
そう言いつつキッチンに向かおうとすると、ちらりと目に入った彼女は、ちゃっかり僕のベッドに腰掛けているではないか。
「お待たせ」
数分後、お菓子と飲み物をトレーに乗せて戻ると、彼女は僕のベッドの枕に顔をうずめているではないか。
「えっと……堀北さん?」
「……何?」
「いや、それじゃなくてさ。どうして僕の枕に顔を突っ込んでるの?」
「気にしないで」
いやいや、気になるだろ!という心の叫びを抑えつつ、お盆をテーブルに置く。
「と、とりあえずお茶とお菓子を用意したよ」
そう声を掛けても彼女はその場から動かず、仕方なく再度促す。
「あのー、堀北さん?お菓子とか食べないの?」
「……食べるわ」
ようやく動き出した彼女はベッドを降りたものの、僕から少し離れた位置に腰掛け、またしてもベッドが彼女のお気に入りスポットになった模様だ。
「そこ以外にも座る場所あるんだけど……なんでまたそこで?」
「ここが、一番居心地がいい場所だからよ」
それが本当だとしたら僕の感覚がおかしいのか?と心の中でツッコミつつ、冷静さを保ち話題を切り替えることにした。
「それじゃ、本題の話なんだけど─」
僕が声を出しかけると、それを遮るように堀北さんが口を開いた。
「……今回のテスト、本当に難しかったわね」
彼女の声は普段とは違いどこか弱々しく、その変化に少し驚く。
「そうだね。特に最後の三問なんて全然だったよ」
軽く相槌を打つと、堀北さんは膝に顔を埋め、小さな声で続けた。
「……あの問題、本当に解けなかった」
普段冷静沈着な彼女からは想像もできない悔しさが、その声色から感じ取れた。
「堀北さんでも解けない問題があるんだね」
軽い調子で返すと、彼女は顔を上げて僕をじっと見つめる。その瞳には小さな潤いが宿っていた。
「そうよ。でも、もっと努力して完璧になるしかないわ……私にはそれが必要だから。」
その言葉には自分自身への誓いのような響きがあり、それが何か特別な理由によるものだと感じさせた。
「堀北さん……」
そう言葉を出しかけたが、何を言えばいいかわからなかった。彼女の気持ちにどう寄り添えばいいのか、少し迷ってしまったのだ。
「ああ……ごめんなさい。なんだか変な私を見せてしまったわね」
堀北さんはいつもの冷静な表情を取り戻すと、テーブルの上のお茶を一口飲んだ。
大丈夫だよ、と僕は言った。別に変だなんて思わないし、それどころか堀北さんも普通の女の子なんだなと思えたから、なんだか安心した。
その言葉に、堀北さんはほんのり顔を赤らめ、また膝の上に顔をうずめてしまった。その耳たぶが赤く染まっているのがちらりと見えた。
「……ふん。べ、別にあなたに安心してもらう必要なんてないわ」
そう言う彼女の表情には、どこか柔らかさが滲んでいた。いつもは緊張感が漂う彼女の空気が少しだけ和らいだ気がする。
「……それで、話っていうのは何かしら」
「ああ、そうだったね。実は堀北さんにお願いがあって来たんだ」
「お願い?」
少し間を置いてから、意を決して僕は言葉をつなぐ。
「うん。……僕と友達になってほしいんだ」
その瞬間、堀北さんの目が見開かれ、表情が凍りついた。それはまるで信じがたいことを聞いたかのような顔だった。続けて彼女は黙り込むと、勢いよく視線を落とし表情を隠してしまった。その顔がどんな風なのか確認できないまま、僕は違和感と焦りを覚える。
「……何か変なこと言っちゃった?」
ゆっくりと顔を上げた彼女は、小さな声でつぶやいた。
「私たち、友達じゃなかったの……?」
寂しそうに呟く彼女の表情は、捨てられた子犬のようだった。その顔を見た瞬間、不意に胸が締め付けられる。どうしてそんな表情を?と疑問が渦巻く中、僕はどう応えるべきか考え込む。
「あ、いや、その……。僕はずっと堀北さんと友達になりたいと思ってた。でもなんというか、自分みたいなのが堀北さんと友達になるなんておこがましいって思って……」
「私はそんなこと、一度も思ったことないわ。それなのにあなたは勝手に私を判断して、勝手に遠ざけてたのね」
「それは……その、ごめん」
「別に謝ってもらいたいわけじゃない。ただ状況を確認したかっただけ」
彼女はそう言うと、また少し俯いてしまった。
気まずい空気に胸がざわついて落ち着かない。でも心に浮かぶ疑問が消えない。もしかして怒らせてしまったのだろうか。けれど確信は持てないし、理由もわからない。ただどこかに罪悪感が漂う。
「でも、そうね――これであなたと対等になれるかもしれない」
堀北さんが視線を上げると、まっすぐに僕を見据えてきた。その目には悲しみよりも強い意思が灯っているようだった。
「対等に……?」
「ええ。今まで私たちの間にはどこか壁があった。でも、あなたがこうして言葉にしてくれたことで、その壁を壊せる気がするわ。そして、新しい関係を築くチャンスよ」
彼女の言葉に、不意に何かが腑に落ちた気がした。そうだ、彼女は僕をすでに友達と思っていたのだ。でも僕の方が引け目を感じ、一歩引いてしまったせいで関係はぎこちないものになっていた。それも今となっては、彼女との対話で氷解し始めた感覚がある。それだけのことなのに、大きなことを成し遂げたような不思議な気分だった。
「……ありがとう、堀北さん」
僕が素直に感謝の気持ちを伝えると、彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。その笑顔は、今まで見たことのないような、とても穏やかなもので心に触れるものがあった。
「それで……私からの返事だけど」
堀北さんは、改めて静かに問いかけてきた。
「私たちって、もうとっくに友達だったと思うわ」
そう言いながら、彼女は少しだけ前のめりになり、テーブル越しに二人の距離が近づく。
「これからは、もっといろいろと話しましょう。あなたのこと、私のこと、そしてこの学校のことも……」
彼女の瞳には鋭い光が宿り始めていて、その中に未来への希望と微かな信頼が感じられた。そしてそれは、不思議と心を温かくする力を持っていた。
「ああ、もちろん。話したいことは山ほどあるよ」
そう答えた瞬間、これまでどこか曖昧だった関係が静かに変わっていくのを感じた。僕たちは、新しい友情の一歩を踏み出したのだ。この絆が、これから訪れるさまざまな困難をともに乗り越える大きな力になるだろう――そんな予感を確かに抱いた。