アマチュア作家として彼は自室で執筆を続けていた。
執筆とは独りきりの戦いのことだった。執筆者は暗闇の中をいつでも歩いている。隣には誰も居ない。前にも誰も居ない。後ろにだって何もない。上から見守られていることも、下から観測されていることもありえない。
ただ自分だけがある。執筆者はこの暗闇があとどれくらいで終わるのか、というところについてだって詳しくは知らない。だが終わった時、雨雲が退いてゆくほど力強い晴天のように心の部分が澄み切って、あの暗闇が別世界のように思える。
止まることは許されていなかった。
少なくとも彼はそう考えている。執筆者にとって執筆とは活動ではなく生きる術であり、作家は己の内部に煮える己を破壊して進むしかない。
動かない頭を強引に動かして文章を出力する。いくつかの問題に激突し、いくつかの解決方法を駆使してまた悩む。思考という糸が複雑に絡まり文章が続く。彼は、自分の手元に浮かぶこの文章たちが正解なのか不正解なのかよくわからなかった。また、他者がこの文章を読んだ時、よいものとして評価されるのかそうではないのか、というところについても詳しくわからなかった。だがそれは文章を書き続けること、それを止めることへの理由にはならなかった。
彼は何も生み出せていないこと、それこそが無価値だと確信していた。
そういった執筆をする中で彼がふと思い出すことは友希那のことだけだった。
プロの音楽家として活動する彼女の真剣な横顔を想像する。それは研ぎ澄まされており、だが表面には生々しい色がある。活気、というより貪欲な姿勢で、けれど行儀の悪いものではない。
こだわりにこだわりを重ね、妥協することを許さない友希那の姿勢が美しい。けれど彼は、友希那のそういった生き様にまず同じ作家として惚れ惚れする。
もちろん彼はアマチュアの身分であり、実のところ新人賞には何度か打ち負けた程度である。そういう中で、まるで自分も友希那と対等だと語ることには不自然さがある。
けれどその一方で、生きる中で作品を生み出すこととはプロフェッショナルもアマチュアも関係なく、均一に、おんなじことである、という姿勢も向けている。
あの友希那も悩むことがあるのだろうか。
彼は自身の作品制作で起こるあらゆる悩みや苦悩を友希那に重ねてみた。いいや友希那だって人間なのだから、楽曲制作や方向性でひとつ逡巡することくらいはあるだろう。それで仲間たちと衝突し、制作が、日々そのものが思うように進まない時期もあっただろう。彼も同じだった。筆を握り文章を組み立てる。そこには爽快感と同時に不安が常に漂い、その均衡は簡単に崩れてしまう。そして今まさに、彼は不安という方向に沈みゆく真っ最中だった。
創作において迷った時、友希那はどうしているのだろう。
自分の世界や自分の意欲、実力がわからなくなってしまった時、素手の中に、なにもないように思える時、いったい友希那はどのように、己を鼓舞し、どのように、持ち上がっているのだろう。
彼はそういった作家としての友希那について質問を投げかけたことが一度もなかった。
それは彼自身のせいだった。
自分など、所詮は新人賞にさえ勝ることのない弱い身分であり、プロとして、世界に羽ばたく友希那とは違う。そこには差、というより亀裂のようなものが通い埋まることはないのだろう。覚悟の違いというか、備えている矜持の種類の違いを彼は彼女の一挙手一投足、歌唱の中で常に感じている。
「ふう」
自室、作業机から顔を上げて彼は時計を視た。白色の壁に設置された円形の時計はすでに、十四時を過ぎたところを示している。
休憩にしよう。彼は半ば放棄するような心地でノートパソコンを閉じ、椅子から立って自室を出た。廊下の照明はひとつも灯っておらず、だが窓から差す光で薄暗い。彼はそういう狭い道を渡り、けれどトイレに行くことも、冷蔵庫から飲み物を取ることもしなかった。彼はその全てを通り過ぎ、一直線に、この家の脱衣所に入った。
洗面台があり、洗濯機があり、風呂場への入り口扉がある狭い空間に彼は入り、洗濯機横の洗濯かごを覗いてにっこり歪む。
かごの中には、女性ものの下着一式と、それからまた女性もののパジャマがある。
彼は、かごの中にそれを認めた際、なぜか詳しく知らないが、とにかくはやく、これらを自らの腕の中へ回収しなければいけない、そうしなければ、下着もパジャマも、誰か他の人間に奪われてしまう、という感覚に陥った。
それはこのテの遊びを行う際、どんな状況であれ感じる静電気のような心地で、彼としてはそれさえ愛おしい。下着は黒色の何か豪華な花柄ブラジャーで、ショーツも同じ様子に美しい。パジャマとは青色で、ワンピースのようにひとつで完結する少し大きいもの、彼はかごの前でしゃがみ、両腕を使って回収作業を速やかに完遂した。
彼はその戦利品に対し緩んだ顔を向け、それから友希那の自室に向かった。
今日、友希那は音楽の仕事により早朝から家を空けている。
手元の中で、友希那が今朝、脱いでいったそれにはまだまだ独特の女の熱が薄ら保たれている。
早朝、彼は友希那より先に起床し支度を開始した。
今日の友希那の予定をもちろん彼は知っている。故に行動は素早く、無駄などどこにもなかった。洗顔から歯磨きに着替えを済ませると朝食の作成に取り掛かる。
特にリクエストもなかったため和食にした。友希那と共に生活するようになって、彼はあまり関心のなかった食についてある程度の関心を持つようになった。そうした中で自分は洋食より和食のほうが好きだということ、また食べることより料理をすることのほうが好きだということに気付いた。
これもまた友希那のおかげ、などと、いかにもこじつけっぽい思考で全て友希那に関連付けていると二人分の食事がリビングテーブルに並ぶ。
エプロンをほどき、定位置に置いた後、彼はいよいよ今日の最初のお楽しみに取り掛かる。
「友希那、おはよう友希那」
朝日が差し込む個室の中、ベッドの上で彼だけの歌姫はまだ眠っている。黒色のシーツに同色の毛布が付属し、その布の起伏が女体の存在を誇張し教えてくれる。
彼はその少し乱れた、緩んでいるような様相に添って、小さな肩の部分を揺らしてみる。
「んんん……」
額が揺れ、また毛髪がぱさり、流れて彼はみせつけられる。
ああ可愛い。本当に、そんなことだけでも愛おしくって、彼は思わず口元で、友希那の頬に飛び込んでしまう。朝一番、右頬に落とす口づけに特別な味はなかった。それでもいい、それでも楽しい、と彼は嬉々とし、唇の間から舌を伸ばして少し舐めてみる。流石に寝汗が頬まで滴るようなことはなく、それから離れて、また少し肩を揺らすと友希那はようやく瞼を開く。
陽光が改めて友希那を照らし、彼が触れた箇所が光っている。
彼は、そんな友希那の目元の部分ににこやかに触れ合う。
「朝ご飯、できてるよ」
「ええ、ご飯……」
まさしく幼児のように復唱する姿が楽しくて、思わず頬が緩む。
「そう。ご飯。今日は和食だよ」
「んん……」
友希那は毛布を退かし、ベッドの上で身体を上げた。
この、友希那の自室の中にて、姫君の起床を彼の眼光と陽光だけが見守っている。彼は少し前に起床し、その身なりをある程度整えている。また料理をしていたため若干の活気というか、すでに活動を開始した者としての熱が纏う。
だが眼前、友希那はまだ異なっている。
うっとりと、身体そのものをなんだか垂らして、ぼさついた長髪に当然気遣いなど巡っていない。奥まった目元はどこを視ているのかわからないのだけれど、しかし彼の声には必ず受け答えをして、それでもまだまだウトウトと、意識が通っていない。
普段の鋭さを失くした友希那をまじまじと視ることができるのはこういった早朝の瞬間だけだった。性交の絶頂に至った後ともまた異なる柔らかさがある。そういう友希那をじっくり観察し、介抱し、身支度まで導くこと、それが彼という男の一日の、一番最初の楽しみだった。
そんな彼の欲望などもちろん知らない友希那は数度の欠伸の後に彼に両腕を突き出した。
「……だっこ」
細い目を浮かばせる友希那は立ち上がった彼に所望する。
「だっこ?」
「はやく」
友希那は有無などいわせない。そして彼は、もちろんこの幼い姫の我が儘に応えてやる。それが使命だったし、そうしたいなと、彼が個人的に強く求めている。
このベッドの上、まだ両足のどちらも床に向かっていないままの姫君に、彼は両腕を伸ばして前かがみになる。友希那もまた倒れ込むようにそこに向かって、やがて男の腕にしがみつく。
彼が本格的に友希那を抱き上げることはなかった。友希那の要求する『抱っこ』とはそういうものではない。
友希那が、この自室の床に素足を乗せて立ち上がると、それで彼の役割は終わる。それでも若干、彼女の足元はもつれているし、揺れる毛髪には誰もが知る歌姫の、あの艶やかさなど香っていない。
彼は、そんな友希那を見守るように、彼女と共に洗面台にまず向かった。
寝ている最中の友希那も美しいが寝起きの部分もまた愛おしい。
彼は友希那が寝静まった後、つまり深夜に友希那の部屋に忍び込み椅子の上からじいっと寝顔を眺めた今回の深夜について思い出していた。
あの時はただ友希那が起きてしまわないか、というところについて気遣っていた。
だって音楽の仕事などで疲れている友希那の、その貴重な睡眠を断ち切るなんてありえない。けれど彼としては睡眠途中の緩んだ友希那の顔も視たい。故に忍び足で椅子を設置し、座りながら友希那の顔を眺めつつ、寝息も聴ける最適な位置を探して居座ることが求められる。
薄暗い室内で友希那が寝返りをする度に彼は身体に緊張が走る。そういうものもまた楽しいのだが、彼はもしこの場で友希那が起床し、少し遠い位置で椅子に座る恋人を視た時にどのような顔をするのだろう、という部分について眠れる歌姫を前によく考えた。
驚かれることなど当たり前で、その表情も美しい。普段あり得ない警戒心を彼に向け、少しばかり叱責する姿もまた味がある。
どうだろう。そのまま椅子に座り寝顔を観察させてほしいと懇願した場合は友希那はなんと答えてくれるのか。
彼の脳裡にため息をつきながら、けれど退室を促さない友希那の顔が浮かぶ。だが彼はため息を拒絶だと解釈し撤収しようとする。友希那はその背に声をかける。振り返ると友希那が寝具を整え、曖昧な語感を漏らしている。それについても正しく理解を示さない彼に友希那はまた呆れ、ママのように、添い寝を提案してくれる。
それこそが彼の最終目的だとは知らずに友希那は自分の熱された隣を彼に預けてくれる。彼は、ありがたくそこに身体を差し込んで二人睡眠に落ちてゆく。
そんな妄想を繰り返し、闇夜に浮かぶ友希那の顔面を少しみつめて、だからむしろ起きてほしい、などと願って、けれど案外すやすやと友希那は眠り続ける。それが最も健康的だし、好ましいのだけれどなんだか少し寂しいな、などと思い、眠気が込み上がる。すると彼のほうも就寝したい。椅子から降り、持ち込んだ寝袋の中からぽつりと、友希那へおやすみなさいと挨拶する。
そうして友希那よりはやい時間に起床し食事を整えた。眠れる友希那を迎えに参上し、自分だけが覗くことを許された未完成の歌姫を介抱する。
現在、一階に降りた二人は洗面台に向かった。彼はとっくに洗顔も歯磨きも終えているため友希那のそれを見守った。鏡にぎりぎり映らない位置、斜め後方に立ち友希那の所作を視た。
洗面台に顔を落とし素手で冷水を持ち上げ自らの顔面を清掃する友希那には少しずつ気丈な質感が宿る。
それは起動だと彼は考えている。自室で起床した際、つまり寝て起きたばかりの停滞している部分から、冷水を大きく浴びることで緩んだ意識を締めてゆく。友希那の、というより人の本当の起床とはこの洗顔の瞬間であり、今まさに友希那は誰もがよく知る、冷静でしっかりとした美女に戻った。
次に友希那は歯磨きに取り掛かった。設置されている専用のコップを取り出し、中に立てかけた歯ブラシと歯磨き粉を持つ、コップに水を注いで一度まず口をゆすぎ、歯ブラシに歯磨き粉を垂らし口に入れる。
ジャコジャコ、ジャコジャコなんて、清掃を進める友希那のことを彼は手伝わなかった。
いいや、手伝いたかった。それは友希那が彼のそれを稀に手伝ってくれているため、恩返しとして同じことをしてあげたいという欲求だった。しかし――。
「いいえ。流石に自分でやるわ」
友希那は毎回そのように彼の申し出を断る。彼としては、一度でいいから友希那の口腔清掃の事情に携わってみたい。コップを使って口をゆすぐ際、ぐちゅぐちゅぺーと誘導してみたいのだが、友希那自身が断るように、流石に恥ずかしいのか。
歯磨きも終了する友希那は鏡の反射で自分の後方に彼がずっと立っていたことを視た。
「……あなた、ずっとそこに居たの?」
「まぁね」
洗顔、歯磨きを終えた友希那は振り向いて彼に訊ねた。その声は彼ではない、たとえば友希那の音楽的なファンやバンド仲間もよく知る芯の通った艷やかな声だった。
彼は起き上がったばかりの、つまりつい先ほどの友希那と今の友希那の様子を見比べた。
「よかったよ、友希那の歯磨き」
「相変わらず、変わった趣味ね」
ひとつ、いつもの調子でふざけてみると、友希那もいつもの調子でさらりと回避してくれる。何か控えめに、だが何も否定せず一種の傍観にある目を彼へ向けてくれる。
顔の中に意識を巡らせ、その脳裡では、これからの仕事についてでも考えているのか。
「さぁ、ご飯にしよう」
「ええ」
彼が友希那の脳裡を覗こうと妄想している最中、友希那は指揮を執るように歩き出す。最初、ここに来る時に誘導したのは彼だった。しかし今、今度は彼が次に二人で向かうべき場所に先導している。
起きたばかりのあの様子など、もうどこにもない。今の友希那は本当に起床したため、しっかり立っている。
この転身というか、普段の冷静な友希那ではない『ウラガワ』な部分を観察できる相手とはもちろん彼であり、彼は、その自分だけの背徳感に嬉しく思う。
同時に、友希那が自らのウラガワについて、なんの躊躇もなくみせてくれたり、一部分では世話そのものを任せてくれていることについて彼は本当に温かく嬉しく感じていた。
湊友希那という人間の生活、それは当然、完璧な歌姫という活動だけではない。人間としての準備の部分というものも存在し、そこに彼という男が『当然のもの』とし登場しすぎてゆく、認められていること、友希那の人間的な最深部に僕がある。それはつまり、僕の人間的な最深部にも友希那がしっかり存在しているということであり、この二人きりの家の中、互いの生気は混ざり合って日々は続いてゆく。
友希那と同棲をはじめてそれなりに経つが、このような状況にはいつだって歓喜しているし、安心もしている。
「ごちそうさま。今日も美味しかったたわ」
「ありがとう。あの、味噌の味を変えてみたんだけれど……」
「ええ。気付いたわ。この前のものもよかったけれど、この味噌も、いい味ね」
「お、そうかな。じゃあ、また別のものを試してみたいんだけど、いいかな?」
「ええ、構わないわ」
朝食後、大きなあの窓から、強い陽光が差し伸びている。そういうリビングの中で彼と友希那、二人の少しの会話が続く。
「それにしても、すっかりこだわっているのね。作ってくれるだけありがたいし、最低限でも構わないと話したはずなのに……」
「あ、なんかメンドクサイかな、こういうの」
「いいえ。こういうものは、あなたが満足いくまでやるべきよ。食べさせてもらっているばりの私がこんなこと、少しおかしいかもしれないけれど……」
「いやいや、友希那のために造ってるから。美味しいって言ってもらえるの、嬉しいよ」
「そうなのね……」友希那の声が消え、また額が彼に対し持ち上がる。「本当に、感謝しているわ。食事もそうだけれど、家事について、私はほとんどできていなくて……」
「いいんだよ」
彼はそのような友希那にはっきりと声を差し込む。
「友希那には音楽がある。僕はね、それに集中してほしいから、こうして身の回りについてやってるんだ。それで友希那が安心して活動を続けられるのなら、それでいいよ」
「あなた……」
「それでさ、今度また、別の料理も試してみたいんだ。なんかほら、タイ料理とか」
「タイ、料理……」
「想像できないでしょ、日本のものとはかなり違うみたいで、他にもいろんな料理、僕が造るから友希那に食べてもらいたい。そうして少しでも、活動の力になりたい」
「あなたのそういうところに、私はもう何度も助けられている……」
「え、なんか言った?」
「いいえ。新しい料理、楽しみにしているわ」
「ありがとう。まぁ、まずは味噌 かな。友希那の好み、把握しなくちゃ」
「ふふ」
そんな会話もほどほどに、友希那は本格的な出発の支度について取り掛かる。
今日一日を共にする洋服を選んだり、メイクをしたり、髪型のセットなど、正直いって男にはあまり馴染みのない世界だった。だが彼はそういう友希那にももちろん付き添った。具体的にはそれを行う友希那を追いかけ、常に後方で所作を視ていた。
特に見応えがあったのはメイクだった。
鏡を前に、顔を突き出し、いくつもの、筆のような道具で顔を彩る。周囲には、知らないボトルのようなものが無数に置かれており、友希那は順番にそれを使用する。最後に口元をほんのり桃色に染め、パチンと道具を閉じるとそれで完成する。
彼はメイク中の中の友希那がどんな道具でどんなことをしているのか、具体的なところはひとつたりともわからなかった。それをすることでどういう意味があるのか、またその液体にはなんの効果があるのか、ひとつひとつを友希那に質問し、説明をずっと聞いていたかった。
もちろん今の状況でそんなことをいい出すことなどしなかった。それは友希那の邪魔でしかないし、そんな男の欲望だらけのやり取りなど、それこそ休日の昼にでもやればいい。彼はともかく、このなんだか甘い香りがする完成された友希那の顔面、そのものに、軽い前傾姿勢になるほど強く見惚れていた。
「可愛い……」
その装いは薄紫の長髪と合わさってよりよく整ったように視える。
最も目を引く部分は上半身で、白色のそれはもこもこと毛が立っている。毛皮、というより雪原のような、なんとも手の込んだ上着は確かに、この頃の寒さも防げそうだなと彼は思う。また上着の下には黒色のものを着ており、それもまた首元まできっちり覆っている。腹部の、はやい位置からスカートがもうはじまって、落ち着いた色合いで友希那は完結する。
「ね、ねぇねぇ、い、いつ、帰ってくる……?」
「そうね……」
友希那は視線を迷わせた。脳内でスケジュールを見渡しているようだった。
「もしかしたら、遅い時間になるかもしれないわ。連絡はするけど、気にせず食事にして噛まないから、お願い」
「うん……」
彼は答えながら驚いていた。自分の語気に自分とは思えない弱々しいものがある。
だが友希那は、そんな彼のことさえ認めている。右手を持ち出し、素手が彼の肩に触れる。数回、軽く撫ぜてから、多大な水分を含んだ美しい顔面がグイと近づいてくる。
「大丈夫よ。すぐに戻るわ」
「うん。うん……」
彼は雄として震えつつ、友希那の頬のにおいを嗅いで首肯した。
友希那がこの時間から家を出ることなど数日前から知っていた。だがこうして、実際に友希那が行ってしまう瞬間を目にすると、引き裂けてしまいそうな哀しみが込み上げてくる。
「ねぇ、あなた」
すると友希那は彼に一歩接近し、それから両手を突き出して彼の首元に向かう。
「ほら、こっち」
彼は唐突に流れ込んでくる友希那の唇に翻弄されるように接吻をした。それはまったく何も愛撫ができない口づけで、だが多幸感に満ちた、友希那から、何か注入されているようなものだった。
「それじゃあ、行ってくるわ」
そうして彼は独りになった。
何か、特別にすることもなかった。まずは自分の朝食の食器を片付けた。洗濯物を終えて掃除をした。ここには彼のこだわりが現れており、ひとつの埃さえ逃したくない。
世間の風潮など詳しくないが、少なくとも我が家では家事は男がやる。
あの友希那に掃除機や雑巾を握らせたり、洗濯を取り込ませたり、食器の置き方について悩ませるだなんて屈辱的でしかない。
そうして昼になると友希那が朝に使用した食器をそのまま使用し昼食にした。友希那の唇が触れた皿に新しく食べ物を乗せ、友希那が使用した箸で完食した。
食器を洗うと彼は完全に自由になり、その意識は執筆に向かった。しかしその腕は停滞し、いよいよ彼は耐えられなくなってしまう。
仕事に意欲的ではなくなった男が想起することとは愛する女のことだけだった。彼の脳裡は堅苦しい執筆の世界から一気に甘ったるい友希那に埋め尽くされてゆく。
友希那がこの家に居なくとも彼の楽しみは途絶えなかった。
むしろ、友希那が居ないからこそ発生する趣というものも、確かにある。彼は、そんなものに期待を寄せて、足先は脱衣所に向かう。
友希那の下着類、それからパジャマを両手で持って友希那の自室に入る時、その入場の瞬間に彼は、唇の隙間から舌を伸ばし、高速で左右に振った。
なぜかというと、この室内に漂う空気、つまり友希那の残り香を舐めたいから。
ああそうだ……。
後ろ手で扉を閉じ、一度、友希那の寝具に下着もパジャマも全て置き、彼はひとつ妄想を開始する。
今度、友希那の靴下をマスクにしてみよう。
「いいや……」
だが彼はそのように脳裡で思い描いた次の瞬間、また妄想を冷静に切り替える。だって、そんなの駄目だ。そんなもの、きっと装着している間はずうっと勃起をするだろうし、呼吸をする度、勃起は改めて強烈になる。そんな様子を隣で歩く友希那にみつめられたり、周りの人から、ああ、あの男の人は好きな子のにおいで発情しているのね、などと思われる。
そんな状況、体力がどれだけ多くたって足りないような気がする。
「なんということだ……」
友希那の自室の中、その扉の前で立ち尽くす彼は一度妄想を停止させ、改めてこの室内を見渡した。
本当に友希那の部屋に入ってしまった。
彼は、照明がもちろんひとつも機能していないこの一室に、静かに侵入する瞬間に背徳的な心地を得ていた。この部屋とは友希那の部屋であり、つまり友希那の個人的な漂いが籠る部屋だった。彼と友希那は現在、同棲という関係にあるが踏み入らない領域というものはしっかりと存在し、自室だって、意欲的に踏み込む部分ではない。
その部分に今、彼は足を踏み入れている。もちろん友希那から、部屋には絶対に入るなといい渡されているわけではないが、こうして無断で入っていってしまうことに抵抗感と、だがそれを打ち消すほどの背徳を彼は感じる。
脱衣所で、下着類やパジャマを手にしたあの時と同じ、全身を巡ってなんだか痺れてくるような、そういう浮ついた感覚が癒えない。
彼は一歩を踏み出した。扉はしっかりと閉じられており、室内でやっぱりベッドがよく目に留まる。
シーツも毛布も枕でさえ、未使用のように整えられている。それは友希那がそういう性格だから、という理由であり、だが今は、彼が一旦置いた戦利品たちが少し雑なまま広がっている。
彼はベッドに近づき衣類を手に取って正しく広げた。まず友希那のパジャマと、それからショーツにブラジャーの二つ、どちらも先ほど、脱衣所から彼が直接盗み出したものであり、彼は逃げるようにこの友希那の自室に入っている。
パジャマは、流石に就寝時に着る服なだけあって、その肌触りに他の衣類と少し異なる柔らかさがある。次に下着、特にブラジャーによく触れてみるが、これもまた知らない質感で楽しい。
普段、友希那が最後まで着衣しているブラジャーが、今はどういうわけか男の手に落ちている。
そこには不自然さと特別感があり彼の背後を反り立たせることになる。
現在、この部屋には誰も居ない。それどころか、この家には彼一人であり彼の行動を知る存在などありえない。
そういった完全な秘密、裏側で発生する自分だけの事象に彼は精神的に高ぶっている。もう止まらない。広げたパジャマの横に次は下着類を置いてみる。ここでこだわる箇所とは下着類の位置で、表面が披露されているパジャマのすぐ隣に、ブラジャーは友希那の胸元らしい位置へ、ショーツは友希那の股間らしい位置に揃えるように配置する。
その完成した光景を眺めた時、彼はよく、ニュース番組などで目にするあの、捜査官が犯人から押収した品々をテーブルや、ビニールシートの上に淡々と並べて表明する様子を想起した。
すでに友希那という要人は彼という有能な捜査官の手により確保されており、その身ぐるみだって剥がされている。実態を掴むため、あらゆる衣類を整理整頓し、正しい捜査は淡々と続く。
彼はベッドの前で直立をしたまま、まず最初に右手でブラジャーに触れた。持ち上げることはせず、彼はその女性にとって最後の防衛線に指先で触れ、表面部分をなぞってみる。
普段、友希那が居る時に唐突に胸に触れようとしてみると、友希那は「駄目よ」とすぐに制する。それがたとえ夜遅く、互いに不埒に湿ることが許される時間であれ関係はない。友希那は段取りというか、場の流れ、手順のようなものを尊重しようとする。
というより、真っ先に蛮行を現わす彼を友希那は許さない。
だが今、彼はそういう友希那の気質をまるで無視してブラジャーを揉んでいる。
そもそも下着を勝手に持ち出すことさえ非行であり、こんな場面を目撃されたら 責されるかもしれないのだが、そういう危険な気配のする行為こそ、こういう独りきりの時に許してみたい。
まるで友希那の本物の乳房を愛撫しているような感覚だった。
当然、この衣類をどれだけ上手に乗りこなしたところで、なんにもない。別に、遠く離れた仕事中の友希那が絶頂するわけでもないのだが、それでも彼はこの、友希那のブラジャーを指先でなぞって嗜んだ。
女性の下着、上下のそれに関して、男からするとどちらも宝物だった。特にそれが愛する女のものであるのなら、その価値だって増幅する。さらに彼としてはやはり、ブラジャーが輝かしく視える。男はその色や形、そして漂う雰囲気に生涯を捕らわれてしまう。
友希那ブラジャーのあらゆる箇所の手触りを確かめて、彼はふと離れる。だってもう我慢ができない。今、彼はズボンもシャツも正しく着ているが、その股間の部分は猛烈に発散したくて仕方がない。
まず彼は友希那のパジャマや下着たちをひとつにまとめて毛布を捲った。シーツに覆われたマットレスが覗き、彼はそこに詰め込むように全ての衣類を置いてまた優しく毛布を元に戻した。
次にズボン、そのポケットからスマートフォンを取り出し一旦ベッドの上に置き、シャツを捨てるように脱衣する。ズボンとパンツを下げ、スマートフォンを持ち直すと素早く画像フォルダを開く。保存されている画像はもちろん友希那の写真のみで、彼はその中の一枚をタップする。
液晶画面の反応速度は素晴らしく、画面いっぱいに友希那の顔が映る。その写真とは最近撮影されたもので、撮影者はもちろん彼、友希那の写真などいくらでも保存してあるが、最近のものだとこれが一番、使用頻度が高い。
勇ましかったり、穏やかだったり、あらゆる表情を示してくれる友希那は全部愛おしい。
けれど写真として、自慰行為に使用するとなると、結局この一枚のように絶妙な真顔が一番いい。
「友希那……」
写真の中、止まって動かない友希那と目を合わせてみる。さらにこちら側、つまり男の緩みきった顔を突き出してみる。
男として最もなさけない弱った部分を愛する女性にじいっと視られている、それで呆れるだとか、嫌悪するわけでもなく無表情で、ただ視線は外れない、なんて、液晶画面のすぐ近くで彼は妄想し、それで自らの股間、その大きく硬いものを高速で慰める。
「友希那っ……」
彼は一度手を止め、写真を軽く拡大する。これはスマートフォンを握る左手親指によるダブルタップでもできるのだが、それだと拡大しすぎてしまう。画面と写真の中の顔、その比率を上手く調節し、画面いっぱいに友希那の顔を映したい。
大きくなった友希那とまた目を合わせ、右手を定位置に、再開する。
そんな愚行を他でもない、友希那の自室の中で行っているという事実が彼の興奮に最後のひと押しを与える。
「友希那っ、友希那っ――」
という呻き声と共に、濁った発射が炸裂する。それで飛び出す白いものたちはちょうどよく、用意したティッシュの上に着地する。
男の興奮は女のそれほど長引かない。射精をひとつの境界線とし、それを越せば途端に冷静になる。
「ふぅ」
干上がった様子で彼はまず周囲を見渡した。何より自分の精液でこの部屋のどこか少しであっても汚れてはいけない。そんな確認作業もさっさと終わり、何も異常がないことを知ると彼は次に五枚重ねたティッシュを持ち上げた。ここもまた慎重で、上に乗る精液たちが勝手にこぼれてしまわないように工夫するのだが慣れない作業ではない。
ティッシュを四つに折った後、今度はくしゃくしゃと丸めてしまうともう安全で、最後にまた別の一枚で包んだ後に捨てておく。
立ち上がりながらスマートフォンを起動すると画面の中の友希那と目が合う。
彼はこの時、若干の気まずさを得ることがある。なんだか恥ずかしい。つい先ほどまで自慰に使用し、その全容を目撃されたことも羞恥心の原因なのだが、射精した途端、見捨てるようにさっさと画面を消し、いそいそと後処理をはじめる。そうして何気なく画面を確認すると、スマートフォンの中は自慰をしている最中の、あの時のまま変わっていない。
自慰なんて、男であれば誰でもしていることなのに、こうしてスマートフォンを客観的に視てしまうと彼は途端に、そういう自らの行いが何か禁忌のように思えて煮えてしまう。
けれど、やめられない。
恋人として、友希那と真に行為に交わることももちろん愛おしいのだが、こうして密かに写真を使うことだって楽しい。今、使用したものは音楽家として撮影された友希那の顔で、そういうものをわざわざ用意して使用すると、しこたま気持ちいい。
それにしても、この友希那が美しい。真っ白に近い肌色と、口元は意外にも小さく、だが柔らかいことを彼は知っている。目元は際立っており、瞳の色には真摯というか、ひとつ重たく意志がある。
ああ、なんだかこうして眺めていると、脳ではなく心臓でもなく股間、その一点にまた熱が集まってくる。
そうして再燃する彼はまず邪魔なズボンとパンツを脱ぎ、シャツの近くに放置した。
スマートフォンを操作するのだが、そうして向かう先は動画で、再生するものとは友希那がよく映る、あの動画、ミュージックビデオ、というものだろうか、いいや正式な名前など知らないが、とにかく、彼はそういうものを顔写真の次によく使う。
イヤホンなど持ってきていないため、まずはひと通り音を出して聴いてみる。それは彼の中の儀式のようなもので、使用するミュージックビデオを使用する前に必ず一度は全て聴く。それが使用する側としての礼儀だと感じているが、正直なところ、ただ誤魔化しているだけ。そうして、ああいい曲だな、なんて感想を抱きつつ、股間は正反対に、さっさと気持ちよくなりたいと急いている。
彼はもう一度ミュージックビデオを再生した。だが先ほどと異なる点として、今は音量を下げている。極小で曲を流すというものでもなく、音は完全に消えたのだが、液晶画面では友希那をはじめとするバンドメンバーが映り、歌ったり、演奏したり演技をする。
そうしたミュージックビデオを使用する自慰について彼はひとつルールを設けていた。
映像において、友希那が最も目立って映るシーンでのみ本気で右手を駆動させる。けれどそれ以外、他のバンドメンバーの女性や、背景などが映るシーンでは己を堪えて、ゆったりしごく程度にする。
これが彼が勝手に決めた自分へのルールなのだが、なんとも難しい。友希那のシーンで猛烈に熱を育て、いよいよ射精ができそうだ、という瞬間に別のシーンが映ると手を止めなければならない。自主的なお預けというか、寸止めを行っている感覚で、我慢ができなくなることもある。
しかし、常に挑戦しておきたい。自分を解放したり、逆に溜め込むことで緩急を用意し、適当な位置で発射するなんて気持ちいい。いくつか、射精の機会を見過ごした後の射精ほど、強烈な快感を伴うものもないと彼は思う。
もちろん、ミュージックビデオのこんな使い方、というより楽しみ方は禁忌であり、誰にだって公表できるものではないのだが、そんな、理性などというもので無視できないことこそが性欲であり、さらには男として、清らかなものは汚したいじゃないか。
いいや――。
そんなものは結局のところでっち上げだった。
不埒な行為にある自分自身を正当化するために男はよく適当な理由を造る。つまり友希那の魅力のせい、友希那があれだけ可愛い女の子で、あんなにいいにおいで、ママにもなってかれるし、抱き締めてくれる。そんな人のことが好きで、そんな友希那へ向ける欲求を、上手く制御できない。
動物が嬉々として尻尾を振るうようにピコピコとなんだかどうにも収まらない。
「いくっ……!」
ミュージックビデオが終了する瞬間とほぼ同時に彼はまた独り絶頂した。今度も五枚重ねたティッシュの上に精液が飛び散り、確認作業でも他に汚れは発見できない。そうして汗が干上がり、消灯したスマートフォンをつけて動画アプリのタブを削除し、また画面を消しておく。
あの衣装はなんだ……。
自慰を終えて、下着のみを着衣し、ベッドに腰を落す彼はふと思う。脳裡にあるのはあのミュージックビデオ、その中の友希那だけであり、彼は歌姫が着る衣装について考える。
普段、あれだけ慎ましく努め、いや確かに稀に大胆な露出もするが、基本的にはおとなしい友希那が、まさか大きなステージの上で肩や脇を解禁しているなんて。あんな、豪華なブーツなどを履いて、そこから覗く少しの肌色、一般的に絶対領域と崇められる箇所を披露するなんて。
控えめな胸の事情も、美しい脇のことも、童顔のように思えて、実は以外と目元には鋭さがあることも、あの衣装のせいでばれてしまうじゃないか。絶妙な、黒色の使い分けだったり、大きなスカート部分の白色、これも鮮やかな白ではなく落ち着いた風味で、髪飾りや胸元の装飾、特に胸元には意外にもリボンがある。
「ママ可愛い……」
どんな人物が仕立てたのか彼は詳しくないが、この衣装、世界観そのままと思わせて、友希那の女性としての特徴を引き出す役割を担っている。何かわかっているというか、腕前の高さを感じる。
きっと、友希那は自らの身体や衣装がどれだけ卑猥で、どれだけの男を性的に射止めてきたのか知らない。だってあんなに、魅力的な腕を振り上げて歌を歌うなんて、あれではもう、この脇に服従し、欲情しろと命じているようなものじゃないか。
幼さのある姫君の命令など信者は喜んで聞く、もちろん彼もその一人で、とにかくライブ終わりの友希那の脇を舐めたいと熱望する。
友希那が自ら上に向けてくれた腕を軽く握り、少し恥ずかしそうな顔を観察しつつ開けられた脇に夢中になっていたい。舌先を落とし、肌を叩くように少し押してみると友希那はそれだけで悶えてくれる。彼はもはや身体そのものを抱き寄せて、その熱気に驚きつつ脇を舐めしゃぶる。また重要なこととして、脇を舐めることもそうなのだが、それ以上に、脇を舐めている瞬間を友希那にみつめてもらいたい。
そういうものがいい、それを今度はしてみたい、などと思い、彼はこの友希那の自室のベッドに向かう。毛布を捲って中を覗くと、先ほど顔写真で自慰をする直前に仕込んでおいたパジャマと下着類が視える。
今、彼という男はこの世で罪人だった。課せられている罪状は、恋人の自室で二度も自慰を完遂した、というもの。これを裁く人とは友希那であり、だがその本人はこの場に居ない。
シャツも、ズボンも着衣せず、スマートフォンも何も持たず、つまりパンツ一丁の状態で彼は、そうした罪から逃れるように友希那の寝具の中に潜っていった。
自宅という隔絶された孤独の空間から、友希那の自室へ忍び込む、主の居ない部屋で自慰をし、さらにさらに、その主が常用する寝具に身を隠す。
友希那の自室にはもちろん窓があるのだが、この毛布の内側だと陽光だって届かない。
そんな薄暗い中で彼はすぐに身体を横に倒し、右頬でシーツを擦る。手元には貴重な好物があるため多少暗くても怖くない。それに被さる大きな毛布が、素肌を擦ってくれている。
これからちょっと遅い昼寝に突入するような、四肢を丸めて右頬を落とす体勢だが、眠るわけではない。
「友希那……」
彼は自分だけの基地の中で自由気ままに友希那を嗅ぎはじめた。
ただ呼吸をするだけで友希那の風味が入ってくる。そのうえで彼は時おり、手元に寄越した友希那のパジャマや下着類を顔面に擦り付けて呼吸する。濃厚な、友希那だけのにおいが脳の奥まで鳴り響き、またもや股間がもっこりと仕方なくなる。
友希那のにおいを嗅いだり友希那の顔写真をまじまじと視ると、股間が今から自慰をするのだと勘違いし起き上がってしまう。
今の勃起もまさにそういうものだった。
この寝具の中、頬に触れるシーツや鼻で感じる風味、手元にある衣類の友希那のにおいと、それらをあの友希那が使用していたという事実そのものに対し、股間はどうしても反応してむくむくと、熱気が集結し上向くしかない。
友希那……。
彼はまた暗闇の中で呟いた。友希那のみが充満する空間で主の名前を呼んでいるのだが、教育番組で歌のおねえさんが駆けつけてくれるように友希那が現れることなどなく彼は孤独のまま股間をシーツに押し付けた。
彼の股間は孤独に対して泣いている。
赤子の涙とは悲しいことが原因ではなく寂しいことが原因である。彼の竿もまた同様で、股間が強張っている。
毛布の中で彼は動いた。まず仰向けになって四肢を伸ばし、内側から毛布を摘まむように固定する。次に股間部分を上向きに起動させ、それから一気に高速にへこへこと動き出す。
現在の彼はパンツのみを着衣しており、つまり四肢や腹部、胸部に至る全ての素肌に友希那が普段使いする毛布が擦れている。若干汗ばんだ、汚らしい男体と神聖な歌姫の風味漂う寝具が触れ合い、またその中で、この上擦る腰遣いとなると流石に、疑似的な友希那との性行為を思わせて興奮する。
「へっ、へっ……」
身体の中で、たった股間部分だけが一時的に天井に向かって吊り上がり、だがすぐに沈んで、また立ち昇ってゆく。さらに彼はこうした行為に突入する前、自らの口元に友希那のパジャマを設置した。こんな奇妙な運動なのだから体力的な消耗も凄まじく、さらに毛布の内部となると呼吸が苦しい。故に一回一回の呼吸が深々しいものとなり、そこで鼻孔、口に友希那のパジャマがあると、常に強烈な体臭を嗅ぐことになる。
友希那っ、友希那……。
この寝具も、パジャマや下着類も友希那が密かに与えてくれた贈り物に違いない。
そこにかつて友希那が居た。そして今は、自分で勝手に占領する。ただそれだけでなく、性的に消費している。彼は止まらなかった。鼻頭で友希那の存在を追い、また友希那の寝具に股間を預けている。追い込まれた欲望は独りでに膨張し続け、やがて彼は、うめき声と共に全ての動作を緩く終了させる。
「うふう、うう……」
彼の粘液が友希那の衣類や寝具に触れることはなかった。
彼の陰茎は自らのパンツに収納されたままで、内部はねとねとと大惨事を組み上げている。彼は毛布の中、汗ばんでそれから力尽きている。全身の力が抜けている。気力に関しても下向きにあり、だがそれは悪性ではない。緩やかに気力が停滞し、代わりに緩やかな波のような、緩い倦怠感がやってくる。
「かぐわしい……」
それにしても、と彼は考えた。友希那の体臭であっても股間の部分によく効く。いったいそれはどういうことなのだろう。性格や価値観ではなく、まずにおいのところから相性がいい男女なんて、意図して探さなければみつからないものだと彼は思っていたのだが、こうして巡り会えた。
友希那というか、女性とは、どれだけ静謐に生活をしたところでこういう卑しいにおいは止められないのか。
人なのだから、そりゃあ無味無臭で過ごすなどありえない。けれどそういう常識が、友希那ほど強かな、まさしく姫君のような個人にだって当てはまり、こうして寝具だとか、下着を嗅いでみると十分に香ばしい。もちろん彼としてはそれが嬉しい。友希那にだって野生的な側面があるのだと思うとさらに興奮するし、彼は友希那の残り香を追うことに背徳感を得ている。
今は彼こそが友希那の残り香という隠されたお宝を狙う泥棒なのだ。
もちろん実際に友希那を嗅ぐことができればいいし、それもやっている。けれどこの状況は男としてあまりにも極楽というか、全ての男連中の憧れなのだと彼は思い知る。主が帰宅する前に全てを回収し、何もなかったことにする。そうして友希那には平和に過ごしてもらいつつ、彼は個人的に裏側で、友希那のあらゆるにおいを楽しむ。
ああ、ライブ終わりの友希那のことを嗅いでみたいな……。
楽屋に戻り、衣装を脱いだ後にそこに進入し、ロッカーから衣装を取り出して身勝手に鼻先を突っ込みたい。あの長いブーツや腕に着ている美しい装い、何か城の外壁のようなスカートの裏側、パフォーマンスにおいて発生した熱気が、きっと衣装にこびり付いている。そういう部分を少しでいいから頂戴し、その姿が友希那にばれて、それから本人の体臭を直接、求めてみたい。
あんなに大胆に脇をみせつけられているはずなのに、大衆の誰であっても、それについて熱く議論していないことが不思議だなと彼は思う。
いや、自分の女のいやらしい脇についね語らう男どもなどみたくないが、それでも彼は、湊友希那を前にする人々が、何か催眠にでも遭っているかのように音楽についてのみ口にすることが不思議だった。
友希那の音楽性がそのようにさせてしまうのだろうか。
普段、女のあらゆる部位について業が深いことを簡単に口にする男どもから、性欲を奪うほど、そんなものより、とにかくこの荘厳な世界観に包まれろ、と友希那が歌で叫んでいるのだろうか。
そういうものなら確かに彼にも聴こえている。だが彼だって一人の変態であり、底力は友希那にだって負けないと思う。彼女の音楽性を愛おしむついでに、ちらりと視える脇について、スカートの、ふわりと惑わす妖しさについて、ライトを反射する汗ばみについて語りたいし、それが卑猥だと、とてもいいよと、可愛いよと、友希那に向かって歌いたい。
友希那が自分の世界を信じるように、彼も友希那の艶美を歌いたい。
友希那は今、どうしているだろうか。
彼の脳裡に唐突に現実的な思考が巡る。
友希那の仕事に関して彼は詳しくなかった。友希那は訊ねれば訊ねた数だけ正確に答えてくれる。故に彼はあまり仕事について、友希那に訊ねたことはない。
それが強制的な労働であれ、自ら選んだ活動であれ、仕事である以上緊張が通う。特に友希那の場合、自身のプロという肩書きに肩書き以上の意識を置き、それは責任という意味で執行される。友希那にとって家での時間とは安息の時間のことであり、そんな友希那にまた仕事について訊ねることはそういう虐めのように思える。
彼は男として友希那を湿らせてみたいと常に考えているが、そういう意味のない精神的な追い込みは嫌悪している。
友希那はどうしているのだろうか。
彼はふと考えた。収録、という仕事にもう取り掛かっているだろうか。それともまた準備の段階で、歌唱をはじめる前なのだろうか。
彼は友希那が収録をする前、他のスタッフやバンドメンバーと会議をする姿を妄想した。その友希那はどんな場面の友希那よりも真剣で迷いがなく、また妥協を許さない姿勢にある。手厳しく、だからこそ他の人間もそれに触発されて動き出す。そのような力に満ちた友希那を横が会議室な中で発揮されている。
それはある意味で彼が視ることのできない友希那だった。
彼はベッドの中でもぞりと動いた。顔面をシーツに押し込んだまま前進しやがて枕に到着すると彼はそれを嗅いだ。より複雑な友希那のにおいだった。彼はにおいを必死に嗅ぎ、それで友希那を身近に感じようとした。
けれどプロ音楽家の友希那とは彼から最も遠い位置に居る。
妄想の中、真剣な横顔の友希那が遠ざかる。その情景が暗闇の中に吸い込まれ、自分の周囲に何も誰も居ないことを彼は知る。
彼はそんな感覚を誤魔化すように、押し潰して圧殺するため友希那の枕を引き寄せた。
横向きに倒れ、友希那の枕をぎゅっと抱き寄せる。肢体を丸めて顔に枕を押し込んだ。枕は彼の頭部により陥没し、彼はその奥のにおいを嗅いだ。頭部に絡まるパジャマも巻き込み、そのにおいをとにかく吸引した。
彼は必死に、友希那の存在を感知しようと努めていた。
けれどそういった行為がさらに現状の悲しさを際立たせる。
彼は友希那と共に音楽をやっているわけではない。相応に知識を有しているわけでもない。そんな彼からすると音楽の世界なんてやっぱり遠いもので、その世界を堂々と渡る友希那のことが、愛おしいけれどなんだか、眩しい。
視たもの、聴いたもの、その全てを、それがどれだけ音楽に関係のないものだとしても、いいやそういうものこそ己の音楽へ昇華し、糧にする。まさしく、人生そのものが音楽な女であり、そういうふうに語ってみると、何か、友希那のことが遠くにあるような気持ちになる。
「友希那……」
彼はそういう感覚を誤魔化すように肢体を動かした。枕に頬をしっとりと落としパジャマを持ち上げる。パジャマなんてものはもう、こうして口に含んでやる。そうして啜ってやる。布の中に染み込んだ寝汗と口の中で唾液が溶け合って、舌先に味として現れる。それが嬉しくて、彼は、この酸っぱい味をしゃぶり尽くしてそれでも脳裡で友希那を抱く。両足をそれぞれ左右方向にぴんと伸ばし、腰のみを突き上げたり、勢いよく降ろす。股間が擦れ続けやがて戻れない部分にまで己が高まってゆく。
そうだ、このベッドだって友希那なんだ……。
ふと気付いて、彼はまた身体を弾ませる。そうしてこのベッドの中、毛布を被ったままあらゆる箇所を鼻先で注意深く探ってみる。
確かに全ての部分が香しい。シーツに顔面をめり込ませ、その最奥の部分で引き寄せるように呼吸すると途端に、愛おしいものが流れてくる。なんというか、僕という男に必須の成分を含んでいることがよくわかるのだが、それから四肢を使い、べっとり這いずり廻って、寝具のあらゆる箇所を嗅ぎ比べてみると、ああなんだか、ちょとずつ味が違うような気がする。
ふむふむ、ここは、背中が触れる部分だろうか、それからここは、きっと肩幅が当たる部分、だとするとこっちは、足裏が触れている部分か……。
「友希那……」
彼はライブパフォーマンスにある友希那を観たことがある。
彼からすると、あの舞台、ステージというものに立つ友希那と日常を過ごす普段の友希那は異なっている。別人だとか、どちらが本性だとかそういうことはあまり上手く考えられないが、ステージ上の友希那には、普段、生活の中でみせる柔い笑顔や手つきこそが嘘なのではないかと思うほど、その荘厳な勢いには信憑性があった。
つまり友希那は音楽家として己の世界を完成させており、どうやらそれは進化し続けるらしい。
誰もが友希那のことを音楽の御伽噺からやってきた姫だと思い込みたい。
けれどこんな友希那でも演奏が終われば家に帰り、あらゆる衣類を脱ぎ捨て、あの複雑な髪型さえ飽きたようにほどき、彼のことを頼りにする。友希那ももちろん人間で、人生があり、生活をしなければならない。彼もまたそういう友希那を愛し、女として求める。
誰も居ない夜の中、幼馴染にも好敵手にも、つい先ほど相手をしていた大勢の支持者にも知らされていないその場所で、たった二人、また演奏がはじまる。
彼は行為中に友希那のステージ上の姿を思い出すことをしないが、逆にステージに立つ友希那を視て破廉恥な彼女を想起させることがある。
自分だけの世界、歩みを勇ましく歌う姿のすぐ横に、そんな鋭利な質感は皆無な姿を置いてみる。
今、歌唱により火照った頬は数時間後には雄に突き上げられたことで熱を帯び、喉も、今は美しい音色を披露しているがやがて不安定に喘ぐ。とても歌姫として見過ごされてしまうほど小さくモノになっていない嬌声は彼に宛てられたものであり、散りゆく花弁を憂うような目つきも、今度は精を解き放つ彼に向けられる。
あの戦場の最前に立ち物語を放つその表情、切なくて必死な、飛び込んできてしまいそうな顔を視た瞬間、彼はその友希那に欲情した全ての己を恥じ、謝罪する。
友希那はそんな男さえ包み取るように歌い上げるのだから素晴らしい人なのだ。
「友希那……」
彼は枕の中で呟いた。
毛布の中、枕の上、たくさんの友希那の体臭に囲まれて彼は身体を丸く縮めている。口角から、重たい唾液がゆったり垂れて染み込んでゆく。肢体は本格的に力をなくしてゆく。意識も同様に、何か重たく彼から離れてゆく。
「友希那、はやく帰ってきて……」
友希那が近くに居ないこと、それは確かに、彼に別の趣向をもたらすものだった。しかしその一切は、友希那が近くに居る、という事実に勝らない。
「友希那、好きだよ……」
友希那しか居ない寝具の中、彼は全てをぎゅっと抱き締め、それから眠りに落ちていった。