その配信画面の裏側で、女神が愛に狂うとき。 作:あやりゆるゆれ
――「清純」を演じるトップVtuberが、献身という名の完璧な檻を愛する男に用意するとき。
照明を落とした六畳の部屋に、キーボードの音だけがカチカチと静かに響いていた。
結城悠斗はヘッドセットを外すと、大きく伸びをした。
深夜二時を回り、今日の配信は無事に終了。
チャンネル登録者数は伸び悩んでいるが、来てくれるリスナーは皆優しい。
それが悠斗の配信活動の支えだった。
冷めたコーヒーを一口飲んだとき、デスクトップに通知が一つ点滅した。
配信仲間を通じて、個別のDMを受け取れるように設定しているアカウントからのものだ。
「誰だろう、こんな時間に」
DMの送り主の名前を見て、悠斗は思わず目を見開いた。
画面に表示されていたのは、先日活動四年目を迎えた人気Vtuberグループ所属のトップランカー、『天使リリィ』の非公開アカウントだった。
認証済みマークがついている。
なぜ、人気絶頂の彼女が、底辺に毛が生えた程度の自分にメッセージを送ってきたのか。
悠斗は警戒しつつも、メッセージを開いた。
そこには、配信で見るお嬢様口調とはかけ離れた、切羽詰まった文章が並んでいた。
『突然のメッセージ失礼いたします。共通の友人から、あなたが非常に誠実で、配信者としての助言に長けていると伺いました。現在、私の配信で取り返しのつかない炎上騒動が起きています。どうか、あなたのお知恵を拝借できないでしょうか』
文面からは、人気者の余裕など微塵も感じられなかった。
憔悴しきっているのが、行間から伝わってくるようだった。
悠斗は、トップVtuberが抱えるプレッシャーを想像し、すぐに返信を打ち始めた。
自分の優しさや気遣いは、配信活動を通じて磨かれたものだ。
目の前で困っている人間(たとえネットの向こうのトップランカーであっても)を見捨てることはできなかった。
悠斗はまず炎上の経緯を尋ね、彼女が犯したとされる小さな失言と、それが集団的な叩きに発展している現状を知った。
彼女の返信は次第にリアルタイムになり、チャットはまるで緊急会議のようになっていった。
『もう、どうしたらいいか……私、この活動に救われていたのに。すべて終わってしまう気がするの』
リリィからのメッセージは、弱音と涙が混じり合っているように悠斗には見えた。
「大丈夫ですよ。リリィさんは何も悪くない。ただ、疲れが出てしまっただけです」
悠斗は、できる限り冷静かつ温かい言葉を選び、メッセージを送った。
「まずは心を休めること。そして、謝罪の仕方も大切ですが、もっと大切なのは、あなたがまた元気に配信できることです。そのための手伝いは、喜んでさせていただきます」
既読がついた後、しばらくチャットは動かなかった。
悠斗は、余計なことを言ってしまったかと不安に思い、キーボードに手をかけた。
その時、一通のメッセージが届いた。
『結城さん。あなたは、本当に優しい方なのね』
それは、これまでの焦りとは打って変わって、静かで、深い安堵を含んだ言葉だった。
『こんなに親身になってくれたのは、あなたが初めてだわ。私、助けられたの。あなたが光だったのよ。本当に、心から感謝するわ』
その言葉の奥に、悠斗はただ純粋な救われた喜びだけを感じ取った。
自分が人の役に立てた。それだけで十分だった。
悠斗は「お役に立ててよかったです」と送り、チャットを閉じた。
悠斗はそのままベッドに潜り込み、すぐに穏やかな眠りについた。
自分の言葉が、画面の向こうのトップランカーの絶望を救ったなど、彼にとってはその夜の特別な出来事の一つに過ぎなかった。
その頃、都内有数の高層マンションの一室で、天堂梨花は煌びやかな部屋の照明を浴びていた。
彼女の瞳は潤んでいたが、それは悲しみの涙ではなかった。
「ふふ、ふふふ……」
華奢な指先が、ディスプレイに表示された結城悠斗のプロフィール画像に触れる。
彼の優しく、平凡な顔立ちが画面に映し出されていた。
「孤独な私を癒してくれるのは、あなただけだわ。他の皆は、私をただの偶像としてしか見ていない。でも、あなただけは、私という人間を見てくれたのね」
梨花は、パソコンで一つの画面を開いていた。
そこには、結城悠斗の配信のアーカイブ、過去のSNS投稿、そして配信で彼がうっかり漏らした地名や生活リズムから特定した、彼の住居周辺の地図が表示されていた。
炎上という絶望の淵で、結城悠斗という光が自分を救ってくれた。
その優しさは、汚れた世界から彼女を隔離してくれた。
だから、梨花は思った。
――この光を、誰にも触れさせたくない。この優しさを、私だけのものにしたい。
彼の配信は、実家を出て一人暮らしをしていること、そして両親を早くに亡くしていることを示唆していた。
彼女は彼に「守られるべき孤独」を見出した。
「大丈夫。私があなたを、誰にも傷つけられない完璧な場所へ導いてあげる。私が持てる全ての財力と権力を、あなたを保護するために使うわ」
梨花は、すぐに秘書に連絡を取った。
「ええ、あの物件の契約を進めてください。場所は、結城悠斗さんの住居の、お隣の部屋でお願いします。急ぎで。私が、彼のお隣さんになるのよ」
彼女の顔には、配信で見せる「天使リリィ」の柔らかな微笑みはなかった。
そこにあったのは、愛する対象の全てを飲み込み、独占しようとする、お嬢様の静かで、狂おしい執着だった。
───
二週間が過ぎ、天使リリィの炎上騒動は完全に収束していた。
彼女は悠斗のアドバイス通り、誠実に対応した結果、むしろファンを増やしたようだった。
悠斗はすっかり、あの深夜のやり取りを「たまたまトップランカーを助けた出来事」として日常の隅に押しやっていた。
いつものように配信を終え、SNSをチェックしていると、リリィの新しい配信通知が目に入った。
何気なく視聴していると、彼女はコメントを読み上げながら、最近楽しんでいることについて語り始めた。
「わたくし、最近このゲームにハマっているのよ。ふふ、主人公の育成要素が奥深くて楽しいわね」
悠斗は思わず画面を二度見した。
それはつい先日、自分の配信で「隠れた名作だけど、過疎ってる」と紹介し、数少ないリスナーと盛り上がったばかりのゲームだった。
「ーー偶然だろう」
そう思って、次のリリィの雑談に耳を傾けた。
「今日はコンビニで、新しいモンブラン味のアイスを見つけたの。普段は甘いものを控えているのだけれど、たまにはいいわよね。至福のひとときだわ」
悠斗は手のひらをじっと見つめた。
まさか、と頭を振ったが、そのモンブラン味のアイスは、昨日の夜、悠斗が配信中に「最近のブーム」として語ったものと全く同じだった。
たまたまだろう、と自分に言い聞かせたが、その翌週も、リリィの配信には「悠斗の日常の小さな話題」が、あたかも彼女自身の趣味であるかのように、ごく自然な雑談として盛り込まれた。
その頻度が増えるにつれ、悠斗の胸の奥に微かな違和感が芽生え始めた。
まるで、誰かに自分の生活を覗かれているような、妙な感覚だった。
そんな不安を抱えながら、悠斗は自宅のマンションに帰ってきた。
築年数の経ったごく普通のマンションだが、家賃の安さが決め手だった。
エレベーターを降りると、廊下に何やら人だかりができていた。
悠斗の隣の部屋、数ヶ月空き部屋だった場所に、引っ越し業者の大きなトラックが止まっている。
「えらい大掛かりだな」
作業着を着た男たちが、丁寧に養生された大きな家具を運び込んでいた。
その家具の黒光りする材質は、このマンションには不似合いな高級感を放っていた。
運ばれていたのは、どう見ても一人暮らし用の荷物ではない。
まるで、どこかの豪邸から持ってきたかのようなものばかりだった。
業者の一人が悠斗に会釈をした。その丁寧すぎる態度に、悠斗は少し気圧されたが、軽く頭を下げて自分の部屋のドアを開けようとした。
そのとき、ドアノブに何かが引っかかっているのに気づいた。
白い、光沢のあるチャームだった。
天使の羽根を模したようなデザインで、派手すぎない上品さがある。
悠斗はそれを手に取り、まじまじと見つめた。
どこかで、これと似た意匠を見たことがある。
そう思った瞬間、リリィのVtuberの衣装に使われている、小さなアクセサリーの細部を思い出した。
しかし、すぐに「まさかな」と否定した。
「誰かの落とし物かな」
悠斗はチャームをポケットに入れ、部屋に入ると鍵をかけた。
チャームをどこに置こうかと考えていると、開けっぱなしだったベランダ周辺で微かに、しかし確かに、上質な香水のような、甘く華やかな花の香りが漂ってきた。
今まで自身の部屋の中では、決して嗅いだことのない香りだった。
隣の部屋の住人は、いったいどんな人物なのだろう。
悠斗が配信部屋へ向かうと、ポケットのチャームを取り出し、そのまま机の端に置いた。
だが、机に置く直前、無意識に指先でその表面を撫でていた。
その数時間後。
防音設備の整えられた隣の部屋のソファで、天堂梨花は満面の笑みを浮かべていた。
彼女は高性能なヘッドホンを装着し、目を閉じていた。
ヘッドホンの向こうからは、かすかに悠斗の配信中の声、そして「あー、喉渇いた」という独り言が聞こえてくる。
生活音専用のマイクを仕掛けたわけではないが、高性能な集音マイクで彼の部屋の音を拾い、ノイズキャンセリングで余計な音を消していた。
(あぁ、悠斗さんの声。近くで聞くと、配信よりずっと温かいわ)
あの羽根のチャームは、彼女が意図的に落としたものだった。
彼がそれを拾い、少しでも自分を意識してくれれば、それでよかった。
彼女の指先には、悠斗が捨てたはずの天使の羽根チャームと全く同じものが握られていた。
「大丈夫。これで、あなたはもう私の手の届く範囲よ」
梨花は悠斗の部屋の方向をじっと見つめ、静かに、囁くように言った。
「あなたをこの完璧な檻から、二度と逃がしたりはしないわ。私だけのものよ、悠斗さん」
───
いつものように、悠斗はマンションの集合ポストに溜まったチラシを整理し、エントランスを出たところで足を止めた。
自動ドアのすぐ外に、一人の女性が立っていた。
全身から品の良いオーラを放つ、絵画から抜け出たかのような絶世の美女。
黒髪は艶やかに流れ落ち、シンプルなワンピースに身を包んでいるにも関わらず、どこかセレブ雑誌の表紙を飾るモデルのような雰囲気がある。
隣に引っ越してきた住人だろうか。
悠斗がそう考えていると、女性が上品に微笑み、悠斗に近づいてきた。
「あの、もしかして、結城悠斗さんでいらっしゃいますか?」
鈴を転がすような、どこか聞き覚えのある声だった。
悠斗は少し緊張しながらも、「はい、そうですが」と答えた。
「初めまして。わたくし、天堂梨花と申します。先日、お隣に引っ越してまいりましたの」
やはり、隣人だった。しかし、その美貌と洗練された振る舞いは、この古びたマンションにはあまりにも不似合いだった。
「あ、どうも。結城です。よろしくお願いします」
悠斗が頭を下げると、梨花はふと、少しだけ表情を曇らせた。
「わたくし、実はあなたに、どうしてもお伝えしたいことがございまして」
梨花は周囲を気にするように目線を走らせ、声をひそめた。
「わたくし、あの……天使リリィの『中の人』なのよ」
悠斗は息を飲んだ。
予想していたはずなのに、その事実を目の前の美女から直接聞かされ、一瞬思考が停止した。
まさか、あの時の相談相手が、自分の隣に引っ越してきていたとは。
「なぜ、ここに……?」
悠斗は素直な疑問を口にした。
梨花は俯いたまま、か細い声で続けた。
「あの時、本当にあなたに救われたのです。あの炎上騒動で、誰にも理解されない孤独に打ちひしがれていたわたくしを、あなたは優しさで包んでくださった。その安らぎを、もう二度と手放したくなかったの。それで……」
彼女はそこで言葉を区切り、顔を上げた。
その瞳は潤んでいるが、そこには揺るぎない決意が宿っているようだった。
「それで、あなたの近くに来てしまったの。わたくしが、あなたをずっとお守りするために」
その言葉は常軌を逸していたが、梨花の真剣な表情と、彼女がトップVtuberであることを公表してしまったことへの切羽詰まった状況が、悠斗に「彼女は助けを求めている」と誤解させた。
「それは……その、驚きました。でも、落ち着いてください」
悠斗がどう対応すべきか迷っていると、梨花は持っていた大きな紙袋を差し出してきた。
「これは、お隣同士になったご縁と、あの時のお礼を兼ねて。わたくし、料理が趣味なの。結城さんはお独りだと伺いましたから、もしよろしければ……」
紙袋の中には、宝石のように美しいタルトと、丁寧にパック詰めされた手作りの夕食が入っていた。
どれも高級店の品のような彩りと盛り付けだ。
「え、でも、こんな高価そうなものを」
「高価ではございませんわ。わたくしの愛を形にしたものですから」
梨花は、優雅に微笑んだ。
その言葉の含んだ意味は、悠斗の耳には届かなかった。
悠斗は結局、その申し出を断りきれなかった。
トップVtuberのリアル、しかも絶世の美女の隣人から、親切心で手作りの料理を渡されたのだ。
「いただきます。ありがとうございます、天堂さん」
「梨花でいいわ。その方が、特別でしょう?」
彼女はそう言い残すと、悠斗の頬が火照るほどの破壊的な微笑みを残して、悠斗の隣の部屋のドアを開け、中へと消えていった。
悠斗は自室に戻り、紙袋から夕食を取り出した。
手の込んだローストビーフに、付け合わせの野菜は色鮮やかだ。
一口食べてみると、あまりの美味しさに目を見張った。
(なんだこれ、プロの味じゃないか……)
彼女の持つ財力や、お嬢様であるという事実は、この料理のレベルから伺い知ることができた。
悠斗は、その優しい味に心を許し、一気に料理を平らげてしまった。
しかし、食後の満足感に浸っていると、ふと、背筋に冷たいものが走った。
なぜ、彼女は自分のことを「お独り」だと知っていたのだろう。
なぜ、自分が住むこのマンションの、隣の部屋を選んだのだろう。
そして、あの時彼女が言った「わたくしが、あなたをずっとお守りするために」という言葉の、真の意味は。
悠斗は、自分が今口にしたばかりの料理が、天堂梨花という鎖の最初の環だったのかもしれないと、拭いきれない違和感と不安を覚えた。
隣の部屋では、防音室の中で梨花がヘッドホンを外したところだった。
「ふふ、召し上がってくださったわね」
梨花は満足げに、空になった紙パックのジュースを手に取った。
それは悠斗が配信中に飲んでいたものと全く同じメーカー、同じフレーバーだ。
彼女は、それを一気に飲み干すと、満足そうにため息をついた。
「わたくしの全てが、あなたの中に入っていくわ。これから、もっと、もっとね」
静かな夜の闇の中、梨花の瞳だけが、獲物を手に入れた獣のように、熱く輝いていた。
───
天堂梨花、もとい天使リリィの「お隣外交」が始まってから、およそ二週間が経っていた。
悠斗の生活は劇的に変化していた。
冷蔵庫には常に手作りの料理が並び、洗濯物もアイロンがけまで済んでいることがあった。
配信活動にも集中できるようになり、リスナーからも「最近、声に張りがありますね」と言われるほどだ。
生活の質は間違いなく向上していた。
悠斗は、これは梨花のおかげだと心から感謝していた。
しかし、その快適さは、どこか息苦しさを伴っていた。
「結城さん、朝食の準備ができましたわ。今日は六時半に起こすと約束したでしょう? あなたの配信スケジュールを考えたら、規則正しい生活が何よりも大切だわ」
そう言って、梨花は朝早くから悠斗の部屋に来て、優雅に朝食を並べた。
朝食を共にするのは、もはや日常となっていた。
「助かるよ、梨花さん。でも、そこまでしてもらわなくても……」
悠斗が恐縮すると、梨花はふわりと笑った。
「いいえ。わたくしがしたいことなのよ。それに、寂しいでしょう? お独りなのですから。わたくしが、あなたの生活を支えてさしあげます」
その優しい言葉の裏に、悠斗は逃れられない重さを感じ始めていた。
梨花は悠斗の部屋にいる時間が増え、まるで自分の部屋のように振る舞い始めた。
ある日の昼食時、悠斗が「このオムレツ美味しいですね」と言うと、梨花は自分の使っているスプーンで、悠斗の皿の端のソースを掬い取り、「そうでしょう? わたくしの自信作なのよ」と嬉しそうに微笑んだ。
さらに別の日、悠斗がコーヒーを淹れて梨花に渡すと、梨花は一口飲んだ後、そのマグカップをそのまま悠斗に差し出してきた。
「わたくし、ちょっと熱いのが苦手で。結城さん、少し飲んでみてくださらない? 熱さを確認してほしいの」
悠斗は「ああ、もちろん」と深く考えずにカップを受け取り、一口飲んだ。
梨花が口をつけた場所など、気にしていなかった。
しかし、梨花がその瞬間、目を細め、静かに悦に浸るような表情を浮かべたのを見たとき、悠斗はゾッとした。
まるで、獲物のテリトリーに印をつけたかのような、満足感に満ちた笑みだった。
「どう? ちょうどいいわね」梨花は優雅に尋ねた。
「あ、うん。熱くはないよ」
その夜、悠斗は自室で配信準備をしていた。
そこに、梨花がエプロン姿で入ってきた。
「結城さん、今夜は配信中に飲むための、特製スムージーを持ってきたわ。疲労回復に効果があるの。飲む時間は、わたくしが合図してあげるから、必ずその時に飲んでちょうだい」
梨花はそう言うと、悠斗のマグカップの横に、中身の見えないボトルを置いた。
「あの、梨花さん。僕の配信スケジュールは、今日この後、二時間雑談の予定だから、いつ飲んでもいいよ」
「だめよ」梨花の声は、いつもより少し低かった。
「わたくしが、あなたが最も疲労する時間を見極めてあげたわ。その時が、あなたに栄養が必要な瞬間なの。あなたの身体のことは、わたくしが一番理解しているわよ」
悠斗は、言い返す言葉を見つけられなかった。
彼女の口調は優しいが、その内容は明らかに命令だった。
まるで、自分の生活の全てが、彼女によってコントロールされているようだった。
悠斗は、豪華な家具で彩られた隣の部屋ではなく、自分の、見慣れたこの六畳の部屋で、言いようのない息苦しさに苛まれた。
窓の外は穏やかな夜なのに、彼の心の中は、梨花の甘い独占欲という毒によって、静かに侵食され始めていた。
隣の部屋で、梨花は悠斗が持ってきたマグカップを丁寧に洗い、棚に戻していた。
そして、悠斗が先ほどまで飲んでいたミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。
悠斗が口をつけた部分にそっと唇を寄せ、そのまま中身を飲み干す。
「ふふ、これでまた一歩、わたくしとあなたは一つになったわ」
彼女は空になったペットボトルを、まるで愛しい宝物のように抱きしめた。
その行為は、彼女にとって、単なる間接キス以上の、魂の接触であり、確固たる勝利の証だった。
「私の愛は、もうあなたの中にあるわ。もう、逃げられないわよ、悠斗さん」
───
悠斗は最近、友人関係に妙な変化を感じていた。
昨夜、同じゲームを配信している仲間の一人から、急に連絡が途絶えた。
その友人は、ここ数週間、悠斗が送るメッセージに対して既読スルーを繰り返している。
つい先日まで、毎週のようにコラボ配信をしていたはずなのに。
「何か気に障ることをしたかな……」
悠斗は首を傾げたが、全く心当たりがなかった。
他にも、学生時代からの古い友人たちが、皆一様に忙しいと断り、食事の誘いを避けている気がした。
まるで、誰かから「悠斗に近づくな」と警告でもされているかのように。
そんな中、悠斗の生活圏で唯一変わらないのは、隣人である天堂梨花だった。
「あら、結城さん。昨夜の配信、少しお疲れが見えたわよ」
今日も梨花は、悠斗の部屋に勝手に入り、配信機材のケーブルを整理していた。
彼女は悠斗の部屋の合い鍵をいつの間にか持っており、もはや悠斗の部屋は彼女のテリトリーの一部となっていた。
「体調は大丈夫だよ。ただ、ちょっと最近、配信の企画がマンネリ気味でさ。新しいことやりたいんだけど」
悠斗は、自分が企画しているホラーゲームの実況を試してみたいと伝えた。
しかし、梨花は優雅に首を横に振った。
「だめよ。あなたにホラーは似合わないわ。あなたの魅力は、その優しさから滲み出る『癒やし』にあるのよ。リスナーが求めているのも、それだわ」
梨花は、優しく、しかし有無を言わせない口調で続けた。
「あなたには、常に清潔で、穏やかで、そして誰にも汚されない場所にいてほしいの。ホラーのような刺激的なものは、あなたの『癒やし』のイメージを損ねるわ。わたくしが、あなたの配信の方向性は完璧に管理してあげるから。ね?」
彼女の言葉は、まるで上質な毛布のように悠斗を包み込むが、その下には冷たい鎖が隠されているように感じた。
悠斗は、自分の活動の主導権が、完全に彼女に握られていることを悟った。
その日、悠斗は思い切って、連絡を絶った友人に電話をかけた。三度目のコールで、友人は渋々電話に出た。
「……おう、悠斗か。ごめん、最近忙しくて」
「そうか。実は相談したいことがあってさ。最近、なんかお前の様子がおかしい気がして……」
悠斗が切り出すと、電話の向こうの友人は一瞬言葉に詰まった後、早口で言った。
「ごめん!ちょっと今、マジで立て込んでるんだ。悪いけど、しばらく連絡は控えてくれるか?じゃあな!」
そう言って、一方的に電話は切られた。悠斗は受話器を握りしめたまま、呆然とした。
友人の声には、焦燥と、何かを恐れているような響きが含まれていた。
悠斗の人間関係は、この二週間で確実に、梨花という巨大な影によって刈り取られていた。
梨花の財力と情報収集能力が、裏で何をしていたのかは想像もつかなかったが、結果は明白だった。
自分の日常から、梨花以外の「他者」が消えていく。
悠斗は誰にも相談できなくなり、孤立していった。
その日の夕食。
悠斗は、梨花が作ってくれた、まるで芸術品のようなローストチキンを前に座っていた。美味しそうな香りが部屋に充満している。
「今日は、とてもいい顔をしているわ。わたくしが管理してあげたおかげね」
梨花は微笑んだ。
その笑顔は、天使リリィそのものだ。
悠斗は無言でチキンを口にした。
美味しかった。
この上なく、満たされた。
「……ありがとう、梨花さん」
梨花以外に、自分をここまで気遣い、世話をしてくれる人間はいない。
優しさで独占する梨花の手の中で、悠斗は徐々に思考力を奪われていく。
「僕には……梨花さんしか、いないのかな」
悠斗が誰にともなくそう呟くと、隣の椅子に座っていた梨花は、悠斗の手の上にそっと自分の手を重ねた。
「ええ、そうよ。安心してちょうだい、悠斗さん。あなたのことを、この世界で一番理解し、愛し、そして守ってあげられるのは、このわたくしだけなのだから」
梨花は悠斗の瞳をじっと見つめ、静かに、優しく囁いた。
その頃、隣の部屋では、梨花の秘書が、悠斗の友人の個人情報を記したファイルを静かにシュレッダーにかけていた。
梨花の計画は完璧に成功しつつあった。
彼女の孤独が悠斗の孤独を呼び込み、悠斗の孤独が、梨花の愛という檻を完成させていく。
───
週末の昼下がり、悠斗は自室のローテーブルに、小さな封筒を置いた。
中に入っているのは、天堂梨花にから渡された彼女の部屋の合い鍵だ。
このままではいけない。
そう頭ではわかっていたが、梨花の異常なまでの優しさと支配に慣れてしまった体と心は、動くことを拒否していた。
しかし、このままでは自分の存在が消えてしまう気がした。
悠斗は意を決し、梨花の部屋のインターホンを鳴らした。
梨花は、優雅なワンピース姿でドアを開けた。
その姿はいつも通り、トップVtuberの清純なイメージそのままだった。
「あら、結城さん。どうかしたの?」
悠斗は震える手で封筒を差し出した。
「あの、梨花さん。ごめん。もう、これ以上、世話になるのはやめるよ」
梨花は差し出された封筒を一瞥すると、すぐに悠斗の顔を見た。
その瞳から優しさが消え、一瞬、底知れぬ冷たさが垣間見えた。
「これは、一体どういう意味かしら」
「鍵を返すよ。そして、もう、食事の用意や、部屋の掃除も、僕の配信へのアドバイスも……全部、止めてほしい。僕、このままじゃ、ダメになりそうで」
悠斗はなんとか言葉を絞り出した。
自分の生活が、梨花の独占愛という名の鎖でがんじがらめになっていることを、今、はっきりと拒絶する。
梨花は、封筒を受け取ることなく、静かに微笑んだ。
その微笑みは、喜びでも、悲しみでもなく、悠斗を評価するような、観察者の笑みだった。
「なぜ、わたくしの愛を拒絶するの? わたくしが、あなたをこんなにも大切に想っているのに」
梨花は悠斗の問いには答えず、ただ自分の感情の正当性を主張する。
悠斗はその静かな態度が、激しく怒鳴られるよりも恐ろしいと感じた。
「愛って言うけど、これは……愛じゃないよ。僕の自由を奪っているだけだ!」
悠斗が声を荒げると、梨花はふっと息を漏らすように笑った。
「自由? 結城さん、あなたは本当に自由というものがお好きね。でも、ご存知かしら? あなたのその『自由』は、常にあなたを傷つけ、孤独に追いやるものよ」
彼女は一歩、悠斗に近づいた。
「わたくしが、あなたの周りから、あなたを傷つけるものを全て取り除いてあげた。わたくしが、あなたの生活を完璧に管理してあげた。あなたの配信活動が安定したのは、誰のおかげかしら? 連絡を絶ったあの方々は、あなたの価値を理解できなかっただけ。わたくしだけが、あなたという宝石の真の価値を知っているのよ」
梨花の言葉は、悠斗の疑念を確信に変えた。
友人たちが離れていったのは、やはり彼女の仕業だったのだ。
「君が……!」
「ええ、わたくしよ」
梨花はあっさりと認めた。
「わたくしの愛の力よ。あなたは、今、このマンションから出られるのかしら?」
梨花の言葉の意味を測りかねていると、彼女はさらに静かに、決定的な言葉を告げた。
「このマンション、実はわたくしの父の会社が所有しているの。そして、あなたの隣の部屋だけではなく、あなたのこの部屋も……わたくしの個人名義で管理しているわ。家賃の更新、お安かったでしょう? ふふ、わたくしがあなたに優遇しているのよ。わたくしが望めば、あなたは明日にもこの場所を追われるわ」
悠斗は全身の血の気が引くのを感じた。
自分の生活基盤の全てが、この絶世の美女、天堂梨花の掌の上にあった。
配信者として細々と稼いでいる自分の力では、彼女の財力という名の「檻」から逃れることなど、到底不可能だった。
逃げ場はない。
誰にも相談できない。
悠斗は、自分が完全に孤立していることを悟った。
梨花は、無抵抗になった悠斗の体にそっと腕を回し、力強く抱きしめた。
彼女の体が、悠斗の体にぴたりと密着する。
彼女から伝わる体温と漂う上質な花の香りが、悠斗の抵抗の意思を溶かしていく。
「安心なさい。もう、あなたは一人ではないわ」
梨花は悠斗の耳元で、熱烈に囁いた。
「わたくしの愛は、あなたを完璧にすることよ。あなたを苦しめる孤独も、不安も、全てわたくしが引き受ける。だから、もう抵抗しないで。わたくしの腕の中で、安らぎなさい」
悠斗の目から、一筋の涙が溢れた。
それは、恐怖と絶望、そしてこの状況を受け入れざるを得ないという諦念の涙だった。
彼はもはや、梨花の腕から逃れる気力も、術も持っていなかった。
天堂梨花は、悠斗の抵抗が完全に失われたことを確認すると、満足げに微笑んだ。
「ようこそ、わたくしの愛の王国へ、悠斗さん」
───
抵抗をやめてから数日。
結城悠斗は、自分が隣の部屋、天堂梨花のテリトリーにいる時間の方が圧倒的に長くなっていることに気づいた。
事実上の同棲生活だった。
梨花の部屋は、その持ち主の美しさに見合った、洗練された空間だった。
防音設備は完璧で、外界の音は一切遮断されている。
まるで、地上から切り離された天空の檻のようだ。
「結城さん、こちらにいらっしゃい」
梨花が優雅に手招きする。
悠斗が近づくと、梨花は彼の首に、そっと細身のシルバーネックレスをかけた。
「あら、素敵だわ。あなたのために誂えたのよ」
「これは……」
そのネックレスは、細かな天使の羽根のモチーフが連なっており、どこか梨花のVtuberとしてのイメージを彷彿とさせた。
「これは、わたくしの愛の証。これを身につけていれば、あなたが誰の隣にいるのか、誰もが理解するわ」
梨花はそう言って、悠斗の首筋にそっと唇を寄せた。
悠斗は拒否できなかった。
抵抗しても無駄だと知っている。
それどころか、この鎖を身につけている方が、梨花の機嫌を損ねずに済むという安寧を、彼は既に学んでしまっていた。
悠斗の部屋は、梨花の趣味で次第に満たされていった。
壁の色は変えられなかったが、以前はなかった高級なルームフレグランスが置かれ、家具の配置も梨花の動線に合わせて変更された。
彼の「らしさ」は急速に薄れていった。
しかし、生活は安定していた。
食事は栄養バランスが完璧で、彼の体調は最高の状態を維持していた。
配信活動も、梨花の緻密なアドバイスにより、リスナーからの評判が上がっていた。
今日も、梨花は悠斗の配信開始と同時に、彼の背後のソファに座り、タブレットを操作していた。
「結城さん、今、リスナーがあなたの今日の服を褒めているわ。ありがとう、と微笑んで。ええ、もっと優しく。わたくしが選んだ服だということを、彼らに見せつけるのよ」
梨花の声はヘッドセットのマイクには乗らないが、悠斗の耳には明確に届く。
悠斗は、梨花の指示通りに微笑んだ。
彼の配信は、梨花という裏側のプロデューサーによって、完全にコントロールされていた。
彼の配信を見るリスナーは、彼の変化に気づき始めていた。
『最近、ユウトさんの配信、なんか雰囲気が変わったよね?』
『昔より綺麗になったし、落ち着いたけど、なんか遠い人になったみたい』
誰にも真実がわかるはずがない。
なぜなら、悠斗の日常は、梨花の完璧な支配によって、外部から見て「問題のない、幸せな状態」に偽装されているからだ。
配信を終え、ソファから立ち上がった梨花は、満足げに悠斗の頬を撫でた。
「よくできたわ、結城さん。あなたはこの通り、わたくしが支えてあげなければ、その才能すら開花できない凡庸な方なのよ」
その冷たい言葉は、以前なら悠斗の心を深く傷つけたはずだ。
だが、今の悠斗の心には、不思議な安らぎが広がっていた。
「……そうだね。僕には、梨花さんが必要だ」
悠斗は、自分がこの生活、この支配に依存していることを、とうとう認めた。
梨花が作る温かいスープを飲んでいると、彼の心は満たされる。
自由よりも、この満たされた安らぎを選んでしまった。
自己嫌悪の感情は、温かいスープの味に溶けて消えていく。
梨花はその言葉を聞くと、勝利を確信した。
彼女は悠斗の顎に手をかけ、目を細めた。
「ええ、知っているわ。あなたには、わたくししかいないのだから」
彼女の表情は、満足と同時に、さらなる欲求に燃えていた。
この依存関係は、彼女にとって最終的な「融合の儀式」へと進むための、完璧な土台となったのだ。
───
悠斗の配信が順調に伸び、登録者数も目に見えて増加した夜、梨花はご褒美だと称して、二人きりの特別なディナーを用意した。
場所はもちろん、梨花の部屋だった。
窓の外には東京の夜景が広がるが、厚い防音ガラスが外の世界を遠ざけている。
部屋の中は、二人だけの、濃密な空気で満たされていた。
テーブルには、梨花が腕によりをかけて作った豪華な食事が並び、高級な赤ワインのボトルが置かれていた。
「結城さん、お疲れ様。あなたは本当に、わたくしが育てた通りに成長してくださったわね」
梨花はワイングラスを傾け、優雅に微笑んだ。
その言葉は、悠斗の功績を全て自分の手柄にしているようで、以前なら憤りを感じたかもしれない。
しかし、今の悠斗には、梨花からの「承認」が何よりも重要だった。
「梨花さんのおかげだよ。僕は、梨花さんがいないとダメだ」
悠斗が素直にそう言うと、梨花は心から喜んだように目元を緩めた。
「ええ、知っているわ。そして、わたくしにとっても、あなたはこの世界で唯一、心を許せる存在なのよ」
梨花はグラスを置き、静かに語り始めた。
彼女がトップVtuberとして活動を始めたきっかけ、お嬢様としての孤独、そして炎上騒動で全てを失いかけた恐怖。
その全てが、悠斗という光によって救われたのだと。
「わたくしは、あなたに救われた。だから、わたくしは、あなたを完璧に守り、そして愛したいの。誰にも、わたくしたちの絆を侵させないわ」
梨花の目には涙が滲んでいた。
悠斗は、彼女の弱さに触れ、強く抱きしめたい衝動に駆られた。
そうだ、自分こそが、この完璧な美女を支える、特別な存在なのだ。
孤独な彼女を、自分だけが理解できる。
食事とワインが進み、部屋の空気はさらに熱を帯びていった。
梨花は、そっと空になったワイングラスを悠斗の前に押しやった。
「結城さん。わたくし、もっと、あなたと一つになりたいの」
彼女の声は、甘く、誘惑的で、拒絶することを許さない響きを持っていた。
「わたくしが、あなたの身体の隅々まで満たしてあげたように、あなたもわたくしを満たしてほしい。ねえ、このワインも、わたくしの愛と同じよ。もっと、直接、あなたの中に入りたいの」
梨花は自分のワイングラスに残っていた最後の赤ワインを一口飲み込んだ。
その唇は、赤く、艶めかしい。
そして、そのグラスをテーブルに置くと、身を乗り出し、悠斗の顔を両手で包み込んだ。
「わたくしの、全てを受け入れて」
彼女の瞳は、懇願と、支配の欲求に揺れていた。
悠斗の理性の最後の抵抗が、警鐘を鳴らしたが、その警告は、梨花への深い依存と、この状況を壊したくないという恐怖によってかき消された。
悠斗は目を閉じ、受け入れた。
梨花は、自らの口に含んでいた赤ワインを、悠斗の唇へと、ゆっくりと、そっと流し込んだ。
それは、単なる口移しではなかった。
梨花の体温と、彼女の愛の匂いが混ざり合ったワインが、悠斗の喉を通り過ぎていく。
それは、二人だけの、誰にも侵されない「融合の儀式」だった。
悠斗の舌の上には、ワインの風味と、梨花の吐息だけが残った。
それは、梨花の愛そのものの味がした。
倫理的な一線は完全に越えられたが、悠斗はそれを汚辱とは感じなかった。
むしろ、これで本当に彼女と一つになれたのだと、歪んだ幸福感に満たされた。
梨花は満足げに息を吐き、悠斗の額にそっとキスをした。
「ありがとう、悠斗さん。これで、あなたは永遠にわたくしの一部よ」
そして、彼女は悠斗を強く、骨が軋むほど深く抱きしめた。
悠斗も抵抗することなく、その体温に身を預けた。
彼の孤独は、彼女の愛という名の檻によって、完全に満たされていた。
もはや、自由を求める衝動はなかった。
この密着した体温の中で生きることこそが、彼にとっての真の安寧なのだと、彼は静かに、深く受け入れていた。
───
それから数ヶ月が経った。
結城悠斗の配信者としての成功は目覚ましいものがあった。
登録者数は大幅に増え、配信内容も安定し、以前の平凡だった頃とは比べ物にならないほどリスナーからの支持を集めていた。
彼の配信は、天堂梨花の緻密な計算と完璧な管理の賜物だった。
梨花は悠斗のイメージを徹底的に「清純で優しい癒やし系」に作り上げ、悠斗の言動一つ一つまでを裏で制御した。
悠斗は今、自分の部屋にいる。
梨花が選んだ、清潔感のある高級なパーカーを身につけ、彼女が用意したハーブティーを飲んでいる。
彼の部屋は、もはや梨花の理想の空間となっていた。
しかし、彼の内側は、外側の華やかさとは裏腹に、かつての自由奔放さが消え、梨花の愛という名の型に完全に嵌まっていた。
そんなある日、悠斗の配信仲間だった一人が、彼の変化に耐えかねて、最後のメッセージを送ってきた。
『ユウト、お前、最近おかしいだろ。まるで別人だ。あんな完璧な配信、お前が一人でやってるわけない。誰かに操られてるんじゃないのか?』
そのメッセージを読んだのは、悠斗の隣でコーヒーを飲んでいた梨花だった。
梨花は悠斗のスマホを取り上げると、優雅に微笑んだ。
「あら、嫉妬ですわね。あなたの成功が眩しくて、現実から目を背けているだけよ」
梨花はそう言うと、その配信仲間のアカウントに対し、悠斗のふりをして冷静で完璧な返信を打ち込んだ。
『ご心配ありがとう。でも、僕は今とても満たされているよ。自分のやりたいことが、はっきり見えたんだ。君も頑張ってね』
梨花はメッセージを送った後、悠斗にスマホを返した。
「これで終わりよ。彼はもう、あなたの世界には戻ってこないわ。あなたがこの安寧を乱す者を必要としないことを、彼も理解したはずよ」
悠斗は、その梨花の完璧な処理能力に、安堵の息を漏らした。
彼は、自分の自由を求めていた頃の自分を、煩わしいノイズのように感じ始めていた。
「ありがとう、梨花さん。僕は、もう誰とも連絡を取りたくない。梨花さんがいてくれれば、それでいい」
悠斗は梨花の手にそっと触れた。
彼の瞳は、もはや自由への渇望ではなく、彼女の愛への深い依存で満たされていた。
梨花こそが、自分の存在意義であり、自分の世界の全てだった。
梨花は、悠斗の言葉を聞くと、勝利の歓喜を隠すことなく微笑んだ。
「ええ。そうよ。わたくしだけいればいいの。わたくしが、この先も永遠に、あなたの全てを管理し、愛し、そして守り続けてあげるわ。あなたを孤独にさせたりは、二度としない」
悠斗はその誓いを、心からの幸福として受け入れた。
夜。
梨花の部屋の、防音設備の奥まった一角。
そこには、小さな高画質のカメラが置かれていた。これは配信のためのものではない。
梨花は、悠斗を自分の膝の上に座らせ、優しく髪を撫でた。
悠斗は、抵抗することなく、母親に甘える子供のように、梨花の腕の中に収まっている。
彼の首には、あの天使の羽根のネックレスが光っていた。
梨花はカメラを見つめ、悠斗の頬にそっとキスをした。
「愛しているわ、悠斗さん。永遠に、わたくしだけのものよ」
悠斗は、梨花の優しいキスに応えながら、満たされた表情で目を閉じた。
彼の人生は、孤独という地獄から救い出され、梨花という名の、甘く完璧な檻の中で永遠の安寧を見つけたのだ。
二人の姿は、カメラを通して梨花の非公開クラウドストレージに記録され、誰にも侵されない、二人の歪んだ世界が、ここに完成した。
───終───
─
──
───
東京の夜景を一望する超高層ビルの最上階。
光を落とした、最新鋭の防音設備が施された部屋で、天使リリィは微笑んでいた。
「ふふ、八周年のお祝いメッセージ、本当にたくさんありがとう。みんなの愛のおかげで、わたくし、今日まで頑張ってこれたわ」
天使リリィの姿は、以前と変わらず清純で、見る者を癒やすオーラに満ちていた。
チャット欄は「リリィ様最高!」「永遠についていきます!」といった熱狂的なメッセージで埋め尽くされている。
リリィは、次々に届くマシュマロ(匿名質問)を読み上げていく。
「リリィ様の癒やしの源は何ですか?」という質問に、彼女は少し首を傾げ、柔らかな声で答えた。
「そうね……わたくしの隣にいる、かけがえのない存在かしら。その方といると、わたくしは心から満たされるのよ。わたくしの全てを理解し、そして、わたくしの全てを許してくれる、ただ一人の存在だわ」
彼女はそこで言葉を区切り、カメラの向こうのリスナー全員を見つめるように目を細めた。
「その方がいてくださるから、わたくしはこうして、みんなに愛を配り続けられるのよ。わたくしの愛は、その方から溢れ出てきたものなのだから」
チャット欄が、その意味深な発言にざわめいた。
「え、彼氏いるの?」「でも、リリィ様なら許せる」といったコメントが流れていく。
その中で、「リリィ様の時々垣間見える狂気的なまでの執着が魅力です」というマシュマロが読み上げられた。
リリィはそれを読み上げると、一瞬だけ、配信画面の光では捉えられない、冷たい、深い満足に満ちた笑みを浮かべた。
「ふふっ……そうかしら。わたくしの愛は、少し独占欲が強いだけよ。だって、本当に大切なものは、誰にも触れさせたくないでしょう? みんなだって、そうよ。自分の宝物は、誰かに奪われたり、傷つけられたりしたら嫌だわ。わたくしはただ、それを完璧に守っているだけなのだから」
彼女の言葉は、リスナーにとって「キャラクターの面白い一面」として受け取られ、チャット欄は「ゾクゾクする!」「そのヤンデレっぽいところがいい!」という好意的なコメントでさらに盛り上がった。
そして、八周年記念の配信は、大成功のうちに終了した。
「みんな、また明日ね。おやすみなさい」
天使リリィの配信が終了し、画面が暗転した瞬間、部屋の照明が明るく灯った。
ヘッドセットを外した天堂梨花は、先ほどの天使リリィの面影を残さず、全てを掌握したお嬢様の顔に戻っていた。
彼女は、隣に設置された専用のソファに座る、結城悠斗の顔を見た。
悠斗の首には、あの時梨花が贈った天使の羽根のネックレスが、今も輝いている。
彼の瞳は静かで、そこには梨花への絶対的な依存と、満たされた安らぎだけが宿っていた。
梨花は悠斗の頬に触れ、優しい、しかし底知れぬ狂気を秘めた笑みを浮かべた。
「さあ、わたくしのお祝いは終わったわ。それじゃあ、私たちの二人だけの配信を始めましょう」
彼女は、悠斗の手を取ると、その指に嵌められた、梨花のそれと酷似したシンプルなシルバーリングをそっと撫でた。
「もう、わたくしたちは永遠に一つなのだから。ね、私の旦那様」