その配信画面の裏側で、女神が愛に狂うとき。 作:あやりゆるゆれ
――「無邪気」なマスコット系キャラが、匂いの執着で自身のマネージャーを狂気に陥れるとき。
会議室のドアが開く音がして、日向陽、ことユメノ・コハクは素早く顔を上げた。
「ぼく、コハク!よろしくな、マネちゃん!」
小柄な体躯に見合わずパッションのある声で挨拶する。
コハクの髪は短く、着ているのはカジュアルなTシャツだ。
ボーイッシュな雰囲気は、彼女の活動アバターの「子犬感」をそのまま人間にしたような印象だった。
事務所の会議室には、少しだけ緊張した面持ちの女性スタッフ数名と、今入ってきたばかりの男がいる。
彼の顔つきは真面目そうで、ネクタイもきっちり締めている。
いかにも「できるビジネスマン」って感じだ。
壁際にあるモニターには、彼女が操作するマスコット系の可愛いアバターが、ニコニコと笑っている。
「ユメノ・コハクさんですね。本日よりマネージャーを担当させていただきます、香月涼と申します。よろしくお願いいたします」
香月は律儀に一礼し、コハクに向かって右手を差し出した。
コハクは手を握り返そうと、椅子から跳ねるように立ち上がり、一歩踏み出した。
その瞬間だった。
香月が近づくにつれて、空気が変わった。
空調の匂い、会議室の革椅子の匂い、周囲の女性スタッフの優しい香水の匂い、その全てが一瞬で塗り替えられた。
鼻腔の奥、頭のてっぺんを突き破って、足先まで電気が走るような、強烈な衝撃がコハクの全身を貫いた。
なんだ、これ。
瞳孔が開き、世界の色が一瞬で消える。コハクは動けなくなった。
彼の、香月の匂いだ。
香水なんかじゃない、もっと深く、肌の奥から湧き出る、濃密で、甘く、それでいて少しだけ青い、彼の匂い。
過去に嗅いだどの匂いとも違う。全身の細胞が、歓喜でブルブルと震えているのがわかった。
「コハクちゃん?どうした?」
異変に気づいた香月が、心配そうに顔を近づけてくる。彼の声は遠い。
ただただ、匂いが濃くなる。
たまらない。
もっと、深く、吸い込みたい。
意識が遠退く中、コハクの体は反射的に動いた。
目の前にいる、この匂いの塊から離れたくない。
そう本能が叫んだのだ。
彼女は一気に香月の胸元へ飛び込み、その逞しい首筋に顔を埋めた。
そのまま、深い呼吸を繰り返す。
んん……はぁ……
脳髄が痺れる。
あまりの芳香に、口元から糸を引くように涎が垂れたのも気づかない。
香月は突然の行動に完全に固まっている。
周囲から「え、なに?」「コハクちゃん?」と戸惑いの声が聞こえた。
「コハクちゃん!?ちょ、待って!」
香月は困惑しながらも、コハクを乱暴に引き剥がすことはしなかった。
その微かな抵抗さえも、彼の匂いを動かす振動となり、コハクの嗅覚を刺激する。
数秒間、コハクは夢の世界に浸っていたが、女性スタッフの一人が「香月くん、大丈夫?」と近づいてきた声で、ふと我に返った。
「ハッ……!」
慌てて香月の首元から顔を離すと、自分の涎が彼のシャツに付着していることに気づく。
全身の熱がサッと引いて、今度は顔に集中した。
真っ赤になっているだろう。
「ご、ごめん!マジでごめん、マネちゃん!ぼく、匂いの好き嫌いがマジで激しくて、嫌いな匂いは近づけないんだけど……」
コハクは震える声で言い訳をする。
頭の中はパニックだったが、なんとか言葉を絞り出す。
「あまりに、あまりに良い匂いだったから!意識が飛んで、思わず嗅いじゃったんだ……!本当に、ごめんなさい!」
必死に頭を下げるコハクを見て、香月は戸惑いの表情を薄め、少し安心したように息をついた。
周囲のスタッフたちも「そういう癖なのね」「コハクちゃんならあり得るかも」といった空気になり、笑い声さえ聞こえてくる。
彼はまだ若手で、異性との関わりも慣れていないのだろう。
「わ、わかったよ……。次からは、事前に言ってくれると助かるかな」
そう言って笑う香月。
彼の匂いは変わらず最高だ。
よかった。怒られなかった。
コハクはホッと息をつきながらも、内心では歓喜に震えていた。
(嘘だろ……こんな匂い、今まで存在しなかった。ぼくの嗅覚が、彼を選んだんだ)
香月は、今この瞬間、他の誰でもない、コハク自身の嗅覚によって選ばれた、特別な存在になった。
「マジかよ、最高じゃん」
ぜったい、ぼくの旦那様になるんだ。コハクは心の中で、確信に近い予感を抱いた。
───
香月がマネージャーになってから、コハクの活動は目覚ましい勢いで伸びていった。
香月はとにかく有能だった。
配信の企画からスケジュール管理、外部との折衝まで、すべてがスムーズだった。
コハクは彼に任せきりで、自分はただ楽しく活動するだけでよかった。
「今日の企画、マジで神だったな、マネちゃん!」
いつものように、仕事が終わってから二人きりになったとき、コハクは目を輝かせて香月に尋ねた。
「ああ、もちろんだよ。コハクちゃんの対応力とパッションは本当にすごい。コメント欄の反応も最高だった」
香月は資料を整理しながら、プロフェッショナルな笑みを浮かべる。
その仕草すら、コハクにとっては心地よかった。
香月が近くにいる。その事実だけで、会議室の空気は甘く濃密な匂いに満たされていた。
家で配信して近くに香月がいないと不安が募る反面、彼のそばにいることがより一層好きになっていた。
事務所で香月が席を外すとき、たとえばコーヒーを取りに行ったり、他のスタッフと少し話したりする短い時間、コハクは毎回ドキドキした。
それは、彼が戻ってくるのを待つ高揚感と、わずかな隙を突くための緊張感が混ざったものだ。
ある日の事務所での配信直前、香月は慌てて「資料を忘れた」と席を立った。
会議室には彼の私物がそのまま残されている。
コハクはアバターの準備が整っていることを確認すると、そっと椅子から降りた。
彼の匂いが、まだ椅子に、机に、そして彼が脱ぎ捨てたままになっているジャケットに残留している。
コハクは、床に落ちていた香月のボールペンを拾うふりをして、椅子の背もたれに掛けてあるジャケットに顔を近づけた。
んんー……っ!
思わず息を深く吸い込んだ。
鼻腔の奥で、彼の匂いが弾ける。
仕事に集中していたときの、少し汗ばんだ匂いと、彼の皮膚から滲み出るような、甘い匂いのブレンド。
背筋がゾクゾクと粟立つのを感じた。
これを嗅ぐためなら、どんな努力も惜しくない。
コハクの目はうつろになり、そのまま深く深く、匂いの海に沈んでいきたい衝動に駆られた。
周囲の女性スタッフたちが何をしているかなど、もうどうでもよかった。
「やっぱ、最高だ……」
まるで宝物を愛でるように、コハクはジャケットの袖を握りしめた。
他の誰の匂いも混ざっていない、純粋な彼の匂い。
カチャリ、とドアが開く音がした。
香月が戻ってきたのだ。
コハクは反射的にジャケットから離れ、自分の椅子に戻った。
顔は平然を装っているつもりだが、心臓がバクバクとうるさい。
「早く戻ってきたんだね。ぼく、てっきりサボってるのかと思ったぜ」
香月は特に気にする様子もなく、資料を確認している。
「さっきまで他の部屋で打ち合わせしてたんだ。さあ、配信の時間だ。頑張ろう、コハクちゃん」
香月は何も知らない。彼の匂いが、コハクにとってどれほどの意味を持つのかを。
配信が始まると、コハクはいつもの「子犬系VTuber」に戻った。
しかし、今日はいつもより少しだけ、香月を巻き込む要素が多かった。
『うわ、今のコメント、マジかよ!……あ、やべ、マネちゃんが横で吹き出しそうになってる!』
『えー、ぼくの今日の企画の点数?九十点だろ!……ほら、マネちゃんが頷いてる!ぼくのマネちゃんは天才なんだ!』
香月はコハクの傍で、コメントのチェックや資料の操作をしながら、時折、彼女に目配せをする。
「てぇてぇ」「マネちゃん呼び、マジで尊い」「コハクちゃんのマネージャーになりたい人生だった」
画面のコメントは、コハクと「女性マネージャー(だと視聴者は思っている)」との、仲睦まじい交流に沸き立っていた。
香月は、ただの雑談として流すことに慣れてきていたが、彼女が意図的に彼の存在を匂わせていることには気づいていた。
少し困惑したが、視聴者の反応も良いので、特に注意はしなかった。
その日の業務がすべて終わり、コハクをマンションの入り口まで送り届ける。
夜風が火照った体を冷やした。
「じゃあな、マネちゃん!また今度ね!」
そう言って屈託なく手を振るコハクは、どこから見ても可愛い年下の女の子だった。
しかし、香月には、彼女が時折見せる表情や、自分の匂いに執着するあの瞬間が頭から離れなかった。
(彼女のあの反応は、異常だ)
香月は自問自答する。
初日の抱きつきは、ただの「匂いフェチ」だと理解した。
だが、最近の彼女は、自分が席を外すと、まるで何かを確かめるように、辺りを嗅ぎ回っている気がする。
それは、ただの好意や親愛ではない、もっとねっとりとした、根深いもののように感じた。
しかし、同時に、胸の奥がカッと熱くなった。
彼女にとって、自分が「選ばれた匂い」であるという事実は、彼にとっての特別感となっていた。
少しだけ、悪い気はしなかった。
───
コハクの独占欲は、日を追うごとにその濃度を増していた。
それはもう、「匂いのマーキング」と呼ぶしかない行為だった。
「これ、ぼくの匂いつけとくな!これで安心じゃん!」
そう言ってコハクは、香月の私物に自分の匂いを擦り付けるようになった。
ターゲットは、彼が普段使うボールペン、コーヒーカップ、そして何よりも仕事で持ち歩くカバンだ。
コハクは、自分の髪の毛や、袖口など、自分の匂いが最も濃い部分を、無邪気な顔をして香月のカバンにゴシゴシと押し付ける。
香月は最初、「やめろよ、コハクちゃん」と困惑した。自分のカバンが彼女の化粧品や汗の匂いで塗り固められるのは、正直勘弁してほしい。
「なんでだよ、マネちゃん。ぼくの匂いがついてたら、他の女が近づかないって!」
コハクは、子犬のような顔で、しかし真剣な瞳でそう言った。
その無邪気な一言の中に潜む明確な「排他性」に、香月は言葉を失った。
まるで、縄張りを主張する獣のようだ。
だが、彼女のあまりにも率直な、悪意のない笑顔に、香月はそれ以上拒否することができなかった。
(まあ、カバンぐらいなら……)
そうして一度許してしまうと、コハクの行動はエスカレートした。
ある日、香月が打ち合わせを終え、廊下で経理部の女性社員と立ち話をしていると、会議室のドアが勢いよく開いた。
ユメノ・コハクだ。
「マネちゃん!」
コハクは突然、駆け寄ると、香月の腕に思い切り抱きついた。
顔は香月の脇腹にグリグリと押し付けられている。
「コハクちゃん、どうしたんだ?」
香月は慌てた。
周囲に人がいる中で、タレントに公然と抱きつかれるのは、いかにもまずい。
公私混同、あるいはタレントへの不適切な接触だと疑われる可能性に、背中に冷たい汗が流れる。
「マネちゃん、ぼくのおやつまだかな?なんか、急に甘いものが食べたくなっちゃったんだ!」
コハクは大声で、完全に甘えきったトーンで言う。
香月と話していた女性社員は、コハクの登場に目を丸くし、そして「ごめんなさい、お邪魔だったわね」と苦笑いしてその場を去っていった。
コハクは、女性社員の背中が見えなくなるまで、香月の腕から離れなかった。
女性が完全に立ち去ったことを確認すると、コハクは満足そうに香月の腕から顔を離し、ニシシと笑った。
「これでよし、だよね」
「おい、コハクちゃん。変な誤解を招くからやめろよ」
香月は小声で注意したが、彼の内心は複雑だった。
彼女が自分を独占しようとしている。
そう思うと、少しの罪悪感とともに、特別扱いされているような、形容しがたい優越感が湧き上がってくる。
仕事が終わり、事務所を出る直前のエレベーターホール。コハクは香月を捕まえて、彼の服の匂いを嗅ぎ始めた。
「今日は、どっか行ったの?」
「どこって、事務所の中でしか動いてないよ。あと、さっきコハクちゃんと打ち合わせしただけだ」
香月は心臓がドキリとした。
彼女の嗅覚の鋭さを知っているから、わずかな他の匂いさえ怖かった。
コハクは香月の体を細かくチェックする。
背中の匂い、首筋の匂い、そして廊下で女性社員と話したとき腕を組んでいた右腕の匂い。
「ふーん。まだ大丈夫か」
コハクはまるで、子猫がご主人様の帰宅を確認するように、満足げに頷いた。
彼の体から、他の女性の匂いがしないことを確認したのだ。
コハクの異常性は、確実に一線を越えていた。
香月はそれを知っていながらも、「大丈夫」と言われたことに、ホッとしている自分に気づいた。
マネージャー室に戻り、荷物をまとめる香月。
ドアの向こうから、コハクの声が聞こえる。
「じゃあな、マネちゃん!今日もお疲れ様だったな!」
香月がドアを開けると、コハクは少し離れた場所で、他のスタッフに聞こえるように、大きな声で宣言した。
「ぼく、マネちゃんのこと、世界で一番大好きだぜ!」
そのセリフは、コハクの「子犬系VTuber」らしい、最大限の親愛の表現として、周囲のスタッフには受け取られるだろう。
しかし、香月にとっては違った。
その言葉は、「あなたは、ぼくのものだ」という明確な支配の宣言に聞こえた。
顔が熱くなり、香月は思わず、机に突っ伏した。
彼らの関係は、もう事務所の同僚とタレント、という枠を超えて、コハクの匂いの執着によって、公私ともに深く侵食され始めている。
香月は、この甘く、ねっとりとした支配から、もう逃れられないような予感を覚えた。
ーーー
コハクとの仕事が始まって一年、香月は目覚ましい成果を上げていた。
ユメノ・コハクは大手事務所の中でもトップクラスのタレントへと成長し、香月の評価もうなぎ登りだった。
「香月。よくやってくれた」
上司に呼ばれた香月は、少し緊張した面持ちで応接室に入った。
「コハクのマネジメントで上げた実績は素晴らしい。そこで、香月には来月から、タレントサポート部門全体のマネジメント、幹部候補としての仕事にシフトしてもらいたい」
昇進の内示だった。
香月の胸に熱いものが込み上がる。若くして幹部候補。
これはキャリアとして大きな飛躍だ。
「ありがとうございます。精一杯務めさせていただきます」
「ああ。もちろん、コハクの担当からは外れてもらうことになるが、後任には優秀な人材を当てる。コハクも理解してくれるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、香月の胸に沸き起こったのは、喜びよりも、なぜか言いようのない不安だった。
コハクの「匂い」に対する異常な執着を知っているからだ。
彼女が、自分の担当が外れることをすんなり受け入れるとは、とても思えなかった。
その日の業務の終わりに、香月は意を決して、コハクに昇進と担当変更を伝えた。
「マジかよ!マネちゃん、すごいじゃん!」
コハクは、最初こそ飛び跳ねて喜びを表現した。
その表情は、心から香月のことを祝福しているように見えた。
香月はホッとした。杞憂だったかもしれない。
「ありがとう。来月からは部署全体の仕事になるから、コハクちゃんの担当は新しい人に変わる」
その途端、コハクの顔から血の気が引いた。
一瞬前までの無邪気な笑顔が、まるで能面のように硬直する。
香月が初めて見る、純粋な恐怖と怒りの混ざった顔だった。
「……は?」コハクは、低く、押し殺したような声を出した。
「マジで言ってんの?」
「ああ。後任は、同じ部門の田中さんだ。有能な人だから心配いらないよ」
「いらないよ!ぼくの匂いが!」
コハクは香月のシャツの胸元を、両手で強く掴んだ。
彼女の爪が、シャツの布地を食い破りそうなほど食い込んでいる。
「ぼくの匂いで、マネちゃんの匂いを独り占めできるのは、ぼくしかいないじゃん!他のやつなんかに、マネちゃんは渡さないぜ!」
途中から意味をなさず、最後はほとんど叫び声に近かった。
周囲に人がいないか、香月は慌てて確認する。
「マネちゃんじゃなきゃ、ぼく、この事務所辞めるぜ!マジで辞める!活動なんてどうでもいいもん!」
コハクは、VTuberとしての輝かしいキャリアよりも、彼の匂い、彼との関係を優先すると宣言した。
香月の頭の中で、理性と感情が激しく衝突した。
(このままでは、彼女のキャリアを潰してしまう。だが、これはタレントの要求として通すべきことなのか?)
しかし、彼女の震える体、泣きそうな顔、そして目の前で放たれている濃密な「彼の匂い」への執着を目にし、香月は抗えなくなった。
彼女の才能を、失いたくなかった。何よりも、彼女に拒絶されることが、彼自身の心臓を締め付けるように感じた。
「わかった、コハクちゃん」
香月は深く息を吸い込み、決断を告げた。
「上司に掛け合ってみる。幹部としての仕事と、コハクちゃんのマネジメントを、兼任でやらせてもらうように頼んでみるよ」
その言葉を聞いた途端、コハクの顔がパッと輝いた。さっきまでの怒りと恐怖はどこへ行ったのか。
彼女は子供のように無邪気な笑顔を見せる。
「マジかよ!やっぱマネちゃん、最高だな!」
香月が上司に報告すると、「まあ、コハクの熱意は知っている。しょうがない」と、呆れた様子で兼任を許可された。事務所としては、人気タレントのわがままを通す方が得策だと判断したのだろう。
香月はコハクにその結果を報告した。コハクは安堵しきった顔で、香月の首に抱きついた。
「よかったぁ……。やっぱ、マネちゃんはぼくのだよね!」
そう言って、コハクは香月の首筋に顔を埋め、深く、長く、彼の匂いを吸い込んだ。
その姿は、まるで離されかけたおもちゃを掴み直した子供のようだった。
香月は、コハクの安堵に満ちた匂いと、自分のシャツに擦り付けられた彼女の匂いを感じながら、全身から力が抜けていくのを感じた。
(俺は、自分のキャリアよりも、彼女の要求を優先した)
公私のバランスは、とうの昔に崩れていた。
この瞬間、香月は自分自身が、彼女の純粋な狂気に完全に支配されていることを自覚し始めていた。
───
香月がコハクのマネジメント兼任を決めてから、コハクの彼への甘えは、露骨なまでに増えていた。
そして、それに比例するように、彼女の口調には変化が表れ始めていた。
「マネちゃん、あの企画、マジでイケるな。絶対成功させるぞ!」
パッションは変わらない。
一人称も「ぼく」のままだ。
しかし、以前のような強い男言葉が、少し柔らかい、甘えるような響きを持つ言葉に置き換わっている。
「最近のコハクちゃん、なんか甘くなった?」
休憩時間にコーヒーを飲んでいた女性スタッフが、香月に向かって笑いながら尋ねてきた。
「そうかな。いつも通りだと思うけど」
香月は曖昧に答えた。
いつも通りではない。
それは彼自身が一番よくわかっていた。
コハクは以前にも増して、彼のそばから離れようとしないし、彼が少し席を外すだけで、まるで不安な子犬のようにキョロキョロと探し回る。
しかし、周囲が彼女の変化に気づき始めたという事実は、彼にとって密かな優越感だった。
自分だけが彼女の特別だという、甘い承認欲求を満たしていた。
そんなある日の午後、香月はコピー機の前で、同期の社員たちが話しているのを耳にした。
「今週の土曜の合コン、香月も絶対来いよ!営業の子たち結構かわいいらしいぜ!」
「まあ、顔出すよ。久しぶりだしな」と、香月は軽く答えた。
日頃コハクに独占されているからか、彼は無意識に、わずかな非日常を求めていたのかもしれない。
香月が書類を取り終えて振り向いたとき、背後に立っているコハクに気づき、全身の血の気が引いた。
コハクの顔は、昨日の昇進話を聞いたとき以上に真っ青だった。
彼女の瞳には、感情の濁流が渦巻いている。
「合コンって……何よ」
コハクは、コピー機と壁の間に香月を追い詰めるように一歩近づいた。
彼女から放たれる匂いが、一瞬で辺りの空気を支配する。
その匂いは、怒りと、悲しみと、そして純粋な裏切りの感情をまとっていた。
「コハクちゃん、いつからそこに……」
「そんなのどうでもいいじゃん!合コンって、他の女に会うってことだよね?」
コハクの声は震え、男言葉は完全に消えていた。
「仕事じゃない。友達とちょっと、顔を出すだけだよ」
「嘘だ!」
コハクは香月の胸を強く叩いた。
「ぼくの匂いじゃダメなの?ぼくが、ぼくがこんなにマネちゃんの匂い好きなのに、なんで、なんで他の女の匂いを嗅ぎに行くのよ!」
彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、子犬系VTuberの泣き顔ではなく、ただの年下の女の子の、本気の涙だった。
「ぼくが、マネちゃんのこと、好きなんだよ!」
コハクは、独占欲や匂いの執着といった建前を捨て、彼女自身の最も純粋な感情を、初めて明確に言葉にした。
その言葉は、香月の胸の奥深くを突き刺した。
薄々気づいていた感情。
だが、真正面から突きつけられると、すべてを飲み込まれるような衝撃があった。
「ぼくじゃ満足できないのか……?」
香月は、彼女の涙を拭うことも、否定することもできなかった。
彼はすでに、この狂気と愛情が混ざった関係に魅了されていたのだ。
彼女の匂いが、彼自身にとっての麻薬になっていた。
「わかってるよ、コハクちゃん」
香月は、彼女の小さな体を、公衆の面前であることを忘れ、強く抱きしめた。
彼女の首筋に顔を埋めると、甘く濃い彼の匂いが彼女の体温で温められ、彼の鼻腔をくすぐる。
「俺も、コハクちゃんのことが好きだよ。だから、もう、どこにも行かない」
その瞬間、香月の中で理性の糸が完全に切れた。
彼はキャリアや常識よりも、コハクの激しい執着という名の愛情を選んだ。
コハクは抱きしめ返すと、彼の首筋にさらに強く顔を押し付けた。
合コンなんて、どうでもよかった。
彼はもう、この甘い檻から逃げられないことを知っていた。
───
コハクの口調は、感情の解放と交際開始により、さらに柔らかく、甘えの言葉が増える形で描写していきます。
翌日、香月は重い足取りで上司の応接室のドアを叩いた。
コハクとの関係を報告するためだ。
「……というわけで、コハクちゃんとは、正式にお付き合いすることになりました」
香月は言葉を選びながら、できるだけ冷静に、交際と、近々同棲を始めることを伝えた。
上司は、資料を整理していた手を止め、しばらく香月の顔を凝視した。
「お前、マジか……」
上司は頭を抱える。
「まあ、あのコハクがあそこまで抵抗する相手は、お前以外にいないからな。しょうがないか…」
タレントとマネージャーの恋愛は、スキャンダルの温床になりうる。
しかし、トップタレントであるコハクが、マネージャー交代で引退を示唆した前例がある以上、事務所は「コハクが安定して活動できる環境」を最優先せざるを得なかった。
「コハクの活動に影響が出ないこと、そして、くれぐれも公私混同が表面化しないように。これが条件だ」
「はい。徹底します」
香月は深々と頭を下げた。
これで、公に認められた。事務所という公の場において、彼はコハクの「彼氏」という立場を手に入れた。
それは、キャリア上のリスクと引き換えに、コハクの狂気に満ちた愛情という名の支配を、公認の愛として受け入れた瞬間だった。
数日後、香月はコハクのマンションに引っ越した。家具や荷物は最低限で済んだ。
部屋には、コハクの匂いが満ちていた。
それは彼にとって、安息と同時に、逃げ場のない檻のようでもあった。
「今日からずっと一緒だね、マネちゃん!」
コハクは、香月の手に抱きつき、幸せそうに笑った。
彼の帰宅後、まず行われるのは、彼女による「儀式」だ。
「マネちゃん、今日一日、どこにいたの?」
コハクは香月の体を、文字通り、鼻先で辿る。
首筋、肩、背中、そして袖口まで、隅々まで嗅ぎ回るのだ。
まるで、彼が連れてきた外部の匂いがないか、入念にチェックする捜査官のようだった。
そして、その儀式はさらに進んだ。
香月が脱ぎ捨てたばかりの、夏場の汗で湿ったYシャツや、一日履いたトランクスを見つけると、コハクはそれを抱きしめる。
「んんん……」
彼女は恍惚の表情を浮かべ、それを深く、深く吸い込む。
それは明らかに、一般的に「臭い」とされる匂いのはずだ。
しかし、コハクにとって、それは「香月涼そのもの」が濃縮された、至高の芳香なのだろう。
香月は、少し気恥ずかしさと、背筋が冷たくなるような感覚を覚えた。
彼の匂いに、こんなにも熱狂し、狂気に満ちた表情を向けるコハク。
悪い気はしない。むしろ、この異常な執着が、彼自身の存在証明のように感じ始めていた。
配信中のコハクは、以前よりも明らかに満たされていた。
画面の向こうの彼女は、いつもキラキラと輝いている。
『最近、ぼく、ご飯が美味しいし、睡眠もバッチリで、幸せすぎてヤバいかも!』
視聴者は、コハクが言う「幸せ」を、きっと「優秀な女性マネージャーのおかげ」「タレントとしての充実」だと解釈しているのだろう。コメント欄には、変わらず「てぇてぇ」が溢れていた。
しかし、香月は知っている。その「幸せ」は、彼の匂いと彼の存在によって得られているものだと。
同棲生活が進むにつれて、コハクの匂いに対する執着は、彼の生活のすべてを支配し始めた。
「マネちゃん、この石鹸の匂い、ぼくの匂いと混ざっちゃうから、もう使わないでね?」
コハクは、バスルームに置いてあった新しいボディソープを指差した。
彼女は、彼が自分以外の匂いを身につけることを、無意識に拒否し始めたのだ。
香水の類は当然禁止。洗濯洗剤も、彼女が選んだ、匂いがほとんど残らないものに変更された。
香月は、自分の匂いの選択権さえ失った。彼は、コハクが「安心できる匂い」のルールに従って生きることを、無意識に受け入れていた。
公に認められた「愛」という名の檻。
その中で、香月とコハクは、互いの匂いを交換し、擦り付け合いながら、徐々に外の世界から隔絶され、依存を深めていった。
───
同棲を始めて数ヶ月が経っても、香月は相変わらず満員電車で通勤していた。
幹部候補としての業務と、コハクのマネジメントを兼任する彼にとって、朝の時間は貴重だった。
その日も、いつものようにラッシュアワーの電車に押し込まれていた。体が前後左右から圧迫され、身動きが取れない。
特に今日は混雑がひどく、香月はすぐそばに立っていた女性乗客と完全に密着していた。
(まずい、まずいな)
香月は心の中で焦った。
女性の髪から漂う甘いシャンプーの匂い、コートに染み込んだ香水の匂いが、自分のYシャツに、ジャケットに、そして肌に、確実に付着しているのを感じた。
公私ともにコハクの匂いのルールに従う生活を送っている彼にとって、これは致命的な違反だった。
なんとか事務所に辿り着き、業務をこなす間も、香月は常に自分の匂いを気にしていた。
周囲の匂いには鈍感な自分でも、この付着した匂いは感じ取れる。
コハクの嗅覚ならば、絶対に気づく。
いつもより憂鬱な気分で帰宅のドアを開けると、コハクはいつものように飛びついてきた。
「マネちゃん、おかえり!今日もお疲れ様だね!」
コハクは香月の胸に抱きつき、深く息を吸い込んだ。
香月は緊張で全身が硬直した。いつものように安堵の表情を見せてくれるはずだ、と願った。
しかし、コハクはすぐに体を離し、表情を凍りつかせた。
「この匂い……」
コハクは、低く、威圧的な声を出した。
「誰よ」
その瞬間、香月の足元から冷たい水が湧き上がったような気がした。
「ち、違うよ。満員電車で……押し込まれて、隣にいた女性の匂いがうつっただけだよ」
香月は必死に弁明したが、コハクはそれを聞こうともしない。
彼女は香月の服を乱暴に引っ張り、まるで他の匂いを嗅ぎ慣れていないかのように、鼻をヒクつかせ、彼の胸元を嗅ぎ回る。
「嘘だ!この甘い匂い、知らない!ぼくの匂いじゃないじゃん!」
コハクは香月のジャケットを乱暴に脱がせ、Yシャツの首元を掴んだ。
彼の首筋に顔を埋め、まるで彼の肌の奥まで侵入しようとするかのように、何度も何度も激しく匂いを吸い込んだ。
「ぼくのマネちゃんが、他の女の匂いを連れてくるなんて、許さないぞ!」
コハクの目は涙で濡れていたが、その光は狂気を帯びていた。
彼女の独占欲は、もはや「愛情」という美しい言葉では説明できない、純粋な嫉妬と排除の欲望だった。
彼女は、香月が抵抗する間もなく、彼の服をすべて脱がせて、その服を床に投げ捨てた。
「汚されてるじゃん!全部、全部、ぼくの匂いで塗り替えるからね!」
コハクはほとんどパニックに陥りながら、香月の裸の体に抱きついた。
首筋、胸、腕、そして自分の匂いを擦り付けたかったカバンのように、彼の肌の至る所に自分の頬や髪を押し付ける。
「上書きするね!マネちゃんは、ぼくの匂いだけになればいいんだよ!」
コハクは、半ば虚ろに、しかし確信に満ちた声でそう繰り返した。
彼の体に、自分の匂いを刻みつけるように、激しく密着する。
香月は、ただただその狂気を受け入れた。
抵抗する力も、意思も残っていなかった。
彼の体が、コハクの体温と匂いに包まれた瞬間、得体の知れない安堵を覚えた。
これで、外の世界の匂いから解放される。
彼は、自分がコハクの支配下にあることを再認識し、そして、その支配を心から望んでいることに気づいた。
───
前日の満員電車での出来事は、コハクの心に深い傷を残した。
彼女にとって、香月の体に「ぼく以外の匂い」がつくことは、耐えがたい裏切りであり、テリトリーへの侵入だった。
「もう電車なんて乗らなくていいじゃん!あんな汚い匂い、マネちゃんにつけられたら、ぼく、耐えられないよ!」
翌朝、コハクは香月のスーツケースを抱きしめながら、涙目で訴えた。
香月も、満員電車で他の女性の匂いが付着する恐怖を覚えたため、強く反対はできなかった。
「わかったよ。もう、電車は乗らない」
香月が渋々承諾すると、コハクはパッと笑顔になった。
その表情の落差に、香月の心はまた一つ、彼女の狂気に染まっていく。
電車通勤をやめるとなると、タクシー代は馬鹿にならない。
幹部候補とはいえ、若手の香月にとって大きな出費だ。
「タクシー代、バカにならないな……」
香月は思わずそう口にした。
「気にしないで!ぼくが稼いだお金だから!」
コハクは、彼の手から財布を取り上げると、自分の稼ぎからポンと札束を抜き出した。
コハクの経済力によって、香月は外部の匂いとの接触が少ない「安全な通勤」を手に入れた。
しかしそれは、彼女の匂いによる支配を、生活の根幹から受け入れたことを意味していた。
その日から、香月の朝の支度には、新しい「儀式」が加わった。
香月がスーツに着替えるとき、コハクは必ず彼のそばにいた。
そして、着替えの途中の、最も親密な瞬間に、彼女は行動を起こす。
コハクは、香月が履こうとしているトランクスのゴムの部分に、自分の頬を擦り付けた。
そして、Yシャツを着る前に、肌着の首元を強く抱きしめ、深く匂いを吸い込んだ。
「んん……」
その様子は、恍惚そのものだ。
コハクは、彼の最も内側にある衣類に、自分の匂いを濃密に「塗り込む」ことで、彼全体をコーティングしようとしているのだ。
「これで大丈夫だね。ぼくの匂いで、完璧にコーティングだよ!」
コハクは満足げに微笑む。
香月は、彼女の行為を生々しく感じながらも、虚ろな目でそれを受け入れた。
抵抗するという思考回路は、すでに彼の脳内から失われている。
香月は、コハクの匂いがついていないYシャツを着ることを、心の底から不安だと感じ始めていた。
彼の皮膚は、彼女の匂いに慣らされ、彼女の匂いこそが「安全」の証だと認識するようになっていた。
(ああ、そうか。この匂いが、俺にとっての『普通』だ……)
外部の香水や、満員電車で付着した「汚い匂い」に対して、香月は強い嫌悪感を抱くようになっていた。
コハクの異常な価値観を、彼自身が内面化し、狂気の側に立っていた。
彼は、もう自分の意志では匂いを選べない。
そして、永遠にこの匂いの檻から逃れられないだろう。
香月は、濃密なコハクの匂いを身に纏いながら、タクシーに乗り込んだ。
───
夜、同棲している部屋に戻ると、香月はまずコハクにその日の匂いを「検査」される。
彼女のチェックは、もはやYシャツの袖口だけでは終わらなかった。
コハクは、香月の体をまるで獲物のように嗅ぎ回る。
特に、汗腺が多く、香月の匂いが最も強く出る部分に執着した。
「今日は、他の匂いはないね。大丈夫……」
コハクは安心したようにそう呟くと、香月がスーツを脱いでいる間に、自分の匂いを彼に「塗りつける」行為を始めた。
コハクは香月の後ろに回り込み、彼の汗が残る脇の下に、自分の顔を深く押し付けた。
そして、そのままの体勢で、香月のトランクスの上から、彼の鼠径部に自分の股や下着を強く擦りつけた。
「この匂いが、一番強いもんね。ぼくの匂いで、完全に上書きしなくちゃ」
その行為は、性的なものを超えた、縄張りを示す動物的な本能に従ったものだった。
香月は、彼女の熱と、生々しい密着に、羞恥心を感じる余裕すら残っていなかった。
コハクは、自分の匂いが彼の最も内密な部分に付着したことを確認すると、満足げに笑った。
「この匂い、ぼくが守ってあげるね。マネちゃんは、ぼくの一部だから」
その言葉は、もはや愛の告白ではなく、所有宣言だった。
しかし、香月は抵抗しなかった。
それどころか、彼の心は満たされていた。
彼女の狂気的な愛情を受け入れることで、彼は外の世界の不確実性から解放されていた。
そして、香月の依存は、ついに自発的なものへと変貌した。
ある朝、香月は着替えを終えた後、ふと不安に襲われた。
コハクがつけてくれた「コーティング」が、薄い気がしたのだ。
外部の匂いに対する嫌悪感が、彼の中で異常なほど強まっていた。
「コハクちゃん……」
香月は、ベッドでまだ眠っているコハクの隣に横たわった。
そして、自分から彼女の柔らかな体に顔を埋め、彼女の肌の匂いを深く吸い込んだ。
「もう少しだけ、匂いを……」
香月は、彼女の首筋や髪、そして一番強く匂う部分に顔を擦り付けた。
まるで、彼女の匂いがなければ生きていけない依存症患者のようだった。
コハクは目を覚ますと、驚くでもなく、ふっと笑った。
「ふふ、おかえり、マネちゃん。ぼくのところへ」
彼女は香月の頭を優しく撫で、その体を抱き寄せた。
二人は抱き合い、互いの匂いを交換し、吸収し合った。それは、彼らにとって究極の愛の形だった。
日中の事務所では、二人は相変わらず、仲の良いタレントとマネージャーだった。
コハクは、以前のように大きな声で笑い、ボーイッシュな魅力で周囲を魅了した。
その口調は、少し男っぽいながら、甘えとパッションが混ざった、ボーイッシュな少女らしいものに定着していた。
「マネちゃん、今日のぼくの匂い、最高だよね?」
コハクは、誰も見ていない瞬間に、そう囁いた。
「ああ、最高だよ」
香月は、虚ろだが満たされた表情で答えた。
彼の体からは、他の誰の匂いもしない。
彼の全存在が、コハクの匂いによって定義されていた。
誰もいない夜の自宅。二人は再び抱き合い、互いの匂いを吸い込む。
香月は確信した。彼は、もうこの匂いから離れることはできない。
コハクの異常な執着は、彼自身の「居場所」になっていた。
「ずっと一緒だよ、マネちゃん」
コハクがそう囁くと、香月は静かに頷いた。
「ああ……」
二人の関係は、世間から隔絶された、濃密な匂いの檻の中で、永遠に続く究極の「愛」として完成した。
───終───
─
──
───
コハクとの交際が公になってから、数ヶ月が過ぎた。
二人は同棲を始めて以降、連休になると、まるで世間から身を隠すように、マンションの部屋から一歩も外に出なくなった。
ゴールデンウィークの真ん中。
香月とコハクは、厚いカーテンを閉め切った寝室で互いを求め合い、体温と匂いに溺れていた。
二人はもう、連休中、まともに風呂に入っていなかった。
香月は、幹部の仕事とタレントのマネジメントを兼任する多忙な日々から解き放たれ、ただコハクの匂いに包まれることだけを求めていた。
彼の体から滲み出る汗と、肌の奥から湧き出る匂いが、コハクの体に、そしてシーツに染み込んでいく。
コハクもまた、香月が汗をかき、匂いが濃くなることを喜んだ。
彼女は香月が脱ぎ捨てたパジャマを抱きしめ、彼の脇腹や背中に顔を押しつけ、むさぼるように匂いを吸い込んだ。
「マネちゃんの匂い……すごいね。濃いよ……」
コハクは舌なめずりをすると、ベタつく香月の肌に、自分の熱を持った肌を強く擦りつけた。
互いの体液、汗、そして皮膚の匂いが混ざり合い、部屋の空気は、外部の人間には耐えられないほど生々しく、濃密な香りを放っていた。
ベタベタになろうが、肌が触れ合って不快な湿り気があろうが、二人は構わなかった。
むしろ、その不潔さが、「二人だけのもの」という禁断の快感を与えていた。
そのとき、インターホンが鳴った。
香月が頼んでいたウーバーイーツが届いたのだ。
香月はTシャツだけを引っ掛けて、玄関に向かった。
ドアを開けた瞬間、配達員は明らかに顔を顰めた。
「あの……ご注文の品です」
配達員が差し出した紙袋から漂う、外の空気と食べ物の匂いは、この密室の匂いとはあまりにもかけ離れていた。
そして、部屋から漏れ出す匂い。
それは、数日間、換気もされずに濃縮された、汗と体臭、そして極めて個人的な生々しい匂いの塊だった。
配達員は、そのむせかえるような強烈な香りに、思わず鼻と口を覆った。
香月は、無表情で荷物を受け取り、配達員に言った。
「ありがとうな」
配達員は一秒でも早くその場を離れたい様子で、そそくさとエレベーターに乗り込んでいった。
香月はドアを閉め、部屋の濃密な空気に安堵したように息を吐いた。
彼の体は、外部の匂いを遮断するコハクの匂いで満たされている。
「マネちゃん、何頼んだの?」
コハクが寝室から顔を出す。
その顔は、連休を楽しむ少女の無邪気な笑顔だった。
「連休は、まだあるね…」
彼女は香月のもとに駆け寄り、彼の首に抱きついた。
二人の匂いが、再び混ざり合う。
「もーっと、楽しもうね、マネちゃん」
香月は静かに頷き、その濃密な匂いの中で、目を閉じた。