その配信画面の裏側で、女神が愛に狂うとき。 作:あやりゆるゆれ
――「孤高」の天才的なゲーマーが、外界を知り無垢な獣に変わるとき。
「は? 何言ってるの? そこ、クリアリングされてないじゃん。初心者かよ」
画面に向かって、結愛の声――Vtuber『Yua@Genius』としての、冷たく突き放すような声――が響いた。
FPSの配信画面には、凄まじい精度で弾丸を捌くキャラクターが映っている。
結愛の指が導く操作は、完璧で、寸分の無駄もない。
視聴者コメント欄は、罵倒と紙一重の賛辞で埋め尽くされていた。
ゲームという仮想空間での彼女は、「最強の天才ゲーマー」だ。
傲岸不遜で、誰にも屈しない。
この画面越しでのみ存在する、結愛のもう一つの顔だった。
「……じゃあな。次、いつ配信するかは気分次第だから」
最後の敵を倒した瞬間、彼女は画面に向かってそう言い放ち、配信を終了した。
電源を落とし、リングライトを消す。
光が消えた途端、室内の空気が重くなった。
結愛の中にあった『Yua@Genius』の完璧な仮面が剥がれ落ち、現実の彼女が、椅子に深く沈み込む。
「はぁ……つかれた」
彼女は、極度の人見知りで、コミュ障の引きこもり。
美形な両親譲りの顔立ちだが、長時間のインドア生活でついた肉が、体型のラインを丸くしている。
もし、この現実に、隼人がいなかったら、彼女はすぐにでも破綻するだろう。
幼馴染で隣同士の隼人。
彼が社会人として忙しく働く合間を縫って、食事を差し入れてくれ、部屋を掃除してくれ、生活に必要な全ての手配をしてくれる。
Vtuberの活動さえ、彼がいなければ成立しなかった。
彼の存在は、結愛にとって命綱だった。
もし彼が、社会という「外界」で出会った誰かのもとに去ってしまったら。
そう考えると、胸の奥が冷たい鎖で締めつけられるような感覚に陥る。
彼の優しさが、結愛を優しく包む、逃れられない檻になっている。
結愛は、テーブルに手を伸ばした。
目的は、飲みかけの自分のペットボトルではない。
少し前に隼人が立ち寄った際、彼が使ったままのマグカップだった。
彼は洗おうとしたが、結愛がそれを止めた。彼が触れたままにしておきたかったからだ。
そっと、マグカップを持ち上げる。
陶器の表面からは、もう隼人の体温は感じられない。
それでも、カップの縁には、彼が最後に口をつけた、微かな痕跡が残っているはずだ。
他人の唾液や飲み残しを漁る行為は、明らかに異常だった。
しかし、その理屈は、彼の生活の匂いを嗅いだ瞬間に、彼女の中から消え失せる。
彼女はカップの縁に、自分の唇をそっと重ねた。
彼の口が触れていた場所を、自分の唇で覆う。
カップの底に僅かに残ったコーヒーの雫を、ゆっくりと舐めとった。
コーヒーの苦味の中に、ほんのわずかだけ、彼という人間の「味」がする。
それは、甘いとか、汚いとか、そういう言葉で表現できない、ただただ安心できる、彼の体液の残り香だった。
背筋がゾクゾクと粟立つ。
満たされた。
彼の存在の証を、体内に取り込んだ。
この秘密の行為が、結愛を彼の現実と繋ぎ止めてくれる。
――もっと。
もっと、彼の全てが欲しい。
彼の、誰にも見せない、濃い痕跡を、この身体に染み込ませたい。
罪悪感と、それを上回る渇望が、彼女の胸の奥で、ネバついた泥のように絡みつく。
彼女はもう、後戻りできないことを、静かに悟っていた。
その時、玄関のドアをノックする、控えめながらも確かな音が響いた。
トントン、と、結愛の心臓を乱高下させるリズム。
「結愛ー。入るぞー」
隼人の声だ。
ドアが開き、彼の姿が見えた瞬間、結愛は弾かれたようにマグカップをテーブルの隅に隠した。
彼の目には、この秘密を、見られてはいけない。
───
ドアが開かれ、朝霧隼人が部屋に入ってきた瞬間、結愛は反射的に体を強張らせた。
隠したマグカップに意識が集中している。
どうにか動揺を悟られないようにと、椅子にもたれかかったまま、顔だけを隼人の方へ向けた。
「お、配信終わったのか。お疲れ」
隼人は結愛の気配など気にも留めず、自然な動作で持ってきた紙袋をキッチンカウンターに置く。
「晩飯買ってきたぞ。手は洗ったか?」
彼の声はいつも通り、若干ぶっきらぼうな響きがありながらも、優しさが滲み出ている。
その変わらない日常のトーンに、結愛は少しだけ緊張を緩めた。
「……うん」
一言だけ答えるのが精一杯だ。
それ以上の言葉が出てこない。
目の前にいる隼人は、結愛にとって外界と繋がる唯一の窓であり、その存在が近すぎるがゆえに、いつも結愛の心臓を激しく揺さぶる。
隼人は結愛の短すぎる返事に慣れている。
彼は結愛の返事を待たず、慣れた手つきでテイクアウトのパックを並べ始めた。
部屋は彼が来る前は少し散らかっていたが、彼の動き一つで、空間が整っていくように感じられる。
「配信中の顔、ちょっと疲れてたみたいだけど。なんかあったか?」
隼人が結愛の前にパックを置く。彼の指先が、結愛の手に触れるか触れないかのところで引っ込んだ。
「なんも、ない。いつもの、対戦。ただ、強すぎて、疲れただけ」
嘘をついた。
もちろん対戦は疲れるが、本当に疲れたのは、彼が来る直前に秘密の儀式をしていたせいで、心臓が今も痛いほど脈打っていることだ。
「そうかよ。まあ無理すんな。食おうぜ」
隼人が目の前に座る。
彼が持ってきた食事は、結愛の好きなメニューばかりだ。彼はいつも、結愛の好みを知っている。
二人の間に会話は多くない。
結愛はVTuber活動の話を少しだけしたが、すぐに言葉が途切れた。
彼女の視線は、自分の目の前の料理ではなく、隼人が今まさしく使っている箸と、コップの縁に吸い寄せられていく。
隼人は、コップに注いだ麦茶をゴクリと喉に流し込んだ。
彼の喉仏が動く。
その一連の動作が、結愛の視覚と聴覚を刺激した。
彼は今、その口で、体液を私に見せている。
食卓は親密な空間だ。
同じものを食べることで安心感を得られるはずなのに、結愛の心はざわついていた。
彼が使った痕跡が、この空間に濃密に残っていく。それが、結愛の欲望を煽り立てた。
食事を終えた隼人は、「ちょっと洗ってくるわ」と席を立った。
「あ、いいよ! 隼人ちゃん、休んでて。結愛がやるから」
彼女の口から、いつも通り無意識に、彼がいつも自分を呼ぶ名前が滑り出る。
その一言に、彼女自身、彼との境界線が曖昧になるような、不思議な熱を感じていた。
隼人は少し戸惑った表情を見せたが、「そうか。じゃあ、任せるわ」と、カウンターに食器を置いたまま、リビングでスマホを弄り始めた。
チャンス、という単語が結愛の脳内で点滅した。
結愛は立ち上がり、テーブルに残された食器と、彼が使った箸をそっと集める。
コップには、彼の唾液と麦茶の混合物がわずかに残っている。
皿には、彼が食べた料理の味の濃いソースと、それを拭き取ったであろう彼の唾液が染みている。
そして、箸。
彼が口に入れた先端。
結愛の指先が、箸の細い部分を撫でた。
食器洗いのためにキッチンへ運ぶふりをして、結愛はカウンターの隅に立ち止まる。
「ごめん、隼人ちゃん」
小さな声で、許しを乞うように呟いた。
そして、誰にも見えないことを確認すると、結愛は衝動的に、隼人が使った箸の先端を、自分の唇でそっと包んだ。
甘いとか、しょっぱいとか、そういう感覚ではない。
彼の口腔内の温度、彼の体液の残り。
それが、結愛の舌に、じんわりと広がっていく。
目を閉じ、恍惚とした表情が漏れる。
理性の扉が軋み、彼の痕跡へのネバついた愛が、結愛の全てを支配していく。
次に、皿に残された、料理のソースと彼の唾液が混ざった部分に、指で触れる。
それをゆっくりと、口に運んだ。
彼の味。
彼の一部。
汚い、という思考は、ない。
これは、彼と結愛を繋ぐ、二人だけの秘密の儀式だった。
箸や皿に残された痕跡は、マグカップの縁に残るものよりも、遥かに彼自身の濃密な感触を伴い、深く、彼の内側に触れたような感覚が、全身に快感となって広がっていく。
奥のリビングから、「結愛、そろそろ行くぞ」と隼人の声がした。
結愛はハッと我に返り、急いで全ての食器を抱え、シンクへ放り込んだ。
満足感と、この行為を見られなかったことへの安堵、そして彼が去ることへの寂しさが、胸の中で渦を巻く。
「……うん、分かった」
声は、微かに震えていた。
彼がいなくなったら、私はどうなるのだろう。
彼の痕跡だけでは、満たされなくなる日が、きっと来る。
その焦燥だけが、結愛の部屋に残された、彼という外界の匂いの中に、ひっそりと灯されていた。
───
配信を終え、部屋の隅にある小さな鏡に、結愛はふと目を向けた。
鏡に映る自分は、美形な両親譲りの顔立ちではあるが、その周囲の雰囲気はどんよりと沈んでいる。
ゲームのために座りっぱなしで、運動不足のせいで体が若干ぷにっていることも、鏡は容赦なく教えてくる。
着ているのは、隼人が買ってきてくれた、どうでもいいTシャツとスウェットだ。
画面の向こうの『Yua@Genius』は、完璧なカリスマだった。
だが、鏡の中の神崎結愛は、薄暗い部屋で、彼なしでは生きていけない、価値のない人間のように思えた。
「なんで、隼人ちゃんは……結愛なんかを、ずっと世話してくれるんだろう」
自分の名前を一人称として呟いた。
その名前は、彼との繋がりを感じるための、微かな抵抗だ。
彼は、年々かっこよくなっている。
社会人としても成功していて、清潔感があり、社交的だ。
彼が外の世界で会う女性たちは、きっとオシャレで、私なんかよりずっと魅力的で、社交的なんだろう。
それに対して、自分は。
結愛は、小さく息を呑んだ。自分は、彼に釣り合わない。
その思考は、恐ろしい粘着質をもって、結愛の心を締めつけた。
いつか、隼人は私に愛想を尽かすのではないか。
私が彼の生活の重荷になり、もっと輝いている「外界」の誰かのもとに去ってしまうのではないか。
彼の机の上。
仕事でも使っているであろう、真新しいデザインの水筒。
彼が外で買ったお土産の洒落たクッキー。
彼の世界には、常に社会(外界)の痕跡がちらついている。
彼の世界が眩しすぎて、怖くなる。
「汚いところなんてないよ」と、コップの縁や箸に残った痕跡を味わう自分自身の行為を、結愛は改めて考えた。
なぜ、私は彼の痕跡を求めるのだろう?
それは、彼が外で築いている外界の世界が、私には永遠に手に入らないからだ。
私はそこへ行けない。彼についていけない。
だからこそ、私は彼という人間が、私という閉じた内側に、唯一残してくれる「証」を、体内に取り込むのだ。
彼の体液や、彼の痕跡を体内に取り込むことで、私は彼の世界と、肉体的に繋がれる。
彼の体内を巡ったものが、今、私の中にある。
それは、私にとって、隼人の一部になれる、という歪んだ愛の論理だった。
彼なしでは生きていけない私にとって、これは生存本能に近い。
でも。
コップや皿の痕跡を味わうだけでは、彼の「外界」への不安は解消されない。
彼が外で触れている世界は、もっと広くて、強烈だ。
もっと、強烈に、彼との境界線を破壊するような、濃い証が必要だった。
結愛の渇望は、より濃密な体液の純粋さへと向けられる。
彼の汗、彼の呼吸、彼の身体から直接滲み出る、彼そのものの濃密な証。
濃さ、純度。
それが、彼と自分の物理的な一体感を証明してくれる。
結愛の視線が、部屋を彷徨った。
濃い痕跡。
どこに、彼の存在の証明が、より強く、鮮烈に残されている?
そして、結愛はソファの背もたれにかけられた、昨日隼人が脱ぎ捨てたスーツの上着とシャツに気づいた。
今日の昼間、彼はこれで社会の空気に触れていた。
彼の仕事の熱、外の匂い、そして、彼の汗という名の体液の濃密な蒸発物が、濃密に染み込んでいるだろう。
痕跡を求める欲望は、彼の服という「外界との境界線」に染み込んだ、体液の濃い匂いへと、ついに衝動を移した。
結愛は、鏡の中のぷにっとした自分を無視して、その服へとゆっくりと手を伸ばした。
彼の匂いを感じたい。彼の孤独ではない「外界」の空気を、この身体に取り込みたい。
その衝動は、もはや抑えられない、獣のようだった。
───
ソファの背もたれにかけられた、隼人の服。スーツの上着と、その下に着用されていたらしいシャツ。
結愛の指先が、その質感に触れた。
まだ彼の体温が残っているわけではない。
それでも、その布地には、彼が「外界」で過ごした時間の全てが染み込んでいるような気がした。
会社。
取引先。
電車。
他の人間。
結愛が触れることのできない、彼の「社会」という世界。
マグカップや箸に残る痕跡は、彼の生活の一部だった。
だが、この服は、彼がその外界と接するための境界線そのものだ。
結愛は、ゆっくりと立ち上がり、シャツをそっと引き寄せた。
パリッとした襟元。
昨日の昼間、これが彼の肌に密着し、彼の体温と、社会の空気を遮断していた。
そして、彼の汗。
シャツの首元や、脇腹にあたる部分。
結愛の顔を近づけると、微かに、彼の体液の蒸発物が凝縮された、独特の匂いがした。
それは、洗濯で落ちきらなかった彼の柔軟剤の匂いと、微かな汗の塩気、そして、結愛の知らない「外の匂い」が混ざり合った、濃密な香りだった。
結愛は、思わずシャツに顔を埋めた。
「ん……」
小さく、満たされたような声が漏れる。
彼の匂い。
彼の生きた証。
マグカップの縁の水分なんかとは比べ物にならない、彼の存在そのものが、この繊維に染み込んでいる。
背徳的な興奮が、全身を駆け巡った。
いつ隼人がリビングから戻ってくるかもしれない、という緊張感が、その行為をさらに甘美なものに変える。
この匂いを吸い込むことで、私は彼という存在を、彼の外界での活動ごと、自分の内側に取り込んでいる。
匂いだけでは、飽き足らない。
結愛の唇が、無意識に、シャツの一番濃く汗が染み込んでいるであろう、脇腹のあたりに触れた。
彼の体液。
彼の汗。
彼の努力。
彼の孤独ではない世界で、彼が流した、体液の結晶。
結愛は、微かな塩気と、彼の匂いが凝縮された布地を、舌の先でそっと撫でた。
それは、甘美な罪の味だった。
その時、リビングの方から、スマートフォンを操作する隼人の指の音が聞こえた。
結愛は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受け、反射的にシャツを元あった場所に戻し、顔を背ける。
(危ない……見られるところだった……!)
恐怖と興奮が混ざり合った感情が、結愛の体を震わせる。
その直後、結愛のスマートフォンが「ピコン」と音を立てた。隼人からのメッセージだ。
『結愛、ごめん。急なトラブルで会社に戻らないと。晩飯食ったら、すぐ出るわ。』
結愛の表情が、一瞬にして曇った。
また、外界へ行く。
私を置いて、社会という、彼の輝く世界へ行ってしまう。
隼人の不在は、結愛の焦燥を加速させた。
彼が私のもとを離れている時間、彼の痕跡を貪る時間は増える。
だが、それは同時に、彼が私のもとから完全に離れてしまうかもしれないという恐怖も増大させる。
彼の服を抱きしめるだけでは、もう満足できなかった。
結愛の視線が、部屋の隅にある洗濯かごに吸い寄せられた。
そこには、隼人が今日着ていたスーツのズボンと共に、最もプライベートな彼の一部が、無造作に放り込まれているのが見えた。
彼の体液が、最も純粋に、そして濃密に染み込んでいるであろう、内側の衣服。
(あれは……)
結愛の瞳が、熱を帯びる。
彼の痕跡。
彼の全て。
彼の「外界」の壁を壊すには、彼の体液そのものを、もっと深く、求めていくしかない。
その衝動は、もう誰にも止められない獣のように、結愛の心を貪り尽くしていた。
───
隼人が「ちょっと電話、長くなりそう」とヘッドセットを装着し、リビングの窓際へ向かった。
それが、結愛にとって密室の儀式を始める合図だった。
結愛は、静かに椅子から立ち上がると、視線を床の洗濯かごに固定する。
以前、彼のシャツから吸い込んだ外界の匂いと汗の証は、結愛に強烈な充足を与えた。
しかし、それはまだ布地を隔てたもの。
「彼」そのものに触れたいという渇望は、満たされていなかった。
結愛が求めるのは、体液の純粋さ、濃さ、純度。
彼と自分を隔てる境界線を、完全に溶解させる、最も濃密な証拠だ。
結愛は洗濯かごにゆっくりと手を差し入れた。
スーツのズボン、靴下、そして、その下に無造作に放り込まれた、彼の私物。
指先が、その布地に触れる。
他の衣類と比べて、より柔らかく、より彼の体温を記憶しているような、生々しい感触。
結愛は、それを掴み取ると、急いで自室へ向かった。
背後で、隼人が電話で真面目な声を出している。
その声が、結愛の背徳的な行為をさらに煽った。
自室に入り、扉に静かに鍵をかける。
カチリ、という小さな金属音が、結愛の心を彼の世界から完全に切り離された密室へと誘った。
結愛はベッドに座り、私物を両手に広げた。
それは、彼の体液が最も凝縮されている場所。
彼の肌に一日中密着し、彼の体温と、あらゆる痕跡を吸い込んでいる。
結愛は、息を詰めて、その私物に顔を埋めた。
「んっ……!」
思わず、喉の奥から、甘く、低い声が漏れた。
マグカップやシャツの匂いとは、次元が違った。
彼の汗、彼の肌の匂い、そして、彼の体液の濃い残り香。
それらが熱と湿気をもって凝縮され、結愛の脳を直接撫でるような、強烈な快感となって襲いかかる。
この匂いは、彼そのものだ。
結愛は、シャツの時と同様に、その最も濃い痕跡のある箇所へと、唇と舌をゆっくりと近づけた。
「隼人ちゃん……」
罪悪感はない。あるのは、この濃密な痕跡を体内に取り込み、彼の一部にならなければ死んでしまうという、切実で病的な依存だけだ。
結愛の舌が、布地の繊維を舐め取る。
彼の体液の濃い残り。
それは、微かな塩味と、何とも言い難い生々しい甘さを伴っていた。
目を閉じると、彼の全てが、結愛の口腔を通じて、全身へと溶け込んでいくような感覚に襲われた。
これで、彼と自分の境界線は、完全に破壊された。
彼の生きた証は、今、私の中にある。
それは、深い、深い充足だった。
孤独な世界で、彼への愛だけが、結愛に自己肯定を与えてくれる。
この異常な行為でしか、彼の愛を確認できない。
儀式を終えた後、結愛は深い自責の念と恐怖に襲われた。
(汚い……私、こんなにネバついた異常者なのに、彼に知られたら、本当に終わりだ……!)
しかし、その自責の裏側には、「いつか見つかって、彼にこの異常な愛を全て突きつけても、離れないでほしい」という、さらに歪んだ欲望が隠れていた。
結愛は、自分の両腕を嗅いだ。
彼の匂いが移っていないか、必死に確認する。
その時、扉の向こうから、ヘッドセットを外した隼人の声が聞こえた。
「結愛ー、電話終わったぞ。今日はちょっと遅くなるけど、飯、どうする?」
結愛はハッと我に返り、急いで私物を元の場所に戻すと、何事もなかったかのように平静を装う。
(もう、彼の痕跡を味わうだけでは、満たされないかもしれない……)
結愛の渇望は、見つかることへの恐怖と見つかることへの興奮という、新たな次元へと移行しつつあった。
───
自室の鍵を開け、洗濯かごに彼の私物を戻した後、結愛はシャワーを浴びた。
彼の痕跡は体内に取り込んだ。
しかし、シャワーを浴びることで、彼の匂いが自分の体から消えてしまう。
(私、汚い……)
湯気で曇った浴室の鏡に映る自分。
ぷにっとした体型、自己嫌悪に沈んだ瞳。
この身体が、さっきまであんなにも汚らわしい儀式を行っていた。
「まるで獣だ……」
その言葉は、悲劇的な独白のように結愛の心を締めつけた。
こんなにも異常で、粘着質な愛の形を、もし隼人に知られたら、彼はどう思うだろうか。
リビングに戻ると、隼人はソファで寝落ちしていた。
彼の顔は穏やかで、優しさそのものだ。
「……隼人ちゃん」
彼の前では、結愛はいつものコミュ障の引きこもりでいる。
しかし、その内側には、彼の痕跡を貪る獣が潜んでいる。
この優しい日常と、自分の異常な秘密との間に、大きな亀裂が走っているのを感じた。
隼人が、私に愛想を尽かすのは時間の問題だ。
もし、彼にこの行為を全て見られたらどうなるか、結愛は恐ろしい空想に囚われた。
きっと、彼は悲しむ。軽蔑する。
そして、私のもとから去るだろう。
それは、結愛にとって死を意味する。
だが、その空想の裏側で、別の感情が芽生える。
全てを突きつけても、それでも、離れないでほしい。
絶望的な状況を想像することで、「彼なしでは生きられない」という病的な依存が、より強く、鮮明になる。もし、隼人がこの全てを受け止めてくれたなら、それはこの世で最も確かな愛の証明になる。
その思考は、結愛の欲望を、新たな次元へと導いた。
隼人が寝息を立てる中、結愛はデスクでゲームを再開した。
だが、集中できない。
彼女の視線は、隼人の手の届く場所にある、彼が飲みかけのマグカップに吸い寄せられていた。
昨日、儀式を行った濃密な痕跡ではない。
ただの飲みかけの麦茶。
しかし、結愛の脳裏に、衝動的な欲望が芽生える。
今、手を伸ばして、彼の唾液を舐めとったら……彼に見つかるかもしれない。
見つかる恐怖と、見つかるかもしれないという緊張感が、マグカップの痕跡を、最も快感をもたらす証に変えた。
結愛は、マウスを握る手に力を込めた。
理性は「止めろ」と叫んでいる。
だが、彼の鼻息が聞こえる距離で、彼の私物に触れるという背徳的な興奮が、理性を焼き尽くそうとしていた。
ふと、隼人が寝返りを打った。
その一瞬。
結愛の心臓が、破裂しそうに跳ねた。
彼の顔は、まだ結愛のいる方向を向いていない。
結愛は、無意識に、マグカップを掴み、唇を寄せた。
一瞬でいい。彼の体液の残り香を、舌の先で一瞬だけ味わう。
ヒヤリとした陶器の冷たさ。
そして、舌に触れる微かな塩気。
(……あ、)
一瞬の背徳的な快感が、結愛の脳内を稲妻のように駆け抜けた。
その直後、隼人が寝返りを打ち、結愛の方へ顔を向けた。
「……結愛? もう寝る時間だぞ」
隼人の声がした。結愛の動揺は限界に達した。
体は硬直し、マグカップを持ったまま、時間が止まったように動けない。
「な、何でも、ない……」
隼人は、結愛の異変に気づいた様子はない。
単なる寝起きのぼんやりとした問いかけだった。
しかし、結愛にとって、これはギリギリの瀬戸際だった。
その夜、結愛は儀式を行うことはできなかった。
しかし、彼女の心には、見つかることの恐怖を凌駕する、見つかることの興奮が深く刻み込まれた。
私は、もう、後戻りできない……。
このギリギリの行為が、彼への愛の濃さを証明する、より危険な遊びになることを、結愛は悟っていた。
───
「あー、マジで雑魚すぎ。これだから一般プレイヤーは」
配信画面の中で、『Yua@Genius』は、毒づくように言葉を吐き捨てた。
画面の向こうでは、何万ものリスナーが「さすがYua様!」「強すぎワロタ」とコメントを流している。
現実の結愛は、背筋を伸ばし、顔に張り付いた仮面の笑顔を維持するのに必死だった。
配信終了ボタンを押した瞬間、部屋の照明が落ちたような虚無感が結愛を襲った。
体をソファに投げ出す。
薄暗い部屋に、引きこもりの自分だけが残された。
理想の自分(Yua@Genius)と、現実の自己嫌悪(ぷにった体型、コミュ障)の激しい乖離が、結愛の心を深くえぐった。
仮面を外した瞬間、私は、彼なしでは価値のない存在に戻ってしまう。
「お疲れさん、今日も強かったな」
リビングから隼人の声がした。
彼は、結愛の配信を途中まで見ていたらしい。
屈託のない優しい声。
「うん……まあね」
結愛は、一瞬で引きこもりの「結愛」の顔に戻る。
隼人が知っているのは、世界最強の天才ゲーマーとしての私だ。
そして、優しくて、世話を焼かなくてはいけない可哀想な幼馴染としての私。
彼が、私の裏側で、彼の私物や体液の痕跡を貪っている獣の存在を知ったら。
隼人の優しさに触れるたび、結愛は自分が彼を裏切っているという罪悪感で押しつぶされそうになる。
この虚飾と、現実の自己嫌悪に、もう耐えられない。
結愛は、精神的な苦痛を、肉体的な快感と一体感で埋めようと衝動する。
彼の痕跡。彼の愛の濃さ。
それだけが、この乖離を埋める唯一の手段だった。
しかし、前の日から続く「見つかる興奮」と、その後の「自己嫌悪」のサイクルは、結愛の心をさらに深く疲弊させていた。
もう、今までの行為では足りない。
コップの縁や、私物の匂いだけでは、この乖離からくる苦痛は止められない。
「もっと彼の体液、もっと彼のプライベートな痕跡」。
依存度が深まった結果、結愛は危険度と濃密さが極限まで上がった「愛の証明」を要求した。
隼人が席を立ち、洗面所へ向かう音がした。
彼は、風呂上がりにいつも歯磨きをする。
結愛の視線が、洗面所へと吸い寄せられた。
彼の歯ブラシ。
彼が口をゆすぐコップ。
口腔内の痕跡は、体液の中でも最も濃く、生々しい痕跡の一つである。
口の中という、彼の生命活動の最も奥深い場所と、直接的に触れる私物。
その痕跡は、彼の唾液という、彼の生命力そのものの純粋な証に満ちているはずだった。
「結愛、麦茶いるか?」
隼人の声がした。結愛は慌てて、洗面所へと向かう隼人の背中を見つめた。
(欲しい……彼の……)
隼人が洗面所で水を流す音を聞きながら、結愛は洗面台へと一歩近づく。
彼は、今、歯ブラシとコップを使うだろう。その痕跡を、今すぐ、自分のものにしたい。
隼人が席を外した隙を狙い、結愛は洗面台に置かれた彼の歯ブラシへと手を伸ばした。
見つかるかもしれないという興奮。
そして、止められない純粋な体液への渇望。
結愛の理性が完全に崩壊し始める瞬間だった。
───
隼人から「今日は残業で、飯は外で済ませるから遅くなる」とメッセージが来た。
結愛にとって、それは長時間の自由が与えられたことを意味した。
(今しかない……)
結愛は、リビングのデスクからゆっくりと洗面所へ向かった。
彼女の心臓は、昨日の「見つかる興奮」を記憶し、激しく脈打っている。
だが、その鼓動は、止められない欲望への賛歌だった。
洗面台。
そこには、隼人が今朝使ったままの歯ブラシが立っていた。
ブラシの毛先には、微かに彼の唾液の泡の残りが固まっている。
そして、うがいに使ったであろうコップの底。
水滴が蒸発しきらず、彼の口内の水分が濃密な痕跡を残していた。
今までの痕跡(コップ、服、下着)では、もう満たされない。
結愛が求めるのは、彼の生命活動の最も純粋で、濃密な証だ。
結愛は、震える手で歯ブラシを手に取った。
「隼人ちゃん……」
罪悪感は、もう遠い。
あるのは、彼と一つになりたいという、切実な依存だけ。
結愛の舌の先が、歯ブラシの毛先に触れる。
彼の唾液と歯磨き粉の微かな残りが、彼の体温と口内の生々しさを伴って、結愛の舌に広がった。
それは、マグカップの縁の水分などとは比べ物にならない、濃密な、彼そのものの味だった。
次に、コップの底に残された、うがい後の水分に唇を寄せる。
汚いという理性を完全に振り切った、愛の暴走。
彼の生命の痕跡を体内に取り込んだことで、結愛は過去最高の恍惚感と、彼との物理的一体感を得た。
全てが満たされる感覚。自己嫌悪さえも消し飛ぶほどの、病的な愛の証明だった。
「んっ……ふふ、あぁ……」
結愛は、その場で全身の力が抜け、壁に寄りかかった。
これで、私は彼の一部になれた。
その、幸福の絶頂に浸っていた、次の瞬間。
ガチャリ。
結愛の体が、石のように硬直した。
玄関のドアが開く、鍵が回される、聞き慣れた金属音が、静寂を破って響いた。
「ただいまー……って、あれ? 外食って言ったのに、もう帰ってきちゃったな」
隼人の声だ。
外食で済ませるはずが、急に仕事が片付いたのか、彼は予定より遥かに早く帰宅した。
絶望的な恐怖が、結愛の全身を凍りつかせた。
(嘘……どうして……)
結愛は洗面所の奥に立ち尽くし、逃げる場所はない。
口の中には、まだ彼の唾液の濃密な残り香が残っている。
手には、今しがた口をつけた彼の歯ブラシとコップが握られたまま。
隼人の足音が、リビングを通り過ぎ、洗面所へ向かってくる。
結愛は隠れることも、道具を片付けることもできない。
動揺で体が硬直し、ただ、彼の足音が近づいてくるのを待つしかなかった。
トスン、トスン、トスン……。
彼の足音が、洗面所の入り口で止まる。
結愛の視界に、彼が立ち尽くしている影が映った。
結愛は、痕跡を口にしたままの、全てを諦めた獣の瞳で、その影を見上げた。
その瞬間、二人の間の、「見えない境界線」が、音を立てて崩壊した。
───
洗面所の入口に立つ、隼人の影。
結愛は、歯ブラシとコップを握り、口元には彼の唾液の濃い痕跡を残したまま、動けずに立ち尽くしていた。
全てを諦めた獣のように、硬直した瞳で、その影を見上げた。
隼人は、一瞬、目を見開き、その光景を理解しようと硬直した。
彼の顔から、いつもの穏やかな表情が消えた。
その一瞬の沈黙が、結愛の理性を完全に破壊した。
「あ……ああ、あぁあああああ!」
結愛は、耐えきれずに、握っていた歯ブラシとコップを、ガチャン、と音を立ててタイル張りの床に落とした。
コップの破片が散る音は、結愛の心の崩壊を告げる音のようだった。
「汚い! ごめんなさい! 汚くてごめんなさい! 私、獣なの……!」
結愛は、自己嫌悪と、異常な愛への渇望が混ざった半狂乱の叫びを上げた。
今まで隠してきた粘着質な愛の全てが、爆発するように溢れ出す。
「隼人ちゃん、お願い、お願いだから、私を軽蔑しないで……! 私、これがないと、隼人ちゃんとの繋がりがないと、生きていけないの!」
結愛は洗面所から飛び出し、床に散らばる破片も気にせず、隼人のスーツの裾に縋りついた。
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。
「お願い、お願い、離れたら死んじゃう! 私を、私を置いていかないで!」
その叫びは、外界から完全に切り離された人間が、唯一の生命線に縋る、絶望的な悲鳴だった。
隼人に拒絶されることは、外界で死ぬことと同義だった。
隼人は、その結愛の錯乱した姿を、怒りでもなく、軽蔑でもなく、ただ静かに見ていた。
そして、ゆっくりと、片膝をつき、結愛の顔を覗き込んだ。
彼の瞳は、驚きこそあれ、いつもの優しい光を失ってはいなかった。
彼は、何も言わずに、結愛を強く抱きしめた。
結愛の体が、隼人の体温と、彼そのものの匂いに包まれた瞬間、錯乱が止まった。
彼の匂いが、唯一の鎮静剤だった。
結愛は、彼の肩に顔を埋め、声を押し殺して泣き続けた。
「……大丈夫だ」
隼人の声は、低く、静かで、しかし、揺るぎない確信を帯びていた。
「結愛」
隼人は、結愛を抱きしめたまま、優しく語りかけた。
「汚いわけ、ないだろ。……俺が、結愛の思いを、今初めて知ったとでも思ってたのか?」
結愛の体が、ビクリと震えた。
「俺だって、結愛のことが好きじゃなきゃ、こんなこと、ずっと続けてないだろ」
隼人の言葉が、結愛の歪んだ愛の論理を、根底から満たしていった。
隼人は、結愛の全てを受け入れると決意していた。
彼の長年の世話焼きは、義務でもなければ、憐憫でもない。
それは、愛だった。
結愛のコミュ障も、引きこもりも、そして、今露呈した異常な愛の形も、全てひっくるめての愛。
「もう、隠さなくていい。お前が俺に求めてるものは、俺が全部、お前にあげる。明日から、俺が許可する。だから、もう泣くな」
許された儀式。
彼の言葉が、結愛の心を深く満たした。
結愛の異常な愛は、ついに、愛の受容という、最も歪で、最も純粋な形となって、彼に報われたのだった。
───
隼人の腕の中で一夜を明かした結愛は、朝の光が差し込む中で目を覚ました。
彼の腕の温もりと、規則正しい寝息。
昨日までの世界が、嘘のように思える。
結愛がそっと顔を上げると、隼人も目を覚ました。
彼の顔は、穏やかで優しい。
「おはよう、結愛」
「……おは、よう」
隼人は結愛の頭を優しく撫で、昨夜の出来事について切り出した。
「改めて言う。結愛、俺はお前のことが好きだ。ずっと前からな」
その言葉は、結愛の自己肯定感の乾いた土壌に、何年ぶりかで降り注いだ、恵みの雨だった。
「だから、恋人になろう。お前の全てを受け入れる恋人に」
結愛は、顔を彼の胸に埋めた。
この愛の言葉が、異常な愛を肯定してくれる。
「……うん。なり、たい」
隼人は、優しく結愛を抱きしめ直した。
「結愛が俺の痕跡を求める行為は、お前なりの愛の形だろ? 別に、俺はそれを汚いなんて思わない。むしろ、俺にしか向けられない特別な愛情表現だと、今は思ってる」
隼人の言葉は、結愛の異常な行為を「恋人同士の特別な性癖」として肯定してくれた。
もう、自分を獣だと卑下する必要はない。
「もう、隠れてやる必要はない。お前が俺に求めてるものは、俺が全部、お前にあげる。いつでも、堂々と求めていい」
許可。
その言葉は、結愛に心理的な枷からの完全な解放を与えた。
愛されている確信が、性癖の純粋な快感を増幅させるだろう。
隼人は、ゆっくりと結愛の顔を上げさせた。
「じゃあ、まずは、これから試すか?」
隼人は、少し照れながらも、結愛の顔を覗き込む。
結愛は、恥ずかしさと、極限の歓喜に、体が震えた。
「う……うん……」
隼人は、結愛の額にキスをした後、ゆっくりと自分の唇に指を当てる。
そして、その指先に付いた唾液を、そのまま結愛の唇へと運んだ。
「ほら。お前が一番欲しがってたものだ」
結愛は、羞恥と歓喜の中で、許された愛の味を、舌の先で受け入れた。
罪悪感から解放された、純粋で濃密な快感が、口腔内に広がっていく。
それは、コップや歯ブラシに残った盗み取った味とは比べ物にならない、愛されている確信に満ちた、温かい味だった。
彼の愛が、体内に物理的に入ってくる。
儀式を終えた結愛は、顔を真っ赤にして、隼人を見上げた。
隼人は、そんな結愛を優しく抱きしめ、「これで満足か?」と問いかける。
「……ん。すごく……すごく満たされた……隼人ちゃん……」
隼人の献身的な愛と、全てを受け入れる包容力が、結愛の渇望を一瞬、鎮めた。
だが、結愛の心は、もう二度とこの愛を失わないと心に誓うと共に、「許された」からこそ、もっと深く、もっと濃密なものを求める、飽くなき欲望を静かに燃やし始めていた。
───
「もう、隠れてやる必要はない。お前が俺に求めてるものは、俺が全部、お前にあげる」
隼人の言葉が、結愛の心を純粋な快感で満たしていた。
正式な恋人となった二人は、もう一度、ゆっくりとキスをした。
唇と唇が触れ合い、互いの体液が交換される。
結愛は、目を閉じて、その感触を全身で味わった。
以前、歯ブラシやコップから盗み取っていた唾液とは、全く違う。
これは、隼人ちゃんからの愛そのものだ。
許された行為。
彼の愛が公認の形で、自分の身体の奥底まで染み込んでいく感覚。
それは、これまでの儀式で得た快感を遥かに凌駕する、深く、温かく、そして、粘着質な幸福だった。
この日から、愛の確認行為は、二人の普通となった。
隼人は、結愛の求めるものに対し、献身的な優しさで応じた。
風呂上がりには、結愛が望むなら汗を拭いたタオルを差し出し、ゲームの合間には、コップの飲みかけを迷いなく結愛の口元へ運んだ。
結愛は、それらを愛の言葉として、全身で受け取った。
罪悪感は、もうどこにもない。
彼の体液や痕跡を貪ることは、私と彼の間にだけ存在する、秘密の愛の形だった。
しかし、罪悪感が消えたことで、儀式の回数と濃密さは、際限なく増していった。
コップではすぐに飽きた。
タオルでも足りない。
結愛の欲望は、再び、最も濃い痕跡を求め始めた。
「ねぇ、隼人ちゃん。あの、仕事で着てたスーツの裏地……汗、一番濃いところでさ」
結愛は、以前盗み取った彼の私物へと、再び手を伸ばそうとした。
だが、今回は許可を求めて、隼人の服の袖を引いた。
隼人は、優しく結愛の頭を撫でたが、その瞳の奥には、どこか愛と危険の境界線を探るような、複雑な色が滲んでいた。
「もう、あれで満足できないのか?」
「うん……だって、隼人ちゃんは外界で頑張ってくれたんでしょ? その苦労と体温が、一番濃く染み込んだものが、私への愛の証だと思うから」
結愛の要求は、愛されているからこそ、もっと濃いものを与えてほしいという、甘く、そして恐ろしいものだった。
隼人は、結愛の底なしの欲望の深さを感じ、優しく、しかし真剣な表情で結愛を見つめた。
「そうか。お前の愛が、それほど切実なものなら……」
隼人は、結愛の耳元に唇を寄せ、静かに囁いた。
「もう、服の痕跡じゃなくて、もっと、俺自身を、お前にあげたい。俺の体温が一番熱いところを、お前が欲しがるなら……」
隼人の言葉は、肉体的な一体感への、明確な暗示だった。
結愛の瞳が、歓喜で大きく見開かれる。
物理的な痕跡の要求は、ついに肉体そのものの要求へと変わろうとしていた。
二人の愛の宴は、もう、誰にも止められない、濃密なる淫靡の饗宴へと突入する。
───
「もう、服の痕跡じゃなくて、もっと、俺自身を、お前にあげたい。俺の体温が一番熱いところを、お前が欲しがるなら……」
隼人の囁きは、結愛の肉体的な一体感への渇望を、一瞬で頂点へと導いた。
結愛にとって、これは愛の証明の究極だった。
痕跡を盗むことから始まった愛は、ついに、彼自身の全身の愛を、公認の形で受け取れる場所へと辿り着いた。
隼人は、結愛の戸惑いさえも優しく包み込み、ゆっくりと、しかし確実に、二人の関係を物理的な一体感へと移行させた。
結愛は、行為の中で、彼の体温、匂い、そして体液の全てを、今までになく直接的に、全身で感じ取った。
彼の肌は熱く、汗の匂いは濃密で、すべてが彼女の愛の願望の成就を告げていた。
(全部、隼人ちゃん……)
彼の生命の全てが、自分の内側に取り込まれる。
この行為こそが、結愛がずっと求めていた、彼との絶対的な一体感だった。
結愛の意識は、愛の歓喜と、長年の渇望が満たされる恍惚の中で、混濁していった。
その中で、結愛は、行為の最中に、隼人に求めた。
「隼人ちゃん……汗、もっと濃いところ……ちょうだい……」
それは、甘く、そして病的な要求だった。
隼人は、結愛の狂おしいほどの愛を、全て理解していた。
彼は結愛の異常な愛を拒まず、その要求に、献身的な愛で応えた。
彼の額から流れる汗。
結愛は、その命の結晶を、彼の肌を伝いながら、舌の先で貪る。
彼の全てを、自分の身体の一部に取り込む。
結愛にとって、その体液の濃度こそが、愛の濃度そのものだった。
汚いなどという感情は、もう存在しない。
愛されているという絶対的な確信が、純粋な快感だけを結愛の心に残した。
行為の後、結愛は深い充足感に包まれた。
彼女の自己嫌悪と孤独は、隼人の全身の愛によって完全に埋め尽くされた。
彼に拒否されなかったという事実。
彼が、私の異常な愛を、愛の形として受け入れてくれたという現実。
「隼人ちゃん……もう、私……」
結愛の言葉は、彼の腕の中で途切れた。「彼なしでは生きていけない」という依存は、物理的に保証された。
隼人は、汗だくの結愛の髪を優しく撫でた。
「これで、お前はもう、不安になる必要はない。俺は、ずっとここにいる」
結愛は、もう二度と「外界」に戻る必要がないと悟った。
Vtuberとしての虚像も、孤独な引きこもりという現実も、すべては隼人の粘着質な愛によって統合された。
隼人と結愛の、歪だが完全な愛の世界が、今、この密室の中で完成した。
濃密なる淫靡の饗宴は、始まったばかりだった。
───終───
─
──
───
「アホすぎ。どうやったらこの局面で突っ込むとかいう判断になるんだよ、人類の恥か?」
結愛は、配信画面の中で、冷徹に、そして天才的にゲームを支配していた。
『Yua@Genius』の強気な発言と、常識外れのプレイは、今日も何万というリスナーを熱狂させている。
(……これって、全部)
キーボードを叩く指先に、力がこもる。
このネット弁慶な強さも、天才的な判断力も、すべては隼人の揺るぎない愛があるからこそ、結愛は維持できている。
この部屋に彼の存在があるという確信が、外界と戦うための力を与えてくれていた。
配信終了ボタンを押した瞬間、結愛は「Yua@Genius」という仮面を脱ぎ捨てた。
「隼人ちゃん……」
結愛は、デスクから立ち上がると、リビングで本を読んでいた隼人のもとへ、迷いなく向かった。
その歩みは、愛を求める獣そのものだった。
公認の愛を得てから、隼人の体液や痕跡を貪る行為は、結愛にとって愛の儀式の日常となった。
結愛は、隼人の隣に座り、彼の首筋に顔を埋めた。
今日、彼が外界で流した汗の残り香。
「ん……いい匂い……」
結愛は、隼人の首筋から、彼の鼓動を感じる。
その熱い肌を、隠れることなく、堂々と舌の先で舐めとった。
隼人は、静かに本を閉じ、その粘着質な愛を、全て受け入れた。
結愛は、次に彼の指先を求めた。
キーボードを叩き、仕事の書類に触れたであろう、外界の痕跡が残る指先。
彼女は、一本一本、執拗に舐め上げ、彼の存在の証明を体内に取り込んでいく。
粘着質で、飽くなき愛。
結愛の動作は、以前のような罪悪感を伴わず、ただ愛と快感に満ちていた。
その行為の最中、隼人が、優しく、しかし真剣な表情で、結愛に問いかけた。
「なぁ、結愛」
隼人の声は、穏やかだった。
「お前が俺にやってることは、世間一般から見たら、汚いだろ?」
結愛の体が、ピクリと反応した。
それは、彼との愛の境界線を、最終確認する言葉だった。
結愛は、彼への愛の証明に夢中で、口元に隼人の痕跡と、自身のよだれが混ざり合った生々しい証を垂らしていた。
彼女は、隼人の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
息を切らし、胸を高鳴らせながら、恍惚とした表情で、心からの言葉を紡ぎ出した。
「汚いところ、なんて……ないよ?」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
彼の全てが、最も純粋で、最も濃密な愛の形なのだ。
結愛は、隼人の問いかけを「もっと求めろ」という愛の合図だと受け取り、再び彼の胸に顔を埋め、さらに強く、深く、彼の痕跡を求め続ける。
隼人は、その結愛の愛の狂気を、満面の愛と優しさをもって受け入れた。
彼の体温と、結愛の粘着質な愛が交じり合い、二人の世界は、閉じた、濃密な愛の檻となった。
二人は、歪で、異常だが、どこまでも純粋な愛の形の中で、永遠に満たされ続けるだろう。
濃密なる淫靡の饗宴に、終幕の鐘は鳴らない。