湯田寛は勇者ではない 作:げっしりあん
勇者たちの視界には、今までよりも圧倒的に多いと感じるバーテックスの姿があった。
バーテックスが寄せ集まった複数の巨大な進化体も存在。
その規模と迫力に、勇者たちは思わず固唾を呑む。
生まれるのは緊張、そして微かな恐怖。
だが若葉は、それを超える安心感に苛まれていた。
それは彼女の視界中央。
自分たちの遥か前方に立つ、一つの陰。
いつか見たあの背中が、そこにあった。
無数のバーテックスの前に一人佇む、湯田寛の背中だった。
それを睨む視線は四つ。
不安そうに見つめる視線は一つ。
「かん君……大丈夫かなぁ」
勇者装束を纏った友奈が、眉を下げながら呟いた。
それを耳にした若葉は僅かに眉を動かすが、やがて表情を戻す。
友奈の言葉は、前方にいる湯田寛を示したもの。
だが"かん"君とは、どういうことなのか。
そして思い出したのである。友奈が千景のことを"ぐん"ちゃんと呼ぶ理由。
湯田寛、名前は寛。
字面だけ見れば、"ゆたか"ではなく"かん"と呼んでしまう人が多いかもしれない。
だからこそ友奈は"かん君"と呼んだのだ。
郡千景の苗字を"こおり"と知ってからも"ぐん"と呼び続けた友奈ならば、"かん"と呼び続けても不思議ではない。
若葉はそう思い至り、表情を戻したのだった。
そしてそれは、微かな笑みへと変わる。
「大丈夫かどうか、お手並み拝見といこう」
若葉の言葉に、友奈は顔を向けて僅かに首を傾げた。
前方の戦力差を見ているにも関わらず、若葉からの言葉が軽かったから。
だが、やがて理解する。
若葉は、湯田寛を信頼しているのだ。
一月の慰安旅行で語られた若葉の話。
それを思い出せば、彼女の発言もこの場に沿ったものだと友奈には思えた。
故に友奈は笑みを浮かべる。
「じゃあ私たちも、すぐに戦えるように準備しとかないとねっ」
そう言って準備体操のように屈伸や前屈を始めた友奈を、他の勇者たちは見つめる。
やがて、その場の空気が僅かに弛緩した。
友奈が醸し出す雰囲気に、他の面々が呑まれた結果だった。
「……ま、出番が来たらタマは戦うだけだ」
前方への睨みを止めて顔を逸らした球子が呟く。
湯田寛が死のうが関係ない。その言葉は内心のみに留められたのだった。
湯田寛は嫌いだが乃木若葉は嫌いじゃない。そう告げていた球子の性格が如実に表れた内外分離。
杏は球子の隣で、静かに俯く。怒りと緊張と恐怖。それがまだ杏の中で残り続けていたから。
「……こっちの邪魔さえしなければ、何でもいいわ」
千景は前方を見つめたままに声を漏らす。
湯田寛から目を離さない理由は、期待と不安から。
無数のバーテックスを、なるべく多く倒してくれればありがたい。そんな期待。
けれど活躍されると、勇者としての自分が意味を為さなくなる。そんな不安。
死にたくないという恐怖と、認められたいという恐怖。
その狭間から抜け出せない千景は、そのどちらもを秘める寛から顔を逸らすことが出来なかった。
歌野は憎悪を表から消して、前方を見つめる。
浮かぶは諏訪での一戦。
"最後の日"に行った湯田寛との僅かな交戦。
あの時の寛は、歌野が満身創痍だったということもあるが、それでも勇者からの攻撃を無傷で凌ぐ実力を持っていた。
そしてバーテックスが跋扈する土地を抜けて諏訪まで一人で来たという点を考えれば、それなりの実力を持っていて然るべきと判断していた。
バーテックスを見据え佇む寛。その後方で背中を見つめる歌野。
故に心の中では、激しいまでの憎悪が燃え盛る。
無数のバーテックスを前にしても落ち着いている様子を見れば、そこに恐怖は感じない。
だからこそ歌野は思う。
何故、諏訪の皆を殺したのか。
"あの時"、一緒に戦えばもしかしたら総攻撃を凌げたのではないか。
今でも諏訪は生き残れたのではないか。
所詮は"もしも"。けれど今の歌野には、その"もしも"が現実味を帯びた様に思えて仕方なかった。
そのため、皆を殺した湯田寛を許すことが出来ない。
こうして目の前にまた姿を現して、殺したいとも思ってしまう。
だがそれをしないのは一重に、歌野は未来を見ているから。
人が繋ぎ、紡いでいく人類としての未来。
それを優先して考えられる歌野だからこそ、湯田寛を睨むに留めることが出来ていたのだった。
若葉の表情が微かに動く。
バーテックスに動きが見えたからだ。
今まで不気味に沈黙していたバーテックスが、侵攻を始めた。
広範囲に広がっていた群れが、徐々に中央への密度を上げていく。
その正中線上にいるのは、湯田寛だった。
けれど若葉が見つめる背中は、微塵も震えなかった。
ただ静かに上体を前のめりにして、次の瞬間に太い根の上を駆け出していく。
友奈もまたそれに気付き、準備運動を止めて顔を向けた。
勇者たちの視線が再び一つに集まって間もなく、両手で握られた長太刀が残像を残して振り下ろされる。
刃がバーテックスへと触れ、抵抗を受けずに縦へと抜けていく。
やがてバーテックスが真っ二つに割れた。
寛が続け様に真横に腕を薙げば、それに従った刃が二体のバーテックスを切り裂く。
けれど残るは無数と思える量。
囲まれないように寛は後方へと飛び退き、再び正面に訪れたバーテックスを裂いたのだった。
交戦開始から三分。
寛はバーテックスとの戦闘を続けており、大きな怪我を負ってもいない。
また一体、バーテックスを斬り捨てる。
その光景を見つめる若葉に、声が届いた。
「若葉さん、もういいんじゃないかしら」
声の主は歌野。
戦場を見つめたままに告げた歌野の表情は、無だった。
「……タマはもう我慢の限界だ、若葉」
続けて若葉に届いた言葉は、球子。
武器である旋刃盤を利き手で掴み浮かべる表情は、怒り。
「……タマっち先輩が行くなら、私も行く」
球子に続いたのは、杏。
浮かべる表情は、不満。
「……あんな人のデータなんて、取る必要ないと思うけど」
独り言のように、千景が呟いた。
"切り札"である七人御先を展開し終えた
「若葉ちゃん! もう一緒に戦った方がいいよっ」
若葉へと顔を向けて友奈が告げる。
すぐにでも飛び出しそうな友奈には、心配が浮かんでいた。
若葉は、何も言わずただ眼前の戦闘を見つめる。
再び長太刀が煌めき、バーテックスを一体屠った。
若葉はその姿を、背中を見つめる。
見つめて、見つめ続けて。
やがて呟く。
「……何故、だ」
その声色は、まるで目の前の光景が信じられないかのよう。
寛は未だに戦闘を継続しており、バーテックスを殺している。
にも関わらず若葉の声色は、どこか動揺したものだった。
横からのバーテックスの攻撃を躱した寛。
反撃として刃を振るうが、今度は躱された。
若葉の視界に映るその肩は、荒く上下していたのだった。
「……何故」
こんなにも、弱いのか。
若葉の心に、その感想が浮かんだ。
けれど直後に、心が否定する。
違う。彼はもっと凄かった。バーテックスに恐れず自分から突き進んでいく男だ。
"あの時"の彼は、足を止めず前に出てバーテックスを蹂躙したんだ。
だから湯田寛はもっと凄い男なんだ。
しかし現実の光景は、バーテックスの攻撃を紙一重で何とか躱し、二太刀目で漸くと一体を屠った寛の姿。
進化体じゃない。弱いバーテックスを、だ。
それが若葉の心と脳に強いギャップを生じさせる。
何をやっているんだ。お前はそんな弱い男じゃないだろ。早く"あの時"の背中を見せてくれ。
"あの時"は、あんなにも大きな背中だったじゃないか。こんなにも小さい背中じゃなかった。
早く本気を出してくれ。
皆にお前の凄さを魅せてくれ。
"私が憧れたあの背中を見せてくれ"。若葉の心がそう叫ぶ。
だが現実は、弱いバーテックスから必死に逃げて、何とか一太刀を浴びせて距離を取る姿。
最初の距離よりも、三分の一以下までに若葉たちとの距離が縮まっていた。
何をやっているんだ、お前はこんなに弱くないだろ。
若葉の心が再び叫ぶ。
しかし。
「……もう行くわ。あんな人でも一応、守ってあげなきゃいけない人間なんだから」
感情を消した歌野の声で、若葉の心の叫びが止まった。
歌野は鞭を手に、戦場へと飛び去って行く。歌野の心は、憎悪の果てに辿り着いた"虚無"だけが残っていた。
諏訪の"もしも"。憎しみと共にそれを期待してしまった湯田寛。だが実際は、こんな力じゃ何の役にも立たない。
"もしも"すらも希望が潰えた果てに、歌野は湯田寛に"虚無"を抱いた。
諏訪の住人たちを殺した憎悪。だがそれは裏を返せば、彼に対する期待。
その力をバーテックスの殲滅に使ってくれれば、諏訪はまだ無事だった。
けれどその期待は、無駄だった。バーテックスを狩れるが、それだけ。
襲撃に耐えるだけの力は皆無。歌野一人で戦っているのと変わらない。
ならばこんな男に"憎悪"を向けるなんて、無駄でしかない。水都との夢、そして諏訪の住人たちの思いを背負って人類の未来を切り拓くことだけに集中する。
湯田寛の戦闘を見て、歌野はそう思い至ったのだ。
けれど歌野が抱く"虚無"とは憎悪の果て。言い換えれば、誰よりも強い湯田寛への嫌悪や憎しみ、拒絶とも言えた。
「……行くぞ、杏。タマから離れるなよ」
「うん、分かった」
その声と共に、球子と杏が飛び出す。
球子は、激しい怒りを内心に満たしていた。
こんな弱い男が、自分たちを脅していたのか。自分たちは怯えていたのか。
こんな男に怯えていた自分に激しい怒りが湧いた。
そしてそれ以上に、男への殺意が湧いてくる。
戦闘に乗じて、殺してもバレないのではないか。思わずそう考えるほどに。
そう思えたのは、球子の方が湯田寛よりも強いと理解出来たから。
理解出来たからこそ、力での脅しに対して、力での復讐を考えてしまった。
けれどまずは、勇者としての仕事をしないといけない。
勇者としての仕事をこなさなければ、杏が危険に晒されるから。バーテックスが神樹に到達してしまえば、湯田寛に関係なく、安芸の命も危険だから。
状況が少し落ち着いてから、湯田寛については考える。
冷徹の中に冷静な思考を宿した球子は、そう考えて旋刃盤を振るい歌野の傍に降りた。
球子の背後に立つ杏は、武器であるボウガンを構えて遠距離からバーテックスを仕留めていく。
寛が二太刀、三太刀で仕留めるバーテックスを、一発で倒す。
それを見てそれを実感した杏の心はずっと、落ち着いていた。
けれど表情には、不満が映り込んでいる。
理由は一つ。全く以て何の力にもならない湯田寛。その姿を、実力を知り、球子と同じように脅されたことへの憎しみと、脅してきた相手の弱さに怒りが湧いた。
だが杏は、球子とは異なる感情へと変わる。
こんなにも弱い男を、球子が危険に晒された時に、盾にする価値もない。
寧ろ
肉壁としても使えない男に、球子を想う杏の心は不満を抱いたのだった。
「私もかん君を助けにいってくるね!」
そう言って友奈は、若葉たちの許から飛び出す。
バーテックスの攻撃をがむしゃらに躱した寛。
「勇者パーンチ!」
そのバーテックスに友奈が拳を当てれば、一発で消し飛んだ。
「大丈夫っ? かん君!」
振り返り友奈が訊ねれば、荒い呼吸を繰り返しながら長太刀を構えた寛は無言のままに敵を見据えている。
それを見て、友奈の顔が僅かに悲しみへと変わった。
だがすぐに笑みへと戻る。
「私が周りの敵を倒すから、もし打ち漏らしちゃったらそれをお願いしてもいいかな?」
再び訊ねるが、反応はなし。
友奈は笑みのままに正面へと顔を戻して、バーテックスへと攻撃をしかけたのだった。
意識は背後の寛に向けながら、身体を止めずに次々とバーテックスを消し飛ばしていく。
友奈は心配していた。寛の実力じゃ、長くは持たない。
だから早く加勢してあげたいと思った。
一緒に戦って、それが終わればきっと、話すことが出来るだろうから。
その思いを胸に、友奈はひたすらに拳を振るう。
「……乃木さん。あなたが彼をどう思おうと自由だけど、前にも言った通り……これでもし、誰かが死ぬことがあれば……私は絶対に、あなたを許さない」
若葉に告げた"千景たち"が、一斉に戦場へと舞い降りる。
デスサイズを振れば、周りのバーテックスたち一気に切断された。
千景は自分が起こしたその光景を見て、やはり哀れみが浮かぶのだった。
何気無い攻撃。けれどそれは千景の力の場合であり、湯田寛では到底行えない絶技。
この場において誰よりも無力な男を、憐れに思った。
自分の、自分たちの活躍の引き立て役程度にしかならない湯田寛。
そんな人間には絶対になりたくないと、千景は思う。
誰よりも活躍して、皆に認めてもらうためにも。
バーテックスの群れに突っ込み、七本の鎌を振るえば一斉に敵が消滅する。
こんなこと湯田寛には出来ない。そう思えば、千景の心には言い表せない優越感が訪れたのだった。
あの男が無力であればあるほどに、千景の中でその優越感が肥大化する。
友奈に守られているという現状も、怒りや嫉妬が浮かばないほどに。
故に千景は湯田寛の無力さを実感するために、更に先へと進み続ける。
バーテックスを倒せば倒すほどに、湯田寛との差を実感出来るから。
一度だけ、再び振り返る。
未だに友奈の背後で荒い呼吸を繰り返す男。
それを見れば、千景の中で死の恐怖よりも、優越感が勝るのだった。
混戦となった状況を、若葉は一人見つめる。
先程までよりも圧倒的に効率が上がり、バーテックスが倒されていく光景。
一人から六人に増えたんだ。当然である。
だが、一人一人で見ても、バーテックスが消えていく速度は段違い。
それが何を意味するのか、若葉には分かってしまった。
暫く戦場を見つめる。
「勇者パーンチ!」
その言葉と共に複数のバーテックスを一度に消し飛ばした友奈が、次の目標へと向かいながら背後へと顔を向ける。
「かん君! 危ないからあんまり離れないでね!」
声をかけられた男は、長太刀を構え、必死に呼吸を整えている。
その姿を見つめ、見せつけられて。
若葉はやがて目を閉じた。
静かに、小さな息を吐く。
心の叫びはもう、生まれなかった。
目を閉じたままに口を開く。
「……その程度、だったのか」
それは淡々とした口調。
若葉自身が驚くほどに、落ち着いた声色だった。
故に自覚する。
憧れが、強すぎたのだと。
強すぎた故に、肥大化していたのだと。
肥大化していたからこそ、過大評価だったのだと。
"あれ"から三年以上が経った。
若葉はそこから身体も、心も、そして力も成長している。
けれど一つだけ、変わらなかったもの。
それが、"憧れ"。
しかし実際は変わっていた。自分の中で勝手に等身大以上の幻想へと膨らんでいたのだった。
心と脳のギャップが、漸くと若葉の中で落ち着く。
目を開ければ、そこには凛とした表情が浮かんでいた。
「……湯田寛。お前に"憧れた"私は、私ではなかったらしい」
今の乃木若葉ではなく、記憶の中の乃木若葉が湯田寛に憧れていた。
交戦開始から四分三〇秒。乃木若葉は勇者として、バーテックスを一閃のもとに斬り伏せたのである。
友奈の隣に降り立ち、正面を見据えた。
バーテックスが襲いかかり、危なげもなく生太刀で薙ぐ。
若葉が戦闘を開始して三〇秒。
背後から若葉へと声がかかった。
「検証時間終了。俺は下がる」
その言葉に若葉は、数年ぶりにも関わらず懐かしさを感じることはなかった。
聴こえた言葉を理解し、口を開く。
「ああ、構わない。これは"勇者"の仕事だ」
若葉の言葉から数秒と経たず、背後の気配が遠ざかるのが分かった。
それを気にせず、若葉はバーテックスを斬り捨てる。
彼女の頭には既に、男への意識など存在していなかった。
ただひたすらに、いつも通り常在戦場で立ち振る舞う。
若葉に訪れた心と脳のギャップ。
それが落ち着いたのは、改めて見た湯田寛の背中を理解したから。
知らず知らずのうちに高くなり過ぎていた"幻想"は、実際に目にした"現実"によって修正されていく。
高すぎた理想を現実に合わせる、落差の激しい下方修正。
それは今まで、高すぎた"憧れ"をゼロの位置にしていた若葉からすれば、マイナスへと極端に振れた人物評価。
再び一太刀でバーテックスを屠る。
「……そうか」
理想は既に、超えてしまっていた。
"あれ"はもう、昔の自分の理想に過ぎなかった。
男と自分の違いを明確に実感し、若葉は男への思考を捨てた。
戦場において、男の価値はなくなったのだから、それは当然なのかもしれない。
だがそれは自分にとって、まだ上を目指せるという希望を失った瞬間でもある。
人はそれを――"失望"と呼ぶのかもしれない。