湯田寛は勇者ではない 作:げっしりあん
歌野の声に反応した黒髪の少年。
顔を向けた彼に歌野は笑顔で手招きする。
水都もまた歌野に合わせて顔を向ければ、その少年を見て僅かに驚いた顔を浮かべた。
「採れたてのみずみずしいきゅうりよ? 今がベストに美味しいわよ?」
籠から別のきゅうりを取り出した歌野が、大きく実った自慢のきゅうりを振りながら見せつける。
だが少年はそれを暫し見つめた後、静かに踵を返したのであった。
「あら、もしかしてきゅうりが苦手だったのかしら」
腕を下げてきゅうりを見つめながら、歌野が首を傾げる。
その姿を視界に収め、水都が苦笑したのだった。
「えーっと、うたのん、多分違うと思うなあ……」
水都の言葉を聞き、歌野がハッとした表情を浮かべる。
「もしかしてこのきゅうりじゃ満足してくれないってこと!? 寛君って実は農業王だったの……!?」
至った自分の結論に、驚愕によって打ち震える歌野。
農業王とは、農業をこよなく愛する歌野が目指す、自身の未来だった。
「まさか、私よりも先に農業王がいるだなんてっ……!」
悔しそうに呟く歌野を見つめる水都。
その表情はやはり、苦笑だった。
やがて歌野がきゅうりを強く握りしめた。
顔を上げてきゅうりを天に掲げる。
「私は農業王になる女よ! このまま負けてたまるものですかっ!」
そう宣言し、歌野が振り返れば畑へと駆け出す。
もう休憩は終わりか。水都はそう確信した。
笑顔で目を輝かせる歌野が走り去れば、小さく溜息を吐く。
「うおおおおっ! 目指せ農業王っ!」
そう叫びながら勢い良く鍬を振り下ろす歌野を見つめ、水都が内心で呟く。
もっとうたのんと話したかったなあ、と。
明るく元気に農作業を再開した歌野。
そうさせたのが自分じゃない事が、ちょっとだけ不満だった。
水都は僅かに顔を後ろへと向ける。
そこには誰も居ない自然だけがあった。
歌野が声をかけた寛という少年。
その姿を思い出せば、彼に対する印象が水都の中に浮かび上がる。
数日前にふらりと諏訪に現れた、水都たちよりも幾分か年上の少年。
目にかかる程度の黒髪で、肩にかかるくらいの長さ。
薄手の長袖に黒いチノパンというラフな格好で、少年は二人の前に現れたのであった。
出会いは、数日前の大規模なバーテックスの襲撃。
それを歌野が幾つもの傷を負いながら辛うじて撃退した直後、バーテックスとは反対方向から少年が姿を現したのである。
見覚えのない少年に二人は驚く。
それも当然。何故なら二人が見覚えがないという事であれば、諏訪の住人ではない。
必然的に、諏訪の外から来た人と判断出来た。
ラフな格好で背中に大きめのリュックを背負い、布にくるまれた長い棒状の物を手に持った少年。
そこで彼は、湯田寛と名乗ったのだった。
勇者としての力を高める衣装を纏ったままに、歌野が訊ねる。
あなたは"勇者"かと。
その質問は当然だった。既に諏訪の周囲はバーテックスに支配されている。
何の力も持たない人間が歩いて無事な場所ではないのだ。
そして歌野は知っていた。自分以外にも、他の土地に"勇者"がいるのだと。
故に訊ねた質問。どこか希望を宿した質問。
だが少年の言葉は――否、だった。
儚く散った希望を、歌野は溜息を吐く事で自分の中から消し去った。
あくまでもベターな希望だったから。そうだったらラッキー程度の内容。
そして気になるは、どうやってここまで来れたのか。
少年は運良く襲撃者に遭わなかったと答えれば、水都は微かに首を傾げたが、歌野は笑顔で納得した。
それはさいっこうにハッピーだったわねっ!
満面の笑みでそう告げた歌野の言葉に少年が僅かに目を大きくするが、何か言う事はなかった。
歌野と水都は住人達の住む場所へと戻る。
この土地に結界を張る為の要である
バーテックスは人間達を襲う為にまず、結界を破る必要があった。
故に襲撃するは結界を生み出す、社にある御柱。
御柱が破壊されると結界が弱まる。果てには、消える。
結界を作り出しているのは諏訪の土地神。
その御神がおわすは、諏訪大社。
諏訪大社は諏訪湖周辺に四社に分かれており、それぞれの境内に巨大な御柱がそびえていた。
だが幾度と襲撃を受けた事により、守り手が歌野一人という事もあり。
現在残っている御柱は、二社のみとなっていた。
故にこれ以上御柱が破壊される事は、この土地の滅亡を意味している。
瀬戸際、背水の陣。諏訪の人類が陥っている現状だった。
今回大規模な襲撃を受けたのは、残る御柱の内一つが存在する上社前宮。
黒髪の少年、寛を伴って三人で社を後にしたのだった。
戦いから戻った歌野と水都が、人々から数多の感謝を受け、やがてその声が静かになる。
理由は彼女らと共に戻ってきた、見知らぬ少年。
どこか訝しむ住人達に、怪我をしているとは到底思えない笑顔で、歌野が告げた。
彼は湯田寛君! 運よく襲われずここに辿り着いたらしいの。だから彼をここに迎え入れてあげたいのだけれど、どうかしら?
歌野の言葉に、僅かな沈黙。
やがてぽつりぽつりと声が上がり始める。
いずれもが、歌野が言うならしょうがないという内容ばかり。
住人の中で歌野は絶対的な"勇者"。それが疑いようのない場面だった。
バーテックスと戦うだけじゃない。異形の襲撃に怯え絶望する人々を笑顔で励まし、率先して畑を開墾し、光を見せ、ここまで希望で導いた姿。
戦う"背中"だけじゃない。歌野が浮かべる"笑顔"も、彼らにとっては"勇者"だったのだ。
結果として歓迎を受けた寛。
だが彼は、ここに根を下ろして数日が経った今も、誰とも必要最低限の会話しか行っていなかった。
水都はそれを、自分と同じような引っ込み思案な性格なのかなと思っていた。
歌野はそれを、外で心に大きな傷を負ってしまったのだと思っていた。
そして歌野は、これから起こり得る未来を感じながら、それでも人類には未来があるのだと笑顔になって欲しいと少年に対して思っている。
人類への希望を抱いてもらう為には、笑って欲しい。
少年も笑ってくれれば、自分はその"日常"を守るためにもっと頑張れる。
ここで少しでも傷を癒せる様になってほしいという思いから、少年を見かけると積極的に関わろうとしていた。
水都はそんな歌野を見ながら、うたのんらしいと思う。
けれど同時に、自分へと構ってくれない事に不満を募らせる。
少年が加わったことにより人間模様は多少動けども、それは戦いからかけ離れた"日常"の光景だった。
更に数日が経ったある日。
水都に新たな神託が下った。
かつてないほどの大襲撃が起こる。バーテックスによる総攻撃。
恐らく結界は破られ、諏訪内部への侵攻は避けられない。
神託の内容に、水都は一人震えた。
つまり、諏訪の滅亡。
自分たちの、死。
それを突き付けられた。
故に恐怖が全身を支配し、心を冷たくさせる。
安心を求めて、駆け出す。
水都が求めたのは当然、歌野だった。
神託の内容を聞いた歌野は、変わらなかった。
いつも通りの笑顔で、いつも通りの事をする。
自分の終わりを悟っても、歌野は"日常"を見せた。
それを見た水都は安心する。
けれどその直後には、不安からの怒りが支配した。
「うたのんは、どうしてそんないつも通りなの……? 怖くないの!? 私たちは、もう、明日……!」
感情を抑えられず声を荒げて詰め寄る水都。
神託にて伝えられた大襲撃は、明日だった。
つまり生きていられるタイムリミット。
怖いという感情を捨てきれない水都は、いつも通りの表情を変えない歌野に怒りを抱く。
死にたくない。そして、死んでほしくない。その気持ちを込めて。
自分に怒っているのか、歌野に怒っているのか。
それすらも分からずに声をぶつける水都に、歌野はいつも通り口を開いた。
「怖いよ。本当はすごく怖い」
いつも通りの声色。水都が真っ先に思ったのは、聞き間違いだった。
だが、徐々に歌野の"日常"が崩れていく。
笑顔が歪み、苦しそうな、そして恐怖へと青褪めさせる。
命の終焉を前に力無く怯え震えるその姿は、誰が見ても"勇者"だとは思えないだろう。
恐怖に慄く、どこにでもいる少女。
「でも、怖くても……何もできないのは、絶対に嫌。怯えて何もできなくて……目の前で人が死んでいくのは、もっと怖いから……」
だがその本心は、やはり"勇者"なのだと言えた。
そして歌野は、表情を"勇者"に戻す。
「大丈夫よ、私は一人じゃない。みーちゃんがいる。離れてるけど、四国にも勇者の仲間がいる。だから……だから、頑張れる」
勇者の言葉を聞く水都は必死に涙を堪えた。
ここで泣いたら、"
"
笑う事は出来ない。でも、泣かないでいられた。
「そうだ! みーちゃん、やりたいことがあるわ。私たちがここにいた証を……想いを、いつかきっとここに来る人たちのために、遺しておきたいの」
何かを思い付いた様に歩き出す歌野を、水都は必死に追いかける。
最後まで、泣かずにその背中を見つめるために。
その姿を遠くから見つめる少年の姿に、二人が気付く事はなかった。