湯田寛は勇者ではない 作:げっしりあん
年が明けて一月。
人々の正月気分も段々と抜けてきた頃合い。
大社にはひなたの姿があった。
先程まで来ていた巫女の正装である真白を基調とした装束は既にその身を離れ、現在は私服へと戻っている。
呼び出しがあり、大社から話をされたのだ。
同時に、神託を受ける儀式を行った。
これからひなたは、皆のところに戻るだけである。
だがその表情は、仲間たちから心配されるほどに沈んでいた。
「……あ」
不意に、ひなたが声を漏らした。
彼女が見ているのは、自身の進行方向である通路。
そこに人影が現れたのだ。
遠くから、自分の方へと歩いてくる。
ひなたの足は既に止まっていた。
ただ一方へと顔を固定し、動けない。
徐々に近付いてくる人物はひなたよりも幾分か年上の男。
目元まで黒髪で覆ったその顔を、ひなたはただ見つめていた。
ひなたが眼前に迫っても男には何の反応もない。
まるでそこに人が居るとは思ってもいないような姿だった。
男があと数歩進めば擦れ違う。
ひなたは漸くと、我に返った。
「あ、あのっ……ゆた、か、くん」
口を開いて出たのは、どこか怯えた声色だった。
その声に、男は反応せずに通り過ぎる。
ひなたはただその後ろ姿を見つめることしか出来なかった。
やがて男が一つの部屋へと姿を消す。
それを見やったひなた。
彼女の手は、きつく握られていた。身体が小刻みに震え、やがて歳の割に豊かに押し上げている服へと、顔から水滴が落ちたのである。
俯き、ただひたすらに涙を流す。
少しして静かに進行方向へと身体を戻し、一歩踏み出せば。
「っ……」
心臓に痛みが走り、思わず左手で押さえた。
涙がまた彼女の目から溢れ出す。
その涙を袖で必死に拭い、ひなたは静かに大社を後にしたのであった。
「ふぅ……身に染みるな」
気を抜いた様な若葉の声が、湯気と共に夜空へと昇っては静かに消える。
露天風呂で肩まで湯に浸かり、いつもの凛とした表情が完全に消え去っている若葉。
間もなく二月となる、正月気分はすっかりとなくなった頃合い。
神託にて暫く襲撃がないことが分かり、慰安も兼ねて勇者一行は温泉のある旅館への宿泊が大社によってプレゼントされたのだった。
訪れたのは勇者たち。
そして、付き添いとしての巫女。
「若葉ちゃん、おじいさんみたいですよ」
その隣で肩まで肌を湯から出しているひなたが苦笑する。
若葉は目も向けず、ただ心地良さに身を任せていた。
「うむぅ……これも温泉の魔力というものだぁ……」
独り言の様に間延びした口調で告げる若葉に、ひなたは嬉しそうに笑むのだった。
「へにゃへにゃになってる若葉ちゃんも可愛いですねえ」
「温泉だからなぁ……写真は撮れないだろぉ……」
ひなたの言葉に若葉が、どこか得意げに返す。
「そうですね……せっかくのシャッターチャンスなのに」
落ち込んだ様に悲し気な表情へと変えたひなたへと若葉は「ふふんっ」と笑うのだった。
若葉は幼い頃からよく、ひなたに写真を撮られていた。
それは本人が望まざると撮られ、喜怒哀楽それ以外までもの若葉の姿をひなたは全て写真に収めていた。
故に写真を撮りたそうだが撮られない状況に、思わず得意げとなってしまう。
勝ち誇った表情で、再び温泉の魔力に取り憑かれそうになる若葉だったが、隣から声が聴こえた。
「……昔は……寛くんも、一緒だったのに」
その声は、言葉は。若葉を温泉の魔力から抗わせるには十分だった。
一瞬で表情が凛としたものに変わる。
けれどどこか、沈んだ雰囲気を表情に含めていた。
「……会ったのか?」
開いた目を横に向ければ、俯きながらも微かに頷くひなたの姿。
「……この間……大社で」
「……元気にしてたか?」
若葉の問いに、ひなたは答えない。
俯きながら何かを堪える様に、その身体を震わせた。
やがて、震える唇が動く。
「……分かりま、せんっ……もう、分かんないんですっ」
それはまるで自分に向けた言葉のよう。
ひなたの頬を流れる水滴は、温泉の熱さによる汗なのだろうか。お湯なのだろうか。
その姿を暫くと見つめ、若葉が静かに口を開いた。
「やはり……聞こう。皆に、寛と何があったのか」
「えっ……?」
思わずと顔を向けたひなたに、若葉もまた顔を向ける。
「今までは無理に話すことではないと関わらないようにしていたが、これでは逃げと同じだ。戦場で背中を預ける仲間なのだから、私も含めて腹を割って話すことにする」
若葉の言葉に驚きを示していたひなただが、やがて首を振る。
「それは……もしかしたら、皆との不和になる可能性も」
「別に喧嘩をするわけじゃないんだ。リーダーとしても、上手くまとめてみせる」
芯の籠った若葉の言葉。
ひなたから顔を逸らし、どこか眩しそうに表情で夜空を見上げた。
「あの時の寛の様に……やってみせる」
「若葉ちゃん……」
若葉の姿を見るひなたの表情は、悲痛に満ちていた。
やめておいた方がいい。このままの方がいい。
巫女としての勘か、これまで付き合ってきた仲間たちへの評価か。
ひなたの心にはそんな言葉が浮かんだ。
けれど、口にすることは出来なかった。
酷く辛そうな顔で、視界の先に映る何かを見つめる若葉を、見ていることしか出来なかった。
だがそれすらも見ていられなくなり、ひなたは顔を戻して湯を見つめる。
そこに若葉の声が届く。
「何があったかは分からないが、皆、寛のことを誤解しているんだ。昔からそうだった、あいつはよく勘違いされて、悪くないのに自分が悪いと言い張る男だからな」
ひなたは静かに、口まで湯に浸けるほどに身体を沈める。
そうしないと、疑いようのない涙が若葉に知られるから。
若葉が言った内容は、ひなたは痛いほどに理解出来た。
けれど、涙の理由は別から来るもの。
若葉の思いが、彼女らの殆どに伝わる訳が無いと知っていたのだ。
だが、それを言う事は出来ない。
勇者には言ってはならないと大社から――寛から厳命されているのだから。
言わないことが若葉たちの為にもなると知っているからこそ、ひなたは何も言う事が出来なかった。
だがその心は、口には出せない本心をあらんばかりの力で叫び続けていた。
更には、以前下った神託の内容。
――不和による危機。
それを受けた後に、今の若葉の話。
ひなたの心臓が割れんばかり痛む。
若葉がひなたへと顔を向けようとしたその時。
やはり無理やりにでも話さないように若葉を説得しようと、ひなたが口を開きかけたその時。
「あ、やっぱり先に入ってやがったなっ! タマが一番風呂になろうと思ったのにっ!」
露天風呂全体に響く叫び声に、二人は思わず顔を向けた。
そこには堂々と裸体を晒しながら湯船に浸かる若葉とひなたを指差す球子の姿。
続く様に杏、友奈、千景が姿を現す。
「諏訪ほどじゃないけどここも、なかなか良い温泉ね! ほら、みーちゃん。湯にタオルはつけちゃダメなんだからさっさと外しちゃいましょっ」
「ひゃあっ、う、うたのんっ! 勝手にとらないでよお……!」
そして最後に、歌野と水都が露天風呂へとやってきたのであった。
「くそぉ、一番風呂は逃したが三番風呂はタマのもんだーっ!」
「タマっち先輩っ、走っちゃダメだよ!」
湯船に跳び入る球子。それを慌てて嗜める杏。
すっかりと騒がしくなった空気が、先程までの雰囲気を完全に洗い流す。
その後、若葉とひなたは他の仲間たちと温泉を楽しむのであった。
けれどそれが束の間のひと時かもしれないと、ひなたは胸の内で不安を宿す。
だが全てを話せない自分が仲間たちがいるところで不用意な話をしてしまう方が、疑念が生まれ不和になる可能性すらある。
前門の虎後門の狼。ひなたの心は揺れ、結局、終ぞ自分から話すことはなかった。